序章
アトランタ超大陸から船で西へ三時間。ヘストニア大陸との間に小さな島が浮かんでいる。一般大衆用に販売されている世界地図には載らない程の、小さな島。
その島は人口が百にも満たない程の小さな集落がある他には、何もないといってもいい。この島は冒険家たちの間でもそこそこ有名で、集落に住む人々は先住民だとか、どこかの国を追われた王族の子孫だとか、様々な噂が立っている。要するに謎が多いわけで、そのため冒険家たちもあまり行こうとはしないという。
この島は名前がなく、逆に「名もなき島」というのがこの島をさす。
その島の。その集落に。一人の青年がいた。
抜けるような晴天の下、森の奥から鍔迫り合いの音が聞こえてきた。気合の声と共に鋭く振り下ろされた一撃をさらりとかわしたのは、老人に片足を突っ込んでいるような見た目の男だった。
男は意地悪く笑うと、青年が反応するより一瞬早く突きを繰り出した。青年に届く直前、再び青年の剣が突きの切っ先を逸らす。
「やるようになったじゃねえか、ボウズ」
ニヤリとした笑みを浮かべたまま称賛する男に対し、青年は表情を変えぬままに体を反転させた。その勢いを殺さぬままに横一文に斬撃を繰り出そうとしたのだが、すでにそこに男の姿はなく、青年の剣は虚空を切り裂いただけだった。
その頭上から、青年よりも気迫のある声で、男が斬りかかる。青年が振り返り、剣で受け止めようとする。キイン、と一段高い音が森の中に響いていった。
「やるようになったじゃねえか」
男はもう一度そう言い、剣を引いた。青年も同じように剣を引く。その顔には、満足とも不満足とも言い難い表情が浮かんでいた。
「まだまだ遊び足りないってか?若いモンはいいねえ、それくらいでなけりゃなあ」
「茶化すなよ」
ようやく青年が僅かな笑みを浮かべた。その場にどっかりと腰を下ろす男の隣に座り、水筒の水を飲む。
「俺ももう年だな。お前にあそこまで攻められるとはなぁ」
「俺が強くなったっては、絶対言わないんだな」
「あ?んなモンは俺が死ぬまで言う気はないね」
カラカラと笑う男の隣で、青年は呆れたような溜息をつく。青年が強くなったのか、男が衰え始めているのか。それはどちらなのか分からないが、それでも青年は満足そうに笑った。
「アレン」
男が呼んだ名前に、青年が反応する。
「なんだよ、急に人の名前呼んで。今まで散々、名前で呼べって言ったってボウズしか言わなかったくせに」
「そりゃお前がボウズだったからだ」
「………」
理不尽なようにも聞こえたが、青年――アレンにとってはどこか的を得たような発言にも思えた。実際、アレンがこの男に剣を習い始めたときは、もちろんボウズと呼ばれる年齢だったし、それから今まで、一度も男に勝てた試しがないのだから、ボウズでも仕方ないかもしれない。
「お前、双剣を扱いたいとか言ってたよな、ガキの頃」
「……覚えてたのか、そんな昔の話。あのアンタが」
「人をモノ覚えの悪いジジイみたいに言うんじゃねえ、バカヤロウ。とにかくだ」
男が脱線しかけた話を戻す。
「明日から、本腰入れて双剣の鍛錬に移ろうかと思ってな」
「えっ!?」
アレンの目が見開かれる。その瞳は期待の色で満ち溢れていた。
「どうする、やるか? 血反吐吐くかも知れねえぞ」
「やる、やる!血反吐吐こうが内臓飛び出ようが絶対やる!」
「……覚悟は出来てるか、ならいい。いいか、明日も今日と同じ時間、同じ場所に来い。俺が一人前の双剣使いに鍛えてやる」
「本当か!ありがとう、じいさん!」
「誰がジジイだ!俺のことはジェダ様って呼べって言ったろ!」
「六十超えたくせに、なにがジェダ様って呼べだよ。あんまり無茶すんなよ、じいさん」
「うるせえ!俺はまだ越えちゃいねえ、六十だ!」
「もうすぐ六十一だろ!」
「このガキ!」
「じゃあな、じいさん!」
ジェダに手を振り、アレンが軽やかな足取りで走り去る。森の中を勝手知ったる様に走っていると、森から草原へと景色が変わる。草原では放牧中の牛がのんびりと座っており、走っていくアレンをちらりと見ては、またその瞳を閉じた。
その草原を過ぎれば川があり、川では村の子供たちが魚や貝を取って遊んでいる。
