悪役令嬢のハッピーエンド
ルーデンヴァール王国への旅路を行きながら、ライラは初めて見る景色を眺めていた。
一昨年に発表されたサンストリア王国第一王女エミリアの婚約は、瞬く間に王国中を駆け巡った。なにせ相手は隣国の王太子ウィリアムだ。
ウィリアムはルーデンヴァール王国の王位継承権第一位で、帰国後間もなく立太子し、第一王子から晴れて王太子となった。
エミリアも厳しい王妃教育を生き残り、今ではどこに出しても恥ずかしくない、サンストリアのプリンセスだ。
そんなエミリアはというと、王妃教育を終えた昨年、ルーデンヴァール王国へ向かった。一年かけてルーデンヴァール王国の文化や作法を学び、先月に行われたサンストリア王国でのお披露目会を経て、いよいよ明日、二人はルーデンヴァール王国の大聖堂で式を挙げる。
「ライラ、疲れてないか?」
馬車が国境の関所を越えてしばらく経つ。自然豊かな街道を進む途中、向かい側に座る男性がライラへそう尋ねた。
「喉が渇いたらすぐに言うんだぞ」
「……ええ、承知しておりますわ。承知しておりますけれど……おひとつお伺いしても宜しくて?」
「なんだ?」
ようやくライラの視線が、窓の外の景色から室内へと向けられる。その瞳は半眼で、じとっと眼前の人物を睨みつけていた。
「わたくし達、エミリアの結婚式に向かっているんですわよね?」
「そうだが?」
「なぜわたくしの馬車に同乗されておられますの? ――お兄様達」
「え?」
ライラの向かいに座る男性二人が同時に首を傾げる。さすが双子とでも言うべきだろうか。二人ともすっとぼけているわけではないのが腹立たしい。何を言っているんだというような顔が二つ並んでいて、腹立たしさが一段階上がった。
「なぜと言われても、私達も招待されているからとしか言いようがないが……。なあ、レオン」
「まあ、俺達フィニストリア家は第二王家とも称される公爵家だからな。招待されては断るわけにもいかないだろう? ジョセフがついてきた理由は分からないが」
「ライラが行くのに俺が行かない理由はないだろう」
「理由しかありませんわよ」
「え?」
「え? じゃありませんのよ!」
最近顔を見ないなと思っていたところにこれである。やはりこのシスコンはいつまで経ってもシスコンのままだった。
隣国へ続く王家の馬車列は、その後ろから公爵家の馬車が続いている。本来なら兄達はその馬車に乗るはずだったが、王城にて王家の馬車に乗り込むと、なぜかそこには兄二人が乗っていたのだ。
乗る馬車を間違えたかしら。三度見したが馬車の紋章は王家の金獅子紋で、フィニストリア家の赤薔薇紋ではない。「は?」と王太子妃らしくない声が出てしまったことを反省する気はライラには微塵もなかった。
それからかれこれ丸一日、ライラは王家の馬車で兄達と一緒だった。繰り返すが、これは公爵家の馬車ではなく、王家の馬車である。
「一ヶ月も顔を合わせられなかったからな、ライラも寂しかっただろう」
「いえ全く。むしろ快適でしたわ」
「妹に寂しい思いをさせてしまったと、お兄様は反省したんだ」
「しなくていいですわよ。寂しさは微塵も感じておりませんでしたもの」
「だからライラと一緒に行こうと思ってな!」
「わたくしの話を聞いてくださる? 全く会話が噛み合ってませんわよ、最初から」
「ジョセフはお前のこととなると話を聞かないから」
「止めなかったレオンお兄様も同罪ですわよ、笑っておられますけれど! 何をご自分は関係ないようなお顔をされておられるんですの? 関係大ありですわよ!」
車輪が石を蹴ったのか、ガタンと揺れる。思わず倒れそうになったところを、隣に座っていたオスカーが受け止めた。
「大丈夫かい?」
「ありがとうございます、平気ですわ」
「それは良かった」
そう言ってオスカーはライラの身体から手を離した。「まあそれはさておき――」オスカーがにっこりと微笑む。「それはさておき?」双子がそう言いたげに笑って、無言のままに先を促した。
「帰国したら公爵家にはたんまりと仕事を与えようかな」
「王太子殿下? それはあまりにも職権濫用ではないですか?」
「我々は公務も領の統治もつつがなくこなしております。王家に文句を付けられる筋合いはありません。というか、これ以上仕事をしたらライラと会う時間が無くなります!」
「無くていいんですわよ。普段は察しがいいくせに、お二人ともなぜこういう時だけ理解力がどん底まで落ちるんですの?」
「俺達が王宮でつまらない公務をやる理由を知ってるか? ライラに会えるからだ」
「堂々と不敬な発言をしますわね。帰ったらギロチンが待っているかもしれませんわよ」
「まさか。理由がなんであれ、煩わしい貴族共を相手してやってるんだ。感謝されることはあっても、処刑場送りなんてありえないぞ」
「それを僕の目の前で言える度胸は賞賛に値するよ、ジョセフ」
「お褒めに預かり光栄です、殿下」
誰も褒めていない。なぜそうも鼻高々になれるのだろうか。多少の図太さは貴族社会を生き抜くために必要なのかもしれないが、ここまで図太くなくても良いと思う。
怒涛の如く脳内を駆け抜けたツッコミの言葉を流して、ライラは一言だけを告げるに留めた。
「今のを褒められたと素直に受け取れる度胸も賞賛しておきますわ」
