(姓は固定)
第一章 女官編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
禁城には、その気になれば身を隠す場所はごまんとある。
隠れる事情というのは様々で、例えば想い人との秘密の逢瀬であったり、権謀術数のための密会であったり、あるいは意地悪な先輩から逃げ出してきた新人であったりする。
物陰ではない。ここはきちんとした一室だ。
使用目的は分からない。
国の威信と虚勢のために巨大な宮殿を建設したものの、そのほとんどは明確な目的もなく放置されている。
そのうちの一室に、若慧と彼女の侍女たちと、そして若慧と同じ立場の“女官”がいた。
「このようなところに呼び出して、ごめんなさいね禎禾さん」
知人を目の前に、若慧が猫なで声で謝る。
呼び出された
「とても大切なお話ということでしたが、何の御用でしょうか、若慧さん」
「いえ、ね。つい先日、紅明様があなたのお部屋にお泊りになったというお話を伺ったので、本当かどうかを知りたくて」
禎禾は胡乱気な表情を浮かべる。
「紅明様が? 何のことでしょう」
「あら、知らぬふりをすることはありませんわ。紅明様は、一度訪れた女性の元には二度とお通いになることはないのは皆知っております。でも先日、珍しく誰の手配でもなく女性のお部屋を訪いになられたというではありませんか。あの方はあなたのもとにいらっしゃったのでしょう」
「その噂ならわたくしも聞きましたわ。けれど、どなたからお聞きになったかは存じませんが、それは間違いです。わたくしではありませんわ。その夜であれば、わたくしは一人で臥牀へはいりましたもの。お疑いとあらば、わたくしの侍女たちが証言してくれます。紅明様がいらっしたなんてとんでもない。もっとも、それが本当であればどれほどよかったことか」
言って禎禾は自嘲する。
しかし若慧は笑みを崩すことなくなおも詰め寄る。
「いいえ、嘘をつく必要はなくてよ。あの方はあなたのもとにいらっしゃったの。だってあなたのお部屋は、あの方のお部屋に一番近いもの。誰にも見つからぬようにすることなど容易いことではなくて」
「若慧さん。勘違いもいい加減にしてくださいな。わたくしではありませんわ。何度言えば」
「あなたですよ、禎禾さん」
若慧は禎禾の言葉をさえぎった。
そこで初めて、禎禾は若慧が何をしようとしているのかを悟ったのである。
「わたくしが、お気に召さないのですね?」
上擦った声で問いかける。
しかし若慧はその問いには答えず、笑みを浮かべたままで言った。
「ねえ、禎禾さん。あなた、蓬簫さんに白い衣裳を勧めていらっしゃったわね」
「……聞いて、いらっしたの?」
「偶然通りかかった折に、聞こえてしまったのですわ。蓬簫さんがお持ちだった真珠の首飾りに合わせるお衣裳に、白をお勧めしていらっしゃいましたわね。なぜ白が高貴な色とされているかご存知でしょうに。白は白徳大帝のお色。皇后様のお誕生会にそのようなものを着ていけば、あの方のお立場が悪くなることもご存じだったでしょう」
「そんな! あの方のお立場を悪くつもりなんてありませんわ。わたくしはただ、蓬簫さんが恥をかけばいいと思って」
「その考えが安易だというのですよ。わたくしたちは第二皇子紅明様にお仕えする女官。その女官の恥は、すなわち紅明様の恥です。ことが起こってからでは遅いというのに、あなたときたら目先のことにばかり飛びつくのですもの。蓬簫さんがお嫌いなのは存じておりますけれど、もっと分別をお持ちなのかと思っておりましたわ」
口元は弧を描きながらもその視線は冷たく、明らかに相手を蔑んでいる。
禎禾は口元を引き攣らせながら、団扇で口元を扇ぐ若慧を今にも射殺しそうな目で睨み付けた。
「勝手をおっしゃいますこと。あなただって、これこのように分別なく無実のわたくしを追い詰めていらっしゃるではありませんか」
「それとこれとは訳が違いますわ。わたくしは全てあの方を思ってこそ、心が痛むのをこらえて、こうして忠告して差し上げているのですもの。あなたがきちんと分別をわきまえていらっしゃれば、このようなことはせずに済みましたのよ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはありませんわ」
団扇で口元を隠し、嘆いているふりをしながらその奥では笑みを浮かべている。
あくまでも自分を棚に上げて余裕を崩さない若慧に、とうとう禎禾が吠えた。
「あなたに、わたくしの何がわかるというの!」
低い、腹の奥底から振り絞ったような声だった。
対する若慧は、あくまでも冷静に団扇を揺らしながら嘯く。
「何が、と言われましても……困りましたわね。わたくしはあなたではないのだから、分かろうはずがないものを」
「わたくしには姜一族の期待がかかっているのよ! 紅明皇子の妃となり、一族の出世の足掛かりを作るのがわたくしに与えられた役目なの。それなのに、あの方はまるで振り向いてくださらない。わたくしの相手と言えば、主の顔色を窺って保身のことしか考えない無能な侍女や、己の立場などまるで分っていないのんきな孫蓬簫や、あなたのように競争相手を陥れようとする卑劣でずるがしこいものばかり。こんなことをするためにわたくしはここに来たのではないわ!」
声はどんどん大きく、激しくなり、禎禾はとうとう若慧につかみかかろうとした。
寸前で若慧の侍女たちに押さえつけられ、それでもなお喚くのをやめない。
