マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
06:大聖堂へ至る陰謀編〜1〜
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アンジェリカと衛兵が立ち去ったのを確認してから、大司教はマルチェロに向き直った。
「過保護な姉の様じゃな」
「あれが、姉に見えますか。私よりも一回りは歳下です」
マルチェロは、思わず笑みをこぼしてしまった。
「腕は立つのですよ。そこらの、一山いくらの騎士とはワケが違う」
「ふむ。確かに、強い魔法の力をもっておるようじゃ」
大司教の言葉を、マルチェロは意外に思った。中年の、やたらと下品に着飾った男が、少しでも魔法の心得があるとは思っていなかったのだ。
「⋯⋯お話とは?」
「うむ。実はのう、聖地ゴルドの警備を、聖堂騎士団に依頼したいと思ってな」
「聖地ゴルドの?!」
マルチェロは、つい食い気味に繰り返していた。
「しかし、ご存知の通り、聖堂騎士団員の多くは孤児です。私も含めて」
「わしは、実力をかっておるのじゃ。今後のお前の心掛け次第で、未来は変わってくるじゃろう」
悪びれもせずに言う大司教に、マルチェロは心底幻滅した。こんな業突く張りが、教会の上層部にいる事も、それを法皇が見過ごしている事も、許せなかった。
金と生まれつきの権力にモノを言わせ、人々を支配していると思うと、吐き気がした。
そんな世界を⋯⋯世の中の仕組みを変えるために、マルチェロは机の引き出しを開け、小さな絹の布を取り出した。つまり、それに包まれている物は、絹よりも高価だという事だ。
「旅の商人が、寄進していった物です」
マルチェロが差し出すと、大司教は重々しく頷き、品物を受け取った。絹の布をめくると、血のように赤い、怪しい美しさを醸す原石が現れた。
「ほう! これはサザンビークの王家に伝わる⋯⋯」
「アルゴンハートです。売り払えば、ここで暮らす者の一月分の生活費になります。しかし、我々は清貧を美徳とする騎士の集まり。ニノ大司教こそ、この宝石の価値を、存分に引き出せる事と思います」
マルチェロは、さりげなく嫌味を言ったつもりだったが、宝石に目を奪われた大司教は、既にうわの空で、何も言い返してはこなかった。
丁寧に原石を包み直すと、用心深く懐に収め、呆れるほど満面の笑みで頷いた。
「お前の心は、しかと受け取った。半月後までに、精鋭を集めておくが良い」
「畏まり──」
マルチェロが頭を下げた瞬間。
ドーンと轟音が響き、天井からハラハラと細かい埃が降ってきた。
マルチェロは、つかつかと部屋を横切り、音を立てて扉を開け放った。
すると、ニノ大司教の護衛をしていた衛兵の一人が、部屋の中に倒れ込んで来た。
「騒ぎを起こすなと言っただろう!」
「流血沙汰にはなっていません。加減しましたから」
アンジェリカは、涼しい表情で答え、壁に張り付いて震えている、もう一人の衛兵を睨んだ。
「さあ、先ほどの言葉を取り消して下さい!!」
「事実を言ったまでだ!」
惨めに裏返った声で、衛兵は叫んだ。アンジェリカがその胸倉を掴んだので、マルチェロは慌てて間に入った。
「アンジェリカ、良い加減にしろ!」
叱声を浴び、彼女は目を見開いた。そして、ハラハラと涙を溢した。
「この人たちは、貴方を⋯⋯ここの騎士達を侮辱したのです!!! ⋯⋯見ないでください」
顔を伏せて袖で拭い、きっとした表情で衛兵と向き合った。
「怯える事しか出来ないのですか?! 貴族が⋯⋯神に選ばれた人間が!! 」
「⋯⋯っ貴様、剣で勝負をしろ!!」
往生際悪く抜剣した男に、アンジェリカは右手の人差し指一本を突き付けた。命の力を身体から奪い、死の直前まで追い詰める呪文、ザキを唱えるのには、指一本あれば十分だ。
「寝言は寝てからどうぞ」
アンジェリカは、冷ややかな口調で言い放ち、衛兵を突き放した。