「ライラがジョセフを褒めた!?」
「生きてるか、ジョセフ!?」
「我が生涯に一片の悔い無し……」
「褒めてねーんですわよ誰も!!」
お約束通りのベタな流れに耐えきれず、全力でツッコミを入れてしまった。ちょっとばかり口調が荒っぽくなったのはご愛嬌だ。なぜラオウだったのかについては考えないことにした。何とも弱々しいラオウである。
フッと馬車の頭上に影がかかる。外を見やると、のどかな街道は消え、石畳の市街地へ入っていた。
「ああ、王都に入ったようだね」
「そうですの? 長かったですわね」
「短かったな……。あと一日は一緒に居られると思ったのに……」
「丸一日でも十分長かったですわよ」
賑わう市場を通り抜け、舗装された道を馬車がカラカラと音を立てて進んでいく。馬車に描いてある金獅子紋は隣国サンストリア王国王家の家紋。頭を下げる大人に混じって、元気よく手を振る子供達に、二人はにこやかに手を振り返した。
ルーデンヴァール王国の守り神とされる三神の彫刻がシンボルの噴水、通称『三神の泉』は、ルーデンヴァール観光において外せないスポットだ。噴水広場の横を通り抜け、馬車は貴族達の屋敷が並ぶエリアへ進んでいく。
そうしてその最奥に、ルーデンヴァール王国の王城がそびえ立つ。跳ね橋の向こうにある城門が開き、ライラ達を乗せた馬車はゆっくりと城内へ入った。
城内の入口前に停車した馬車のドアが開く。レオンとジョゼフが先に降りて恭しく頭を垂れ、オスカーが降りてからライラへ手を差し出した。
陽光を浴びて煌めく金色の神に青い瞳の王太子が馬車から連れ出した王太子妃は、ワインレッドの長い髪を優雅になびかせ、王族と同じ赤い瞳を持っている。
それは先に降りてきた二人の男性も同様で、ひと目で三兄妹なのだと察せられる。隣国の王太子一行を出迎えたルーデンヴァールの重鎮達は、到着した四名に最上の礼をもって挨拶した。
最前にいるのは白髪が混じった初老の男性だ。服装から見るに、国政でも重要な役職を担っているように見える。
「サンストリア王国のオスカー王太子殿下、並びにライラ王太子妃殿下、そしてフィニストリア公爵家のレオン公子とジョゼフ公子にご挨拶申し上げます」
「どうぞ顔を上げてくれ。お出迎えいただき恐縮だ」
「遠路はるばる、ようこそルーデンヴァール王国へおいでくださいました。私は宰相のダナン侯爵家当主ジェームズと申します」
「ダナン侯爵、お会いできて光栄だ」
「こちらこそお会いできて光栄です。また王子の留学中に頂いた王室の細やかな心遣いに感謝申し上げます」
侯爵の視線がライラ、そしてレオン、ジョゼフへと移る。フィニストリア公爵家は数代前の戦役の折、ルーデンヴァール王室から姫君を迎え入れて今代まで続いている。それゆえ、ルーデンヴァール王国の王族とフィニストリア公爵家の人間は、往々にして瞳の色が同じであることが多い。もちろん遺伝であるので、赤い瞳を持たない公爵家の者もいるが、三兄妹はしっかりとその瞳を受け継いでいる。
「こうしてルーデンヴァールとサンストリア王国の繋がりが今代まで続いておりますこと、宰相として、またこの国に生きる者として、喜ばしく思います」
厳格な顔つきが少しばかり和らぐ。そうして四人は王城の中へと案内された。
磨き上げられた大理石、輝くシャンデリア。敷かれた赤い絨毯には汚れひとつなく、また忙しなく動き回る使用人たちのお仕着せも上等な生地を使用しているようだ。
「二百年前の戦役で、我が国から姫君が公爵家へ嫁いで以降、ルーデンヴァールとサンストリア王国は他国にはない強い結び付きによって、互いに繁栄を築いてまいりました。この度、サンストリア王家から姫君をお迎え出来たことによって、両国の絆は更に固いものになるでしょう」
「ああ、我々もそうなることを願っているよ。とはいえ、僕らはあの子の婚姻について、あまり政治的な意味を持たせたくないとも思っている」
客間へと案内される道中、宰相の相手はオスカーが受け持った。ライラはオスカーの隣を、そして兄二人は後ろをにこやかに歩いていくだけだ。
ルーデンヴァール王国では、女性が政治の話をすることはあまり良い目では見られないと聞くが、どうやら本当のことであるようだ。宰相はオスカーにばかり会話を投げかけていて、ライラには話を振ろうともしない。
「あの子はウィリアム王太子殿下と相思相愛だからね。王太子殿下もエミリアのことをとても大切にしてくださっている。両人が結婚を望むのなら、僕らは二人を祝福するだけさ。ね、ライラ?」
「そうですわね。あの子にはこの国で幸せになって頂きたく思いますわ。ひいてはそれが、両国の関係強化にも繋がるものと存じます。なにせ両国の架け橋の役割を担ったのは、我が生家フィニストリア家に嫁がれた姫君が最後ですもの。二百年ぶりの輿入れが王族同士の婚姻となれば、ルーデンヴァール王国にとっても国益となるのではございませんこと? これを機に我が国とルーデンヴァール王国間の関税を下げても宜しいかもしれませんわね。両国の往来をもっと盛んに行えるようになれば、景気も更に上向くというものですわ」
「王太子妃殿下は学が深くていらっしゃるのですな」
