01:出会い編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
エトワールが望んだ事は、”散歩”だった。ホメロスは、何が何だか分からぬ内に、プライベートでは久方ぶりに城の外へ出た。
日差しが眩しく、すぐそこまでやって来た夏を感じた。
「良いお天気ですね」
エトワールは、ニコリと笑って先導した。二人はぎこちない距離を取ったまま、大通りへ出た。
すると、すぐに目敏い子供がホメロスの姿を見付けて歓声を上げた。
「ホメロス様だ!!」
その声は、周囲の人々にたちまち伝染し、あっという間に二人は民に囲まれていた。
「ホメロス様!」
「将軍様!!」
「軍士様!!」
取り分け女性が、こぞって詰め掛けた。ホメロスは、突然の事に言葉が出なかった。今、彼が目にしている光景は、彼が何より望んだものだ。
「ホメロス様。何か言葉を」
エトワールが囁いた。ホメロスは、内心かなり緊張しながらも、不遜な笑みを浮かべて手を広げた。
「デルカダールの知将ホメロスだ。皆の声援、しかと受け取った。必ずや、この世界に不穏をもたらす、悪魔の子を捕らえてみせよう!皆、不安だろうが、しばしの間堪えて欲しい」
「勿論です、ホメロス様!」
少年が、頬を上気させて熱っぽく答えた。ホメロスは少し微笑んで、後ずさった。代わりにエトワールが前へ出て、ニコリと笑う。
「さあ、ホメロス様は休日を楽しみたいのです。今日の所は、どうかこの辺で」
「貴女は!! 貴女が軍士殿の副官の?!」
若い男が右手を差し出した。
「エリオです!! お目にかかれて光栄です!」
「エトワールです。私も、貴方と出会えて嬉しいです」
「そんな、勿体ないお言葉⋯⋯。俺も騎士になろうと考えていましたが、たった今、なると決めました!!」
「騎士になっても、この女と接点を持てるわけでは無いぞ」
すこぶる不機嫌な声色で、ホメロスが割って入った。彼は、エトワールの肩に手を置き、自分の方に引き寄せた。
「ホメロスの副官だ。私の為に忙殺されている」
「そんなに忙しくは感じませんよ」
すかさず、エトワールは主張した。そして、エリオに歩み寄る。
「待っています。貴方がこの国を愛する、勇敢な騎士になれる日を」
「エトワール様⋯⋯!」
エリオは感極まって、ぼうっとした表情で呟いた。周囲の人々も、感嘆の声をあげる。
「さあ、行きましょう、ホメロス様」
エトワールは、ホメロスを振り返って優しく微笑んだ。彼は無言で頷き、エトワールの背を追った。
多くの人が、行き交う。街自体が生きている様に、輝いている。
「ホメロス様。偶に外を歩くと、気分が良くなりませんか?」
「⋯⋯ああ」
ホメロスは、鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。自分に向けられた、尊敬や羨望の瞳。
しかし、もう手遅れだった。彼は堪え難い劣等感から、恐ろしい道を選んでしまった。派手に武功を挙げて、拍手と賞賛を手に入れるグレイグに嫉妬し、恐ろしい道を選んでしまったのだ。
デルカダール王は、魔王と呼ばれる者に取り憑かれ、操られている。ホメロスは、そのウルノーガに魂を売った。
グレイグよりも、自分を評価してくれる存在に。
やがてウルノーガが、強大な力を手にし、世界を統べれば、其処彼処に魔物が跋扈し、人は衰退の道へと追いやられる。
それ以前に、大樹の力を魔王が得れば、その瞬間に多くの命が奪われるだろう。エトワールの命も。
「エトワール!」
ホメロスは衝動的に、彼女を背後から抱き竦めた。
「⋯⋯っ」
エトワールは驚き過ぎて、振り向く事すら出来ずに、体を強張らせた。
「⋯⋯ホメロス様? ⋯⋯震えていらっしゃいますね?! 身体の具合が悪いのでは──」
「違う!」
ホメロスは慌てて否定し、けれどエトワールを手放せずにそのままの姿勢で唇を噛んだ。
(ウルノーガ様に頼めば、こいつだけでも助けては貰えぬだろうか? 勇者を始末すれば、そのくらいの見返りはあっても良いはずだ! 何が何でも、あのドブネズミ共を捕らえなくては!!!)
彼は、自分自身の心に、思考が追いついていなかった。何故、今腕の中にいる女を守りたいのか、その理由が分からなかった。分からぬまま、彼は道を定める。
「⋯⋯悪魔の子を⋯⋯早く捕らえなくてはならないな」
「そうですね」
エトワールは、そっとホメロスの腕を解き、振り返った。
「一刻も早く、民の不安を拭わなくては。ですが、ホメロス様。今はその事を忘れてくださいませんか? 今だけは、休暇を楽しみましょう」
彼女はホメロスの手を取って、歩き出した。
大通りは実に賑やかだ。大勢の人が行き交い、露店では商人が大声で宣伝文句を叫んでいる。リュートから響く、星屑の様な音色。音楽に合わせて、華麗に舞う踊り子。
「ハーイ、お姉さん! 貴女も楽しまないとね!」
露出の多い服を纏った彼女は、エトワールの手を取った。
「ごめんなさい、踊りはからっきしなの。でも、歌なら歌えるわ!」
エトワールがそう答えると、リュートを持った男が、デルカダールに古くから伝わる、円舞曲を奏で始めた。
“嗚呼⋯⋯大空へ舞う鳥よ、私の想いを届けておくれ”
美しい歌声が響き渡り、囲んでいた街人たちは、感嘆の声を上げた。エトワールの歌は、ホメロスの胸にも深く染み渡り、感動を呼んだ。
