01:出会い編
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エトワールが厨房でカモミールティーを淹れていると、彼女の数少ない友人が、慌てて飛んで来た。
「エトワール様! その様な事は、私に! メイドにお任せください!」
「いいえ。私は自分でやりたいの。ありがとうね、アン」
エトワールはニッコリ微笑み、トレイにティーカップを二つと、甘く無い焼菓子を載せて、廊下へ出た。
グレイグの部屋は、ホメロスの部屋と真反対の場所に位置する。
「グレイグ様、エトワールです。少し、お時間宜しいでしょうか?」
すぐに足音が近付いて来た。
「⋯⋯エトワール?」
グレイグは扉を少し開けて、不思議そうに首を傾げた。どうでも良いが、壊滅的にセンスのない部屋着だ。
普段、ホメロスのブラウス姿を見ているエトワールは、思わず顔をしかめてしまった。⋯⋯なんというか、群青色と、辛子色のチェック。
「その寝巻き、何処で買ったのですか?」
「ん? ⋯⋯城下の店で、30ゴールドで売られていた。肩が凝らないから、三枚同じ物を買ったのだが」
「そ⋯⋯そうですか」
エトワールは、もう二度とグレイグの服装について触れない事に決めた。
「あの、少しお話をしたいんです。明日から遠征なので、どうしてもグレイグ様にお伺いしたい事が⋯⋯」
「構わない。入ってくれ」
グレイグは、エトワールを招き入れ、ソファーへ向かった。彼女はグレイグの隣に腰を下ろし、ローテーブルにカップを置いた。
「あの⋯⋯ホメロス様の事なんですが」
エトワールは、慎重に言葉を探した。
「ユグノアの事件の後に、これまでとは変わった様子を見せた事は、ありませんでしょうか?」
「ホメロスが⋯⋯か?」
グレイグは、カップを取って、意外そうな表情を浮かべた。
「⋯⋯いや、特には。どちらかと言えば、陛下の方が⋯⋯。表情が厳しくなられたが、マルティナ姫様を亡くしたのだ。当然の事だ」
「そうですか⋯⋯」
エトワールは、心を落ち着かせる為に、カモミールティーを啜った。
「先日のイシの村で、村民を皆殺しにするとおっしゃいました。ホメロス様は、確かに笑っておられました。まるで、余興を楽しむかの様に。私はその姿に、危うさを感じたのです。ほんの一時ですが、ホメロス様を⋯⋯知性のある魔物の様に思ってしまいました」
「⋯⋯確かに、少しやり過ぎだと思った。⋯⋯エトワール、ショックを受けるやも知れんが、俺の話も聞いてくれるか?」
「はい、勿論です」
エトワールは、真剣な表情で頷いた。グレイグはしばしカップに目を落とし、深呼吸した。
「お前が副官になる前に、ホメロスには身の回りの世話をするメイドと、執務を支える騎士の二人がついていた。しかし、殆どの者が、一月程で解任されている。⋯⋯思えばユグノアの悲劇から、数年経った頃からだろうか。元々真面目だったホメロスが、使用人と関係を持つ様になった。その内一人が、間接的にとはいえ亡くなっている。城を追い出された後に、死産して⋯⋯貧民街で」
「⋯⋯っ」
エトワールは、顔色を失って震えた。彼女が副官に任命されてから、ホメロスの寝室に使用人が入る事などなかったし、彼女自身酷い扱いを受けた事は無かったからだ。
「本当に⋯⋯?」
「ああ。あいつなりに、ストレスを溜め込んでいたのかも知れん。俺には何も話してはくれない。だからこそ、聡いお前を推薦した。⋯⋯友として、あまりに無責任かも知れない。だが、頼む。ホメロスは、お前を信頼している。支えてやってくれ」
グレイグは、深々と頭を下げた。エトワールは、頷くより他に無かった。
「出来る限りの事は、します」
彼女がそう答えた時、背後でバサリと音がした。振り返ると本が落ちていた。
「グレイグ様、本が──」