「神聖な教会の中ではどうか知りませんが、世の中に出れば、正々堂々と型通りの動きで剣を振るう者など、おりません。先ほどの言葉を取り消す気が無いのでしたら、神の御意思を尊重しましょう。私が死の呪いを唱えようとも、選ばれた血筋である貴方の事は、きっと神が守ってくださる事でしょう」
「お⋯⋯あ⋯⋯人を斬った事も無い女が、よくも──」
「私は人を殺せます」
アンジェリカの言葉に、その場にいる全員が震え上がった。
「用心棒ですから」
彼女は超然としていた。まるで、か弱い女性の皮を被った魔物の様に、全身から魔法の力を溢れさせている。
「⋯⋯何を言われた?」
マルチェロは、そっとアンジェリカの腕に手を載せて訊ねた。彼女は悔しそうに顔を歪めをながら、ニノ大司教に向き直った。
「この者たちは、マルチェロ様の現在の地位に不満があるのです。孤児⋯⋯望まれずに生まれて来た者は⋯⋯卑しい身分の者は、神に選ばれなかったが故に、その地位に生まれ落ちたのだと。だから、教会の高位に就く事は、その地位を穢す事になり、許されざる罪なのだと言ったのです!!!」
つい感情的になり、アンジェリカはまた涙を溢した。大司教は、若く美しい娘が泣いている事には同情したが、自らも貴族であるが故に、発言の本質に同意する事は出来なかった。
「お前の献身的な想いは、よう分かった。⋯⋯お前たちも、無用な争いをするでない」
大司教に叱られ、壁際の衛兵は不本意そうな表情で、アンジェリカに微かに頭を下げた。もう一人は、何も気付かずに伸びている。
アンジェリカは、緊張を解き、疲れ果てた表情で積年の疑問を口にした。
「ニノ様。信仰とは何なのでしょうか。聖書の教えは、何処から生まれ、誰のためにあるのでしょうか。⋯⋯貴方の世界に、神様はいるのですか?」
「信仰とは、人々の心を救うものじゃ。わしの心の中には、常に神がおわす」
「例え、どんなに貧しく賤しい身分の者でも、全ての人々が同じ様に救われると言えますか?」
「神に選ばれた魂は救われる。救いを得た結果が、今の人生というもの」
「では何故、教会は貧しい者たちから、祈れば救われると嘘を言って、寄付金を募るのですか?」
アンジェリカの辛辣な言葉に、大司教は遂に返す言葉を失った。
「もう、その辺にしておけ」
マルチェロは、彼女の肩に手を置いて、自分の方に引き寄せた。
「失礼致しました。この娘は悪辣な環境で生活していた故、信仰心を失っているのです。我々が継いで来た教義を、これから良く聞かせるつもりですので」
「聖書の教えなら、良く学びました! されど、その内容と大司教のお言葉には、齟齬がありま──」
「やめろ!」
マルチェロは、アンジェリカの頭を胸に抱き寄せた。彼女も、ニノ大司教も、衛兵も驚いた表情でマルチェロの顔を見た。
「もう良い」
「ですが──」
「もう良い!!」
マルチェロの叱声を聞いて、アンジェリカは、遂にしゃくりあげ始めてしまった。子供の様に、マルチェロに縋り付き、嗚咽を漏らした。
仕方なく、彼女に代わり、マルチェロが大司教と衛兵に頭を下げた。
「普段は冷静な娘です。昨晩、私のために初めて人を刺し殺し、殆ど眠っておりません。戯言と聞き流して頂ければ、幸いです」
「⋯⋯そなたと、教皇様に免じて赦そう」
大司教は大仰に頷き、訝しむ様な目でマルチェロを見た。
「しかし、世が世ならば、異端審問に掛けられるところじゃ」
「申し訳御座いません。この者は、明日にも仲間たちと旅立ちますので、何卒お赦し下さい」
「⋯⋯いいや、娘の事だけではない。そなたの事もじゃ」
「どういう意味でしょう?」
マルチェロは、さっぱり理解出来ず、邪険に聞き返した。
すると、大司教は姿勢を正し、胸の前で手を組んだ。
「アンジェリカに問う」
アンジェリカは、なんとかマルチェロから離れ、作法に則り、胸に手を当てた。
「はい」
「汝、偽証するなかれ」
「⋯⋯はい」
「姦淫の罪を犯してはおらぬか」
「っ?!」
アンジェリカは、驚いて息を呑んでしまった。そして、今更ながら自分の軽々しい行いを恥じた。
「私は、その様な罪を犯してはおりません」
なんとか詰まらずに答えた。