“嗚呼⋯⋯芽吹く時も、散る時も、貴方と共にありたい”
一曲歌い上げると、大きな拍手が沸き起こった。
エトワールは、ほんのり頬を赤らめ、何人かの民と握手を交わして、ホメロスの元へ飛び込んだ。
「ホメロス様。この国の民は、なんと美しいものだと思いませんか? 民は歌い、踊り、手を取り合い、人を愛して、常に幸せを求めて生きているのです。⋯⋯私は、貴方にこの光景を贈りたかったのです。偶には外の世界へ出るのも、悪くは無いと思いませんか?」
「⋯⋯ああ」
ホメロスが目を伏せて応えると同時に、ポタリと足元に雫が落ちた。雨だ。
「雨よ!」
踊り子が声を上げた。けれど、沈んだ声色では無い。
「雨だーっ!!」
「ヤバいぞ!!帰らないと!!」
「わーい!!冷たい!!」
皆、何処か面白がっている様だ。
「ホメロス様。私たちも移動しましょう!」
エトワールは、ホメロスの手を掴んで、走り出した。裏通りに入り、薄暗い雰囲気の酒場に駆け込んだ。
「おや?」
壮年のマスターが驚いた様子で顔をあげた。店内に客はいない。
「今日は随分と早いのですね」
「休暇だったんです。お邪魔しますね」
エトワールは、カウンター席に腰掛け、身を乗り出した。
「シャンパンを二つ。それから、ビーフシチューとバケットを二人分」
「かしこまりました」
マスターは、チラリとホメロスを見たが、彼が誰であるか、問いただす事は無かった。
「あの、申し訳ございません」
エトワールは、思い出した様にホメロスに頭を下げた。
「急に此処へ引っ張り込んでしまって⋯⋯。でも、ビーフシチューが、とても美味しいんです!」
「構わない。私が付き合うと言ったのだ。⋯⋯それに」
ホメロスは声を殺して笑った。
「⋯⋯副官殿の、意外な一面を知れた。まるで小動物の様に怯えている。普段の姿からは想像も付かないな」
彼は縺れたエトワールの髪を掬い上げ、丁寧に解いた。
「この店には、よく来ているのか?」
「は⋯⋯はい! 週に一度は」
「一人で?」
「はい」
「不用心だな」
ホメロスは、エトワールの頭に手を置いた。
「普通、妙齢の女性は、酒場に一人で来ようなどとは思わ──?!」
物凄い勢いで、ジョッキが飛んで来た。それは、ホメロスとエトワールの間を通り抜け、向こうの壁に激突して、粉々になってしまった。
二人がギクシャクとカウンターの中へ視線を送ると、涼しげな表情でマスターが新しいジョッキを磨いていた。
「マスターさん! この方は軍師のホメロス様です!!」
「顔を知らないとでも、思いましたか?」
マスターは、軽蔑の視線をホメロスへ送った。そして口を開く。
「エトワール様。此方へいらっしゃるなら、どうかお一人で。此処は、静かにお酒を楽しみたい方の居場所。不用意に女性に触れる様な者は、軍師であろうと、王であろうと、ゴロツキであろうと、お断り致します」
「なるほど。これなら確かに安全だ」
ホメロスはエトワールから手を離して、カウンターに向き直った。それを見届けて、マスターは背を向けた。
「安心しろ。行儀良くしているさ。⋯⋯ところでお前は、結婚するつもりは無いのか?」
「はい。結婚すれば、貴方にお仕え出来なくなります」
エトワールは、寸分の迷いもなくハッキリと答えた。その瞳に強い意志を感じ、ホメロスはずっと気になっていた事を訊ねる事にした。
「お前は、何故私の元で働きたいのだ? 騎士でいなくとも、充分生きていけるだろう。明るく、人付き合いも良い。頭脳も比肩する者がいない程明晰。どうして騎士の身分に固執する?」
「ユグノアの悲劇を、二度と繰り返さないためです」
エトワールは、少し表情を強張らせた。
「私を救ってくださったグレイグ様を守り、そのグレイグ様を陰ながら支えるホメロス様を、守りたいのです」
彼女は少しだけ嘘を吐いた。本当の所、ホメロスに仕えたいと思う明確な理由は無いのだ。
初めてホメロスを見た時、エトワールは、なんと美しい人だろうと感激した。気付けば、何時もホメロスの姿を目で追っていた。憧れだ。けれど、それを言葉にして伝えるのは、恥ずかしかったし、ホメロスは軽率な女を嫌悪している。ホメロスに嫌われたく無かった。だから、言葉に出来なかったのだ。
ホメロスは、エトワールの言葉を聞き、嫌な気持ちになった。まるで自分は、グレイグのオマケである様な口振りだ。
「⋯⋯グレイグを好いているのか?」
「はい! ユグノアでは、とても優しくしていただき、感謝もしています。もしあの方に助けていただけなければ、私は──」
「もう良い!」
ホメロスはエトワールの頭の後ろに手をやり、彼女の髪の毛を乱暴に掴んで引き寄せ⋯⋯口付けをした。
エトワールは硬直していた。ホメロスはとんでもない過ちを犯したと、すぐに察した。彼女は恐怖の色を浮かべ、震えていた。
「⋯⋯エトワール」
取り繕う様に手を伸ばすと、エトワールは頭を守る様に手を挙げ、全身で拒絶を表現した。
「ごめんなさい! ⋯⋯ごめんなさい⋯⋯ホメロス⋯⋯様」
「すまない。もう、二度とお前には触れない」
ホメロスは、苦虫を噛んだ様な表情で、カウンターに向き直り、組んだ両手を見詰めた。
(嘘だ! このホメロスが⋯⋯たかが人間の女一人、思い通りに出来ぬとは⋯⋯。否⋯⋯こんな出自の不確かな女一人に振り回されるなど、あってはならん!)