エトワールが立ち上がり、拾いに駆け寄ろうとした瞬間、グレイグが慌てて立ち上がり、彼女の肩を引っ張った。
「あっ!!」
エトワールはバランスを崩し、よろめいた後、後ろに倒れてしまった。寸手の所でグレイグが背後から抱きとめ、二人一緒に床に倒れた。
その時、突然扉が開いた。
「グレイグ。明日からの任務──」
ホメロスが、羊皮紙を手に立ち尽くしていた。彼はグレイグの顔とエトワールの顔を見て、眉間に皺を刻んだ。
「邪魔をしたか」
「いいえ! 私はもう、部屋へ戻りますから──」
慌てて立ち上がったエトワールに、ホメロスは歩み寄り、右手を伸ばした。片手で容易く首を掴み、締め上げる。
「っ?! ⋯⋯っ」
エトワールは、ホメロスの腕からは想像も付かない力に、震え上がった。
「ホメロス、何をしている!!」
グレイグが二人の間に割って入った。
「かっ⋯⋯」
エトワールは、涙目になり、首を押さえて床に崩れた。激しくむせ返り、冷や汗を流して呼吸を荒げた。
ホメロスは、怒れるグレイグを前にしても、一切怯まずに鼻で笑った。
「お前の趣味は、金髪の美女だと思っていたが、好みが変わったのか? それとも、結局は女であれば誰でも構わんのか」
「誤解だ、ホメロス! 少し話をしていただけだ」
「あの体勢でか?」
「違うんです⋯⋯ホメロス様!」
エトワールは喉を押さえながら、声を振り絞った。
「本を拾おうとして、私が転んでしまって⋯⋯。グレイグ様が支えてくださったのです!」
彼女は、少し離れた場所に落ちていた本を指した。グレイグは深い溜息を吐いた。
「その⋯⋯アレだ。見られたく無かったもので、背後から肩を引っ張って、転ばせてしまった」
ホメロスは友人の言葉を聞いて、本を手に取った。ようやく、その表紙がエトワールの目にも入った。どう見ても成人向けの冊子だ。
「⋯⋯納得した」
彼は白い目をグレイグに向けた。エトワールもまた、唖然と口を半開きにしてしまった。
まさか、真面目で落ち着いた様子のグレイグに、そんな趣味があったとは、思いもしなかったのだ。
「うわー」
ウッカリ口から言葉が飛び出し、エトワールは慌てて口を覆った。
「も⋯⋯申し訳御座いません! つい本音が⋯⋯あ」
「エトワール、悪かった」
ホメロスは、そっと彼女の首に手を当てた。
「痛みは? 念のため回復呪文を掛けた方が良い。私が出来れば、唱えてやりたいんだが⋯⋯」
「それなら、俺が──」
言い掛けたグレイグは、思わず口を噤んだ。これまで見た事がない程、醜悪な表情で、ホメロスが睨んで来たからだ。
「いや⋯⋯エトワールなら、自分でなんとか出来るだろう! それかシスターを呼びに──」
「大丈夫です」
エトワールは、涙目になって、自分の首に手を当てた。どう考えても、頸髄を痛めている。
「ホメロス様、私を殺すおつもりでしたか?」
彼女は立ち上がりながら、文句を言った。
「私が回復呪文を使えなければ、死んでいたかも知れません」
「殺したいほど、腹が立ったのは確かだ」
ホメロスは悪びれもせずに答え、エトワールの手首を掴んだ。
「用事が済んだのなら、私の部屋に来い。話がある」
「はい! あ、でも、カップを片付けないと」
「俺が下げる。⋯⋯ホメロスを頼む」
グレイグは、少し頭を下げて目を閉じた。ホメロスはついでと言わんばかりに、羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「仕事だ。重要な物から順にリストアップしておいた。オレが戻るまでに片付けておけ」
そう言うと、彼は、もの凄い力でエトワールを引っ張り、半ば引き摺る様にして廊下を進んだ。
「ホ⋯⋯ホメロス様っ! どうしたのですか?!」
しかし、彼は答えなかった。そのまま私室にエトワールを連れ込み、内側から鍵を掛け、彼女をベッドに押し飛ばした。