「されど⋯⋯私は第五の戒を破り、人を殺めました。この罪をここに告白し、悔い改める事を誓います」
少女の口上は滑らかで、知性を感じさせた。教会の教えを、キチンと学んでいた事も証明された。大司教は、納得せざるを得なかった。
「⋯⋯それなら良い。マルチェロは、非常に優秀な男じゃ。行く手を遮る様な事があってはならぬ」
「この人が、優秀かどうかは、私に関係ありません」
マルチェロと同じか、それをも凌ぐほど明晰な頭脳を持ったアンジェリカは、落ち着いた声で返した。涙の跡はあるものの、表情は引き締まっており、彼女の美しさを大司教たちに実感させるのに、充分だった。
「この人を護れた事だけが、重要なのです」
あくまで、傭われた身である事を強調し、床に伸びている衛兵の横へ進んで膝を着いた。
「ザオリク」
高位の僧侶でも使いこなせない様な、復活の呪文を息をする様に唱えた。すると、衛兵はカッと目を開き、弾かれた様に起き上がった。反射的に、すぐ横に転がっていた剣を拾い上げると、それを大きく振り上げた。
アンジェリカは、すぐに反応した。短剣を抜き、頭上に掲げる。キンと音が鳴り響き、二つの刃物が噛み合った。
「この恥知らず!」
彼女は左腕でマルチェロの体を押し、自身も一歩下がった。長剣の届かぬ距離に移動してから、短剣を衛兵に投げつけた。それは左肩に浅く突き刺さり、男は呻き声を上げた。
アンジェリカは、体を深く落とし男の懐に潜り込むと、鳩尾に強烈な正拳突きを叩き込んだ。彼は剣を取り落とし、体をくの字に曲げて噎せ返った。
アンジェリカは男の肩から、短剣を乱暴に引き抜き、ベホイミを唱えた。彼は恨みがましい目で、少女を見上げている。
「オディロ院長を殺めたドルマゲスが、教皇様を狙わない事を祈ります」
アンジェリカは、複雑な気持ちで言葉を投げかけた。ドルマゲスの殺人には一貫性が無い。マスター・ライラスを殺めた理由は分からなくも無いが、サーベルト・アルバートと、オディロ院長は、何故殺されたのか。
身分の高い者や、能力の高い者が狙われているかと思えば、マルチェロは生かされ、アスカンタ王は狙われてすらいない。
「奴は、私やマルチェロ様よりも強い。殺された犠牲者は、下々の人間ではありません。ニノ様も⋯⋯標的にされるやも知れません」
「案ずるでない」
ニノ大司教は、首を横に振った。
「私の側にも、法皇様のお側にも、優秀な護衛がおる」
彼は、それから少し考え、予想外の事を口にした。
「アンジェリカ。そなた、わしの護衛を引き受けては──」
「お断りします」
アンジェリカは、素早く答えた。間違っても、過飾の大司教を守りたいとは思わなかった。彼とアンジェリカの価値観には、根本的な相違があり、到底分かり合えないものだ。お互い、どこか知らない場所で、其々に生きていた方が幸せだろう。
「私は、トロデーン国のとある貴人をお護りする役目が御座いますので」
「そうか......それは残念じゃ。しかし、そなたが強い事は、よう分かった。気が向けば何時でも、マルチェロを通じて申し出るが良い」
「心に留めておきます」
アンジェリカは、二度と大司教と会いたいとは思わなかったが、社交辞令で答えた。
大司教は、改めて胸を張り、マルチェロに向き直った。
「では、また半月後に」
「畏まりました」
マルチェロは深々と頭を下げた。大司教は踵を返して階段を降りていった。後ろをついて行く衛兵は、二人とも恨みがましい目でアンジェリカを振り返り、足音を立てながら去っていった。
「中で話そう」
マルチェロは、それだけ言うと、部屋の扉を開けた。アンジェリカを中に入れ、そのまま衝立の裏のベッドへ連れて行き、座らせた。
「何故、大司教に楯突いた? まともに取り合うべき相手ではなかろう」
「悔しかったのです!」
アンジェリカは、手元を見詰めながら声を絞り出した。
「あの人は、神の使者などではありません! 着飾り、聖書の教えを破り、貴方の事を蔑んだのですよ? 貴方が孤児になったのは、貴方のせいではありません!! ましてや、神の思し召しでもない。⋯⋯あの人たちの様な、身勝手な大人のせいです!!」