「エトワール。お前は悪魔の子を殺せるか?」
ホメロスは、無理矢理話を続けようと、気になっていたことを訊ねた。エトワールは、明らかに当惑の表情を浮かべた。
「⋯⋯あの、ホメロス様。私の考えを──」
「迷っているウチは口にせぬよう」
マスターがそう呟いた。彼の姿が霧の様に揺らぎ、そして美しい青年へと変身した。
「⋯⋯貴方は!!」
エトワールが驚き、目を瞬くと、彼は穏やかに微笑んだ。
「驚かせてすまない。この格好で生活するのは、些か疲れるものでな。⋯⋯大樹の子、エトワールよ。そなたに対する、最後の預言を告げよう。己の考えを信じるのじゃ。そして、間違えたらすぐに戻る様に。いずれそなたの善意は、そなたに関わる幾人かの運命を変える力を持っている。善良なる者よ。そなたの正義を貫くのじゃ」
一気に喋り終えると、青年は、また寡黙そうなマスターに姿を変えた。
「⋯⋯お前は何者だ?」
ホメロスは警戒心を露わに、剣の柄を握って問う。マスター⋯⋯いや、預言者は寂しげな笑みを浮かべた。
「もう一人のそなたじゃ。言葉に惑わされ、道を違えた者。過ちを犯し、全てを失った預言者であり、魔導師」
「過ち?」
エトワールは言葉の意味が理解出来ずに、首を傾げた。その隣で、ホメロスは人知れず冷や汗をかいていた。預言者と自称する男の正体に、心当たりがあった。彼の良く知る人物と、共通する部分がある。
男は、くるりと背を向け、二人分のビーフシチューをカウンターに置き、パンを用意した。
「夢の終わりが近付いておる。今はただ、最後の晩餐を楽しんでおくれ」
「⋯⋯ありがとうございます」
エトワールは、不思議な気持ちのまま、追求せずに感謝を述べた。相手は、本当のところ話したがっていない様に思えたからだ。
ビーフシチューは、いつも通りに美味しかったし、何よりホメロスが味に満足してくれたので、エトワールは嬉しかった。
彼はシャンパンを飲むと、珍しく饒舌になり、色々な事を話した。
「昔は良く、グレイグとくだらない悪さをして、王に怒られたものだ。考えるのはオレ、実行し失敗するのはグレイグ。謝るのはオレの役割だった。陛下のケーキを盗んだ時は、城中の床を磨かされた」
「お二人とも、凄く可愛かったのでしょうね」
エトワールは、胸が温かくなるのを感じて微笑んだ。するとホメロスは、スッと手を伸ばし、親指で彼女の顎を持ち上げた。
「可愛いのはお前の方だ」
「⋯⋯は?」
エトワールは、ビックリし過ぎて固まってしまった。急いで言葉を探す。
「わ⋯⋯私は、もう24です! 可愛いなんて言葉は、とても似合いません」
「そうだな。どちらかと言えば、美しい。⋯⋯今晩、部屋に来ないか?」
「⋯⋯ホメロス様、酔っていらっしゃいますね?」
エトワールはため息を吐いた。
「お断りします。私はそういった事に慣れておりません」
「このオレを袖にするとは、大した女だ。益々気に入った」
ホメロスは上機嫌でグラスを空にし、テーブルの上に置かれていた、エトワールの手に、自分の手を重ねた。
「何時かまた、酔っていない時に申し込もう。その時は、否とは言わせんぞ」
「心に留めておきます」
エトワールは、動揺を悟られない様に、最大限の注意を払って言葉を返した。誘惑に乗ってしまいそうだった。彼女にとって、ホメロスは憧れの存在だったから。
「エトワール。⋯⋯オレは間違っていたのだろうか?」
突然話が飛び、エトワールは目を瞬いた。
「はい? ⋯⋯えっと⋯⋯何が、ですか?」
「オレは、ただ、認められたかった。⋯⋯それだけのために⋯⋯。エトワール、オレとグレイグの⋯⋯どちらが優れていると思う?」
「え? あ⋯⋯分かりません。お二人とも、其々に優れた所が御座います」
「エトワール⋯⋯」
ホメロスは、エトワールの手を握ったまま、突っ伏して寝てしまった。余程疲れていたのだろう。
「あの⋯⋯マスターさん。少しの間、このままでも良いですか? ホメロス様は、あまりお休みを取っていないのです」
「構いませんよ」
男は普段の口調に戻り、憐憫と微かに侮蔑のこもった瞳で、ホメロスを見下ろした。
「巷で話題の悪魔の子は、どうなったのでしょう?」
「まだ、手掛かりが掴めていません」
「それは何より」
「は?!」
エトワールは、肩を跳ねさせた。悪魔の子の素性を知らずに育てていたイシの村の民は、皆殺しにされるところだった。それなのに、目の前の男は、公然と悪魔の子の無事を喜んだ。彼はエトワールを見つめ、スッと目を細める。
「少しヒントを与えましょう。軍師殿が眠っている内に。⋯⋯ユグノアとバンデルフォンには、ある共通点があります。それ故に滅ぼされたのです」
「共通点⋯⋯」
エトワールは、額に片手を当てて考え込んだ。バンデルフォンは、英雄王ネルセンが建国した。ユグノアは⋯⋯勇者ローシュの子孫が、代々統治をしていた国だ。
ネルセンはローシュの仲間。つまり、バンデルフォンも、ユグノアも勇者と関係のある国だ。
確かにユグノアが滅ぼされたのは、勇者⋯⋯悪魔の子が産まれ、魔物を引き寄せたからかも知れない。しかし、バンデルフォンは?
エトワールは、つい先刻の疑念を思い出した。バンデルフォンとユグノアが滅びた事で、何が起きたか。⋯⋯勇者に纏わる多くの書物が消え、伝説を語る民が殺されてしまった。
「どうして⋯⋯」
彼女はガタガタ震えながら、譫言の様に呟いた。記憶の中の物語では、勇者は悪しき魔物を倒した英雄だった。その力を継ぐ者を、始末したいと考える存在がいたとしたら、それは魔物なのではないか。自分以外にも、同じストーリーを思い付いた人間がいた事で、一気に現実のモノの様に思えた。
「そんな⋯⋯。まさか、デルカダールの中に、人に化けた魔物がいるんじゃ⋯⋯。昔聞いたことがあります! 何処かの国の重臣に魔物が化けていて、国が滅びたと。陛下が危ないわ!」
