マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
06:大聖堂へ至る陰謀編〜1〜
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マイエラ修道院の雰囲気は、以前にも増して荒んでいた。
すれ違う騎士団員達は、誰もが鋭い目つきで周りを観察しており、まるで敵がそこら中の柱の陰に潜んでいると言わんばかりだ。
宿舎の入り口には、相変わらず二人の番人が立っており、アンジェリカの姿を捉えると、鬼の様な形相で立ちはだかった。
「何の用だ!」
「修道院長様に、お話ししたい事が御座います。件の道化師の事で」
ドルマゲス⋯⋯道化師がオディロ院長を暗殺したという話は、マイエラ修道院中の者が知っていた。
しかし、聖なる人物が、まさか"道化師"に殺害されたなどと公表できる筈もなく、関係者以外には、単に暗殺されたとだけ伝えられている。
アンジェリカの言葉に、騎士団員達はギクリと背筋を伸ばした。
「貴様⋯⋯何故それを⋯⋯」
「その場に居合わせたからです。至急、マルチェロ様にお会いしたいのです!」
彼女が詰め寄ると、騎士の片割れが息を呑んだ。
「貴女はもしや! ⋯⋯その、名前をお聞かせ願う!」
「アンジェリカと申します」
「間違いない!」
騎士は声を落とし、相方に囁いた。
「ジーノさんが追い掛けて行った人だ!」
二人の騎士は、素早く左右に避けて道を作った。
「どうか、マルチェロ様を宜しくお願い致します。今、この修道院は、非常に危険な状態で⋯⋯」
「危険?」
アンジェリカは眉を顰めて聞き返した。しかし、騎士達は顔を見合わせるだけで、それ以上の説明をしてくれなかった。まるで、誰かに聞かれるのを恐れている様に。
「⋯⋯分かったわ。ご忠告、ありがとうございます」
答えてくれない事が分かったので、彼女は一礼し、扉をすり抜けた。
不思議な事に、真夜中のアスカンタ城と同じくらい、宿舎の中は静まり返っていた。
アンジェリカが、修道院長の部屋へ行くべきか、マルチェロが元々使っていた宿舎内の部屋へ行くか迷っていると、厨房の扉が開き、修道士見習いの少年が姿を現した。
彼はアンジェリカの顔をジッと見詰め、数秒後にわっと駆け出した。
「アンジェリカさん!!」
そのままアンジェリカの腰に抱きつき、声を殺してボロボロと泣き出してしまった。
「貴女が戻って来て下さって、本当に良かったです!」
「⋯⋯サージュ、だったわね。何があったの?」
アンジェリカは少年の頭を撫で、可能な限り優しい声色で訊ねた。サージュは、しゃくりあげながらも、必死に平静を取り戻そうと努力した。
「マ⋯⋯マルチェロ様は⋯⋯どんどん顔色が、わ⋯⋯悪くなられるばかりでっ⋯⋯あのっ」
此処で、サージュは声を落とした。
「"庶子"の時代が終わるのも遠くは無いと⋯⋯はっきり口にする者も⋯⋯いる始末です!」
「大丈夫。マルチェロ様の身体の事なら、私が何とかする」
アンジェリカは、安心させる様に宣言し、サージュの肩をポンと叩いた。それで少し落ち着きを取り戻し、修道士見習いは、恥ずかしそうに後ずさった。
「本当にっ⋯⋯良かったです! ジーノさんまで⋯⋯此処を離れてしまって⋯⋯」
「⋯⋯その人は、誰?」
アンジェリカは、本日二度耳にした名前について訊ねた。聞き覚えの無い名だ。
