マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
06:大聖堂へ至る陰謀編〜1〜
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「アンジェリカ殿。宜しいですか?」
ジーノは、階段の下から声を掛けた。上階からくぐもった声で返事が聞こえたので、彼はゆっくりと少女の元へと向かった。
彼女は、かつてオディロ院長が使っていたベッドに横になっていたが、ジーノの姿を目にし、体を起こした。
白い法衣を纏い、酷く疲れた表情で微笑んだ。
「貴方が⋯⋯ジーノさんだったのですね」
アンジェリカが、以前マイエラ修道院に立ち寄った時、マルチェロの部屋にククールの件で駆け込んで来た騎士だ。
「私の仲間を助けてくださったと、サージュが教えてくれました。⋯⋯本当にありがとうございます」
「⋯⋯いえ」
ジーノは、手に持って来た薬湯に視線を落とした。マルチェロから極秘に頼まれたもので、鹿蹄草を煎じたものだ。
彼はベッドのすぐ側に片膝を着き、アンジェリカに器を差し出した。
「何故⋯⋯何故この様な薬が必要なのか、お聞きしない方が宜しいのでしょうね?」
「貴方なら、そんな不躾な質問をしないと思ったから、マルチェロ様が此処へ運ぶ様に命令されたのでしょうね」
アンジェリカは、素直に受け取り、一気に飲み干した。当然だが、途轍も無く苦く、危うく吐きそうになった。何とか堪えて、器をジーノに返し言葉を探す。
「⋯⋯あの人を、宜しくお願いします」
「私には、分からない」
ジーノは目を伏せた。
「あの方は、我々の様な出生の不確かな者にとって、憧れの存在でした。勤勉で、剣の腕も優れていましたので」
「今でもそうですよ」
アンジェリカは、口の中に残った苦さを、何とか消そうと努力しながら訂正した。
「勤勉で、強く、目的の為になら残酷になれる人です」
「私は⋯⋯正直失望しました。そして、恐ろしいと感じている。⋯⋯貴女を殺せと言う様な人間を助けた事が、本当に正しかったのか分かりません」
「ジーノさん」
アンジェリカは、苦悩する騎士に優しく語り掛けた。
「人の命を救った事が、間違いだなんてあり得ません」
「だが、たった一人の人間を救うために、何人殺した? それだけの罪を犯す価値が、本当にあったのか?! 私には⋯⋯分からない」
ジーノは、草臥れた様子で顔を覆い、俯いてしまった。
「あの方が変わって仕舞われたのか⋯⋯私が見誤っていただけなのか⋯⋯」
「マルチェロ様は、意志の強い方です」
アンジェリカは、慎重に言葉を選んだ。
「強く、熱心で、これが正しいと決めたら、梃子でも動かない性格だと思います。だから、あの人の側には、善良な人間が必要なのです。⋯⋯例え、道を誤ったとしても、あの人なら突き進んでしまう⋯⋯。強過ぎるから、か細い善意の声は届かないのです」
「⋯⋯私に、彼の方を止めろと?」
ジーノは顔を上げて弱々しく笑った。
「私は、剣の訓練で、一度もあの方に勝てた事はありません。学問でも」
「あの人は、寂しい人なんです」
アンジェリカは、辛抱強く続けた。マルチェロが、獣の様に、衝動的に彼女を求めたのは、不安に支配されていたからだ。
「マルチェロ様は、誰も信じていません。信じられないのです。居場所を奪われる事を恐れて、虎狼の様に人を傷付けるのです。他人も、自分も同じ様に。⋯⋯誰か一人でも、心の許せる者が側にいれば⋯⋯オディロ院長がそうであった様に⋯⋯あの人を、優秀で人を惹きつける、素晴らしい騎士のままでいさせる事が出来るでしょう」
「私には荷が重過ぎます」
ジーノは、首を横に振った。