エトワールは、思い切り立ち上がった。酔いはすっかりさめていた。
「待ちなさい」
マスターが落ち着いた声で制する。
「事を急いではなりませんよ。誰が敵なのか、それがはっきりしてから、行動に移らなければ」
「⋯⋯っ」
エトワールは、はたと不自然な事に気が付いた。幾ら何でも、デルカダールの将軍ホメロスが手を振り払われても起きないのはおかしい。
「貴方は誰?!」
エトワールは、短剣を抜いて身構えた。
「何者だ?! 正体を現せ!!」
「さっきも言った通り、わしはこの男の成れの果て。悠久の時を彷徨う、罪深き魂。どうか、落ち着いて聞くのじゃ」
男はあくまで穏やかな口調で続ける。
「わしには異なる二つの未来が見える。運命の天秤がどちらに傾くか⋯⋯それは、今この時を生きる、数名の選択に掛かっておる。その一人がそなたじゃ」
「私⋯⋯?」
「そなたは、もう、答えに近付いておる。痛みから目を背けるのなら、それもまた、そなたの人生。わしの様に、悔いの残る選択をせぬよう、祈っておる」
「⋯⋯そんな」
エトワールは青ざめた顔をホメロスに向けた。
「⋯⋯そんな⋯⋯まさかっ⋯⋯ホメロス様を疑えと?! そんなはず無いわ!! この人は、誰よりもデルカダールを思っているのに!!」
「ならば、今知り得た事を、この男に話せるか? 勇者は、悪魔の子などでは無いかも知れないと、そう言えるか?」
「⋯⋯っ」
エトワールは短剣を鞘に戻し、ホメロスの背に泣き崩れた。彼は、率先して悪魔の子を捕らえるよう指示し、イシの村人を殺そうとしたのだ。恐らくグレイグが介入していなければ、実行していた。
「だとしても⋯⋯私はこの人を傷付けられない!! 私は⋯⋯この人の側に立ちたくて、生きて来たのです!! 例え勇者が悪魔の子でなくとも⋯⋯この人を攻撃するなんて、出来ない!!」
しかし、エトワールは、最早確信に近い思いを抱いていた。勇者を積極的に排除しようとしているのは、ホメロスとデルカダール王だ。
ホメロスは、王が許すであろうと思っていたから、イシの村人を皆殺しにすると言ったのだろう。若しくは、王が皆殺しにせよと命じたのか⋯⋯。
デルカダール王の残酷さは、身をもって知っていた。エトワールは、罰とはいえ、大怪我を負わされた。彼女が並外れた魔法の力を持っていたから、辛うじて死の淵から戻って来ることが出来た。しかし、並みの騎士であれば、死んでいただろう。
(グレイグ様に、相談しよう)
エトワールは、そっと体を起こした。少なくとも、グレイグは魔物では無い。わざわざホメロスの後を追って来て、村人の命を救った。
ホメロスと幼い頃から共に過ごしていたグレイグなら、何かホメロスの変化に気付いているかもしれないと思った。
エトワールは、涙を拭って背筋を伸ばした。その顔を見て、男は微笑した。
「答えが決まった様じゃな」
「はい。もし、勇者が悪魔の子では無く、国内の者が滅びを望んでいるとハッキリ分かった時には、戦います。そして、もし、ホメロス様が何らかの形で関わっているのなら、必ずお心を変えてみせます!!」
「この者が元凶だとしたら?」
「その時は⋯⋯」
エトワールは拳を強く握りしめた。
「その時は、ホメロス様を殺して、私も死にます。⋯⋯さあ、魔法を解いて」
彼女の言葉を聞き、男はスッと手を動かした。瞬間、ホメロスが身じろぎ、ゆっくりと体を起こした。
「⋯⋯寝ていたのか?」
ホメロスは、不思議そうに体を起こした。
彼だけが⋯⋯いや、彼とデルカダール王だけが知り得る事だが、ホメロスに睡眠は必要ない。勿論眠ろうと思えば眠れるが、最上級の魔物の力を宿した彼は、うたた寝などしない。
「疲れていたのです」
エトワールが、優しい声色で囁いた。
「ホメロス様は、デルカダールで一番働いている方ですから」
「おだてても、得は無いぞ」
ホメロスは、少し笑って、前髪を掻き分けた。
「お前の、そういう所を気に入っている」
「は?」
エトワールは、突然好意的な言葉を掛けられて、目を瞬いた。ホメロスは立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。
「こういう時、大抵の女は口煩く、もっと寝ろと言う。だがお前は、必要以上に干渉しない。事実を肯定してくれるだけだ。⋯⋯エトワール。お前は私の良き理解者で、光だ」
その言葉を聞き、エトワールは両手で顔を覆った。鼻の奥がツンと痛くなり、視界が滲む。
「ホメロス様⋯⋯ホメロス様!」
彼女は、抱きつく⋯⋯のではなく、その場で膝を折って敬礼した。
「私は何処までも貴方について参ります!」
「立て」
ホメロスは、愉快そうに手を差し出した。エトワールの身体を引っ張りあげ、笑みを深める。
「私も誓おう。このホメロスに仕える限り、お前の事を守る。必ずだ」
「嬉しいです」
エトワールは、素直に頷いて、それから預言者に目を向けた。
「そろそろ帰ります。雨も上がった頃でしょう」
「お代は結構。また、何処かでお会いする事もあるでしょう」
彼は引き止めなかった。エトワールは、ホメロスと連れ立って、店を後にした。
扉を閉め、外の世界に出た瞬間、エトワールとホメロス は、同時に振り返った。奇妙な気配がしたのだ。
其処には、見慣れないボロい樫の木の扉。取っ手は錆び付いている。
「どういう事だ?!」
ホメロスは、恐る恐る扉を開けた。瞬間、賑やかな笑い声が溢れて来た。安酒を振る舞う、ごく普通の酒場だ。
彼はそっと扉を閉め、エトワールと顔を見合わせた。
「何が⋯⋯起きたのだ?」
「わ⋯⋯私にもサッパリ⋯⋯」
二人はしばし見つめ合い、同時に笑った。
「退屈しないな」
ホメロスは、肩を揺らしエトワールの髪に触れた。
「⋯⋯そうだ。ついでに、少し寄りたい所がある。少しの間付き合え」
「はい、勿論です」
エトワールはニッコリ笑って頷いた。