「あっ!アレンの兄ちゃんだ!」
「兄ちゃん!」
橋にさしかかったところで、少年たちがアレンを見つけて嬉しそうに名前を呼んだ。アレンも立ち止まり、少年たちに向かって手を振る。
「よお!いいモン見つかったか?」
「見てよこれ!さっき仕掛けにかかってたんだ!」
日焼けした少年が持ち上げてみせたのは、村でも美味いとされている魚。それも、通常見るサイズより一回り大きいようだ。
「おおっ!そりゃすごいな!」
「へへ、だろー!」
「兄ちゃん、稽古は終わったの?」
日焼けした少年の弟がアレンを見上げる。この弟は、アレンに憧れている節があり、何かある度に「将来は兄ちゃんみたいになるんだ!」と言ってくれるのだが、今はまだ甘えたがりで遊びたがりでもあるらしかった。
「おう!聞いて驚け、明日から俺は双剣の鍛錬になるんだぜ!」
「双剣!」
弟の横で貝を探していた少年が体を起こす。少年は表情から羨ましいと訴えており、アレンは楽しそうに笑い声を上げた。
「それよりお前ら、もうそろそろ上がってこいよ。もうじき日が暮れるからな」
「うん、ありがとう兄ちゃん」
「またね兄ちゃん!」
兄弟に手を振り、アレンは走って橋を渡り、村へと続く道を駆ける。ときおり村の人を追い越しては「元気だねぇ」と感心めいた声を掛けられた。
島のほぼ中央にある村は、七十の家と百に満たない村人で成り立っている。アレンはそのうちの五人家族で、両親と祖父母と暮らしている。
村に入ったところで、アレンはようやく走るのをやめた。おかえり、と声があちこちからかかり、アレンもそれらに「ただいま」と返していた時。
「アレンー!!」
村の中の、一等高い所にある家から、一人の少女が走ってくる。少女はアレンと変わらぬ歳で、村の長の一人娘だった。
「エドナ!」
エドナが駆け寄ってくるのを待ちながら、アレンは水筒の残った水を全て飲み干した。ふたを閉めたところで、ようやくエドナが現れる。
「今日もお疲れ様。うちのお母さんが、これ、アレンの家にって」
エドナが差し出したのは、村の祭りに使う仮面と衣装一式。それを受け取ったアレンは、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「今年は俺ん家かぁ……」
「毎年持ち回りでしょ。去年はキニエおばさんの家だったんだから、今年はアレンの家よ、奉納の舞」
「俺がやることになるんだぞ」
「そうよ、それがどうしたの?」
やりたくないとは言わせてくれない雰囲気に、アレンは黙って肩を落とした。それを異論なしとみたエドナは、楽しそうにアレンの肩を叩き、
「楽しみにしてるね!」
「……おう」
そのやりとりを見ていた大人たちは、同情するような瞳でアレンを見つめていた。なにせ、祭りで舞を舞うということになれば、黙っていないのが……。
「ん、今年はアレンがやるのかね」
「うげっ、ばあさん……」
舞い続けて六十年、舞い手のベテランの中のベテラン・モニエ。昨年舞い手を務めたキニエの母で、毎年の舞い手の指導役でもある。
村の舞は男女の性別を問わないため、男舞いが奉納される年もあれば、女舞いが奉納される年もある。共通するのは、モニエの指導が鬼のように厳しいということだけだ。
「勘弁してくれよ、俺は明日から双剣の鍛錬に入るんだぞ」
「そんなもんは理由にならん」
舞い手は、その家に住む最年少の者が務める習わしで、兄弟のいないアレンが必然的に舞い手として選ばれる。最年少といっても十歳までは除外されるのだが、アレンは十歳など軽く超えた十八歳であり、避けては通れないものとなっていた。
「朝から夕方までは双剣の稽古、それが終わればうちで舞の稽古さ。逃げられやしないよ、覚悟をおし」
「分かったよ、ばあさん……」
完全に退路を断たれ、アレンは力なく首肯した。明日から双剣の鍛錬が始まる嬉しさはどこへやら、明日から始まる舞の稽古への面倒くささが勝ってしまう。
どうせ家へ帰ったって、これを見せれば家族は面白がるに違いない。だって母さんはもう舞い手にならなくて済むから。
家族の意地の悪い笑顔が浮かぶようで、アレンはモニエに力なく笑った。