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですが、学の深さ……頭の良さで言えば、わたくしよりもエミリアのほうが優秀ですわね。帝国の学院を飛び級で卒業しておりますもの。きっとその才で王太子殿下をお支えできるはずですわ」
一部の官僚達はエミリアの台頭をよく思わないだろう。この国において女性の役割は家事の切り盛りだ。それは王室でも変わらず、王妃は後宮の采配が仕事となり、国政に携わることはない。
……おそらく、ウィリアムがエミリアを妃にと望んだのは、その状況を打破したいと考えているからだろう。反発は多いだろうが、エミリアはそれでへこたれるようなヤワな精神の持ち主ではない。むしろ反発があればあるほど燃えるタイプだ。そこは悪役令嬢として選ばれた彼女のタフさが功を奏したと言っていい。
「サンストリア王国では、女性も表舞台に立つことが多いとか」
「お陰様で、我が国は女性の官僚も増えつつあるよ。爵位を娘が継ぐケースも出てきた。とても良い傾向だと思っている。我が国の男女は肩を並べて歩んでいけるということだからね」
「左様ですか。良い国策ですな」
オスカーの笑みは崩れない。それはもちろんライラも、背後の二人もだ。だが流れた空気は歪だった。
王城から渡り廊下を通って別棟へ向かい、階段をいくつか上がって、オスカーとライラはひとつの客間へ案内された。そこは国賓を迎える部屋の中でも二番目の部屋。一番格式の高い部屋は、サンストリア王国の国王夫妻が滞在している。
後で挨拶に行こう、というオスカーに頷き、二人は着替えに入った。この後はルーデンヴァール国王と王妃への謁見となる。移動用の軽やかな作りのドレスから、公務用であるしっかりとした作りのドレスへ着替え、髪型も整えて髪飾りを挿し直す。
ドレスは深紅のAライン。首周りはデコルテが開いた長袖のもので、首飾りのネックレスをつければ完成だ。
「お待たせ致しました、オスカー様」
「それほど待ってはいないよ。うん、やはりライラは赤が似合う」
案内役の騎士に先導され、部屋を出る。謁見の間へと先程来た道を戻り、その間に使用人や官僚達とすれ違う度、彼らは脇に避けて最上の礼で二人を迎えた。こうして見ると、官僚は男性ばかりで、使用人は女性が多い。明確に男女の役割が分かれていることを、効率がいいと一蹴してしまうのは、何かが違う気がする。
サンストリア王国の女性は、自立している人が多い。城下で個人店を営む男女の比率も半分半分だし、城内に出仕する官僚も女性の姿が増えた。毎年の採用試験も受験する女性が年々増えている。
国政を男性だけでやるのは限界がある。子育て支援ひとつにしても、男性の考える子育てと女性の考える子育ては違うものだ。
その壁を、エミリアが打ち壊せるか。前途多難ではあるが、実はライラもオスカーもそれほど心配していない。ウィリアムは細やかな気遣いのできる人物だ。エミリアが塞ぎ込む前にあの手この手で逃げ道を確保しているだろう。
謁見の間のドアが開き、玉座に座る国王と王妃が立ち上がる。最上の礼を見せて玉座の前へと進み、二人は改めて腰を折った。
「ようこそルーデンヴァールへ。オスカー殿下にお会いするのは随分と久方ぶりだな」
「国王陛下に置かれましては、ご機嫌麗しゅう。前回訪問させて頂きましたのは、十三年前になります。大変ご無沙汰しております」
「うむ。お元気そうで何よりだ。して、隣におられる女性が、そなたの伴侶かな」
「ご紹介致します。我が妻のライラです」
オスカーに紹介され、ライラはドレスの左手片方をつまんで、右手を胸に当て挨拶をした。そうして顔を上げた先で、自身と同じ色の瞳を見つめる。
血のように赤い瞳は、ルーデンヴァール王家の特徴だ。これこそ、フィニストリア家とルーデンヴァール王家が、かつて親族関係にあったことを意味する。
「国王陛下並びに王妃殿下にご挨拶申し上げます。サンストリア王国王太子妃、ライラ・サンストリアと申します」
「お初にお目にかかる。そなたの生家はフィニストリア公爵家とのことだな」
「はい。左様でございます。当家とルーデンヴァール王室は、二百年前の戦役の折に婚姻関係を結び、両国の国交の架け橋となりました。この度、その役割を我が義妹エミリアが果たせますこと、嬉しく思いますわ」
あくまで今回の主役はエミリアである。フィニストリア公爵家の話で盛り上がりそうになるが、そこはライラ。さらりと話題の矛先をエミリアへ戻す手腕は見事だ。
「今宵はサンストリア王国からお越しの皆様の為、晩餐会を開く予定だ。それまではどうぞお部屋でお寛ぎを」
「喜んで。ではまた後ほど」
「わたくしも是非、王太子妃殿下とお話したいわ」
「光栄ですわ。わたくしで宜しければ、お話相手にしてくださいまし」
両陛下の前を辞して、二人は謁見の間から立ち去った。背後で扉が閉まる音を聞きながら、オスカーはふと先程の会話を思い返した。
一度だけ会話を振られたライラはともかく、王妃はオスカーと会話をしなかった。したくて出来なかったのではなく、しようとしなかったのだ。
(王妃は意図的に、我々に深く突っ込んだ話をしなかった。首を突っ込みすぎると国政に手を出すことになりかねないと判断したのか?)