二人は、微妙な距離を保ちながら、すっかり暗くなった大通りを進み、富裕層の暮らすエリアへ向かった。
ホメロスが入ったのは、宝石を扱う店だった。
「どなたかに、贈り物ですか?」
エトワールが訊ねると、彼は首を横に振り、耳に手を当てた。
「いや、そろそろこの色にも飽きた。新しい物を買おうと思う」
真っ赤なルビーのピアスが、キラキラと美しく光を反射している。
「耳に穴を開けるって⋯⋯痛くは無いのですか?」
エトワールは、少し顔を顰めながら聞いた。
「最初は痛んだが、穴が安定してからは、なんともない。お前も開けてみてはどうだ?」
ホメロスの提案に、エトワールは勢い良く首を横に振った。
「私は遠慮しておきます」
「そうか」
ホメロスは少し残念そうに頷き、商品に目を向けた。彼が注目したのは、黒曜石のピアスだ。特に面白みも無いデザインだが、何故か心を惹かれたのだ。
「すまない、これを買う」
彼は老年の店主に声を掛け、商品を買った。それ程高いものでは無かったが、気に入った様だ。
二人は店を出て、そのまま城に戻った。
明日はいよいよ、ダーハルーネに向けて出発する。その前に一つ、エトワールはやり残した事があった。彼女は一旦部屋に戻り、一通り荷物を纏めてか、風呂に入って、ネグリジェにガウンを羽織り、厨房へ向かった。
日差しが眩しく、すぐそこまでやって来た夏を感じた。
「良いお天気ですね」
エトワールは、ニコリと笑って先導した。二人はぎこちない距離を取ったまま、大通りへ出た。
すると、すぐに目敏い子供がホメロスの姿を見付けて歓声を上げた。
「ホメロス様だ!!」
その声は、周囲の人々にたちまち伝染し、あっという間に二人は民に囲まれていた。
「ホメロス様!」
「将軍様!!」
「軍士様!!」
取り分け女性が、こぞって詰め掛けた。ホメロスは、突然の事に言葉が出なかった。今、彼が目にしている光景は、彼が何より望んだものだ。
「ホメロス様。何か言葉を」
エトワールが囁いた。ホメロスは、内心かなり緊張しながらも、不遜な笑みを浮かべて手を広げた。
「デルカダールの知将ホメロスだ。皆の声援、しかと受け取った。必ずや、この世界に不穏をもたらす、悪魔の子を捕らえてみせよう!皆、不安だろうが、しばしの間堪えて欲しい」
「勿論です、ホメロス様!」
少年が、頬を上気させて熱っぽく答えた。ホメロスは少し微笑んで、後ずさった。代わりにエトワールが前へ出て、ニコリと笑う。
「さあ、ホメロス様は休日を楽しみたいのです。今日の所は、どうかこの辺で」
「貴女は!! 貴女が軍士殿の副官の?!」
若い男が右手を差し出した。
「エリオです!! お目にかかれて光栄です!」
「エトワールです。私も、貴方と出会えて嬉しいです」
「そんな、勿体ないお言葉⋯⋯。俺も騎士になろうと考えていましたが、たった今、なると決めました!!」
「騎士になっても、この女と接点を持てるわけでは無いぞ」
すこぶる不機嫌な声色で、ホメロスが割って入った。彼は、エトワールの肩に手を置き、自分の方に引き寄せた。
「ホメロスの副官だ。私の為に忙殺されている」
「そんなに忙しくは感じませんよ」
すかさず、エトワールは主張した。そして、エリオに歩み寄る。
「待っています。貴方がこの国を愛する、勇敢な騎士になれる日を」
「エトワール様⋯⋯!」
エリオは感極まって、ぼうっとした表情で呟いた。周囲の人々も、感嘆の声をあげる。
「さあ、行きましょう、ホメロス様」
エトワールは、ホメロスを振り返って優しく微笑んだ。彼は無言で頷き、エトワールの背を追った。
多くの人が、行き交う。街自体が生きている様に、輝いている。
「ホメロス様。偶に外を歩くと、気分が良くなりませんか?」
「⋯⋯ああ」
ホメロスは、鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。自分に向けられた、尊敬や羨望の瞳。
しかし、もう手遅れだった。彼は堪え難い劣等感から、恐ろしい道を選んでしまった。派手に武功を挙げて、拍手と賞賛を手に入れるグレイグに嫉妬し、恐ろしい道を選んでしまったのだ。
デルカダール王は、魔王と呼ばれる者に取り憑かれ、操られている。ホメロスは、そのウルノーガに魂を売った。
グレイグよりも、自分を評価してくれる存在に。
やがてウルノーガが、強大な力を手にし、世界を統べれば、其処彼処に魔物が跋扈し、人は衰退の道へと追いやられる。
それ以前に、大樹の力を魔王が得れば、その瞬間に多くの命が奪われるだろう。エトワールの命も。
「エトワール!」
ホメロスは衝動的に、彼女を背後から抱き竦めた。
「⋯⋯っ」
エトワールは驚き過ぎて、振り向く事すら出来ずに、体を強張らせた。
「⋯⋯ホメロス様? ⋯⋯震えていらっしゃいますね?! 身体の具合が悪いのでは──」
「違う!」
ホメロスは慌てて否定し、けれどエトワールを手放せずにそのままの姿勢で唇を噛んだ。
(ウルノーガ様に頼めば、こいつだけでも助けては貰えぬだろうか? 勇者を始末すれば、そのくらいの見返りはあっても良いはずだ! 何が何でも、あのドブネズミ共を捕らえなくては!!!)
彼は、自分自身の心に、思考が追いついていなかった。何故、今腕の中にいる女を守りたいのか、その理由が分からなかった。分からぬまま、彼は道を定める。
「⋯⋯悪魔の子を⋯⋯早く捕らえなくてはならないな」
「そうですね」
エトワールは、そっとホメロスの腕を解き、振り返った。
「一刻も早く、民の不安を拭わなくては。ですが、ホメロス様。今はその事を忘れてくださいませんか? 今だけは、休暇を楽しみましょう」
彼女はホメロスの手を取って、歩き出した。
大通りは実に賑やかだ。大勢の人が行き交い、露店では商人が大声で宣伝文句を叫んでいる。リュートから響く、星屑の様な音色。音楽に合わせて、華麗に舞う踊り子。