「⋯⋯お前は」
マルチェロは、言葉を失った。初めて、悲惨な人生の一部を、人に共感され、理解されたのだ。ずっと、誰かに掛けて貰いたかった言葉。
⋯⋯オディロ院長は、憎しみや悲しみを忘れる様にと、マルチェロに語りかけて来た。しかし、彼は親に捨てられた悲しみを忘れられなかったし、その原因となった弟を恨まずにはいられなかった。
ドニの町の住人たちは、顔馴染みのククールに同情的だったし、聖堂騎士団員たちが尊敬していた自分は、憎しみや悲しみをひた隠しにし、勤勉で親切な皮を被った姿だった。
貴方のせいではない。
アンジェリカの優しい言葉は、マルチェロの心に染み渡り、胸のくすぐられる様な、甘く切ない想いを掻き立てた。
「アンジェリカ」
彼は、衝動的に少女を抱き締めていた。
「この先、旅を続ければ、名ばかりの貴族や王族、聖職者に出会う事もあるだろう。堪えろ。軋轢を生めば、お前が苦しむ事になる。近い将来、必ず、私がこの世界の仕組みを変える。生まれた身分や、国や、文化の違いで人を差別せず、実力のある者が地位を得る世界に変えよう」
「貴方なら、出来ます」
アンジェリカは、マルチェロの胸に頬を寄せたまま、呟いた。
「その正しい道を行き、貴方の夢を叶えてください。私は⋯⋯」
彼女は苦渋の決断をした。
「私は、もう此処へは来ません」
マルチェロの返事は無かった。返事が出来なかったのだ。
アンジェリカの判断は、正しい。彼女が側にいれば、マルチェロは甘え、戒律を破り、野心さえも失ってしまうかも知れない。
ほんの一欠片の愛情があれば、人間は幸せになれるのだと知ってしまった。知ってしまった上で、それを手放し、困難な道を選ぶ事の辛さが、身に沁みた。
「でも、マルチェロ様」
アンジェリカは、ゆっくり彼の胸を押し返して、顔を上げた。
「貴方は、修道院を出て生きる事も出来るのですよ?」
それは、マルチェロがこれまで、一度も考えた事の無い道だった。
「貴方は一人でも生きて行ける、大人です。剣の腕も立ち、聡明だから、仕事は簡単に見つかります。腐敗した世界の外で、生きる事も出来るのですよ?」
「生涯、人に雇われて生きろと?」
マルチェロは、声が震えるのを堪えながら問い返した。それだけ、新たな選択肢は魅力的だったのだ。
「王に使えるのも、教皇の剣になるのも、何処かの用心棒になるのも、さほど変わらぬ人生だ。支配者というものは、往々にして傲慢なもの。生憎、私は人に命令されるのが嫌いでね」
「⋯⋯貴方がそうと決めたのなら、私は信じて応援しています」
アンジェリカは、優しく、けれど少し寂しそうに微笑んだ。触れたら壊れてしまいそうな繊細な表情に、マルチェロは完全に心を支配されていた。
「明日、此処を出て行くのなら、一つだけ頼みがある」
「⋯⋯何でしょう?」
「もう一度だけ、やり直させてくれ」
「何を⋯⋯ですか?」
「私のものになれ」
マルチェロの声は、ぞっとするほど低く、魅力的だった。アンジェリカは、全身が粟立つのを感じ、凍り付いた様に動けなくなってしまった。
「あの⋯⋯それは──」
「私はこの先、二度と七番目の戒律を破らないと誓う」
「嫌です! あんな痛い事を、私が望むとお思いですか?!」
「今度は、しっかり慣らしてやる」
「疲れています」
「それなら、食事の後、深夜まで休め。その間に私が、写本の作業を終わらせ、起こす」
「なんて勝手な人なの!!」
アンジェリカは、敬語も忘れて声を張り上げていた。しかし、マルチェロは引かなかった。
「深夜に起こす」
「貴方は⋯⋯どうしてこんなに、強引なんですか! 私は⋯⋯怖い。とても、怖かった⋯⋯」
アンジェリカは、また啜り泣き初めてしまった。元来彼女は泣き虫では無い。精神も体力も消耗し、疲れ果てていたのだ。
マルチェロは、彼女の背中をさすり、頭を撫でた。昔、孤児たちを慰めていた時と同じ様に。か弱い少女に、それでも救いを求めてしまう自分が情けなかった。