シャキッとしな、と背中を強烈に叩かれた――。
その島は人口が百にも満たない程の小さな集落がある他には、何もないといってもいい。この島は冒険家たちの間でもそこそこ有名で、集落に住む人々は先住民だとか、どこかの国を追われた王族の子孫だとか、様々な噂が立っている。要するに謎が多いわけで、そのため冒険家たちもあまり行こうとはしないという。
この島は名前がなく、逆に「名もなき島」というのがこの島をさす。
その島の。その集落に。一人の青年がいた。
抜けるような晴天の下、森の奥から鍔迫り合いの音が聞こえてきた。気合の声と共に鋭く振り下ろされた一撃をさらりとかわしたのは、老人に片足を突っ込んでいるような見た目の男だった。
男は意地悪く笑うと、青年が反応するより一瞬早く突きを繰り出した。青年に届く直前、再び青年の剣が突きの切っ先を逸らす。
「やるようになったじゃねえか、ボウズ」
ニヤリとした笑みを浮かべたまま称賛する男に対し、青年は表情を変えぬままに体を反転させた。その勢いを殺さぬままに横一文に斬撃を繰り出そうとしたのだが、すでにそこに男の姿はなく、青年の剣は虚空を切り裂いただけだった。
その頭上から、青年よりも気迫のある声で、男が斬りかかる。青年が振り返り、剣で受け止めようとする。キイン、と一段高い音が森の中に響いていった。
「やるようになったじゃねえか」
男はもう一度そう言い、剣を引いた。青年も同じように剣を引く。その顔には、満足とも不満足とも言い難い表情が浮かんでいた。
「まだまだ遊び足りないってか?若いモンはいいねえ、それくらいでなけりゃなあ」
「茶化すなよ」
ようやく青年が僅かな笑みを浮かべた。その場にどっかりと腰を下ろす男の隣に座り、水筒の水を飲む。
「俺ももう年だな。お前にあそこまで攻められるとはなぁ」
「俺が強くなったっては、絶対言わないんだな」
「あ?んなモンは俺が死ぬまで言う気はないね」
カラカラと笑う男の隣で、青年は呆れたような溜息をつく。青年が強くなったのか、男が衰え始めているのか。それはどちらなのか分からないが、それでも青年は満足そうに笑った。
「アレン」
男が呼んだ名前に、青年が反応する。
「なんだよ、急に人の名前呼んで。今まで散々、名前で呼べって言ったってボウズしか言わなかったくせに」
「そりゃお前がボウズだったからだ」
「………」
理不尽なようにも聞こえたが、青年――アレンにとってはどこか的を得たような発言にも思えた。実際、アレンがこの男に剣を習い始めたときは、もちろんボウズと呼ばれる年齢だったし、それから今まで、一度も男に勝てた試しがないのだから、ボウズでも仕方ないかもしれない。
「お前、双剣を扱いたいとか言ってたよな、ガキの頃」
「……覚えてたのか、そんな昔の話。あのアンタが」
「人をモノ覚えの悪いジジイみたいに言うんじゃねえ、バカヤロウ。とにかくだ」
男が脱線しかけた話を戻す。
「明日から、本腰入れて双剣の鍛錬に移ろうかと思ってな」
「えっ!?」
アレンの目が見開かれる。その瞳は期待の色で満ち溢れていた。
「どうする、やるか? 血反吐吐くかも知れねえぞ」
「やる、やる!血反吐吐こうが内臓飛び出ようが絶対やる!」
「……覚悟は出来てるか、ならいい。いいか、明日も今日と同じ時間、同じ場所に来い。俺が一人前の双剣使いに鍛えてやる」
「本当か!ありがとう、じいさん!」
「誰がジジイだ!俺のことはジェダ様って呼べって言ったろ!」
「六十超えたくせに、なにがジェダ様って呼べだよ。あんまり無茶すんなよ、じいさん」
「うるせえ!俺はまだ越えちゃいねえ、六十だ!」
「もうすぐ六十一だろ!」
「このガキ!」
「じゃあな、じいさん!」
ジェダに手を振り、アレンが軽やかな足取りで走り去る。森の中を勝手知ったる様に走っていると、森から草原へと景色が変わる。草原では放牧中の牛がのんびりと座っており、走っていくアレンをちらりと見ては、またその瞳を閉じた。
その草原を過ぎれば川があり、川では村の子供たちが魚や貝を取って遊んでいる。
「あっ!アレンの兄ちゃんだ!」
「兄ちゃん!」