倒れ込んだエトワールの両肩を縫い止める様に抑え、覆い被さって胸元に唇を寄せた。
「こんな時間に男の部屋に入るとは、随分と不用心だな! 何をされても、文句は言えぬぞ!!」
ホメロスは、エトワールの細い首筋に舌を這わせた。
「あっ⋯⋯何を──」
「意外と良い声で啼くものだ。気に入った」
彼は胸元に唇を滑らせ、吸い上げた。鬱血痕が刻まれて行く。
「ホメロス様?! うっ⋯⋯あ」
「ちゃんと女の顔も出来るではないか。今度はこちらだ」
ホメロスは、エトワールの唇を奪い、両手で彼女の頬を包み込み、舌を絡ませた。あえて水音を立て、羞恥を煽る。
「んーっ! っ⋯⋯」
エトワールは、背中を反らせ、ホメロスの両肩を掴んで逃れようとした。彼女の浮いた腰に、ホメロスは腕を回して抱き起こした。
「⋯⋯っ!! ⋯⋯っあ!! はぁ⋯⋯」
ようやく口が自由になり、エトワールは顔を赤く染めたまま、荒い呼吸を繰り返した。まるで何百メートルも全力疾走した後の様に、全身が怠く、心臓が悲鳴を上げている。
「ホメロス⋯⋯様⋯⋯」
「安心しろ。冗談で済まされない女は、抱かない主義だ」
彼は無意識に、名残惜しそうにエトワールの頬を撫で、再び彼女の腕を掴んだ。
「だが、こんな時間にデルカダール両将軍の部屋を往き来するとは、大した女だ。両方に取り入ろうとするとは⋯⋯」
「私、そんなつもりはありません! 本当に、ただお話をしていただけです!!」
「罰を与えねば」
ホメロスは冷たい笑みを浮かべ、エトワールを無理矢理立たせると、今度は彼女を椅子に座らせた。
「目を閉じていろ」
「え?」
「二度言わせるな」
ホメロスの有無を言わせぬ口調に、エトワールは従わざるを得なかった。真っ暗闇の中、足音が遠ざかり、そしてまた近付いて来た。
ホメロスの手が、エトワールの顔の輪郭に添えられる。次の瞬間。
「きゃっ!!」
右耳に激痛が奔った。驚いて目を開ける至近距離にホメロスの顔があった。
「これを」
ホメロスは、エトワールの右耳に、黒曜石のピアスをつけた。
「これで、変な虫も寄っては来ないだろう。もう少し慎重に行動しろ!」
「うっ⋯⋯。でも、ホメロス様!!」
エトワールは涙目になっていたが、それでも気の強そうな表情で顔を上げた。
「さっきから、何故いきなり暴力を振るうのですか?! そんなに私の事がお嫌いでしたら、解任してください!!」
こうして、思った事を臆さず口にするのも、ホメロスがエトワールに一目置いている理由の一つだ。彼女は、何時でも、自分の“正しさ”を忘れずに生きている。
対するホメロスは、思わぬ反撃に戸惑っていた。決してエトワールを嫌っているわけではない。それなのに、何故怒りの感情が湧き上がって来たのか。
(嘘だ⋯⋯)
彼は戸惑っていた。何時の間にか、目の前の部下を女として見ていたのだ。そう結論付けた瞬間、カッと顔が赤くなるのを感じた。
「エトワール、オレは⋯⋯その⋯⋯いや、すまない。ただ、衝動的に動いていた」
「何故です?」
「お前⋯⋯お前の髪が好きなんだ!」
苦し紛れの言い訳に、エトワールは目を丸くした。
「か⋯⋯髪? 髪ですか。それでどうして──」
「他の男に触らせるな! 見ているとイライラする!! いや、髪だけでは無い。その顔も、胸も、全身、上官である私のものだ!!」
「私は私のものです、ホメロス様! 無茶を言わないでください!!」
「何時もの様に黙って従え!! 明日も早い。サッサと部屋に戻れ!!」
「言ってる事が支離滅裂ですよ!!」
エトワールは、これ以上議論の余地がないと判断し、席を立った。
「おやすみなさい、ホメロス様」
彼女は扉に向かいながら、振り返らずに呟いた。
部屋を出てすぐに、エトワールはその場に座り込んでしまった。
(あれは、嫉妬? ホメロス様が?)