「ハーイ、お姉さん! 貴女も楽しまないとね!」
露出の多い服を纏った彼女は、エトワールの手を取った。
「ごめんなさい、踊りはからっきしなの。でも、歌なら歌えるわ!」
エトワールがそう答えると、リュートを持った男が、デルカダールに古くから伝わる、円舞曲を奏で始めた。
“嗚呼⋯⋯大空へ舞う鳥よ、私の想いを届けておくれ”
美しい歌声が響き渡り、囲んでいた街人たちは、感嘆の声を上げた。エトワールの歌は、ホメロスの胸にも深く染み渡り、感動を呼んだ。
“嗚呼⋯⋯芽吹く時も、散る時も、貴方と共にありたい”
一曲歌い上げると、大きな拍手が沸き起こった。
エトワールは、ほんのり頬を赤らめ、何人かの民と握手を交わして、ホメロスの元へ飛び込んだ。
「ホメロス様。この国の民は、なんと美しいものだと思いませんか? 民は歌い、踊り、手を取り合い、人を愛して、常に幸せを求めて生きているのです。⋯⋯私は、貴方にこの光景を贈りたかったのです。偶には外の世界へ出るのも、悪くは無いと思いませんか?」
「⋯⋯ああ」
ホメロスが目を伏せて応えると同時に、ポタリと足元に雫が落ちた。雨だ。
「雨よ!」
踊り子が声を上げた。けれど、沈んだ声色では無い。
「雨だーっ!!」
「ヤバいぞ!!帰らないと!!」
「わーい!!冷たい!!」
皆、何処か面白がっている様だ。
「ホメロス様。私たちも移動しましょう!」
エトワールは、ホメロスの手を掴んで、走り出した。裏通りに入り、薄暗い雰囲気の酒場に駆け込んだ。
「おや?」
壮年のマスターが驚いた様子で顔をあげた。店内に客はいない。
「今日は随分と早いのですね」
「休暇だったんです。お邪魔しますね」
エトワールは、カウンター席に腰掛け、身を乗り出した。
「シャンパンを二つ。それから、ビーフシチューとバケットを二人分」
「かしこまりました」
マスターは、チラリとホメロスを見たが、彼が誰であるか、問いただす事は無かった。
「あの、申し訳ございません」
エトワールは、思い出した様にホメロスに頭を下げた。
「急に此処へ引っ張り込んでしまって⋯⋯。でも、ビーフシチューが、とても美味しいんです!」
「構わない。私が付き合うと言ったのだ。⋯⋯それに」
ホメロスは声を殺して笑った。
「⋯⋯副官殿の、意外な一面を知れた。まるで小動物の様に怯えている。普段の姿からは想像も付かないな」
彼は縺れたエトワールの髪を掬い上げ、丁寧に解いた。
「この店には、よく来ているのか?」
「は⋯⋯はい! 週に一度は」
「一人で?」
「はい」
「不用心だな」
ホメロスは、エトワールの頭に手を置いた。
「普通、妙齢の女性は、酒場に一人で来ようなどとは思わ──?!」
物凄い勢いで、ジョッキが飛んで来た。それは、ホメロスとエトワールの間を通り抜け、向こうの壁に激突して、粉々になってしまった。
二人がギクシャクとカウンターの中へ視線を送ると、涼しげな表情でマスターが新しいジョッキを磨いていた。
「マスターさん! この方は軍師のホメロス様です!!」
「顔を知らないとでも、思いましたか?」
マスターは、軽蔑の視線をホメロスへ送った。そして口を開く。
「エトワール様。此方へいらっしゃるなら、どうかお一人で。此処は、静かにお酒を楽しみたい方の居場所。不用意に女性に触れる様な者は、軍師であろうと、王であろうと、ゴロツキであろうと、お断り致します」
「なるほど。これなら確かに安全だ」
ホメロスはエトワールから手を離して、カウンターに向き直った。それを見届けて、マスターは背を向けた。
「安心しろ。行儀良くしているさ。⋯⋯ところでお前は、結婚するつもりは無いのか?」
「はい。結婚すれば、貴方にお仕え出来なくなります」
エトワールは、寸分の迷いもなくハッキリと答えた。その瞳に強い意志を感じ、ホメロスはずっと気になっていた事を訊ねる事にした。
「お前は、何故私の元で働きたいのだ? 騎士でいなくとも、充分生きていけるだろう。明るく、人付き合いも良い。頭脳も比肩する者がいない程明晰。どうして騎士の身分に固執する?」
「ユグノアの悲劇を、二度と繰り返さないためです」
エトワールは、少し表情を強張らせた。
「私を救ってくださったグレイグ様を守り、そのグレイグ様を陰ながら支えるホメロス様を、守りたいのです」
彼女は少しだけ嘘を吐いた。本当の所、ホメロスに仕えたいと思う明確な理由は無いのだ。
初めてホメロスを見た時、エトワールは、なんと美しい人だろうと感激した。気付けば、何時もホメロスの姿を目で追っていた。憧れだ。けれど、それを言葉にして伝えるのは、恥ずかしかったし、ホメロスは軽率な女を嫌悪している。ホメロスに嫌われたく無かった。だから、言葉に出来なかったのだ。
ホメロスは、エトワールの言葉を聞き、嫌な気持ちになった。まるで自分は、グレイグのオマケである様な口振りだ。
「⋯⋯グレイグを好いているのか?」
「はい! ユグノアでは、とても優しくしていただき、感謝もしています。もしあの方に助けていただけなければ、私は──」
「もう良い!」
ホメロスはエトワールの頭の後ろに手をやり、彼女の髪の毛を乱暴に掴んで引き寄せ⋯⋯口付けをした。
エトワールは硬直していた。ホメロスはとんでもない過ちを犯したと、すぐに察した。彼女は恐怖の色を浮かべ、震えていた。
「⋯⋯エトワール」
取り繕う様に手を伸ばすと、エトワールは頭を守る様に手を挙げ、全身で拒絶を表現した。
「ごめんなさい! ⋯⋯ごめんなさい⋯⋯ホメロス⋯⋯様」
「すまない。もう、二度とお前には触れない」
ホメロスは、苦虫を噛んだ様な表情で、カウンターに向き直り、組んだ両手を見詰めた。
(嘘だ! このホメロスが⋯⋯たかが人間の女一人、思い通りに出来ぬとは⋯⋯。否⋯⋯こんな出自の不確かな女一人に振り回されるなど、あってはならん!)