「マ⋯⋯マルチェロ様の、右腕とも言われるお方です⋯⋯。貴女を連れ戻す様、マルチェロ様に訴えていたのですが⋯⋯マルチェロ様はそれを許さず⋯⋯昨晩とうとう無断で修道院を抜け出して⋯⋯」
「つまり、凄くアテに出来る味方が、いなくなってしまったって事ね」
彼女は納得し、溜息を吐いた。マルチェロの権力は未だ安定しておらず、おまけに彼自身が大怪我をしているとなれば、修道院長の席を狙う者も多いだろう。
「マルチェロ様は、今どちらに?」
「上の部屋を使っていらっしゃいます」
「分かったわ。ありがとう」
もう、1秒たりとも無駄にしたくは無かった。アンジェリカは急いで階段を駆け上がり、修道院長の部屋の扉へ突撃した。見張りはいなかった。
ノックをすると、気怠げな声が返って来た。
「入れ」
誰かを尋ねる余裕もないのだろうか。アンジェリカの心臓は、ギュッと掴まれた様に縮み上がってしまった。
恐る恐る扉を開け、室内に入る。マルチェロは顔を上げず、ひたすら書類の始末を続けていた。頭には包帯が巻かれ、微かに血が滲んでいる。
アンジェリカは、それほど出血が無い事に、一先ず安堵した。
「マルチェロ様。その書類を、まず一纏めにして書棚に戻しましょう」
瞬間、彼はばっと顔を上げ、痛そうに顔を顰めた。
「何故ここへ戻った?!」
キツイ口調で、来訪者を拒む。
「出て行け!! 今すぐ──」
「その書類を台無しにしたくなければ、今すぐ仕分けて下さい!!」
アンジェリカは、つかつかと部屋を横切り、マルチェロの作業テーブルの上を睨み回した。どうやら写本の作業をしていたらしい。羊皮紙をどうやって束ねたら良いか、アンジェリカにも分かった。
まず、アスカンタから持って来た本を、壁際の本棚の下に下ろし、次にテーブルの上の原書を隣へ運んだ。
新しく書き写した羊皮紙の、インクが乾いているものは丁寧に丸めて紙紐で縛り、まだ乾ききっていないものは、一枚ずつ本棚の下に並べて置いた。
「私が何をしたのか、忘れたのか!」
「忘れていません!!」
アンジェリカは、衝動的に叫び返していた。何一つ、忘れるはずが無いのだ。
「全部覚えています。⋯⋯包帯を外します」
彼女は、マルチェロを椅子に座らせたまま、恐る恐る包帯を巻き取った。全部を外した瞬間、悲鳴を挙げそうになった。
包帯の下には油紙が巻かれており、それを外すと、血塗れの、濡れた包帯が何重にもきつく巻かれていたのだ。
更にそれを解くと、ぞっとする様な傷口が姿を現した。まるで、出来立ての傷の様に、血が滴り落ちて来る。
どうにか治療を試みたのか、糸で縫われていたが、ちっとも役には立っていなかった。
「こ⋯⋯これは⋯⋯この糸は──」
「自分で縫った」
マルチェロの答えに、アンジェリカはか細く震えた。どれほどの痛みがあった事だろう。並みの人間なら、とても耐え切れない。
「まず、糸を外します。⋯⋯これを」
彼女は道具袋から、清潔な綿の布を取り出した。
「噛んでいて下さい」
「必要無い」
マルチェロは即答し、歯を食いしばった。アンジェリカも、議論の余地無しと悟り、治療に取り掛かった。
まず、短剣を抜き、糸の結び目を切り取った。余計な傷を作らない様に、細心の注意を払いながら。
「一気に抜きます。良いですか?」
マルチェロは、微かに頷いた。アンジェリカは大きく息を吸い......糸を引き抜いた。
マルチェロは冷や汗を流しながらも、一切声を漏らさず耐え切った。その胆力に、アンジェリカは畏怖の念を抱いた。
次は、呪いを解く作業だ。