扉を、叩く音がした。修道士見習いの誰かが、気を利かせ食事を運んできたのだろう。
マルチェロは、アンジェリカを解放し、執務用の席に掛けてから、入室を許可した。
「過保護な姉の様じゃな」
「あれが、姉に見えますか。私よりも一回りは歳下です」
マルチェロは、思わず笑みをこぼしてしまった。
「腕は立つのですよ。そこらの、一山いくらの騎士とはワケが違う」
「ふむ。確かに、強い魔法の力をもっておるようじゃ」
大司教の言葉を、マルチェロは意外に思った。中年の、やたらと下品に着飾った男が、少しでも魔法の心得があるとは思っていなかったのだ。
「⋯⋯お話とは?」
「うむ。実はのう、聖地ゴルドの警備を、聖堂騎士団に依頼したいと思ってな」
「聖地ゴルドの?!」
マルチェロは、つい食い気味に繰り返していた。
「しかし、ご存知の通り、聖堂騎士団員の多くは孤児です。私も含めて」
「わしは、実力をかっておるのじゃ。今後のお前の心掛け次第で、未来は変わってくるじゃろう」
悪びれもせずに言う大司教に、マルチェロは心底幻滅した。こんな業突く張りが、教会の上層部にいる事も、それを法皇が見過ごしている事も、許せなかった。
金と生まれつきの権力にモノを言わせ、人々を支配していると思うと、吐き気がした。
そんな世界を⋯⋯世の中の仕組みを変えるために、マルチェロは机の引き出しを開け、小さな絹の布を取り出した。つまり、それに包まれている物は、絹よりも高価だという事だ。
「旅の商人が、寄進していった物です」
マルチェロが差し出すと、大司教は重々しく頷き、品物を受け取った。絹の布をめくると、血のように赤い、怪しい美しさを醸す原石が現れた。
「ほう! これはサザンビークの王家に伝わる⋯⋯」
「アルゴンハートです。売り払えば、ここで暮らす者の一月分の生活費になります。しかし、我々は清貧を美徳とする騎士の集まり。ニノ大司教こそ、この宝石の価値を、存分に引き出せる事と思います」
マルチェロは、さりげなく嫌味を言ったつもりだったが、宝石に目を奪われた大司教は、既にうわの空で、何も言い返してはこなかった。
丁寧に原石を包み直すと、用心深く懐に収め、呆れるほど満面の笑みで頷いた。
「お前の心は、しかと受け取った。半月後までに、精鋭を集めておくが良い」
「畏まり──」
マルチェロが頭を下げた瞬間。
ドーンと轟音が響き、天井からハラハラと細かい埃が降ってきた。
マルチェロは、つかつかと部屋を横切り、音を立てて扉を開け放った。
すると、ニノ大司教の護衛をしていた衛兵の一人が、部屋の中に倒れ込んで来た。
「騒ぎを起こすなと言っただろう!」
「流血沙汰にはなっていません。加減しましたから」
アンジェリカは、涼しい表情で答え、壁に張り付いて震えている、もう一人の衛兵を睨んだ。
「さあ、先ほどの言葉を取り消して下さい!!」
「事実を言ったまでだ!」
惨めに裏返った声で、衛兵は叫んだ。アンジェリカがその胸倉を掴んだので、マルチェロは慌てて間に入った。
「アンジェリカ、良い加減にしろ!」
叱声を浴び、彼女は目を見開いた。そして、ハラハラと涙を溢した。
「この人たちは、貴方を⋯⋯ここの騎士達を侮辱したのです!!! ⋯⋯見ないでください」
顔を伏せて袖で拭い、きっとした表情で衛兵と向き合った。
「怯える事しか出来ないのですか?! 貴族が⋯⋯神に選ばれた人間が!! 」
「⋯⋯っ貴様、剣で勝負をしろ!!」
往生際悪く抜剣した男に、アンジェリカは右手の人差し指一本を突き付けた。命の力を身体から奪い、死の直前まで追い詰める呪文、ザキを唱えるのには、指一本あれば十分だ。
「寝言は寝てからどうぞ」
アンジェリカは、冷ややかな口調で言い放ち、衛兵を突き放した。
「神聖な教会の中ではどうか知りませんが、世の中に出れば、正々堂々と型通りの動きで剣を振るう者など、おりません。先ほどの言葉を取り消す気が無いのでしたら、神の御意思を尊重しましょう。私が死の呪いを唱えようとも、選ばれた血筋である貴方の事は、きっと神が守ってくださる事でしょう」