甘い考えが脳裏をよぎる。自分だけは、特別なのでは無いかと。これまでクビになって来たメイドや副官とは違い、自分だけは心の底から大切に思われているのでは無いかと、錯覚しそうになった。
(違う! 現実を見なければ!)
ホメロスの隣という居場所を失う事が怖かった。だから、彼女は干渉されるのを嫌うホメロスに、必要以上の愛情を向ける事が出来なかった。
「気まぐれよ」
そう自分に言い聞かせ、歩き始める。彼女は女としての感情を抱く事を拒否した。しかし、それはとても苦しい決断だった。
(ホメロス様⋯⋯。ホメロス様)
湧き上がる気持ちを、抑えようがなかった。
(もし、勇者が悪魔の子では無かったら? 私はホメロス様を裏切るの? 私が離れても、誰かがあの人を守ってくれる? ⋯⋯違う! 重要なのは、そんな事じゃない)
エトワールは頭を抱えた。
「誰が、ホメロス様の過ちを正せるの?」
彼女は、グレイグに対する、強い苛立ちを覚えながら、歩みを進めた。本来なら、ホメロスの幼馴染であるグレイグが⋯⋯ホメロスと同じ地位にいるグレイグこそが、対等の友人として嗜める役割を担うべきだ。
それなのに、グレイグは全てを、一回りも年下のエトワールに丸投げしたのだ。
ホメロスが本当に必要としているのは、情人でも、優秀な部下でも無く、友人だ。側から見ていても、それが分かる。彼は多くの人間に尊敬されているが、その実孤独で愛に飢えている。
だからこそ、自分の思う通りの関係が作れなくても、何度も何度も新しい使用人や副官を側に置きたがるのだ。
(私では足りない。私は、ホメロス様の一番では無い⋯⋯。どうしたら⋯⋯)
状況はすこぶる良くない。ホメロスは、イシの村人達を皆殺しにする事を、楽しみに思っていた。その姿から、彼の精神状態が異常に傾きつつある事は、明白だった。しかし、今ならまだ間に合う。
だが、彼をどうにか出来そうな人間が、一人もいない。
(陛下は⋯⋯今の段階では信用出来ない。グレイグ様は、何か事が起きるまで動いてはくれないでしょうね。これは、最悪)
ホメロスを、自ら手に掛ける羽目になるかも知れない。エトワールは、最悪の結末を思い描きながら、厨房へ足を踏み入れた。
アンがテーブルに突っ伏して、寝息を立てていた。髪が少し乱れており、表情からは疲労を感じた。それでも、エトワールはやるべき事をすべて片付けるために、彼女の肩をポンポンと叩いた。
「アン⋯⋯アン、起きて」
「んー⋯⋯ふわぁ⋯⋯朝ご飯ならまだ──」
アンは顔を上げて凍り付いた。サーっと血の気を失い、立ち上がる。
「エトワール様!! 血が!! 血が出ています!!」
「え? ⋯⋯あ」
エトワールは、白いローブの右肩に、血が染み付いている事に気が付いた。
「大丈夫。これなら気にしないで──」
「気にします!! すぐに薬箱を──」
「大丈夫だから! ピアスの穴を開けた時に、ちょっと付いちゃっただけ!! それより頼みたい事があるんだけど」
「はい! 何でもお手伝いします!」
アンはピシッと胸を張った。エトワールは、月光の様に、柔らかに微笑んだ。
「余っている食べ物があったら、あるだけ分けてくれない?」
「ご用意します。お待ちください」
「エトワール様! その様な事は、私に! メイドにお任せください!」
「いいえ。私は自分でやりたいの。ありがとうね、アン」
エトワールはニッコリ微笑み、トレイにティーカップを二つと、甘く無い焼菓子を載せて、廊下へ出た。
グレイグの部屋は、ホメロスの部屋と真反対の場所に位置する。
「グレイグ様、エトワールです。少し、お時間宜しいでしょうか?」