「それに、あの方は⋯⋯誰よりも貴女の事を信頼しておられます」
「私⋯⋯を?」
「はい。⋯⋯不思議に思われるかも知れませんが、貴女の事を⋯⋯マルチェロ様は、姉の様に慕っている気がするのです」
ジーノの言葉に、アンジェリカは、何度も瞬いた。一回りも年上のマルチェロが、自分を姉と慕っている姿が、全く想像できなかったのだ。
「考えられません。寧ろあの人は、私にとって兄の様な存在です」
「こんなに辛い思いをしても、あの方を兄と呼べる貴女の優しさに、甘えている様に思えるのです」
ジーノは、器に視線を落とした。この薬湯は、望まぬ辱めを受けた女性を救うために、修道院が調合するものだ。
彼は、石のように口を閉ざしたサージュと、すれ違った。少年の顔は引き攣り、絶望に沈んでいた。何か、酷いものを目にしたばかりの様に。
ジーノは嫌な予感がしたが、その後マルチェロに呼び出され、調薬を命じられた瞬間に、自分の勘が当たっていた事を知った。
「私の様な者に訊かれるのは嫌かも知れませんが、どこか具合の悪い所はありませんか? 修道院にあるものでしたら、どんな薬でもお持ちします」
「⋯⋯全身が、軋む様に痛みます」
アンジェリカは、自分の体を抱き締めながら答えた。その痛みを受け止め、漸く実感が湧いてきた。手酷いやり方で、純潔を奪われてしまったのだと。
行為の最中、優しさは感じられなかった。殆ど一方的に背後から攻められ、わけもわからぬ内に全てが終わっていたのだ。
彼女は、一筋の涙を零した。後悔が、さざ波の様に押し寄せ、心を揺さぶる。
「⋯⋯私が馬鹿でした。私がマルチェロ様に、戒律を破らせてしまったのです」
「貴女が昨日此処を訪れていなければ、あの方は殺されていた。謀反人と呪いに」
ジーノは、漸く気持ちが固まり、アンジェリカの肩に手を置いた。彼女が怯えた様にびくりと震えたので、彼は弾かれた様に手を離した。
「すまない。⋯⋯私では力不足やも知れんが、可能な限り、マルチェロ様をお支えすると誓う。身を呈してあの方を守ろうとした、貴女が報われる様に」
「ありがとう⋯⋯本当にありがとうございます」
アンジェリカは、何度も礼を言い、涙を零した。本当は、自分が近くにいたかった。しかし、彼女にはドルマゲス⋯⋯かつての家族の蛮行を止める使命がある。
「もう当分、此処へは来ません。間も無くこの大陸を出る事になるでしょうし、マルチェロ様に悪評が立つ様な真似はしたくありませんから」
「そうですか⋯⋯」
ジーノは、アンジェリカの先行きを思って、暗い気持ちになった。オディロ院長を殺した道化師は、マルチェロですら歯が立たないほど強かったのだ。
青白い顔で、自分を抱きしめて震える少女が、本当に勝てるのか⋯⋯彼には分からなかった。
「せめて、祈らせて頂きます。貴女の旅が無事に終わる様」
ジーノは胸に手を当てて、深々と一礼し、立ち上がった。
そして、階段の所まで行き、凍りついた。丁度、マルチェロが上がって来た所だった。
「マルチェロ様⋯⋯アンジェリカ殿は⋯⋯疲れています」
「知っている」
マルチェロは素っ気なく応え、ジーノの横をすり抜けようとした。
ジーノは、堪らず彼の腕を掴んでいた。チラリとアンジェリカの方を見ると、彼女は無表情に首を横に振った。
「ジーノさん、お気遣いをありがとうございます。貴方もお休みになってください」
「しかし⋯⋯」
ジーノは、マルチェロとアンジェリカの顔を交互に見遣った。そして、結局立ち去るより他に無かった。疲れ果てた頭では、適当な言い訳も考える事が出来なかったのだ。
彼が階段を降り、建物の外へ出た音を確認してから、マルチェロはゆっくりとアンジェリカの元へ歩み寄った。抜け殻の様な表情で彼女を見下ろし、唐突に膝をついた。
