序章

 もうすぐ日が暮れるという時間になってから稽古を始めたというのに。アレンは家へと歩きながら空を見上げる。橙色になりかけていたはずの空は、いつの間にか星が瞬く夜空へと姿を変えていた。
 ここ数年は女舞が続いていたからか、モニエの指導はやたらと厳しく、アレンは全身に重石がついているかのような疲労感を抱えていた。小脇に抱えた舞の衣装は見た目に反して結構な重さがあり、右腕にはさらに鉛を吊るしているかのようだ。
 モニエとアレンの家はそれほど離れているわけではないため、一分も歩けば家に着く。そのはずなのだが、今日だけはその距離がとてつもなく遠く感じた。少し高い位置にあるエドナの家など、遥か彼方に存在するように思える程だ。

 普段かかる時間の三倍は優に使って、家のドアをゆっくりと開く。いつもの時間に帰宅するならばお構いなしに開けるのだが、今日は夜も遅いため、家族の誰かが寝ているかもしれないというアレンの配慮だ。その配慮は大当たりで、家の中は小さく明かりが灯るほかはすべての音の一切が消えていた。

「おかえり」

 テーブルから声が聞こえてきた。家族全員が寝ているとばかり思っていたアレンは、母親が起きていたことに驚きつつも「ただいま」と返した。

「驚いた。まだ起きてたのか」
「夜遅くまで頑張るアンタを置いて寝られるもんか。夕食は向こうでご馳走になったんだろ?」
「ああ、うん。ついでに、湯浴みも済まさせてもらったよ」
「そうかい。疲れただろ?今日はもうお休み。明日も朝早いんだから」
「そうするよ」

 舞の衣装を母親に預け、アレンは部屋へ行こうとし、それから母親の方を振り返った。

「笑わないんだ」
「何でさ」
「いや、面白がるんだろうなとばかり思ってたから」
「父さんとおじいさんは面白がってけどね。あたしと母さん……おばあさんは、舞い手を経験してるから。アンタの稽古がどんだけ大変かは知ってるつもりだよ」
「ああ、そっか。父さんと結婚する前に舞い手をやったんだっけ」

 若かりし頃の母は、村一番の美人と評判だったらしい。小さい頃から村の男たちにそう言われてきたが、よく分からずに首をかしげていたものだった。アレン自身はそう思わないのだが、その昔に正直にそう言ったところ、母から返って来たのは平手であったし、そのことをエドナに話すと彼女からも口酸っぱく怒られたため、エレンの中では触れてはいけない話題となっている。
 村一番の美人の舞は、それは見物だったのだろう。その息子が今年は舞い手を務めるのだから、下手な舞をしようものなら全方向から非難が飛んできそうではある。

「もう寝な」
「ああ……うん。おやすみ」

 投げ渡された部屋着を掴んで、部屋へと入る。部屋の中でそれに着替えると、アレンは大きく欠伸をしながらベッドへと入り込んだ。
 双剣の鍛錬と舞の稽古の二重の疲れが、アレンを簡単に夢の世界へと誘っていく。その眠気に抗うことなく、アレンは瞬時に意識を手離した。


 ──翌朝。
 森の奥から、何かを弾く音と、アレンの大声がこだました。

「だあーっ!ちくしょう!」

 何も持っていない右手を見て、アレンは悔しげに地面を歩く。少し離れたところに転がる双剣の片方を拾い上げると、再びジェダへと駆け寄った。

「一朝一夕で身に付くもんじゃあねえ。気長にやっていくぞ」
「くそーっ!」
「まずは水分補給だ、アレン」

 水筒の水を半分ほど飲み、ふたを閉める。それから袋に入っている塩を少し舐め、アレンは再び双剣を構えた。前に出した右足に力を込めた時。
 森のさらに奥から複数の人間の声が聞こえ、次いで獣の唸り声が轟いた。

