王国の薔薇

 窓から差し込む光は明るく、空はどこまでも広く青い。まるで今日という日を祝福してくれているようだ。
 次期王太子妃のライラ・フィニストリア公爵令嬢は、ドレッサーの前に腰かけながら、髪を丁寧に櫛で梳かす侍女を鏡越しに見つめていた。
「如何なさいましたか」
「いいえ、なんでもないわ。カトレアはいつもわたくしの髪を宝物のように扱ってくれるのね」
「真実、私にとりましては宝物ですから。幼少の頃より、お嬢様の髪に触れられるのは私だけでした。私にとって、それは何よりも誇りであったのですよ」
「そういうものなの?」
「そういうものでございます」
 ようやく梳かし終えたらしく、カトレアが櫛をドレッサーへ置いた。それから淡く化粧を施し、鏡の中には勝ち気なつり目の赤い瞳を持つ赤い薔薇が現れた。
 ロングストレートヘアは歪みを知らない。血塗られた公爵家の者である証であるワインレッドの髪と、血のように赤い瞳。――ブラッディローズ。
 乙女ゲーム『サンストリアの輝ける華ブライトブロッサム』の悪役令嬢は、断罪されて破滅する未来を退け、幸福となる結末を手にした。夢のような、本当の話だ。
「わたくしね、今でも思うのよ。もしかするとこれはとても幸せな夢で、そんな夢をずっと見ているだけなのではないかって。目が覚めたらわたくしは牢屋の中で、首を落とされるのではないかしら。そんなことを考えるの」
「……お嬢様」
「もちろんこれは夢などではないと知っていてよ! けれど、やはり不思議なのよ。オスカー殿下がわたくしを妃にと望んでくださったことも、その通りにわたくしが王太子妃になろうとしていることも。だってわたくし、血塗られた公爵家の血濡れの薔薇ブラッディローズよ? いくら第二王家と称されるほどの権力を持っていたとしても、そんな家の娘を王室が欲しがるなんて思わないでしょう?」
「……お嬢様は時々、ご自分に自信がないようなことを仰います」
 カトレアの手を取って椅子から立ち上がりながら、ライラは首を傾げた。誇り高き赤薔薇が、自分に自信がないなんて、それは嘘だろう。これまでだって、ちゃんと公爵家の人間らしく堂々としてきた。
 それはこれからだって変わらない。フィニストリアの名を名乗らなくなっても、ライラは誇りを胸に生きていく。
「公爵家のご令嬢として、お嬢様は常に堂々としておられます。立ち振る舞いは洗練された淑女のようで、私にとりましてもとても眩しく、尊いお方です。ですが、それ以上に……お嬢様は、ブラッディローズという名に、劣等感を覚えておいでなのですね」
「……劣等感、ね。そうかもしれないわ。殿下に見合うだけのわたくしであるつもりでも、ブラッディローズという名のわたくしは殿下の隣に相応しくない。そう考えているのかもしれないわね」
「ですが御身は今や、高貴なる薔薇ノーブルローズです」
 カトレアのただその一言が、ライラの背を伸ばす。思えばこの優秀な侍女は、ライラの心を適切に汲み取り、そしてライラが前を向けるような言葉をくれる。さすがは十年以上の付き合いになる侍女だ。
 カトレアは今日を限りに、ライラ付きの侍女を解任され、公爵家に戻ることになる。それがとても……そう、ライラにとっては、己の手足をもぎ取られることのように悲しいことだった。
「ねえカトレア。本当に公爵家へ戻らなければならないの? わたくしと共に王宮にいてはくれないの?」
「それ程までに私を大切にして頂いたこと、この上なく嬉しく思います。王宮では私などよりも更に優秀な侍女がお仕え致しますので、御安心ください」
「カトレア――」
「私の大切な赤薔薇様が王国の国母として永遠に咲き続けることを、公爵家よりお祈り申し上げます」
 そうではないのよ、カトレア。わたくしは優秀な侍女なら誰でもいいわけではないの。あなたでないと駄目なのよ。
 言いたいことを全て飲み込む。そうしてライラは微笑んだ。もはやライラには、それしか許されていなかった。