「お⋯⋯あ⋯⋯人を斬った事も無い女が、よくも──」
「私は人を殺せます」
アンジェリカの言葉に、その場にいる全員が震え上がった。
「用心棒ですから」
彼女は超然としていた。まるで、か弱い女性の皮を被った魔物の様に、全身から魔法の力を溢れさせている。
「⋯⋯何を言われた?」
マルチェロは、そっとアンジェリカの腕に手を載せて訊ねた。彼女は悔しそうに顔を歪めをながら、ニノ大司教に向き直った。
「この者たちは、マルチェロ様の現在の地位に不満があるのです。孤児⋯⋯望まれずに生まれて来た者は⋯⋯卑しい身分の者は、神に選ばれなかったが故に、その地位に生まれ落ちたのだと。だから、教会の高位に就く事は、その地位を穢す事になり、許されざる罪なのだと言ったのです!!!」
つい感情的になり、アンジェリカはまた涙を溢した。大司教は、若く美しい娘が泣いている事には同情したが、自らも貴族であるが故に、発言の本質に同意する事は出来なかった。
「お前の献身的な想いは、よう分かった。⋯⋯お前たちも、無用な争いをするでない」
大司教に叱られ、壁際の衛兵は不本意そうな表情で、アンジェリカに微かに頭を下げた。もう一人は、何も気付かずに伸びている。
アンジェリカは、緊張を解き、疲れ果てた表情で積年の疑問を口にした。
「ニノ様。信仰とは何なのでしょうか。聖書の教えは、何処から生まれ、誰のためにあるのでしょうか。⋯⋯貴方の世界に、神様はいるのですか?」
「信仰とは、人々の心を救うものじゃ。わしの心の中には、常に神がおわす」
「例え、どんなに貧しく賤しい身分の者でも、全ての人々が同じ様に救われると言えますか?」
「神に選ばれた魂は救われる。救いを得た結果が、今の人生というもの」
「では何故、教会は貧しい者たちから、祈れば救われると嘘を言って、寄付金を募るのですか?」
アンジェリカの辛辣な言葉に、大司教は遂に返す言葉を失った。
「もう、その辺にしておけ」
マルチェロは、彼女の肩に手を置いて、自分の方に引き寄せた。
「失礼致しました。この娘は悪辣な環境で生活していた故、信仰心を失っているのです。我々が継いで来た教義を、これから良く聞かせるつもりですので」
「聖書の教えなら、良く学びました! されど、その内容と大司教のお言葉には、齟齬がありま──」
「やめろ!」
マルチェロは、アンジェリカの頭を胸に抱き寄せた。彼女も、ニノ大司教も、衛兵も驚いた表情でマルチェロの顔を見た。
「もう良い」
「ですが──」
「もう良い!!」
マルチェロの叱声を聞いて、アンジェリカは、遂にしゃくりあげ始めてしまった。子供の様に、マルチェロに縋り付き、嗚咽を漏らした。
仕方なく、彼女に代わり、マルチェロが大司教と衛兵に頭を下げた。
「普段は冷静な娘です。昨晩、私のために初めて人を刺し殺し、殆ど眠っておりません。戯言と聞き流して頂ければ、幸いです」
「⋯⋯そなたと、教皇様に免じて赦そう」
大司教は大仰に頷き、訝しむ様な目でマルチェロを見た。
「しかし、世が世ならば、異端審問に掛けられるところじゃ」
「申し訳御座いません。この者は、明日にも仲間たちと旅立ちますので、何卒お赦し下さい」
「⋯⋯いいや、娘の事だけではない。そなたの事もじゃ」
「どういう意味でしょう?」
マルチェロは、さっぱり理解出来ず、邪険に聞き返した。
すると、大司教は姿勢を正し、胸の前で手を組んだ。
「アンジェリカに問う」
アンジェリカは、なんとかマルチェロから離れ、作法に則り、胸に手を当てた。
「はい」
「汝、偽証するなかれ」
「⋯⋯はい」
「姦淫の罪を犯してはおらぬか」
「っ?!」
アンジェリカは、驚いて息を呑んでしまった。そして、今更ながら自分の軽々しい行いを恥じた。
「私は、その様な罪を犯してはおりません」
なんとか詰まらずに答えた。
「されど⋯⋯私は第五の戒を破り、人を殺めました。この罪をここに告白し、悔い改める事を誓います」