「⋯⋯マルチェロ様?」
黙ったまま、一言も発しない彼に、アンジェリカは恐る恐る声を掛けた。
「何か⋯⋯あったのですか?」
「夜⋯⋯サヴェッラから大司教が来る。それまでに少しでも睡眠を摂りたいのだが⋯⋯」
「⋯⋯はい?」
「⋯⋯すまない」
マルチェロは、小さな声で呟き、アンジェリカの体を包む様に抱き締めた。
「マル⋯⋯チェロ様!」
アンジェリカは、驚きの余り目を見開いた。マルチェロの体が、頼りなく震えていたのだ。
「すまない⋯⋯許してくれ! ⋯⋯私は⋯⋯私は」
「マルチェロ様、落ち着いて下さい!」
アンジェリカは、自分よりもずっと大きな体に腕を伸ばし、精一杯抱き締め、背中を摩った。
「大丈夫ですよ。⋯⋯私は大丈夫です。だから、落ち着いて下さい。ね?」
幼い子供をあやす様に、穏やかな口調で語り掛けると、マルチェロは次第に平静を取り戻していった。
アンジェリカは、ジーノの言葉を思い出し、姉になった様な気持ちで、マルチェロの両肩に手を置いた。
「私の事は、もう良いのです。気に病まないでください」
「アンジェリカ⋯⋯。私は、知らなかったのだ」
マルチェロは、彼女の頬に手を添えた。
「あれほど痛がるものとは、知らなかった。これまで一度も、そんな事を気にした事が無かっ──」
「やめて下さい!!」
アンジェリカは、胸を突かれた様な衝撃と、悲しみを感じて声を荒げた。無理矢理抱かれた事よりも、今のマルチェロの言葉の方が、数倍苦しかった。
「貴方が、他の誰かと過ごした時の話なんて、聞きたくないです!!」
やはり、と、彼女は思い直した。マルチェロの姉になる事は出来ないのだ。生まれて初めて、身を焼く程の嫉妬心を抱いていた。
「貴方が⋯⋯小指の爪の先ほどでも、私を思って下さったのなら、私は⋯⋯私は、もう、それだけで良いのです」
なんとか、そう言い切り、彼女はマルチェロのエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐ見据えた。
「何か、お困りなのですね? どうぞ遠慮なさらずに、仰ってください」
「眠れない」
マルチェロは、アンジェリカの肩に額を押し付けた。
「眠りに落ちそうになると、不意に不安になる。他にも敵が潜んでいるのでは無いか⋯⋯お前が⋯⋯お前が、何処か知れぬ場所で命を落とすのでは無いか、と!!」
「大丈夫です」
アンジェリカは、しっかりとした口調で断言し、立ち上がった。その瞬間、腹部に鈍い痛みが奔り、マルチェロの肩に手を置いてしまった。
「アンジェリカっ!」
「平気ですよ。⋯⋯お部屋に戻りましょう、マルチェロ様。貴方が眠りに落ちるまで、お側にいます。テーブルと筆記用具を貸していただければ、写本の作業を進めておきます。明日までに、アスカンタへ届ける書籍を用意する必要がありますから。⋯⋯修道士見習いの部屋では、気が散ると言い訳しましょう」
差し出されたアンジェリカの手に、マルチェロは恐る恐る触れた。ただ、手を繋いだだけなのに、喉の奥に詰まっていたものが取れ、呼吸が楽になった。拒絶されなかった事に対する安堵が、彼の脳を正常レベルの思考が出来るまでに回復させた。
「すまない。⋯⋯私には、お前に触れる資格など無かった」
「でも、私は、貴方が良かった」
アンジェリカの微笑みは、底なしの優しさで溢れていた。
あまりの眩しさに、マルチェロは目を逸らしてしまった。階段を、彼女の細い体を支えながら降り、ふと、疑問が浮かんだ。
「アンジェリカ、お前は、何故そんなに強いのだ?」
「父と母、養父に、オディロ院長のお陰です」
苦しい事は沢山あった。しかし、乗り越えられない苦しみは、一つも無かった。だから、彼女は、信じて歩き続けられるのだ。