「わたくしは姜家の娘なのよ! お父さまは、末は官を束ねる長官になろうというお方なのに、こんなことが許されるはずない!」
八つ当たりのような話を聞いて、若慧は落胆の色を隠そうともしなかった。
「やはりあなたはこの禁城に来るべきではありませんでしたわね。実家がなんだというのです。父親の身分で言えば、今現在長官をなさっている蓬簫さんのお父君の方が上ですわよ。あなたがこれほど浅慮な方とは思いませんでした。あの方の不利になる方は、妃にふさわしくないと思いませんか。これ以上あの方のお顔に泥を塗る前に、さっさと実家にお戻りになることをお勧めしますわ」
「馬鹿にしないで! あなただって、あの方にお相手にされていないのは同じなくせに!」
禎禾が叫んだ途端、若慧はまるでその言葉を待っていたかのようにニンマリと笑って見せた。
それまで泣き出しそうだった禎禾の表情が固まる。
「紅明様なら、先日わたくしのお部屋にいらっしゃいましたよ。お茶をしながら、少し世間話などをしましたの。とても有意義な時間でしたわ」
勝ち誇って胸を張る若慧を見て、禎禾が絶望に震える。
侍女に両腕を押さえつけられながらうつむいてしまった禎禾にさらに追い打ちをかけるように、若慧は彼女の耳元に唇を寄せる。
団扇で口元を隠しながら、侍女たちをはばかるように囁いた。
「それにね。わたくし、あなたのお父さまが何をなさっているのかも存じておりましてよ」
禎禾の顔に浮かんだのは驚愕。そして、恐怖だ。
「な、なにを仰っているのかしら」
顔も上げずに、かろうじて目をむいて真横にある若慧の顔を睨んだが、それでも声の震えを抑えきれてはいなかった。
「まあ、それはあなたが一番よくご存じなのではなくて。
「何のことだか、わたくしにはよくわかりませんわ。ええ、わたくしは、何も、存じません」
「それならそれでもよろしいの。わたくしも、宮女たちの噂話を小耳にはさんだだけですもの。でも、好事門を出でず悪事千里を行くと申しますし、女というのは噂好きなものでしょう。もしこのことが公になれば、ねえ」
若慧はあえてその先を言わなかった。だが思わせぶりに囁いた言葉の続きは、間違いなく禎禾に伝わったはじだ。
侍女の支えが無くなった途端、力なく蹲って肩を震わせている禎禾を満足げに見降ろして、若慧は裾を翻すと部屋を出た。その時だった。
「相変わらずきっついなぁ、お前」
「あら、神官様。見ていらしたなんてお人が悪うございますわよ」
扉を開けて敷居をまたぐなり声をかけられた。
見ると、壁に背を預けて床に座り込む黒い少年が、嫌な笑みを浮かべながら彼女を見上げている。
彼は身軽な動作で立ち上がると、ひょいと室内を覗き込んだ。
「あーあ。あの女、もう立ち直れないぜ」
若慧の後ろに従う侍女たちの間から、床に座り込んだまま動かない禎禾が見えた。
「女ってのは怖ぇな。武器も魔法も使わねぇで相手を殺せるんだからよ」
「あの者はまだ生きていましてよ」
心外だと、眉を寄せて抗議すれば、少年はなにやら含みのある表情で頭の後ろで手を組んだ。
西方から来る商人のような出で立ちの神官は、時々こうやって若慧の元に表れては去っていく。
やってくるのは決まっていつも、今のように若慧が誰かと話をしている時。
盗み聞きしているらしく、終わってからひょっこり現れて声をかけてくるのが常だった。
「紅明がこのこと知ったら、なんていうかな」
「あら、見逃してはくださらないのですか」
困りましたわね、と小首をかしげると、少年はますます笑みを深くする。
「いいねぇ。あんたのその、困ってるとか言いながら全然困ってないっての、嫌いじゃねぇぜ」
「紅明様に言いつけるのであれば、別に構いませんよ。わたくしが素行の良い女ではないことくらい、とうの昔にご存知ですもの」
「へぇ。それですっかり開き直ってやがんのか」
「誰にどう思われようとも、改めるつもりはありませんわ」
若慧は他の女たちと同様に、いくつもの顔を使い分けている。
紅明には全てを覆い隠す厚化粧をして媚を売る女を。そして、目の前の神官ジュダルには本心を見せない程度に薄氷をまとった自分を。
彼は『煌帝国のマギ』として、数々の迷宮を出現させては目をかけた皇子や皇女たちに攻略させている。
それが結果的に煌帝国の軍事力の要となっており、国力の増量につながっていた。
煌帝国建国の実質の立役者の一人ともいえる存在である。
まだ幼さの残る少年だが、権謀術数に関しては敏感だ。なにせ、とにかく争い事を好む癖がある。
何か事を大きくしたい場合は、彼に相談すれば面白くかき回してくれる。
二人は一種の共闘関係のようなものにあった。
猫を被る必要がないのはありがたいが、何を考えているのか分からないので油断はできない。
今回も何か楽しいことを考えているらしいが、彼自身が猫のような性質のため、先読みをしにくいのが難点だ。
口止めをしても、手を出すなと頼んでも無駄だということは分かっている。
面白くなりそうだと思えば、青年は喜んでことを引っ掻き回すだろう。
それでも、たとえ形だけだとしても、言わずにはいられなかった。
「言いつけるのは別に構いませんけれど、此度の事、余計な手出しは無用でございますよ、神官様」
彼は答える代わりに、にやりと満面の笑みで笑って見せた。
数日後、禁城の一室で一人の女官が首を吊って死んでいるのを、彼女に仕える侍女が発見した。
第二皇子紅明に仕える女官で、皇族の身辺での不幸事であることから、この年の皇后の誕生会は自粛され、ささやかな宴のみとなったのであった。