「なんだ!?」
「さては討伐組が手こずってやがるな」
「討伐組……」
「ああ、定期的に森を回っては、魔物をああやって討伐してんだよ。村を襲われちゃあかなわねえからな」
「それが手こずってるって、助けに行かなくていいのかよ!」
「じっとしてろ」

 ジェダはそう言ったものの、アレンは気が気でない。走り出そうとしたまさにその時、木々の間から影が飛び出してきた。

「えっ!?」

 獣の姿をしたそれは、見るからに魔物だった。初めて目にした本物の魔物に、アレンの足が竦む。凍りついた表情を見て、ジェダは仕方ないと言わんばかりに頭を掻き、それから手にしていた双剣を投げ捨て、岩に立てかけていた大剣を構えた。

「じいさん!?」
「俺ァこっちのほうが性に合うんだよ」

 双剣のメリットが手数の多さと機動の速さだとすれば、大剣のメリットは一撃の重さ、つまり攻撃力がずば抜けて高いことにある。その分、機動は遅くはなるが、早く魔物を始末することが可能になる。そしてジェダは村で唯一、大剣を得手とする男だった。

「さぁて、いっちょ揉んでやるかね」

 ジェダが魔物へ向かって一歩を踏み出したとき。

炎の矢フレイム・アロー!」

 女の声が凛と響き渡り──。
 魔物は背後からの攻撃を察知できず、その体が衝撃から前へと飛ぶ。ドサリと倒れた魔物は絶命しており、やがてスゥ、とその体は消えていった。

「た、倒したのか……?」
「俺じゃあねえがな」

 面白くなさそうにジェダが大剣を地面に突き刺す。それからふと、ジェダは顎に手を当てた。

「だが、うちの村に魔法を使える人間なんぞいねえはずだが」
「外からの客か?」
「『名もなき島』に来る人間なんざいるわけねえだろう」

 それもそうか、とアレンが頷いた時、森の奥から軽い足音が聞こえてきた。サク、と足元の草を踏み鳴らして木々の暗がりから出てきたのは、薄紫色のローブを纏った女。

「アンタが倒してくれたのか。礼を言うぜ」
「あっ、ありがとうな」

 ジェダに続いてアレンも礼を述べる。すると、女はローブのフードを外すと、アレンを見るなりその瞳を見開いた。

「もしかして、アレン?」
「え?なんで俺の名前を……」
「やっぱり!アレンなのね、懐かしいわ!」

 女は小走りでアレンのもとへと走ってくると、困惑するアレンの両手を握りしめた。

「あらあら、まあまあ!随分と逞しくなって!」
「ちょ、ちょっと!アンタ誰!なんで俺を知ってるの?」
「最後にあったのが十年前ですもの、覚えてないのも無理はないわ。ジェダは私のこと、覚えてるわよね?」
「さあてね、誰だったかな」
「あらひどい。弟子の叔母になんてこと言うのかしら」
「へっ?叔母?」

 そもそも十年前となれば、アレンはその時まだ八歳である。その頃のことを覚えているかと言われても、いいえと言うほかない。それから一度だって、家族の中で叔母の話が出たことはないし──、とアレンがぐるぐると記憶を遡っていると。

「おおーい!ヘレンさん!」

 再び森の奥から声が聞こえ、そこから村の男たちが姿を現した。その手には弓や剣があるため、どうやらジェダの言う討伐隊であるようだ。

「おお、アレン!もう再会したんだな」
「覚えてるか、アレン?ってまあ、十年も前だと忘れちゃってるか」
「えっと……」

 本人の手前、覚えていないとは言えず──誰だ、と言ってしまったあとではあるが──アレンが男たちを見る。助けを乞うような瞳で男たちは大体のことを察し、苦笑いを浮かべた。

「とりあえず、村へと戻りましょうか」

 ヘレンの提案に、アレンは「稽古が……」とジェダを見る。ジェダはというと、すっかり戻る仕度を始めており、諦めたアレンもヘレンから手を離してもらい、村に戻る仕度をするのだった。
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