序章

『この世界は、もうすぐ滅ぶ』
 誰かが言い出した噂は、瞬く間にこの世界を混乱に陥れた。
 やがてそれは、現実味を帯びた事実として、人々の前に姿を現した。
 
 この世界には英雄がいた。かつて、世界が滅亡の危機にあった際、それを見事に救った英雄が。
 誰もが彼を「英雄」として称賛し、感謝の意を表した。
 各国の王侯貴族は、こぞって彼を自国の英雄として取り立てたがった。
 しかし、彼はそのすべてを拒んだ。
 彼は輝かしい世界に背を向け、一人ひっそりと森の奥で暮らした。その姿に、競い合っていた王侯貴族は「英雄」を取り立てることを断念した。

 やがて彼の「英雄」としての行動は、人々の間で大きく尾ひれをつけられ、幾人もの歴史家、または小説家によって「伝記」としてまとめられていった。
 人々は彼の伝記を買い求め、それを子孫に語り継いだ。今ある世界は彼のおかげだと。彼こそが、この世界の「英雄」であると。
 そこに、もはや「事実」はなかった。あるのは、人々の「理想」と「虚飾」だった。
 彼は己の歩んだ道と伝記に記された話のあまりの違いに愕然とした。

 それ以降、「英雄」は姿を消した。
 が、完全に姿を消したわけではなかったらしい。ときおり彼は、森の中で道に迷った旅人などを保護しては手厚く介抱し、近くの村まで送り届けるなどをした。
 しかし、決して彼は己を「英雄」だと明かさなかった。いくら問われようとも、ただ首を横に振り続けた。

 ある冒険家の手記が、後に本として出版された。
 冒険家はその手記にこう記している。

 アトランタ超大陸のとある森の奥深くにて、道に迷った。途方に暮れたところを、一人の狩人が通りかかり、私を手厚く介抱してくれた。私はそこで、かつて世界を救ったという「英雄」の話を思い出した。だが、無精髭を生やし、粗末な木造の小さな家に暮らすこの狩人が、かの「英雄」なのだろうか。私は彼に、「あなたはあの『英雄』なのか」と尋ねた。彼の答えは「違う」だった。だが本当にそうだろうか。その夜に私は見たのだ。彼の背中を縦に流れる深い切り傷を。これがもし、伝記に伝わる破滅の王・イグニスとの戦いでつけられたという傷ならば。私はそう考えた。そしてそれは翌朝、確信へと変わった。
 狩人が起きる気配を感じ、私は目を覚ました。彼が家を出る。その後をこっそりとつけて行った。途中で少々の後ろめたさを感じたが、それ以上に好奇心が勝った。
 彼は家に隣接する小屋へと入った。彼が手に持ったランプが、何かを浮かび上がらせる。それを見た時、私は息を呑んだ。「英雄」がイグニスと対峙した時に使ったといわれる伝説の双剣、「勇敢ブレイブ」と「裁きジャッジ」だった。…

 この冒険家は、この手記の中で、「英雄」に妻子がいないことも明かしている。
 そしてこう締めくくった。

 「次に世界の滅亡が来たとき、この世から「英雄」は消えるであろう」

 だが人々は、この両方ともを信じようとしなかった。「英雄」が救った世界が滅亡の危機にさらされることなどあり得ない。もしそうなったとしても、再び「英雄」は剣を取り戦うだろうと。

 そして、世界の滅亡を「英雄」が救ってから五百年が経過した。
 世界の滅亡を忘れかけた人々に襲いかかるのは、破滅の王・イグニスの復活。魔族の復活だった。
 人々は「英雄」を待ち望んだ。いつ立ち上がるのか、今日か、明日か。
 
 しかし、「英雄」はついに現れなかった。
 人々はかつての冒険家の手記にある家を探し回った。
 だがアトランタ超大陸のとある森の奥にある小さな木造の家は、とうとう見つけられなかった。

 誰かが言った。「英雄」は消えた。
 その噂は、「英雄」の存在を待ち望む人々の心に絶望を呼んだ。そしてまた誰かが言った。

『この世界は、もうすぐ滅ぶ』
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