少女の口上は滑らかで、知性を感じさせた。教会の教えを、キチンと学んでいた事も証明された。大司教は、納得せざるを得なかった。
「⋯⋯それなら良い。マルチェロは、非常に優秀な男じゃ。行く手を遮る様な事があってはならぬ」
「この人が、優秀かどうかは、私に関係ありません」
マルチェロと同じか、それをも凌ぐほど明晰な頭脳を持ったアンジェリカは、落ち着いた声で返した。涙の跡はあるものの、表情は引き締まっており、彼女の美しさを大司教たちに実感させるのに、充分だった。
「この人を護れた事だけが、重要なのです」
あくまで、傭われた身である事を強調し、床に伸びている衛兵の横へ進んで膝を着いた。
「ザオリク」
高位の僧侶でも使いこなせない様な、復活の呪文を息をする様に唱えた。すると、衛兵はカッと目を開き、弾かれた様に起き上がった。反射的に、すぐ横に転がっていた剣を拾い上げると、それを大きく振り上げた。
アンジェリカは、すぐに反応した。短剣を抜き、頭上に掲げる。キンと音が鳴り響き、二つの刃物が噛み合った。
「この恥知らず!」
彼女は左腕でマルチェロの体を押し、自身も一歩下がった。長剣の届かぬ距離に移動してから、短剣を衛兵に投げつけた。それは左肩に浅く突き刺さり、男は呻き声を上げた。
アンジェリカは、体を深く落とし男の懐に潜り込むと、鳩尾に強烈な正拳突きを叩き込んだ。彼は剣を取り落とし、体をくの字に曲げて噎せ返った。
アンジェリカは男の肩から、短剣を乱暴に引き抜き、ベホイミを唱えた。彼は恨みがましい目で、少女を見上げている。
「オディロ院長を殺めたドルマゲスが、教皇様を狙わない事を祈ります」
アンジェリカは、複雑な気持ちで言葉を投げかけた。ドルマゲスの殺人には一貫性が無い。マスター・ライラスを殺めた理由は分からなくも無いが、サーベルト・アルバートと、オディロ院長は、何故殺されたのか。
身分の高い者や、能力の高い者が狙われているかと思えば、マルチェロは生かされ、アスカンタ王は狙われてすらいない。
「奴は、私やマルチェロ様よりも強い。殺された犠牲者は、下々の人間ではありません。ニノ様も⋯⋯標的にされるやも知れません」
「案ずるでない」
ニノ大司教は、首を横に振った。
「私の側にも、法皇様のお側にも、優秀な護衛がおる」
彼は、それから少し考え、予想外の事を口にした。
「アンジェリカ。そなた、わしの護衛を引き受けては──」
「お断りします」
アンジェリカは、素早く答えた。間違っても、過飾の大司教を守りたいとは思わなかった。彼とアンジェリカの価値観には、根本的な相違があり、到底分かり合えないものだ。お互い、どこか知らない場所で、其々に生きていた方が幸せだろう。
「私は、トロデーン国のとある貴人をお護りする役目が御座いますので」
「そうか......それは残念じゃ。しかし、そなたが強い事は、よう分かった。気が向けば何時でも、マルチェロを通じて申し出るが良い」
「心に留めておきます」
アンジェリカは、二度と大司教と会いたいとは思わなかったが、社交辞令で答えた。
大司教は、改めて胸を張り、マルチェロに向き直った。
「では、また半月後に」
「畏まりました」
マルチェロは深々と頭を下げた。大司教は踵を返して階段を降りていった。後ろをついて行く衛兵は、二人とも恨みがましい目でアンジェリカを振り返り、足音を立てながら去っていった。
「中で話そう」
マルチェロは、それだけ言うと、部屋の扉を開けた。アンジェリカを中に入れ、そのまま衝立の裏のベッドへ連れて行き、座らせた。
「何故、大司教に楯突いた? まともに取り合うべき相手ではなかろう」
「悔しかったのです!」
アンジェリカは、手元を見詰めながら声を絞り出した。
「あの人は、神の使者などではありません! 着飾り、聖書の教えを破り、貴方の事を蔑んだのですよ? 貴方が孤児になったのは、貴方のせいではありません!! ましてや、神の思し召しでもない。⋯⋯あの人たちの様な、身勝手な大人のせいです!!」
「⋯⋯お前は」