外は、昨夜の蛮行が嘘の様に、晴れ渡っていた。
マルチェロが前を、アンジェリカがその少し後ろを、其々の足で宿舎へと向かい、歩いて行った。
ジーノは、階段の下から声を掛けた。上階からくぐもった声で返事が聞こえたので、彼はゆっくりと少女の元へと向かった。
彼女は、かつてオディロ院長が使っていたベッドに横になっていたが、ジーノの姿を目にし、体を起こした。
白い法衣を纏い、酷く疲れた表情で微笑んだ。
「貴方が⋯⋯ジーノさんだったのですね」
アンジェリカが、以前マイエラ修道院に立ち寄った時、マルチェロの部屋にククールの件で駆け込んで来た騎士だ。
「私の仲間を助けてくださったと、サージュが教えてくれました。⋯⋯本当にありがとうございます」
「⋯⋯いえ」
ジーノは、手に持って来た薬湯に視線を落とした。マルチェロから極秘に頼まれたもので、鹿蹄草を煎じたものだ。
彼はベッドのすぐ側に片膝を着き、アンジェリカに器を差し出した。
「何故⋯⋯何故この様な薬が必要なのか、お聞きしない方が宜しいのでしょうね?」
「貴方なら、そんな不躾な質問をしないと思ったから、マルチェロ様が此処へ運ぶ様に命令されたのでしょうね」
アンジェリカは、素直に受け取り、一気に飲み干した。当然だが、途轍も無く苦く、危うく吐きそうになった。何とか堪えて、器をジーノに返し言葉を探す。
「⋯⋯あの人を、宜しくお願いします」
「私には、分からない」
ジーノは目を伏せた。
「あの方は、我々の様な出生の不確かな者にとって、憧れの存在でした。勤勉で、剣の腕も優れていましたので」
「今でもそうですよ」
アンジェリカは、口の中に残った苦さを、何とか消そうと努力しながら訂正した。
「勤勉で、強く、目的の為になら残酷になれる人です」
「私は⋯⋯正直失望しました。そして、恐ろしいと感じている。⋯⋯貴女を殺せと言う様な人間を助けた事が、本当に正しかったのか分かりません」
「ジーノさん」
アンジェリカは、苦悩する騎士に優しく語り掛けた。
「人の命を救った事が、間違いだなんてあり得ません」
「だが、たった一人の人間を救うために、何人殺した? それだけの罪を犯す価値が、本当にあったのか?! 私には⋯⋯分からない」
ジーノは、草臥れた様子で顔を覆い、俯いてしまった。
「あの方が変わって仕舞われたのか⋯⋯私が見誤っていただけなのか⋯⋯」
「マルチェロ様は、意志の強い方です」
アンジェリカは、慎重に言葉を選んだ。
「強く、熱心で、これが正しいと決めたら、梃子でも動かない性格だと思います。だから、あの人の側には、善良な人間が必要なのです。⋯⋯例え、道を誤ったとしても、あの人なら突き進んでしまう⋯⋯。強過ぎるから、か細い善意の声は届かないのです」
「⋯⋯私に、彼の方を止めろと?」
ジーノは顔を上げて弱々しく笑った。
「私は、剣の訓練で、一度もあの方に勝てた事はありません。学問でも」
「あの人は、寂しい人なんです」
アンジェリカは、辛抱強く続けた。マルチェロが、獣の様に、衝動的に彼女を求めたのは、不安に支配されていたからだ。
「マルチェロ様は、誰も信じていません。信じられないのです。居場所を奪われる事を恐れて、虎狼の様に人を傷付けるのです。他人も、自分も同じ様に。⋯⋯誰か一人でも、心の許せる者が側にいれば⋯⋯オディロ院長がそうであった様に⋯⋯あの人を、優秀で人を惹きつける、素晴らしい騎士のままでいさせる事が出来るでしょう」
「私には荷が重過ぎます」
ジーノは、首を横に振った。
「それに、あの方は⋯⋯誰よりも貴女の事を信頼しておられます」
「私⋯⋯を?」