王妃の態度の根底にあるのは、おそらくこの国に長く息づいている男女のあり方だ。サンストリア王国が数十年をかけて捨てた常識が、この国には依然として根強く残っている。
もし、これが逆の立場であったなら。すなわち、オスカーとライラが国賓を迎える立場で、先程のような謁見の時間となった場合。
間違いなく、ライラは他国の情勢に触れつつ、当たり障りのない会話から他国の状況を把握する。そうしてオスカーと外交問題について深く議論を交わすだろう。それが出来るだけの知識と思考力をライラは持っている。
王太子妃ライラは、ただオスカーの隣で完璧な微笑みを浮かべるだけの女性ではない。時として大胆不敵に見張りを躱して夜逃げを成功させ、時として完璧な淑女として指先ひとつまで美しく振る舞う。そして時として、恋する少女のように可愛らしい。最後はただの惚気である。
客間へと戻った二人は、ルーデンヴァール王室から側仕えとして配属された侍女達を一度下がらせ、ソファにゆったりと座り込んだ。
「ああ疲れた……」
「一日半の馬車移動も楽ではありませんわね。両陛下が謁見の時間をすぐに切り上げて下さって助かりましたわ」
「本当にね、そこには感謝しているよ。……ああ、ありがとうカトレア」
「御二方ともお疲れのようですので、ミルクを足しております」
「さすがカトレアですわ……」
公爵家が満を持して王太子妃ライラの元へ送り返した侍女は、仕事が出来るだけではなく気遣いの鬼なのだ。ライラとオスカーの表情を見ただけでその時の気分や状態を察知できるのは、並々ならぬ観察眼の賜物である。
出来ればそこに「レオンとジョセフを撃退する」というスキルも追加してほしいものだが、カトレアの雇い主は未だ公爵家であるので難しいかもしれない。クビになったところで、給金を倍にして王家で雇うだけなのだが。
「ライラはこの国を見てどう思った?」
雑談のような軽やかさで、オスカーは国政に繋がる話題を振った。サンストリアでは当然のような光景も、この国では異質なものなのだろうか。
しばらく脳内で意見をまとめ、ライラはゆっくりと口を開いた。
「サンストリアとは、似通った部分もありますけれど……やはり違う国ですわね。特に、女性が政治にまつわることには参加しない、というのは本当のように思いましたわ。女性にも参政権は与えられているようですけれど、宝の持ち腐れですわね」
「そうだね、僕もそれは気になった。王城内の様子を見ただけでも、官僚や行政関係の職務に就く者は男性だ。女性は主に使用人で、男女の職種が明確に分かれている」
「王妃殿下が一言しか発されなかったことも、気にかかりますわね」
「ああ。てっきり、王妃殿下も君の先祖の話に触れると思ったけれど」
「……サンストリア王国は、目に見えない男尊女卑の風潮が未だに根深いと聞いております」
クッキーを並べた皿をテーブルに置いて、カトレアがそう呟いた。カトレアの生家であるシュッツ男爵家の領地は、小さいながらもルーデンヴァール王国の国境と近い。交易路が領内を通ることもあり、宿場町は常にルーデンヴァールの商人とサンストリアの商人で賑わっている。それゆえ、多少なりともカトレアはルーデンヴァールの内部事情に詳しいのだ。
「エミリア王女殿下に国民が望むのも、女性が活躍する社会への手本となる姿だそうで。それを聞いた王女殿下も、ルーデンヴァールでの身の振り方を考えておられるようです」
「……カトレア」
「はい?」
紅茶を飲む手を止め、ライラは自慢の侍女を見上げた。いつでも冷静で表情の機微が少ない彼女は、やはり真顔で小首を傾げている。
「あなた、今日初めてルーデンヴァールへ来たのよね?」
「はい」
「どうしてそこまで王宮内のことにまで精通しているの……?」
「王女殿下付きの侍女達にそれとなく探りを入れておきました」
「仕事が早いわね!? 早すぎてちょっと怖いまであるわよ!? えっ、わたくし声に出して言ったかしら!?」
「お嬢様がそろそろ気になっておられる頃かと思いまして」
「き、気遣いの鬼……!!」
「お褒めにあずかり光栄です」
そっけない答えだが、長年の付き合いが彼女の内心の感情を察していた。ここまで分かりやすく喜ぶことは少ない。こうして見ると、カトレアとリリーは似た者同士のようで対照的な部分もある。……どちらもライラの事が絡むと頭のネジが緩んでしまうという点だけはどうにかしてほしい。ライラの切実な願いである。
「さてライラ、飲んだら隣の部屋に向かおうか。双子が謁見の最中だから、今がチャンスだよ」
「そうですわね、わたくし達が部屋にいると知れば、お兄様達が乱入してきますもの。いやどういうことですのよ本当に。なんで乱入してくるんですのよ。お部屋で大人しくしていてほしいものですわ」
「無理じゃないかなぁ」
「無理でしょうね……」
「望み薄にも程がございませんこと?」
兄達への不満ごと紅茶を飲み干して、ライラは立ち上がった。兄達が謁見の最中である今、国王と王妃の部屋に向かうためだ。あの二人から逃げ回るようで遺憾だが、逃げるという点についてはライラの専売特許である。その気になればあの二人から逃げ切ることも不可能ではない。それこそ夜逃げでも何でも手段であるならやってみせる。