マルチェロは、言葉を失った。初めて、悲惨な人生の一部を、人に共感され、理解されたのだ。ずっと、誰かに掛けて貰いたかった言葉。
⋯⋯オディロ院長は、憎しみや悲しみを忘れる様にと、マルチェロに語りかけて来た。しかし、彼は親に捨てられた悲しみを忘れられなかったし、その原因となった弟を恨まずにはいられなかった。
ドニの町の住人たちは、顔馴染みのククールに同情的だったし、聖堂騎士団員たちが尊敬していた自分は、憎しみや悲しみをひた隠しにし、勤勉で親切な皮を被った姿だった。
貴方のせいではない。
アンジェリカの優しい言葉は、マルチェロの心に染み渡り、胸のくすぐられる様な、甘く切ない想いを掻き立てた。
「アンジェリカ」
彼は、衝動的に少女を抱き締めていた。
「この先、旅を続ければ、名ばかりの貴族や王族、聖職者に出会う事もあるだろう。堪えろ。軋轢を生めば、お前が苦しむ事になる。近い将来、必ず、私がこの世界の仕組みを変える。生まれた身分や、国や、文化の違いで人を差別せず、実力のある者が地位を得る世界に変えよう」
「貴方なら、出来ます」
アンジェリカは、マルチェロの胸に頬を寄せたまま、呟いた。
「その正しい道を行き、貴方の夢を叶えてください。私は⋯⋯」
彼女は苦渋の決断をした。
「私は、もう此処へは来ません」
マルチェロの返事は無かった。返事が出来なかったのだ。
アンジェリカの判断は、正しい。彼女が側にいれば、マルチェロは甘え、戒律を破り、野心さえも失ってしまうかも知れない。
ほんの一欠片の愛情があれば、人間は幸せになれるのだと知ってしまった。知ってしまった上で、それを手放し、困難な道を選ぶ事の辛さが、身に沁みた。
「でも、マルチェロ様」
アンジェリカは、ゆっくり彼の胸を押し返して、顔を上げた。
「貴方は、修道院を出て生きる事も出来るのですよ?」
それは、マルチェロがこれまで、一度も考えた事の無い道だった。
「貴方は一人でも生きて行ける、大人です。剣の腕も立ち、聡明だから、仕事は簡単に見つかります。腐敗した世界の外で、生きる事も出来るのですよ?」
「生涯、人に雇われて生きろと?」
マルチェロは、声が震えるのを堪えながら問い返した。それだけ、新たな選択肢は魅力的だったのだ。
「王に使えるのも、教皇の剣になるのも、何処かの用心棒になるのも、さほど変わらぬ人生だ。支配者というものは、往々にして傲慢なもの。生憎、私は人に命令されるのが嫌いでね」
「⋯⋯貴方がそうと決めたのなら、私は信じて応援しています」
アンジェリカは、優しく、けれど少し寂しそうに微笑んだ。触れたら壊れてしまいそうな繊細な表情に、マルチェロは完全に心を支配されていた。
「明日、此処を出て行くのなら、一つだけ頼みがある」
「⋯⋯何でしょう?」
「もう一度だけ、やり直させてくれ」
「何を⋯⋯ですか?」
「私のものになれ」
マルチェロの声は、ぞっとするほど低く、魅力的だった。アンジェリカは、全身が粟立つのを感じ、凍り付いた様に動けなくなってしまった。
「あの⋯⋯それは──」
「私はこの先、二度と七番目の戒律を破らないと誓う」
「嫌です! あんな痛い事を、私が望むとお思いですか?!」
「今度は、しっかり慣らしてやる」
「疲れています」
「それなら、食事の後、深夜まで休め。その間に私が、写本の作業を終わらせ、起こす」
「なんて勝手な人なの!!」
アンジェリカは、敬語も忘れて声を張り上げていた。しかし、マルチェロは引かなかった。
「深夜に起こす」
「貴方は⋯⋯どうしてこんなに、強引なんですか! 私は⋯⋯怖い。とても、怖かった⋯⋯」
アンジェリカは、また啜り泣き初めてしまった。元来彼女は泣き虫では無い。精神も体力も消耗し、疲れ果てていたのだ。
マルチェロは、彼女の背中をさすり、頭を撫でた。昔、孤児たちを慰めていた時と同じ様に。か弱い少女に、それでも救いを求めてしまう自分が情けなかった。
扉を、叩く音がした。修道士見習いの誰かが、気を利かせ食事を運んできたのだろう。
マルチェロは、アンジェリカを解放し、執務用の席に掛けてから、入室を許可した。