*********************



 朝食を済ませ、再び部屋へと戻ると、今度は大聖堂へと馬車で向かうべく外出の用意となった。
 王宮の真横にあるとはいえ、王家の人間の外出である。たかがこれしきの距離と思っても、馬車で移動しなければならないのだ。
 出迎えてくれた神官達と挨拶を交わして、控え室へと向かう。
 大聖堂の奥の部屋でライラは大着替えになった。
 国一番のお針子と弟子達が心血を注いで作り上げた純白のウェディングドレスに袖を通し、
背中の編み上げリボンでぎゅうっと絞める。
 美しくなびくスカート部分のレースを折らないように気を付けて椅子に腰掛けると、今度はヘアセットとメイク。
 ワインレッドのストレートロングヘアは編み込みを入れた上でひとつに纏められた。朝方の薄いメイクではなく、ライラの美しさをより際立たせるような華やかな仕上がりに。
「……美しいです。お嬢様」
「本当?」
「はい。鮮やかに咲き誇る大輪の薔薇のようです」
 これこそが真紅の赤薔薇。フィニストリア公爵家が誇る、麗しき令嬢の真の姿。つり目がちな赤い瞳は、メイクのおかげで少しばかり柔らかな目元へと変化した。
 この姿を見てもライラを血濡れの薔薇だと蔑むのなら、それは目が節穴だと自ら言いふらすようなものだろう。正直に言えばオスカーが羨ましい。
「お嬢様。オスカー殿下とどうか末永くお幸せに」
「……ええ。ありがとう、カトレア」
 幸せになれるだろうか。破滅を迎えるはずだったライラ・フィニストリアは、今日、晴れて王太子妃となる。……けれど、でも。
(本当にこれがわたくしの幸せだと、思っていいのかしら)
 自身のことを愛してくれる兄達と離れ、何があっても傍に居てくれた侍女と別れ、ひとり王宮で過ごすこの結末が、ライラの幸せなのか。
 ライラのことを死なせたくないと前世の記憶の持ち主が思ったからこそ、ライラは生き延びた。前世の人間が『農協のフォークリフトに轢かれて死んだ』などという死因だったために、死んでも死にきれないと思ったのもあるだろう。
 それでも、ライラは素直にその賛辞を受け取れなかった。
「カトレア……。わたくし、オスカー殿下とうまくやっていけるかしら」
「なぜそのようなご心配を?」
「だってわたくし、王宮に来てから一度だって、オスカー殿下と二人でお話したことがないのよ? 殿下がいらっしゃる時は、必ずどなたか他の方がお隣におられるの。もしかすると殿下は、わたくしのことをあまり良くは思っていらっしゃらないのかもしれないわね。……それもそうよね、わたくしは血濡れの薔薇ブラッディローズだもの」
 それでもこの婚約は幼い頃から今日まで続いてきた。ライラの悪評が学院中に広まっても、オスカーはライラとの婚約を破棄しなかった。
 それがライラへの少なからぬ好意であっても、フィニストリアの名を後ろ盾に欲しいが故の打算であってもいい。どんなにオスカーとの関係を憂いたところで、ライラの王太子妃になる未来は変わらない。
「……お嬢様」
「せっかくの晴れの日にこれではいけないわね! ありがとう、皆。きっと今日がわたくしの人生で一番の日よ」
 神官がライラを呼びに来た。この先、カトレアはいない。差し伸べられたカトレアの手を握ったライラは、二つ上の優秀な侍女へ微笑んだ。
 幼い頃からずっと一緒だった。姉のように慕ってきた。今更カトレアがいない生活など想像出来ない。それでももうその日は来てしまう。ならば、せめて。
「カトレア。あなたがそばに居てくれて、本当に嬉しかった。今までわたくしと一緒にいてくれてありがとう」
「お嬢様――」
「公爵家へ戻っても、どうか元気でね。たまには手紙をくれないと寂しくなってしまうわよ?」
「……はい。お嬢様も、どうかお身体にお気を付けて。王国に咲き誇る真紅の薔薇・フィニストリア公爵家の誇り高き赤薔薇様にお仕えすることが出来ましたのは、私の人生において一番の誉れです。ありがとうございました」
 カトレアと王宮からの侍女達に見送られ、ライラは控え室を出た。陽光が降り注ぐ廊下を進めば、その先は大聖堂のバージンロード。揺れるベールのせいで視界が悪い。足元に視線を落とすと、必然的に姿勢も悪くなる。
 貴族の小さな女の子が数人、同じように真っ白なワンピースを着て集まっている。トレーンベアラーだろう。二人は手に小さなカゴを持っていて、花びらが山積みになっていた。
 本当ならライラはとっくに死んでいた。こうして生きていて、更に幸福な道を歩めているのだから、これ以上の何を求めようか。
 扉の前にはオスカーが立っていた。ライラの姿を認めると、いつも通りの微笑みを浮かべて右腕を差し出してくる。
(やはり、何もおっしゃってはくださいませんわね)
 分かっていたことだ。オスカーには、ライラへの恋慕などない。ライラも作り慣れた微笑みと共にオスカーの腕をとった。
 ああ、大聖堂の扉が開く。真っ赤なその道へ踏み出して、ライラはその願いを胸の奥深くへしまい込んだ。

 ほんの少しでいいから、あなたに恋心を抱いてほしかった。
1/4ページ
スキ