そこまで考えが発展して、ライラは逃走を専売特許だと思っている自分に泣きたくなった。
一昨年に発表されたサンストリア王国第一王女エミリアの婚約は、瞬く間に王国中を駆け巡った。なにせ相手は隣国の王太子ウィリアムだ。
ウィリアムはルーデンヴァール王国の王位継承権第一位で、帰国後間もなく立太子し、第一王子から晴れて王太子となった。
エミリアも厳しい王妃教育を生き残り、今ではどこに出しても恥ずかしくない、サンストリアのプリンセスだ。
そんなエミリアはというと、王妃教育を終えた昨年、ルーデンヴァール王国へ向かった。一年かけてルーデンヴァール王国の文化や作法を学び、先月に行われたサンストリア王国でのお披露目会を経て、いよいよ明日、二人はルーデンヴァール王国の大聖堂で式を挙げる。
「ライラ、疲れてないか?」
馬車が国境の関所を越えてしばらく経つ。自然豊かな街道を進む途中、向かい側に座る男性がライラへそう尋ねた。
「喉が渇いたらすぐに言うんだぞ」
「……ええ、承知しておりますわ。承知しておりますけれど……おひとつお伺いしても宜しくて?」
「なんだ?」
ようやくライラの視線が、窓の外の景色から室内へと向けられる。その瞳は半眼で、じとっと眼前の人物を睨みつけていた。
「わたくし達、エミリアの結婚式に向かっているんですわよね?」
「そうだが?」
「なぜわたくしの馬車に同乗されておられますの? ――お兄様達」
「え?」
ライラの向かいに座る男性二人が同時に首を傾げる。さすが双子とでも言うべきだろうか。二人ともすっとぼけているわけではないのが腹立たしい。何を言っているんだというような顔が二つ並んでいて、腹立たしさが一段階上がった。
「なぜと言われても、私達も招待されているからとしか言いようがないが……。なあ、レオン」
「まあ、俺達フィニストリア家は第二王家とも称される公爵家だからな。招待されては断るわけにもいかないだろう? ジョセフがついてきた理由は分からないが」
「ライラが行くのに俺が行かない理由はないだろう」
「理由しかありませんわよ」
「え?」
「え? じゃありませんのよ!」
最近顔を見ないなと思っていたところにこれである。やはりこのシスコンはいつまで経ってもシスコンのままだった。
隣国へ続く王家の馬車列は、その後ろから公爵家の馬車が続いている。本来なら兄達はその馬車に乗るはずだったが、王城にて王家の馬車に乗り込むと、なぜかそこには兄二人が乗っていたのだ。
乗る馬車を間違えたかしら。三度見したが馬車の紋章は王家の金獅子紋で、フィニストリア家の赤薔薇紋ではない。「は?」と王太子妃らしくない声が出てしまったことを反省する気はライラには微塵もなかった。
それからかれこれ丸一日、ライラは王家の馬車で兄達と一緒だった。繰り返すが、これは公爵家の馬車ではなく、王家の馬車である。
「一ヶ月も顔を合わせられなかったからな、ライラも寂しかっただろう」
「いえ全く。むしろ快適でしたわ」
「妹に寂しい思いをさせてしまったと、お兄様は反省したんだ」
「しなくていいですわよ。寂しさは微塵も感じておりませんでしたもの」
「だからライラと一緒に行こうと思ってな!」
「わたくしの話を聞いてくださる? 全く会話が噛み合ってませんわよ、最初から」
「ジョセフはお前のこととなると話を聞かないから」
「止めなかったレオンお兄様も同罪ですわよ、笑っておられますけれど! 何をご自分は関係ないようなお顔をされておられるんですの? 関係大ありですわよ!」
車輪が石を蹴ったのか、ガタンと揺れる。思わず倒れそうになったところを、隣に座っていたオスカーが受け止めた。
「大丈夫かい?」
「ありがとうございます、平気ですわ」
「それは良かった」
そう言ってオスカーはライラの身体から手を離した。「まあそれはさておき――」オスカーがにっこりと微笑む。「それはさておき?」双子がそう言いたげに笑って、無言のままに先を促した。
「帰国したら公爵家にはたんまりと仕事を与えようかな」
「王太子殿下? それはあまりにも職権濫用ではないですか?」
「我々は公務も領の統治もつつがなくこなしております。王家に文句を付けられる筋合いはありません。というか、これ以上仕事をしたらライラと会う時間が無くなります!」
「無くていいんですわよ。普段は察しがいいくせに、お二人ともなぜこういう時だけ理解力がどん底まで落ちるんですの?」
「俺達が王宮でつまらない公務をやる理由を知ってるか? ライラに会えるからだ」
「堂々と不敬な発言をしますわね。帰ったらギロチンが待っているかもしれませんわよ」
「まさか。理由がなんであれ、煩わしい貴族共を相手してやってるんだ。感謝されることはあっても、処刑場送りなんてありえないぞ」
「それを僕の目の前で言える度胸は賞賛に値するよ、ジョセフ」
「お褒めに預かり光栄です、殿下」
誰も褒めていない。なぜそうも鼻高々になれるのだろうか。多少の図太さは貴族社会を生き抜くために必要なのかもしれないが、ここまで図太くなくても良いと思う。
怒涛の如く脳内を駆け抜けたツッコミの言葉を流して、ライラは一言だけを告げるに留めた。
「今のを褒められたと素直に受け取れる度胸も賞賛しておきますわ」