彼女は血塗れになった手を拭い、道具袋から万能薬を取り出した。丸薬のそれを、まず自分の口に含み安全を示した後、マルチェロの手の平に一錠落とした。
「毒、麻痺、眠り、混乱⋯⋯様々な症状に効果のある薬です。口に含んでいて下さい」
マルチェロは素直に従った。
アンジェリカは、いよいよ彼の額に手を触れ、目を閉じた。魔法を楔の様に彼の中へと打ち込み、呪いの根を探す。
それは、恐ろしく困難な治療だった。なにか、とてつもなく邪悪な呪いが、植物の細い根の様にマルチェロに絡みついている。
間も無く、アンジェリカは、その呪いが意志を持っている事に気がついた。まるで、人間の切り取られた考えの一部の様だ。
目に見えないもの⋯⋯魂が器を欲している。執拗に。振り払っても、振り払っても、しがみついて来るのだ。
しかし、マルチェロの中に残された呪いには、人一人を乗っ取るだけの力は無いと気が付いた。苦しめる事しか出来ない。
アンジェリカは、呪いに訴えかけた。此処に留まっていても、目的を果たすことは出来ないのだ、と。杖に戻る様に、と。
そして、呪文の言葉を唱えた。
「シャナク」
瞬間、フッと身体が軽くなった。マルチェロも、驚いた様子で目を見開いた。
大きな魔法を使ったせいで、アンジェリカはフラフラしていたが、其れでも最後の一仕事をこなそうと、根性で身体を奮い立たせた。
「アンジェリカっ! もう──」
「ベホイミ」
回復呪文のお陰で、マルチェロの傷は完全に癒えた。しかし同時に、アンジェリカは床に崩れ、えずいた。
「アンジェリカ!」
マルチェロは、自らも床に膝を着き、彼女を抱き寄せ、背中をさすった。
「この愚か者が! 何故戻った?! 何故私を助けた!!」
「生きて⋯⋯欲しかったのです」
アンジェリカは、切れ切れに言葉を紡いだ。
「ただ⋯⋯救える命を⋯⋯救いたかった⋯⋯の⋯⋯」
「お前のせいで私は⋯⋯罪を犯す事になるのだ!」
マルチェロは、彼女の額に唇を押し付けた。その時になって初めて、マルチェロは自分がどうしようもないほど不安に駆られていた事に気が付いた。
死に対する恐怖は無かった。それよりも、居場所を失う恐怖⋯⋯心を傾けた者が失われる恐怖が、大きかった。
誰が味方か分からぬ状況で、何の見返りも求めず、自分を救ってくれた少女の存在は、余りにも大き過ぎた。
「修道士見習いの部屋が空いている」
マルチェロは、アンジェリカを横抱きにして立ち上がった。少し怠さが残っていたが、剣の鞘で思い切り殴られたかのような頭痛は止み、吐き気も治っていた。
「呪いを解く術は、門外不出の技だが、一体何処で身に付けた?」
「お教え出来ません。もう、遠い昔の事なので、忘れてしまいました」
「惚けたことを」
マルチェロは、滅多に見せない笑みを浮かべた。それ以上は追求せず、久々に自室を出て、斜向かいの部屋に向かった。
小部屋の扉を開けると、三人の幼い修道士が、飛び上がってマルチェロの方を向いた。
「この魔法使いを休ませてやってくれ」
マルチェロは、簡潔に用件を伝えると、空いているベッドにアンジェリカをそっと下ろした。
「むやみに宿舎内をうろつくな。特に今夜は⋯⋯」
「何かあったのですか?」
アンジェリカが訊ねると、マルチェロは首を横に振った。
「何かが起こるなら、今晩だ」
「どうして⋯⋯あ」
ジーノが⋯⋯マルチェロの右腕が、修道院を離れているのだ。
「まさか⋯⋯わざと──」
「口数の多いヤツは早死にするぞ」
マルチェロは、ゾッとするようなドスの効いた声で言い、踵を返した。