すぐに足音が近付いて来た。
「⋯⋯エトワール?」
グレイグは扉を少し開けて、不思議そうに首を傾げた。どうでも良いが、壊滅的にセンスのない部屋着だ。
普段、ホメロスのブラウス姿を見ているエトワールは、思わず顔をしかめてしまった。⋯⋯なんというか、群青色と、辛子色のチェック。
「その寝巻き、何処で買ったのですか?」
「ん? ⋯⋯城下の店で、30ゴールドで売られていた。肩が凝らないから、三枚同じ物を買ったのだが」
「そ⋯⋯そうですか」
エトワールは、もう二度とグレイグの服装について触れない事に決めた。
「あの、少しお話をしたいんです。明日から遠征なので、どうしてもグレイグ様にお伺いしたい事が⋯⋯」
「構わない。入ってくれ」
グレイグは、エトワールを招き入れ、ソファーへ向かった。彼女はグレイグの隣に腰を下ろし、ローテーブルにカップを置いた。
「あの⋯⋯ホメロス様の事なんですが」
エトワールは、慎重に言葉を探した。
「ユグノアの事件の後に、これまでとは変わった様子を見せた事は、ありませんでしょうか?」
「ホメロスが⋯⋯か?」
グレイグは、カップを取って、意外そうな表情を浮かべた。
「⋯⋯いや、特には。どちらかと言えば、陛下の方が⋯⋯。表情が厳しくなられたが、マルティナ姫様を亡くしたのだ。当然の事だ」
「そうですか⋯⋯」
エトワールは、心を落ち着かせる為に、カモミールティーを啜った。
「先日のイシの村で、村民を皆殺しにするとおっしゃいました。ホメロス様は、確かに笑っておられました。まるで、余興を楽しむかの様に。私はその姿に、危うさを感じたのです。ほんの一時ですが、ホメロス様を⋯⋯知性のある魔物の様に思ってしまいました」
「⋯⋯確かに、少しやり過ぎだと思った。⋯⋯エトワール、ショックを受けるやも知れんが、俺の話も聞いてくれるか?」
「はい、勿論です」
エトワールは、真剣な表情で頷いた。グレイグはしばしカップに目を落とし、深呼吸した。
「お前が副官になる前に、ホメロスには身の回りの世話をするメイドと、執務を支える騎士の二人がついていた。しかし、殆どの者が、一月程で解任されている。⋯⋯思えばユグノアの悲劇から、数年経った頃からだろうか。元々真面目だったホメロスが、使用人と関係を持つ様になった。その内一人が、間接的にとはいえ亡くなっている。城を追い出された後に、死産して⋯⋯貧民街で」
「⋯⋯っ」
エトワールは、顔色を失って震えた。彼女が副官に任命されてから、ホメロスの寝室に使用人が入る事などなかったし、彼女自身酷い扱いを受けた事は無かったからだ。
「本当に⋯⋯?」
「ああ。あいつなりに、ストレスを溜め込んでいたのかも知れん。俺には何も話してはくれない。だからこそ、聡いお前を推薦した。⋯⋯友として、あまりに無責任かも知れない。だが、頼む。ホメロスは、お前を信頼している。支えてやってくれ」
グレイグは、深々と頭を下げた。エトワールは、頷くより他に無かった。
「出来る限りの事は、します」
彼女がそう答えた時、背後でバサリと音がした。振り返ると本が落ちていた。
「グレイグ様、本が──」
エトワールが立ち上がり、拾いに駆け寄ろうとした瞬間、グレイグが慌てて立ち上がり、彼女の肩を引っ張った。
「あっ!!」
エトワールはバランスを崩し、よろめいた後、後ろに倒れてしまった。寸手の所でグレイグが背後から抱きとめ、二人一緒に床に倒れた。
その時、突然扉が開いた。
「グレイグ。明日からの任務──」
ホメロスが、羊皮紙を手に立ち尽くしていた。彼はグレイグの顔とエトワールの顔を見て、眉間に皺を刻んだ。