「ライラがジョセフを褒めた!?」
「生きてるか、ジョセフ!?」
「我が生涯に一片の悔い無し……」
「褒めてねーんですわよ誰も!!」
お約束通りのベタな流れに耐えきれず、全力でツッコミを入れてしまった。ちょっとばかり口調が荒っぽくなったのはご愛嬌だ。なぜラオウだったのかについては考えないことにした。何とも弱々しいラオウである。
フッと馬車の頭上に影がかかる。外を見やると、のどかな街道は消え、石畳の市街地へ入っていた。
「ああ、王都に入ったようだね」
「そうですの? 長かったですわね」
「短かったな……。あと一日は一緒に居られると思ったのに……」
「丸一日でも十分長かったですわよ」
賑わう市場を通り抜け、舗装された道を馬車がカラカラと音を立てて進んでいく。馬車に描いてある金獅子紋は隣国サンストリア王国王家の家紋。頭を下げる大人に混じって、元気よく手を振る子供達に、二人はにこやかに手を振り返した。
ルーデンヴァール王国の守り神とされる三神の彫刻がシンボルの噴水、通称『三神の泉』は、ルーデンヴァール観光において外せないスポットだ。噴水広場の横を通り抜け、馬車は貴族達の屋敷が並ぶエリアへ進んでいく。
そうしてその最奥に、ルーデンヴァール王国の王城がそびえ立つ。跳ね橋の向こうにある城門が開き、ライラ達を乗せた馬車はゆっくりと城内へ入った。
城内の入口前に停車した馬車のドアが開く。レオンとジョゼフが先に降りて恭しく頭を垂れ、オスカーが降りてからライラへ手を差し出した。
陽光を浴びて煌めく金色の神に青い瞳の王太子が馬車から連れ出した王太子妃は、ワインレッドの長い髪を優雅になびかせ、王族と同じ赤い瞳を持っている。
それは先に降りてきた二人の男性も同様で、ひと目で三兄妹なのだと察せられる。隣国の王太子一行を出迎えたルーデンヴァールの重鎮達は、到着した四名に最上の礼をもって挨拶した。
最前にいるのは白髪が混じった初老の男性だ。服装から見るに、国政でも重要な役職を担っているように見える。
「サンストリア王国のオスカー王太子殿下、並びにライラ王太子妃殿下、そしてフィニストリア公爵家のレオン公子とジョゼフ公子にご挨拶申し上げます」
「どうぞ顔を上げてくれ。お出迎えいただき恐縮だ」
「遠路はるばる、ようこそルーデンヴァール王国へおいでくださいました。私は宰相のダナン侯爵家当主ジェームズと申します」
「ダナン侯爵、お会いできて光栄だ」
「こちらこそお会いできて光栄です。また王子の留学中に頂いた王室の細やかな心遣いに感謝申し上げます」
侯爵の視線がライラ、そしてレオン、ジョゼフへと移る。フィニストリア公爵家は数代前の戦役の折、ルーデンヴァール王室から姫君を迎え入れて今代まで続いている。それゆえ、ルーデンヴァール王国の王族とフィニストリア公爵家の人間は、往々にして瞳の色が同じであることが多い。もちろん遺伝であるので、赤い瞳を持たない公爵家の者もいるが、三兄妹はしっかりとその瞳を受け継いでいる。
「こうしてルーデンヴァールとサンストリア王国の繋がりが今代まで続いておりますこと、宰相として、またこの国に生きる者として、喜ばしく思います」
厳格な顔つきが少しばかり和らぐ。そうして四人は王城の中へと案内された。
磨き上げられた大理石、輝くシャンデリア。敷かれた赤い絨毯には汚れひとつなく、また忙しなく動き回る使用人たちのお仕着せも上等な生地を使用しているようだ。
「二百年前の戦役で、我が国から姫君が公爵家へ嫁いで以降、ルーデンヴァールとサンストリア王国は他国にはない強い結び付きによって、互いに繁栄を築いてまいりました。この度、サンストリア王家から姫君をお迎え出来たことによって、両国の絆は更に固いものになるでしょう」
「ああ、我々もそうなることを願っているよ。とはいえ、僕らはあの子の婚姻について、あまり政治的な意味を持たせたくないとも思っている」
客間へと案内される道中、宰相の相手はオスカーが受け持った。ライラはオスカーの隣を、そして兄二人は後ろをにこやかに歩いていくだけだ。
ルーデンヴァール王国では、女性が政治の話をすることはあまり良い目では見られないと聞くが、どうやら本当のことであるようだ。宰相はオスカーにばかり会話を投げかけていて、ライラには話を振ろうともしない。
「あの子はウィリアム王太子殿下と相思相愛だからね。王太子殿下もエミリアのことをとても大切にしてくださっている。両人が結婚を望むのなら、僕らは二人を祝福するだけさ。ね、ライラ?」
「そうですわね。あの子にはこの国で幸せになって頂きたく思いますわ。ひいてはそれが、両国の関係強化にも繋がるものと存じます。なにせ両国の架け橋の役割を担ったのは、我が生家フィニストリア家に嫁がれた姫君が最後ですもの。二百年ぶりの輿入れが王族同士の婚姻となれば、ルーデンヴァール王国にとっても国益となるのではございませんこと? これを機に我が国とルーデンヴァール王国間の関税を下げても宜しいかもしれませんわね。両国の往来をもっと盛んに行えるようになれば、景気も更に上向くというものですわ」
「王太子妃殿下は学が深くていらっしゃるのですな」