部屋の外へ出ようとしたが、そこでふと立ち止まり、顔だけ振り返った。
「目を閉じて横になっているんだな。そうすれば、全てが片付いているだろう」
しかし、アンジェリカは、川沿いの教会で呪いを解いた時と違い、気を失う事は無かった。酷く疲れていたが、横になっていれば直ぐに良くなるだろう。
魔法の力が成長していたのだ。
「あ⋯⋯あの」
マルチェロが去った後、騎士見習いが遠慮がちに口を開いた。
「お水をお持ちしましょうか?」
「⋯⋯いいえ」
アンジェリカは、少し考えて断った。
マルチェロを暗殺したい者が行動に出るなら、今夜だろう。その時、まだ見えざる敵は、どう動くか。
「ねえ、今、持ち場を離れられる人で、聖堂騎士団員のジーノさんと親しい人を知らない?」
すると、修道士見習い達は顔を見合わせた。
「⋯⋯フェデーレさんは?」
「駄目だ。今日はドニの街へ祈祷に行ってる」
「修道士のルーカスさんは──」
「船着場に、積み荷を降ろしに行ってる」
「ワルターさんは?」
「ジーノさんと一緒に出掛けたよ」
つまり、誰もいない。そういう事だ。
「あ! 待って! 一人いるや! ⋯⋯でも」
「その人は?」
アンジェリカが身を乗り出すと、修道士見習いは困った様な顔をした。
「あの⋯⋯僕たちと同じ、修道士見習いなんです」
「その子は、今この宿舎内にいるの?」
「サージュです! 今は炊事場にいるはずなんですが⋯⋯」
「その子を連れて来て。今直ぐ。⋯⋯貴方達三人にこれをあげるわ」
アンジェリカは、道具袋から、革紐に通された、赤、青、緑の宝石を取り出した。どれも、魔除けの呪文を掛けて置いた物だ。
「首から掛けて、肌身離さず持っていて。貴方達が大人になって、この石の本当の価値が分かるようになったら、商人に売りなさい。一月、遊んで暮らせるわ。⋯⋯その代わり、私がサージュを呼んだことを黙っていて。ところで、貴方達、字は書ける?」
早口に言われ、少年たちは目を回していたが、なんとか頷いた。
「そう。それは良かった」
アンジェリカは、持ち前の聡明さを遺憾無く発揮し、指示を出す。
「マルチェロ様の所に、アスカンタからの書物があるわ。写本の手伝いをして頂戴。マルチェロ様に何か言われたら、"私が"そうする様に指示したと言って」
これで、修道士見習い達が、部屋を離れる口実が出来た。
「わ⋯⋯分かりました!」
少年たちは、足を縺れさせながら駆けて行った。1分も経たない内に、サージュがグラスを手に現れた。
「貴女が、私を呼んでいると聞きました」
「扉を閉めて」
アンジェリカは身体を起こし、壁に寄り掛かりながら命じた。サージュは大人しく従い、扉を閉めるとアンジェリカの向かいのベッドに座った。
「怖がらないで良いわ。聞きたいことがあるの」
アンジェリカは、出来るだけ優しく、ゆっくりと語り掛けた。
「ジーノさんという騎士団員と親しい人を訊ねたら、貴方の事を教えてくれたの。どうして、その人と親しくなったの?」
「⋯⋯貴女の⋯⋯お仲間を牢屋から出すために、僕⋯⋯いえ、私は牢番の食事に睡眠薬を盛りました。誰が当番なのか、ジーノさんが教えてくれて⋯⋯手を貸してくれたんです」
「⋯⋯そうだったのね」
アンジェリカにとって、寝耳に水の話だった。エイト達を逃したのは、ククールだとばかり思っていたが、共犯者がいた様だ。
「助けてくれてありがとう。⋯⋯出来れば、今夜も貴方の力を借りたいのだけれど⋯⋯」
「今夜⋯⋯何が起きるんですか?!」