「邪魔をしたか」
「いいえ! 私はもう、部屋へ戻りますから──」
慌てて立ち上がったエトワールに、ホメロスは歩み寄り、右手を伸ばした。片手で容易く首を掴み、締め上げる。
「っ?! ⋯⋯っ」
エトワールは、ホメロスの腕からは想像も付かない力に、震え上がった。
「ホメロス、何をしている!!」
グレイグが二人の間に割って入った。
「かっ⋯⋯」
エトワールは、涙目になり、首を押さえて床に崩れた。激しくむせ返り、冷や汗を流して呼吸を荒げた。
ホメロスは、怒れるグレイグを前にしても、一切怯まずに鼻で笑った。
「お前の趣味は、金髪の美女だと思っていたが、好みが変わったのか? それとも、結局は女であれば誰でも構わんのか」
「誤解だ、ホメロス! 少し話をしていただけだ」
「あの体勢でか?」
「違うんです⋯⋯ホメロス様!」
エトワールは喉を押さえながら、声を振り絞った。
「本を拾おうとして、私が転んでしまって⋯⋯。グレイグ様が支えてくださったのです!」
彼女は、少し離れた場所に落ちていた本を指した。グレイグは深い溜息を吐いた。
「その⋯⋯アレだ。見られたく無かったもので、背後から肩を引っ張って、転ばせてしまった」
ホメロスは友人の言葉を聞いて、本を手に取った。ようやく、その表紙がエトワールの目にも入った。どう見ても成人向けの冊子だ。
「⋯⋯納得した」
彼は白い目をグレイグに向けた。エトワールもまた、唖然と口を半開きにしてしまった。
まさか、真面目で落ち着いた様子のグレイグに、そんな趣味があったとは、思いもしなかったのだ。
「うわー」
ウッカリ口から言葉が飛び出し、エトワールは慌てて口を覆った。
「も⋯⋯申し訳御座いません! つい本音が⋯⋯あ」
「エトワール、悪かった」
ホメロスは、そっと彼女の首に手を当てた。
「痛みは? 念のため回復呪文を掛けた方が良い。私が出来れば、唱えてやりたいんだが⋯⋯」
「それなら、俺が──」
言い掛けたグレイグは、思わず口を噤んだ。これまで見た事がない程、醜悪な表情で、ホメロスが睨んで来たからだ。
「いや⋯⋯エトワールなら、自分でなんとか出来るだろう! それかシスターを呼びに──」
「大丈夫です」
エトワールは、涙目になって、自分の首に手を当てた。どう考えても、頸髄を痛めている。
「ホメロス様、私を殺すおつもりでしたか?」
彼女は立ち上がりながら、文句を言った。
「私が回復呪文を使えなければ、死んでいたかも知れません」
「殺したいほど、腹が立ったのは確かだ」
ホメロスは悪びれもせずに答え、エトワールの手首を掴んだ。
「用事が済んだのなら、私の部屋に来い。話がある」
「はい! あ、でも、カップを片付けないと」
「俺が下げる。⋯⋯ホメロスを頼む」
グレイグは、少し頭を下げて目を閉じた。ホメロスはついでと言わんばかりに、羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「仕事だ。重要な物から順にリストアップしておいた。オレが戻るまでに片付けておけ」
そう言うと、彼は、もの凄い力でエトワールを引っ張り、半ば引き摺る様にして廊下を進んだ。
「ホ⋯⋯ホメロス様っ! どうしたのですか?!」
しかし、彼は答えなかった。そのまま私室にエトワールを連れ込み、内側から鍵を掛け、彼女をベッドに押し飛ばした。
倒れ込んだエトワールの両肩を縫い止める様に抑え、覆い被さって胸元に唇を寄せた。
「こんな時間に男の部屋に入るとは、随分と不用心だな! 何をされても、文句は言えぬぞ!!」