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですが、学の深さ……頭の良さで言えば、わたくしよりもエミリアのほうが優秀ですわね。帝国の学院を飛び級で卒業しておりますもの。きっとその才で王太子殿下をお支えできるはずですわ」
一部の官僚達はエミリアの台頭をよく思わないだろう。この国において女性の役割は家事の切り盛りだ。それは王室でも変わらず、王妃は後宮の采配が仕事となり、国政に携わることはない。
……おそらく、ウィリアムがエミリアを妃にと望んだのは、その状況を打破したいと考えているからだろう。反発は多いだろうが、エミリアはそれでへこたれるようなヤワな精神の持ち主ではない。むしろ反発があればあるほど燃えるタイプだ。そこは悪役令嬢として選ばれた彼女のタフさが功を奏したと言っていい。
「サンストリア王国では、女性も表舞台に立つことが多いとか」
「お陰様で、我が国は女性の官僚も増えつつあるよ。爵位を娘が継ぐケースも出てきた。とても良い傾向だと思っている。我が国の男女は肩を並べて歩んでいけるということだからね」
「左様ですか。良い国策ですな」
オスカーの笑みは崩れない。それはもちろんライラも、背後の二人もだ。だが流れた空気は歪だった。
王城から渡り廊下を通って別棟へ向かい、階段をいくつか上がって、オスカーとライラはひとつの客間へ案内された。そこは国賓を迎える部屋の中でも二番目の部屋。一番格式の高い部屋は、サンストリア王国の国王夫妻が滞在している。
後で挨拶に行こう、というオスカーに頷き、二人は着替えに入った。この後はルーデンヴァール国王と王妃への謁見となる。移動用の軽やかな作りのドレスから、公務用であるしっかりとした作りのドレスへ着替え、髪型も整えて髪飾りを挿し直す。
ドレスは深紅のAライン。首周りはデコルテが開いた長袖のもので、首飾りのネックレスをつければ完成だ。
「お待たせ致しました、オスカー様」
「それほど待ってはいないよ。うん、やはりライラは赤が似合う」
案内役の騎士に先導され、部屋を出る。謁見の間へと先程来た道を戻り、その間に使用人や官僚達とすれ違う度、彼らは脇に避けて最上の礼で二人を迎えた。こうして見ると、官僚は男性ばかりで、使用人は女性が多い。明確に男女の役割が分かれていることを、効率がいいと一蹴してしまうのは、何かが違う気がする。
サンストリア王国の女性は、自立している人が多い。城下で個人店を営む男女の比率も半分半分だし、城内に出仕する官僚も女性の姿が増えた。毎年の採用試験も受験する女性が年々増えている。
国政を男性だけでやるのは限界がある。子育て支援ひとつにしても、男性の考える子育てと女性の考える子育ては違うものだ。
その壁を、エミリアが打ち壊せるか。前途多難ではあるが、実はライラもオスカーもそれほど心配していない。ウィリアムは細やかな気遣いのできる人物だ。エミリアが塞ぎ込む前にあの手この手で逃げ道を確保しているだろう。
謁見の間のドアが開き、玉座に座る国王と王妃が立ち上がる。最上の礼を見せて玉座の前へと進み、二人は改めて腰を折った。
「ようこそルーデンヴァールへ。オスカー殿下にお会いするのは随分と久方ぶりだな」
「国王陛下に置かれましては、ご機嫌麗しゅう。前回訪問させて頂きましたのは、十三年前になります。大変ご無沙汰しております」
「うむ。お元気そうで何よりだ。して、隣におられる女性が、そなたの伴侶かな」
「ご紹介致します。我が妻のライラです」
オスカーに紹介され、ライラはドレスの左手片方をつまんで、右手を胸に当て挨拶をした。そうして顔を上げた先で、自身と同じ色の瞳を見つめる。
血のように赤い瞳は、ルーデンヴァール王家の特徴だ。これこそ、フィニストリア家とルーデンヴァール王家が、かつて親族関係にあったことを意味する。
「国王陛下並びに王妃殿下にご挨拶申し上げます。サンストリア王国王太子妃、ライラ・サンストリアと申します」
「お初にお目にかかる。そなたの生家はフィニストリア公爵家とのことだな」
「はい。左様でございます。当家とルーデンヴァール王室は、二百年前の戦役の折に婚姻関係を結び、両国の国交の架け橋となりました。この度、その役割を我が義妹エミリアが果たせますこと、嬉しく思いますわ」
あくまで今回の主役はエミリアである。フィニストリア公爵家の話で盛り上がりそうになるが、そこはライラ。さらりと話題の矛先をエミリアへ戻す手腕は見事だ。
「今宵はサンストリア王国からお越しの皆様の為、晩餐会を開く予定だ。それまではどうぞお部屋でお寛ぎを」
「喜んで。ではまた後ほど」
「わたくしも是非、王太子妃殿下とお話したいわ」
「光栄ですわ。わたくしで宜しければ、お話相手にしてくださいまし」
両陛下の前を辞して、二人は謁見の間から立ち去った。背後で扉が閉まる音を聞きながら、オスカーはふと先程の会話を思い返した。
一度だけ会話を振られたライラはともかく、王妃はオスカーと会話をしなかった。したくて出来なかったのではなく、しようとしなかったのだ。
(王妃は意図的に、我々に深く突っ込んだ話をしなかった。首を突っ込みすぎると国政に手を出すことになりかねないと判断したのか?)