橋にさしかかったところで、少年たちがアレンを見つけて嬉しそうに名前を呼んだ。アレンも立ち止まり、少年たちに向かって手を振る。
「よお!いいモン見つかったか?」
「見てよこれ!さっき仕掛けにかかってたんだ!」
日焼けした少年が持ち上げてみせたのは、村でも美味いとされている魚。それも、通常見るサイズより一回り大きいようだ。
「おおっ!そりゃすごいな!」
「へへ、だろー!」
「兄ちゃん、稽古は終わったの?」
日焼けした少年の弟がアレンを見上げる。この弟は、アレンに憧れている節があり、何かある度に「将来は兄ちゃんみたいになるんだ!」と言ってくれるのだが、今はまだ甘えたがりで遊びたがりでもあるらしかった。
「おう!聞いて驚け、明日から俺は双剣の鍛錬になるんだぜ!」
「双剣!」
弟の横で貝を探していた少年が体を起こす。少年は表情から羨ましいと訴えており、アレンは楽しそうに笑い声を上げた。
「それよりお前ら、もうそろそろ上がってこいよ。もうじき日が暮れるからな」
「うん、ありがとう兄ちゃん」
「またね兄ちゃん!」
兄弟に手を振り、アレンは走って橋を渡り、村へと続く道を駆ける。ときおり村の人を追い越しては「元気だねぇ」と感心めいた声を掛けられた。
島のほぼ中央にある村は、七十の家と百に満たない村人で成り立っている。アレンはそのうちの五人家族で、両親と祖父母と暮らしている。
村に入ったところで、アレンはようやく走るのをやめた。おかえり、と声があちこちからかかり、アレンもそれらに「ただいま」と返していた時。
「アレンー!!」
村の中の、一等高い所にある家から、一人の少女が走ってくる。少女はアレンと変わらぬ歳で、村の長の一人娘だった。
「エドナ!」
エドナが駆け寄ってくるのを待ちながら、アレンは水筒の残った水を全て飲み干した。ふたを閉めたところで、ようやくエドナが現れる。
「今日もお疲れ様。うちのお母さんが、これ、アレンの家にって」
エドナが差し出したのは、村の祭りに使う仮面と衣装一式。それを受け取ったアレンは、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「今年は俺ん家かぁ……」
「毎年持ち回りでしょ。去年はキニエおばさんの家だったんだから、今年はアレンの家よ、奉納の舞」
「俺がやることになるんだぞ」
「そうよ、それがどうしたの?」
やりたくないとは言わせてくれない雰囲気に、アレンは黙って肩を落とした。それを異論なしとみたエドナは、楽しそうにアレンの肩を叩き、
「楽しみにしてるね!」
「……おう」
そのやりとりを見ていた大人たちは、同情するような瞳でアレンを見つめていた。なにせ、祭りで舞を舞うということになれば、黙っていないのが……。
「ん、今年はアレンがやるのかね」
「うげっ、ばあさん……」
舞い続けて六十年、舞い手のベテランの中のベテラン・モニエ。昨年舞い手を務めたキニエの母で、毎年の舞い手の指導役でもある。
村の舞は男女の性別を問わないため、男舞いが奉納される年もあれば、女舞いが奉納される年もある。共通するのは、モニエの指導が鬼のように厳しいということだけだ。
「勘弁してくれよ、俺は明日から双剣の鍛錬に入るんだぞ」
「そんなもんは理由にならん」
舞い手は、その家に住む最年少の者が務める習わしで、兄弟のいないアレンが必然的に舞い手として選ばれる。最年少といっても十歳までは除外されるのだが、アレンは十歳など軽く超えた十八歳であり、避けては通れないものとなっていた。
「朝から夕方までは双剣の稽古、それが終わればうちで舞の稽古さ。逃げられやしないよ、覚悟をおし」
「分かったよ、ばあさん……」
完全に退路を断たれ、アレンは力なく首肯した。明日から双剣の鍛錬が始まる嬉しさはどこへやら、明日から始まる舞の稽古への面倒くささが勝ってしまう。
どうせ家へ帰ったって、これを見せれば家族は面白がるに違いない。だって母さんはもう舞い手にならなくて済むから。
家族の意地の悪い笑顔が浮かぶようで、アレンはモニエに力なく笑った。
シャキッとしな、と背中を強烈に叩かれた――。