ホメロスは、エトワールの細い首筋に舌を這わせた。
「あっ⋯⋯何を──」
「意外と良い声で啼くものだ。気に入った」
彼は胸元に唇を滑らせ、吸い上げた。鬱血痕が刻まれて行く。
「ホメロス様?! うっ⋯⋯あ」
「ちゃんと女の顔も出来るではないか。今度はこちらだ」
ホメロスは、エトワールの唇を奪い、両手で彼女の頬を包み込み、舌を絡ませた。あえて水音を立て、羞恥を煽る。
「んーっ! っ⋯⋯」
エトワールは、背中を反らせ、ホメロスの両肩を掴んで逃れようとした。彼女の浮いた腰に、ホメロスは腕を回して抱き起こした。
「⋯⋯っ!! ⋯⋯っあ!! はぁ⋯⋯」
ようやく口が自由になり、エトワールは顔を赤く染めたまま、荒い呼吸を繰り返した。まるで何百メートルも全力疾走した後の様に、全身が怠く、心臓が悲鳴を上げている。
「ホメロス⋯⋯様⋯⋯」
「安心しろ。冗談で済まされない女は、抱かない主義だ」
彼は無意識に、名残惜しそうにエトワールの頬を撫で、再び彼女の腕を掴んだ。
「だが、こんな時間にデルカダール両将軍の部屋を往き来するとは、大した女だ。両方に取り入ろうとするとは⋯⋯」
「私、そんなつもりはありません! 本当に、ただお話をしていただけです!!」
「罰を与えねば」
ホメロスは冷たい笑みを浮かべ、エトワールを無理矢理立たせると、今度は彼女を椅子に座らせた。
「目を閉じていろ」
「え?」
「二度言わせるな」
ホメロスの有無を言わせぬ口調に、エトワールは従わざるを得なかった。真っ暗闇の中、足音が遠ざかり、そしてまた近付いて来た。
ホメロスの手が、エトワールの顔の輪郭に添えられる。次の瞬間。
「きゃっ!!」
右耳に激痛が奔った。驚いて目を開ける至近距離にホメロスの顔があった。
「これを」
ホメロスは、エトワールの右耳に、黒曜石のピアスをつけた。
「これで、変な虫も寄っては来ないだろう。もう少し慎重に行動しろ!」
「うっ⋯⋯。でも、ホメロス様!!」
エトワールは涙目になっていたが、それでも気の強そうな表情で顔を上げた。
「さっきから、何故いきなり暴力を振るうのですか?! そんなに私の事がお嫌いでしたら、解任してください!!」
こうして、思った事を臆さず口にするのも、ホメロスがエトワールに一目置いている理由の一つだ。彼女は、何時でも、自分の“正しさ”を忘れずに生きている。
対するホメロスは、思わぬ反撃に戸惑っていた。決してエトワールを嫌っているわけではない。それなのに、何故怒りの感情が湧き上がって来たのか。
(嘘だ⋯⋯)
彼は戸惑っていた。何時の間にか、目の前の部下を女として見ていたのだ。そう結論付けた瞬間、カッと顔が赤くなるのを感じた。
「エトワール、オレは⋯⋯その⋯⋯いや、すまない。ただ、衝動的に動いていた」
「何故です?」
「お前⋯⋯お前の髪が好きなんだ!」
苦し紛れの言い訳に、エトワールは目を丸くした。
「か⋯⋯髪? 髪ですか。それでどうして──」
「他の男に触らせるな! 見ているとイライラする!! いや、髪だけでは無い。その顔も、胸も、全身、上官である私のものだ!!」
「私は私のものです、ホメロス様! 無茶を言わないでください!!」
「何時もの様に黙って従え!! 明日も早い。サッサと部屋に戻れ!!」
「言ってる事が支離滅裂ですよ!!」
エトワールは、これ以上議論の余地がないと判断し、席を立った。
「おやすみなさい、ホメロス様」
彼女は扉に向かいながら、振り返らずに呟いた。
部屋を出てすぐに、エトワールはその場に座り込んでしまった。
(あれは、嫉妬? ホメロス様が?)