「エトワール。お前は悪魔の子を殺せるか?」
ホメロスは、無理矢理話を続けようと、気になっていたことを訊ねた。エトワールは、明らかに当惑の表情を浮かべた。
「⋯⋯あの、ホメロス様。私の考えを──」
「迷っているウチは口にせぬよう」
マスターがそう呟いた。彼の姿が霧の様に揺らぎ、そして美しい青年へと変身した。
「⋯⋯貴方は!!」
エトワールが驚き、目を瞬くと、彼は穏やかに微笑んだ。
「驚かせてすまない。この格好で生活するのは、些か疲れるものでな。⋯⋯大樹の子、エトワールよ。そなたに対する、最後の預言を告げよう。己の考えを信じるのじゃ。そして、間違えたらすぐに戻る様に。いずれそなたの善意は、そなたに関わる幾人かの運命を変える力を持っている。善良なる者よ。そなたの正義を貫くのじゃ」
一気に喋り終えると、青年は、また寡黙そうなマスターに姿を変えた。
「⋯⋯お前は何者だ?」
ホメロスは警戒心を露わに、剣の柄を握って問う。マスター⋯⋯いや、預言者は寂しげな笑みを浮かべた。
「もう一人のそなたじゃ。言葉に惑わされ、道を違えた者。過ちを犯し、全てを失った預言者であり、魔導師」
「過ち?」
エトワールは言葉の意味が理解出来ずに、首を傾げた。その隣で、ホメロスは人知れず冷や汗をかいていた。預言者と自称する男の正体に、心当たりがあった。彼の良く知る人物と、共通する部分がある。
男は、くるりと背を向け、二人分のビーフシチューをカウンターに置き、パンを用意した。
「夢の終わりが近付いておる。今はただ、最後の晩餐を楽しんでおくれ」
「⋯⋯ありがとうございます」
エトワールは、不思議な気持ちのまま、追求せずに感謝を述べた。相手は、本当のところ話したがっていない様に思えたからだ。
ビーフシチューは、いつも通りに美味しかったし、何よりホメロスが味に満足してくれたので、エトワールは嬉しかった。
彼はシャンパンを飲むと、珍しく饒舌になり、色々な事を話した。
「昔は良く、グレイグとくだらない悪さをして、王に怒られたものだ。考えるのはオレ、実行し失敗するのはグレイグ。謝るのはオレの役割だった。陛下のケーキを盗んだ時は、城中の床を磨かされた」
「お二人とも、凄く可愛かったのでしょうね」
エトワールは、胸が温かくなるのを感じて微笑んだ。するとホメロスは、スッと手を伸ばし、親指で彼女の顎を持ち上げた。
「可愛いのはお前の方だ」
「⋯⋯は?」
エトワールは、ビックリし過ぎて固まってしまった。急いで言葉を探す。
「わ⋯⋯私は、もう24です! 可愛いなんて言葉は、とても似合いません」
「そうだな。どちらかと言えば、美しい。⋯⋯今晩、部屋に来ないか?」
「⋯⋯ホメロス様、酔っていらっしゃいますね?」
エトワールはため息を吐いた。
「お断りします。私はそういった事に慣れておりません」
「このオレを袖にするとは、大した女だ。益々気に入った」
ホメロスは上機嫌でグラスを空にし、テーブルの上に置かれていた、エトワールの手に、自分の手を重ねた。
「何時かまた、酔っていない時に申し込もう。その時は、否とは言わせんぞ」
「心に留めておきます」
エトワールは、動揺を悟られない様に、最大限の注意を払って言葉を返した。誘惑に乗ってしまいそうだった。彼女にとって、ホメロスは憧れの存在だったから。
「エトワール。⋯⋯オレは間違っていたのだろうか?」
突然話が飛び、エトワールは目を瞬いた。
「はい? ⋯⋯えっと⋯⋯何が、ですか?」
「オレは、ただ、認められたかった。⋯⋯それだけのために⋯⋯。エトワール、オレとグレイグの⋯⋯どちらが優れていると思う?」
「え? あ⋯⋯分かりません。お二人とも、其々に優れた所が御座います」
「エトワール⋯⋯」
ホメロスは、エトワールの手を握ったまま、突っ伏して寝てしまった。余程疲れていたのだろう。
「あの⋯⋯マスターさん。少しの間、このままでも良いですか? ホメロス様は、あまりお休みを取っていないのです」
「構いませんよ」
男は普段の口調に戻り、憐憫と微かに侮蔑のこもった瞳で、ホメロスを見下ろした。
「巷で話題の悪魔の子は、どうなったのでしょう?」
「まだ、手掛かりが掴めていません」
「それは何より」
「は?!」
エトワールは、肩を跳ねさせた。悪魔の子の素性を知らずに育てていたイシの村の民は、皆殺しにされるところだった。それなのに、目の前の男は、公然と悪魔の子の無事を喜んだ。彼はエトワールを見つめ、スッと目を細める。
「少しヒントを与えましょう。軍師殿が眠っている内に。⋯⋯ユグノアとバンデルフォンには、ある共通点があります。それ故に滅ぼされたのです」
「共通点⋯⋯」
エトワールは、額に片手を当てて考え込んだ。バンデルフォンは、英雄王ネルセンが建国した。ユグノアは⋯⋯勇者ローシュの子孫が、代々統治をしていた国だ。
ネルセンはローシュの仲間。つまり、バンデルフォンも、ユグノアも勇者と関係のある国だ。
確かにユグノアが滅ぼされたのは、勇者⋯⋯悪魔の子が産まれ、魔物を引き寄せたからかも知れない。しかし、バンデルフォンは?
エトワールは、つい先刻の疑念を思い出した。バンデルフォンとユグノアが滅びた事で、何が起きたか。⋯⋯勇者に纏わる多くの書物が消え、伝説を語る民が殺されてしまった。
「どうして⋯⋯」
彼女はガタガタ震えながら、譫言の様に呟いた。記憶の中の物語では、勇者は悪しき魔物を倒した英雄だった。その力を継ぐ者を、始末したいと考える存在がいたとしたら、それは魔物なのではないか。自分以外にも、同じストーリーを思い付いた人間がいた事で、一気に現実のモノの様に思えた。
「そんな⋯⋯。まさか、デルカダールの中に、人に化けた魔物がいるんじゃ⋯⋯。昔聞いたことがあります! 何処かの国の重臣に魔物が化けていて、国が滅びたと。陛下が危ないわ!」
エトワールは、思い切り立ち上がった。酔いはすっかりさめていた。
「待ちなさい」
マスターが落ち着いた声で制する。
「事を急いではなりませんよ。誰が敵なのか、それがはっきりしてから、行動に移らなければ」
「⋯⋯っ」
エトワールは、はたと不自然な事に気が付いた。幾ら何でも、デルカダールの将軍ホメロスが手を振り払われても起きないのはおかしい。
「貴方は誰?!」
エトワールは、短剣を抜いて身構えた。
「何者だ?! 正体を現せ!!」
「さっきも言った通り、わしはこの男の成れの果て。悠久の時を彷徨う、罪深き魂。どうか、落ち着いて聞くのじゃ」
男はあくまで穏やかな口調で続ける。