王妃の態度の根底にあるのは、おそらくこの国に長く息づいている男女のあり方だ。サンストリア王国が数十年をかけて捨てた常識が、この国には依然として根強く残っている。
もし、これが逆の立場であったなら。すなわち、オスカーとライラが国賓を迎える立場で、先程のような謁見の時間となった場合。
間違いなく、ライラは他国の情勢に触れつつ、当たり障りのない会話から他国の状況を把握する。そうしてオスカーと外交問題について深く議論を交わすだろう。それが出来るだけの知識と思考力をライラは持っている。
王太子妃ライラは、ただオスカーの隣で完璧な微笑みを浮かべるだけの女性ではない。時として大胆不敵に見張りを躱して夜逃げを成功させ、時として完璧な淑女として指先ひとつまで美しく振る舞う。そして時として、恋する少女のように可愛らしい。最後はただの惚気である。
客間へと戻った二人は、ルーデンヴァール王室から側仕えとして配属された侍女達を一度下がらせ、ソファにゆったりと座り込んだ。
「ああ疲れた……」
「一日半の馬車移動も楽ではありませんわね。両陛下が謁見の時間をすぐに切り上げて下さって助かりましたわ」
「本当にね、そこには感謝しているよ。……ああ、ありがとうカトレア」
「御二方ともお疲れのようですので、ミルクを足しております」
「さすがカトレアですわ……」
公爵家が満を持して王太子妃ライラの元へ送り返した侍女は、仕事が出来るだけではなく気遣いの鬼なのだ。ライラとオスカーの表情を見ただけでその時の気分や状態を察知できるのは、並々ならぬ観察眼の賜物である。
出来ればそこに「レオンとジョセフを撃退する」というスキルも追加してほしいものだが、カトレアの雇い主は未だ公爵家であるので難しいかもしれない。クビになったところで、給金を倍にして王家で雇うだけなのだが。
「ライラはこの国を見てどう思った?」
雑談のような軽やかさで、オスカーは国政に繋がる話題を振った。サンストリアでは当然のような光景も、この国では異質なものなのだろうか。
しばらく脳内で意見をまとめ、ライラはゆっくりと口を開いた。
「サンストリアとは、似通った部分もありますけれど……やはり違う国ですわね。特に、女性が政治にまつわることには参加しない、というのは本当のように思いましたわ。女性にも参政権は与えられているようですけれど、宝の持ち腐れですわね」
「そうだね、僕もそれは気になった。王城内の様子を見ただけでも、官僚や行政関係の職務に就く者は男性だ。女性は主に使用人で、男女の職種が明確に分かれている」
「王妃殿下が一言しか発されなかったことも、気にかかりますわね」
「ああ。てっきり、王妃殿下も君の先祖の話に触れると思ったけれど」
「……サンストリア王国は、目に見えない男尊女卑の風潮が未だに根深いと聞いております」
クッキーを並べた皿をテーブルに置いて、カトレアがそう呟いた。カトレアの生家であるシュッツ男爵家の領地は、小さいながらもルーデンヴァール王国の国境と近い。交易路が領内を通ることもあり、宿場町は常にルーデンヴァールの商人とサンストリアの商人で賑わっている。それゆえ、多少なりともカトレアはルーデンヴァールの内部事情に詳しいのだ。
「エミリア王女殿下に国民が望むのも、女性が活躍する社会への手本となる姿だそうで。それを聞いた王女殿下も、ルーデンヴァールでの身の振り方を考えておられるようです」
「……カトレア」
「はい?」
紅茶を飲む手を止め、ライラは自慢の侍女を見上げた。いつでも冷静で表情の機微が少ない彼女は、やはり真顔で小首を傾げている。
「あなた、今日初めてルーデンヴァールへ来たのよね?」
「はい」
「どうしてそこまで王宮内のことにまで精通しているの……?」
「王女殿下付きの侍女達にそれとなく探りを入れておきました」
「仕事が早いわね!? 早すぎてちょっと怖いまであるわよ!? えっ、わたくし声に出して言ったかしら!?」
「お嬢様がそろそろ気になっておられる頃かと思いまして」
「き、気遣いの鬼……!!」
「お褒めにあずかり光栄です」
そっけない答えだが、長年の付き合いが彼女の内心の感情を察していた。ここまで分かりやすく喜ぶことは少ない。こうして見ると、カトレアとリリーは似た者同士のようで対照的な部分もある。……どちらもライラの事が絡むと頭のネジが緩んでしまうという点だけはどうにかしてほしい。ライラの切実な願いである。
「さてライラ、飲んだら隣の部屋に向かおうか。双子が謁見の最中だから、今がチャンスだよ」
「そうですわね、わたくし達が部屋にいると知れば、お兄様達が乱入してきますもの。いやどういうことですのよ本当に。なんで乱入してくるんですのよ。お部屋で大人しくしていてほしいものですわ」
「無理じゃないかなぁ」
「無理でしょうね……」
「望み薄にも程がございませんこと?」
兄達への不満ごと紅茶を飲み干して、ライラは立ち上がった。兄達が謁見の最中である今、国王と王妃の部屋に向かうためだ。あの二人から逃げ回るようで遺憾だが、逃げるという点についてはライラの専売特許である。その気になればあの二人から逃げ切ることも不可能ではない。それこそ夜逃げでも何でも手段であるならやってみせる。
そこまで考えが発展して、ライラは逃走を専売特許だと思っている自分に泣きたくなった。