サージュは、声を抑えながらも、動揺を隠しきれず、身震いした。
「だって、ジーノさんも居ないのに!」
「ジーノさんが居ないからこそ、よ。私がマルチェロ様の命を狙おうと思ったら、優秀な護衛がいない時を選ぶわ。⋯⋯貴方に頼みたいのは」
アンジェリカは、万能薬の入った袋を取り出した。
「これを、マルチェロ様と私の食事に混ぜて欲しいの。勿論、誰にもばれずに」
「何ですか⋯⋯コレは」
「万能薬。眠り薬や、痺れ薬の効果を打ち消せるの。食事に良からぬ薬が紛れ込んでいれば、それを無効化出来る」
「⋯⋯どうして、全員の食事に混ぜてはいけないのですか?」
サージュは、案外鋭い所があった。アンジェリカは、大人に話すのと同じ様に接する事にした。
「あのね、マルチェロ様を害そうとする人は、マルチェロ様がどれだけ強いか、ちゃんと知っているはずなの。それでも、刃を向けようって言うんだか、それなりに腕に自信があるはずよ。⋯⋯もし、事件の最中、修道士や修道士見習いが目覚めたなら、その人たちは、マルチェロ様を守ろうとするでしょう。そして、何人かは⋯⋯殺されてしまうでしょうね」
アンジェリカは、サージュからグラスを受け取り、一気に水を飲み干した。彼の事を信頼出来たからだ。
そのお陰で、少し頭がはっきりした。
「私とマルチェロ様以外に起きている人物がいたら、その人が敵。分かりやすくて良いと思うわ」
「良くないですよ! 貴女も⋯⋯マルチェロ様だけではありません! 貴女も殺されてしまいます!」
「大丈夫よ」
アンジェリカは、旅に出てからの事を振り返った。
怒り狂った滝の主に、怒り狂ったタコに、怒り狂った亡霊を倒したのだ。
「私は絶対に負けない。だから、お願い。言う通りにして? ね?」
「⋯⋯分かりました。やってみます」
サージュは、渋々頷きアンジェリカから、空のグラスを受け取った。
「でも、失敗したら⋯⋯もし誰かに、入れている所を見られたら──」
「知っている事を何でも話して良いわ。私に脅されてやったと言いなさい」
「わ⋯⋯私はそんなに薄情者にはなれませんよ!」
サージュは身震いして言った。アンジェリカは、何とか丸め込もうとしたが諦めた。マイエラの人々は、どうしてこうも堅物ばかりなのだろうか。自分の事は、すっかりさておき、彼女は嘆息した。
「それなら、絶対に失敗しないでね。私はこの部屋で夜まで"眠っている"わ。マルチェロ様とはお会いせずにね。⋯⋯これを渡しておくわ」
アンジェリカは、万能薬の薬と、先ほど修道士見習いに与えたのと同じ宝石の首飾りを手渡した。
「何かあったら、即修道院から逃げて。この宝石は、五千ゴールド分の価値があるわ。商人に買い叩かれない様に⋯⋯絶対に、五千ゴールド以下で手放しては駄目よ。⋯⋯それから、うーん」
彼女は首を捻った。
「やっぱり、修道院の薬棚から、薬草を煎じて持って来てくれる? アンジェリカは重体で動けないって事にしておきましょう」
「⋯⋯貴女が男性だったら、マルチェロ様はタダでは置かなかったと思います」
サージュは、複雑な表情で本音を吐露した。
「貴女なら、修道院長に成り得ます」
「そんな事を口にしては駄目よ。⋯⋯分かっているでしょうけど」
アンジェリカは、ベッドに横になった。夜に備えて、少し休む必要がある。
「話を聞いてくれて、ありがとう。ちょっとだけ眠るわ」
「⋯⋯薬を取って来ます」
サージュは、俯き加減に部屋を出て行った。