「わしには異なる二つの未来が見える。運命の天秤がどちらに傾くか⋯⋯それは、今この時を生きる、数名の選択に掛かっておる。その一人がそなたじゃ」
「私⋯⋯?」
「そなたは、もう、答えに近付いておる。痛みから目を背けるのなら、それもまた、そなたの人生。わしの様に、悔いの残る選択をせぬよう、祈っておる」
「⋯⋯そんな」
エトワールは青ざめた顔をホメロスに向けた。
「⋯⋯そんな⋯⋯まさかっ⋯⋯ホメロス様を疑えと?! そんなはず無いわ!! この人は、誰よりもデルカダールを思っているのに!!」
「ならば、今知り得た事を、この男に話せるか? 勇者は、悪魔の子などでは無いかも知れないと、そう言えるか?」
「⋯⋯っ」
エトワールは短剣を鞘に戻し、ホメロスの背に泣き崩れた。彼は、率先して悪魔の子を捕らえるよう指示し、イシの村人を殺そうとしたのだ。恐らくグレイグが介入していなければ、実行していた。
「だとしても⋯⋯私はこの人を傷付けられない!! 私は⋯⋯この人の側に立ちたくて、生きて来たのです!! 例え勇者が悪魔の子でなくとも⋯⋯この人を攻撃するなんて、出来ない!!」
しかし、エトワールは、最早確信に近い思いを抱いていた。勇者を積極的に排除しようとしているのは、ホメロスとデルカダール王だ。
ホメロスは、王が許すであろうと思っていたから、イシの村人を皆殺しにすると言ったのだろう。若しくは、王が皆殺しにせよと命じたのか⋯⋯。
デルカダール王の残酷さは、身をもって知っていた。エトワールは、罰とはいえ、大怪我を負わされた。彼女が並外れた魔法の力を持っていたから、辛うじて死の淵から戻って来ることが出来た。しかし、並みの騎士であれば、死んでいただろう。
(グレイグ様に、相談しよう)
エトワールは、そっと体を起こした。少なくとも、グレイグは魔物では無い。わざわざホメロスの後を追って来て、村人の命を救った。
ホメロスと幼い頃から共に過ごしていたグレイグなら、何かホメロスの変化に気付いているかもしれないと思った。
エトワールは、涙を拭って背筋を伸ばした。その顔を見て、男は微笑した。
「答えが決まった様じゃな」
「はい。もし、勇者が悪魔の子では無く、国内の者が滅びを望んでいるとハッキリ分かった時には、戦います。そして、もし、ホメロス様が何らかの形で関わっているのなら、必ずお心を変えてみせます!!」
「この者が元凶だとしたら?」
「その時は⋯⋯」
エトワールは拳を強く握りしめた。
「その時は、ホメロス様を殺して、私も死にます。⋯⋯さあ、魔法を解いて」
彼女の言葉を聞き、男はスッと手を動かした。瞬間、ホメロスが身じろぎ、ゆっくりと体を起こした。
「⋯⋯寝ていたのか?」
ホメロスは、不思議そうに体を起こした。
彼だけが⋯⋯いや、彼とデルカダール王だけが知り得る事だが、ホメロスに睡眠は必要ない。勿論眠ろうと思えば眠れるが、最上級の魔物の力を宿した彼は、うたた寝などしない。
「疲れていたのです」
エトワールが、優しい声色で囁いた。
「ホメロス様は、デルカダールで一番働いている方ですから」
「おだてても、得は無いぞ」
ホメロスは、少し笑って、前髪を掻き分けた。
「お前の、そういう所を気に入っている」
「は?」
エトワールは、突然好意的な言葉を掛けられて、目を瞬いた。ホメロスは立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。
「こういう時、大抵の女は口煩く、もっと寝ろと言う。だがお前は、必要以上に干渉しない。事実を肯定してくれるだけだ。⋯⋯エトワール。お前は私の良き理解者で、光だ」
その言葉を聞き、エトワールは両手で顔を覆った。鼻の奥がツンと痛くなり、視界が滲む。
「ホメロス様⋯⋯ホメロス様!」
彼女は、抱きつく⋯⋯のではなく、その場で膝を折って敬礼した。
「私は何処までも貴方について参ります!」
「立て」
ホメロスは、愉快そうに手を差し出した。エトワールの身体を引っ張りあげ、笑みを深める。
「私も誓おう。このホメロスに仕える限り、お前の事を守る。必ずだ」
「嬉しいです」
エトワールは、素直に頷いて、それから預言者に目を向けた。
「そろそろ帰ります。雨も上がった頃でしょう」
「お代は結構。また、何処かでお会いする事もあるでしょう」
彼は引き止めなかった。エトワールは、ホメロスと連れ立って、店を後にした。
扉を閉め、外の世界に出た瞬間、エトワールとホメロス は、同時に振り返った。奇妙な気配がしたのだ。
其処には、見慣れないボロい樫の木の扉。取っ手は錆び付いている。
「どういう事だ?!」
ホメロスは、恐る恐る扉を開けた。瞬間、賑やかな笑い声が溢れて来た。安酒を振る舞う、ごく普通の酒場だ。
彼はそっと扉を閉め、エトワールと顔を見合わせた。
「何が⋯⋯起きたのだ?」
「わ⋯⋯私にもサッパリ⋯⋯」
二人はしばし見つめ合い、同時に笑った。
「退屈しないな」
ホメロスは、肩を揺らしエトワールの髪に触れた。
「⋯⋯そうだ。ついでに、少し寄りたい所がある。少しの間付き合え」
「はい、勿論です」
エトワールはニッコリ笑って頷いた。
二人は、微妙な距離を保ちながら、すっかり暗くなった大通りを進み、富裕層の暮らすエリアへ向かった。
ホメロスが入ったのは、宝石を扱う店だった。
「どなたかに、贈り物ですか?」
エトワールが訊ねると、彼は首を横に振り、耳に手を当てた。
「いや、そろそろこの色にも飽きた。新しい物を買おうと思う」
真っ赤なルビーのピアスが、キラキラと美しく光を反射している。
「耳に穴を開けるって⋯⋯痛くは無いのですか?」
エトワールは、少し顔を顰めながら聞いた。
「最初は痛んだが、穴が安定してからは、なんともない。お前も開けてみてはどうだ?」
ホメロスの提案に、エトワールは勢い良く首を横に振った。
「私は遠慮しておきます」
「そうか」
ホメロスは少し残念そうに頷き、商品に目を向けた。彼が注目したのは、黒曜石のピアスだ。特に面白みも無いデザインだが、何故か心を惹かれたのだ。
「すまない、これを買う」
彼は老年の店主に声を掛け、商品を買った。それ程高いものでは無かったが、気に入った様だ。
二人は店を出て、そのまま城に戻った。
明日はいよいよ、ダーハルーネに向けて出発する。その前に一つ、エトワールはやり残した事があった。彼女は一旦部屋に戻り、一通り荷物を纏めてか、風呂に入って、ネグリジェにガウンを羽織り、厨房へ向かった。