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血濡れの薔薇

 突然だが、前世の記憶を思い出した。
 頭を打ったはずみでも、何かきっかけとなる事が起きたわけでもなく、唐突にである。
 王侯貴族御用達の国立サンストリア学院、その宿舎で最後の夜を過ごそうとしていた彼女は、大理石で出来た煌びやかな鏡台に手を付いて鏡を覗き込み、絶句した。
「嘘、でしょ……」
 綺麗に伸びたワインレッドのストレートロング、勝ち気な印象を与えるつり目の色は血のような赤。
 間違いない。この容姿には覚えがある。
 前世で散々プレイして全ルートを攻略した乙女ゲーム『サンストリアの輝ける華ブライトブロッサム』、通称サンブラの悪役令嬢――ライラ・フィニストリア公爵令嬢その人だ。
 フィニストリア公爵家は、今から七代前の国王の王弟が興した家系で、約二百年前の戦役時には当時五代目の当主が一騎当千の活躍により国を勝利に導いたとされる。
 その時、公爵家当主は頭から足先まで敵の返り血で真っ赤に染まり、その血が髪の色となり、瞳は悪魔のように赤く光っていたため、その容姿が今の公爵家まで伝わってしまった――らしい。
 そのため、ついた忌み名は『血塗られた公爵家』。
 その血塗られた公爵家の長女がライラであり、社交界での二つ名は「血濡れの薔薇ブラッディローズ」。ここサンストリア王国の第一王子である王太子と幼少の頃に婚約を交わし、そして――学院卒業式後のダンスパーティーで、断罪という名の公開処刑を受ける運命の人。
 ついでに言えば前世の記憶の持ち主の最推しである。イケメンに釣られて始めた乙女ゲームで悪役令嬢の沼に落ちてしまうとは、制作会社も予想外だっただろう。
 罪状は日常における嫌がらせから、暗殺未遂まで様々。ヒロインであるリリー・ブライアン伯爵令嬢へ行った非道な行為の数々を暴露され処断される。
 これがただの伯爵令嬢への行いであれば国外追放で済んだのだが、残念なことにリリーは王太子妃となることも併せて発表され、ライラは『次期王太子妃へ嫌がらせと暗殺未遂を行った反逆者』の烙印を押され、王都の中央広場でギロチンによって首を落とされるのだ。
 ちなみに反逆者を輩出したフィニストリア公爵家は取り潰しにあい断絶。公爵領は王家直轄領に併合され、王家は公爵家が所有権を握っていた金鉱山によって絶大な富を得る――という流れだ。
 以上、ライラ処刑後にテキスト数行分で語られた公爵家の末路である。
「……嘘でしょう!?」
 自身と公爵家の末路までしっかり思い出したライラは絶叫した。何せこの前世の記憶の持ち主も、若くして死んだからだ。死んでも死にきれないような理由で。
「農協のフォークリフトに轢かれて死んだと思ったら、今度は断罪されて民衆の前で公開処刑!? わたくしってどれだけ悪辣なことをしでかしたの!?」
 なんとまぁ身に覚えしかない嫌がらせの数々。今更どう取り繕おうとも無意味な程である。天国の神もこれには救済に匙を投げたことだろう。そこはもう少しどうにか頑張って頂きたかった。
 更に最悪なことに、今夜はその学院卒業式の前夜である。つまりは断罪イベントが明日に控えている。このままいけば確実にライラは命を落とす。
「ど、どうしたらいいのかしら、なにか手立ては……」
 動物園の熊のように広々とした室内をグルグルと歩き回り、そしてライラは再び鏡台に手をついた。
「……よし、逃げるか」
 天下無敵の第二王家、血塗られたフィニストリア公爵家のブラッディローズ。その肩書きは今夜限りだ。ライラ・フィニストリアは今日限りで姿を消す。どうにか潜伏先を見つけた後は、ライラの死亡説をでっち上げて流しておけばいい。森の中で熊に食われたとでも言っておこう。
「そうとなれば準備をしなくてはね!」
 クローゼットを開け放てば、どうぞお逃げ下さいと言わんばかりに庶民の娘が着る質素なワンピースが下がっている。靴も走りやすそうなヒールの低いブーツが一足。格好はこれでいい。
 実家から送られてくるお小遣いという名の大金も、今月分は手を付けずに丸々残っていたのが幸いだ。金貨の入った袋を引っ掴み、ついでに今し方まで身に付けていたり、アクセサリーケースに押し込まれたままになっている、宝石があしらわれた豪華なアクセサリー類も全部鞄に詰め込んだ。
 プライドなどという余計なものは置いていく。大切なのは命、そして金なのだ。
 お付きの侍女はライラが既に就寝していると知っている。これがチャンスだ。
「ごきげんよう、皆様方! どうか探さないでくださいまし!」
 悪役らしいセリフを小声で吐き捨て、ライラは窓を開けた。ここは二階。カーテンをロープ代わりにすれば無傷で着地できる。
 前世でロープの結び方を覚えたその知識が、こんなところで活かされようとは。人生は何があるか分からないとはよく言ったものである。
 鞄を肩から下げ、ロープ代わりのカーテンをベランダへ括りつけ、それを伝って外へ着地。無駄に高いヒールは歩きにくくて仕方なかったが、ヒールのないブーツは軽やかでどこまでも駆けていけそうだ。
 裏口の門はまだ開いている。見張りは衛兵が一人。あの衛兵の視線をほんの一分ほど逸らせることが出来ないものか。
 ライラの手に、ふと木の枝が数本ほど当たった。ええい、とその木の枝を握り締め、まずは一本、衛兵目掛けてぶん投げる。クリーンヒットした木の枝に「誰だ!」と衛兵が反応した。
 チャンスだ! ライラはすかさず、自身と反対方向へ向けて木の枝を投げた。衛兵が音の方向へ向けて駆け出す。その隙を見て、ライラは裏門へ一直線に駆けた。ご丁寧にもう一本、木の枝を遠くに投げて。
 木の枝ごときで持ち場を離れる衛兵など、知恵の回るライラ・フィニストリアの敵ではない。ライラはそのまま、真っ暗な街中を走り抜けた。
 朝になれば郊外の街から乗合の馬車が走り出す。始発の便でどこか遠くへ――出来れば国外へ逃げ切りたい。
 持ってきた外套のフードを被れば、ブラッディローズのトレードマークであるワインレッドの髪が隠れる。完璧だ。問題は、朝までにどうやって街まで向かうかであるが、それも問題ない。
「馬がなければ、連れ出せばいいのよ」
 目の前にはフィニストリア公爵家。なんとまぁ運がいい。門は閉まっていても、馬小屋は門の外。わざわざ侵入せずとも馬は調達できる。
 ぐるりと馬小屋まで回り、ライラは愛馬を連れ出した。黒毛の愛馬は、フードをしていてもそれがライラであると分かるらしく、鼻を寄せてぶるる、と鳴いた。
「よしよし、いい子ね。おいで」
 鞍をつけて手綱を噛ませる。そしてライラは馬に乗り、明かりの消えた街を駆け抜け、王都から姿を消した。
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