「はい。⋯⋯不思議に思われるかも知れませんが、貴女の事を⋯⋯マルチェロ様は、姉の様に慕っている気がするのです」
ジーノの言葉に、アンジェリカは、何度も瞬いた。一回りも年上のマルチェロが、自分を姉と慕っている姿が、全く想像できなかったのだ。
「考えられません。寧ろあの人は、私にとって兄の様な存在です」
「こんなに辛い思いをしても、あの方を兄と呼べる貴女の優しさに、甘えている様に思えるのです」
ジーノは、器に視線を落とした。この薬湯は、望まぬ辱めを受けた女性を救うために、修道院が調合するものだ。
彼は、石のように口を閉ざしたサージュと、すれ違った。少年の顔は引き攣り、絶望に沈んでいた。何か、酷いものを目にしたばかりの様に。
ジーノは嫌な予感がしたが、その後マルチェロに呼び出され、調薬を命じられた瞬間に、自分の勘が当たっていた事を知った。
「私の様な者に訊かれるのは嫌かも知れませんが、どこか具合の悪い所はありませんか? 修道院にあるものでしたら、どんな薬でもお持ちします」
「⋯⋯全身が、軋む様に痛みます」
アンジェリカは、自分の体を抱き締めながら答えた。その痛みを受け止め、漸く実感が湧いてきた。手酷いやり方で、純潔を奪われてしまったのだと。
行為の最中、優しさは感じられなかった。殆ど一方的に背後から攻められ、わけもわからぬ内に全てが終わっていたのだ。
彼女は、一筋の涙を零した。後悔が、さざ波の様に押し寄せ、心を揺さぶる。
「⋯⋯私が馬鹿でした。私がマルチェロ様に、戒律を破らせてしまったのです」
「貴女が昨日此処を訪れていなければ、あの方は殺されていた。謀反人と呪いに」
ジーノは、漸く気持ちが固まり、アンジェリカの肩に手を置いた。彼女が怯えた様にびくりと震えたので、彼は弾かれた様に手を離した。
「すまない。⋯⋯私では力不足やも知れんが、可能な限り、マルチェロ様をお支えすると誓う。身を呈してあの方を守ろうとした、貴女が報われる様に」
「ありがとう⋯⋯本当にありがとうございます」
アンジェリカは、何度も礼を言い、涙を零した。本当は、自分が近くにいたかった。しかし、彼女にはドルマゲス⋯⋯かつての家族の蛮行を止める使命がある。
「もう当分、此処へは来ません。間も無くこの大陸を出る事になるでしょうし、マルチェロ様に悪評が立つ様な真似はしたくありませんから」
「そうですか⋯⋯」
ジーノは、アンジェリカの先行きを思って、暗い気持ちになった。オディロ院長を殺した道化師は、マルチェロですら歯が立たないほど強かったのだ。
青白い顔で、自分を抱きしめて震える少女が、本当に勝てるのか⋯⋯彼には分からなかった。
「せめて、祈らせて頂きます。貴女の旅が無事に終わる様」
ジーノは胸に手を当てて、深々と一礼し、立ち上がった。
そして、階段の所まで行き、凍りついた。丁度、マルチェロが上がって来た所だった。
「マルチェロ様⋯⋯アンジェリカ殿は⋯⋯疲れています」
「知っている」
マルチェロは素っ気なく応え、ジーノの横をすり抜けようとした。
ジーノは、堪らず彼の腕を掴んでいた。チラリとアンジェリカの方を見ると、彼女は無表情に首を横に振った。
「ジーノさん、お気遣いをありがとうございます。貴方もお休みになってください」
「しかし⋯⋯」
ジーノは、マルチェロとアンジェリカの顔を交互に見遣った。そして、結局立ち去るより他に無かった。疲れ果てた頭では、適当な言い訳も考える事が出来なかったのだ。
彼が階段を降り、建物の外へ出た音を確認してから、マルチェロはゆっくりとアンジェリカの元へ歩み寄った。抜け殻の様な表情で彼女を見下ろし、唐突に膝をついた。
「⋯⋯マルチェロ様?」
黙ったまま、一言も発しない彼に、アンジェリカは恐る恐る声を掛けた。