甘い考えが脳裏をよぎる。自分だけは、特別なのでは無いかと。これまでクビになって来たメイドや副官とは違い、自分だけは心の底から大切に思われているのでは無いかと、錯覚しそうになった。
(違う! 現実を見なければ!)
ホメロスの隣という居場所を失う事が怖かった。だから、彼女は干渉されるのを嫌うホメロスに、必要以上の愛情を向ける事が出来なかった。
「気まぐれよ」
そう自分に言い聞かせ、歩き始める。彼女は女としての感情を抱く事を拒否した。しかし、それはとても苦しい決断だった。
(ホメロス様⋯⋯。ホメロス様)
湧き上がる気持ちを、抑えようがなかった。
(もし、勇者が悪魔の子では無かったら? 私はホメロス様を裏切るの? 私が離れても、誰かがあの人を守ってくれる? ⋯⋯違う! 重要なのは、そんな事じゃない)
エトワールは頭を抱えた。
「誰が、ホメロス様の過ちを正せるの?」
彼女は、グレイグに対する、強い苛立ちを覚えながら、歩みを進めた。本来なら、ホメロスの幼馴染であるグレイグが⋯⋯ホメロスと同じ地位にいるグレイグこそが、対等の友人として嗜める役割を担うべきだ。
それなのに、グレイグは全てを、一回りも年下のエトワールに丸投げしたのだ。
ホメロスが本当に必要としているのは、情人でも、優秀な部下でも無く、友人だ。側から見ていても、それが分かる。彼は多くの人間に尊敬されているが、その実孤独で愛に飢えている。
だからこそ、自分の思う通りの関係が作れなくても、何度も何度も新しい使用人や副官を側に置きたがるのだ。
(私では足りない。私は、ホメロス様の一番では無い⋯⋯。どうしたら⋯⋯)
状況はすこぶる良くない。ホメロスは、イシの村人達を皆殺しにする事を、楽しみに思っていた。その姿から、彼の精神状態が異常に傾きつつある事は、明白だった。しかし、今ならまだ間に合う。
だが、彼をどうにか出来そうな人間が、一人もいない。
(陛下は⋯⋯今の段階では信用出来ない。グレイグ様は、何か事が起きるまで動いてはくれないでしょうね。これは、最悪)
ホメロスを、自ら手に掛ける羽目になるかも知れない。エトワールは、最悪の結末を思い描きながら、厨房へ足を踏み入れた。
アンがテーブルに突っ伏して、寝息を立てていた。髪が少し乱れており、表情からは疲労を感じた。それでも、エトワールはやるべき事をすべて片付けるために、彼女の肩をポンポンと叩いた。
「アン⋯⋯アン、起きて」
「んー⋯⋯ふわぁ⋯⋯朝ご飯ならまだ──」
アンは顔を上げて凍り付いた。サーっと血の気を失い、立ち上がる。
「エトワール様!! 血が!! 血が出ています!!」
「え? ⋯⋯あ」
エトワールは、白いローブの右肩に、血が染み付いている事に気が付いた。
「大丈夫。これなら気にしないで──」
「気にします!! すぐに薬箱を──」
「大丈夫だから! ピアスの穴を開けた時に、ちょっと付いちゃっただけ!! それより頼みたい事があるんだけど」
「はい! 何でもお手伝いします!」
アンはピシッと胸を張った。エトワールは、月光の様に、柔らかに微笑んだ。
「余っている食べ物があったら、あるだけ分けてくれない?」
「ご用意します。お待ちください」