「何か⋯⋯あったのですか?」
「夜⋯⋯サヴェッラから大司教が来る。それまでに少しでも睡眠を摂りたいのだが⋯⋯」
「⋯⋯はい?」
「⋯⋯すまない」
マルチェロは、小さな声で呟き、アンジェリカの体を包む様に抱き締めた。
「マル⋯⋯チェロ様!」
アンジェリカは、驚きの余り目を見開いた。マルチェロの体が、頼りなく震えていたのだ。
「すまない⋯⋯許してくれ! ⋯⋯私は⋯⋯私は」
「マルチェロ様、落ち着いて下さい!」
アンジェリカは、自分よりもずっと大きな体に腕を伸ばし、精一杯抱き締め、背中を摩った。
「大丈夫ですよ。⋯⋯私は大丈夫です。だから、落ち着いて下さい。ね?」
幼い子供をあやす様に、穏やかな口調で語り掛けると、マルチェロは次第に平静を取り戻していった。
アンジェリカは、ジーノの言葉を思い出し、姉になった様な気持ちで、マルチェロの両肩に手を置いた。
「私の事は、もう良いのです。気に病まないでください」
「アンジェリカ⋯⋯。私は、知らなかったのだ」
マルチェロは、彼女の頬に手を添えた。
「あれほど痛がるものとは、知らなかった。これまで一度も、そんな事を気にした事が無かっ──」
「やめて下さい!!」
アンジェリカは、胸を突かれた様な衝撃と、悲しみを感じて声を荒げた。無理矢理抱かれた事よりも、今のマルチェロの言葉の方が、数倍苦しかった。
「貴方が、他の誰かと過ごした時の話なんて、聞きたくないです!!」
やはり、と、彼女は思い直した。マルチェロの姉になる事は出来ないのだ。生まれて初めて、身を焼く程の嫉妬心を抱いていた。
「貴方が⋯⋯小指の爪の先ほどでも、私を思って下さったのなら、私は⋯⋯私は、もう、それだけで良いのです」
なんとか、そう言い切り、彼女はマルチェロのエメラルドグリーンの瞳を真っ直ぐ見据えた。
「何か、お困りなのですね? どうぞ遠慮なさらずに、仰ってください」
「眠れない」
マルチェロは、アンジェリカの肩に額を押し付けた。
「眠りに落ちそうになると、不意に不安になる。他にも敵が潜んでいるのでは無いか⋯⋯お前が⋯⋯お前が、何処か知れぬ場所で命を落とすのでは無いか、と!!」
「大丈夫です」
アンジェリカは、しっかりとした口調で断言し、立ち上がった。その瞬間、腹部に鈍い痛みが奔り、マルチェロの肩に手を置いてしまった。
「アンジェリカっ!」
「平気ですよ。⋯⋯お部屋に戻りましょう、マルチェロ様。貴方が眠りに落ちるまで、お側にいます。テーブルと筆記用具を貸していただければ、写本の作業を進めておきます。明日までに、アスカンタへ届ける書籍を用意する必要がありますから。⋯⋯修道士見習いの部屋では、気が散ると言い訳しましょう」
差し出されたアンジェリカの手に、マルチェロは恐る恐る触れた。ただ、手を繋いだだけなのに、喉の奥に詰まっていたものが取れ、呼吸が楽になった。拒絶されなかった事に対する安堵が、彼の脳を正常レベルの思考が出来るまでに回復させた。
「すまない。⋯⋯私には、お前に触れる資格など無かった」
「でも、私は、貴方が良かった」
アンジェリカの微笑みは、底なしの優しさで溢れていた。
あまりの眩しさに、マルチェロは目を逸らしてしまった。階段を、彼女の細い体を支えながら降り、ふと、疑問が浮かんだ。
「アンジェリカ、お前は、何故そんなに強いのだ?」
「父と母、養父に、オディロ院長のお陰です」
苦しい事は沢山あった。しかし、乗り越えられない苦しみは、一つも無かった。だから、彼女は、信じて歩き続けられるのだ。
外は、昨夜の蛮行が嘘の様に、晴れ渡っていた。
マルチェロが前を、アンジェリカがその少し後ろを、其々の足で宿舎へと向かい、歩いて行った。