静かになった部屋の天井を眺め、アンジェリカは益体も無い事を思った。もし、オディロ院長が生きていれば⋯⋯あともう五年経てば、マルチェロも三十を超える。
そうなれば、少なくとも若さを理由に、彼を院長の椅子から引きずり下ろそうとする人間は、減るはずだ。
何もかもが、上手くいかず、運命の歯車が、ほんの少しずつ噛み合っていない様な⋯⋯そんな違和感を覚えた。何時か、そのほんの僅かの歪みが、大きな不幸を招くのでは無いかと、アンジェリカは、不安に震えた。
すれ違う騎士団員達は、誰もが鋭い目つきで周りを観察しており、まるで敵がそこら中の柱の陰に潜んでいると言わんばかりだ。
宿舎の入り口には、相変わらず二人の番人が立っており、アンジェリカの姿を捉えると、鬼の様な形相で立ちはだかった。
「何の用だ!」
「修道院長様に、お話ししたい事が御座います。件の道化師の事で」
ドルマゲス⋯⋯道化師がオディロ院長を暗殺したという話は、マイエラ修道院中の者が知っていた。
しかし、聖なる人物が、まさか"道化師"に殺害されたなどと公表できる筈もなく、関係者以外には、単に暗殺されたとだけ伝えられている。
アンジェリカの言葉に、騎士団員達はギクリと背筋を伸ばした。
「貴様⋯⋯何故それを⋯⋯」
「その場に居合わせたからです。至急、マルチェロ様にお会いしたいのです!」
彼女が詰め寄ると、騎士の片割れが息を呑んだ。
「貴女はもしや! ⋯⋯その、名前をお聞かせ願う!」
「アンジェリカと申します」
「間違いない!」
騎士は声を落とし、相方に囁いた。
「ジーノさんが追い掛けて行った人だ!」
二人の騎士は、素早く左右に避けて道を作った。
「どうか、マルチェロ様を宜しくお願い致します。今、この修道院は、非常に危険な状態で⋯⋯」
「危険?」
アンジェリカは眉を顰めて聞き返した。しかし、騎士達は顔を見合わせるだけで、それ以上の説明をしてくれなかった。まるで、誰かに聞かれるのを恐れている様に。
「⋯⋯分かったわ。ご忠告、ありがとうございます」
答えてくれない事が分かったので、彼女は一礼し、扉をすり抜けた。
不思議な事に、真夜中のアスカンタ城と同じくらい、宿舎の中は静まり返っていた。
アンジェリカが、修道院長の部屋へ行くべきか、マルチェロが元々使っていた宿舎内の部屋へ行くか迷っていると、厨房の扉が開き、修道士見習いの少年が姿を現した。
彼はアンジェリカの顔をジッと見詰め、数秒後にわっと駆け出した。
「アンジェリカさん!!」
そのままアンジェリカの腰に抱きつき、声を殺してボロボロと泣き出してしまった。
「貴女が戻って来て下さって、本当に良かったです!」
「⋯⋯サージュ、だったわね。何があったの?」
アンジェリカは少年の頭を撫で、可能な限り優しい声色で訊ねた。サージュは、しゃくりあげながらも、必死に平静を取り戻そうと努力した。
「マ⋯⋯マルチェロ様は⋯⋯どんどん顔色が、わ⋯⋯悪くなられるばかりでっ⋯⋯あのっ」
此処で、サージュは声を落とした。
「"庶子"の時代が終わるのも遠くは無いと⋯⋯はっきり口にする者も⋯⋯いる始末です!」
「大丈夫。マルチェロ様の身体の事なら、私が何とかする」
アンジェリカは、安心させる様に宣言し、サージュの肩をポンと叩いた。それで少し落ち着きを取り戻し、修道士見習いは、恥ずかしそうに後ずさった。
「本当にっ⋯⋯良かったです! ジーノさんまで⋯⋯此処を離れてしまって⋯⋯」
「⋯⋯その人は、誰?」
アンジェリカは、本日二度耳にした名前について訊ねた。聞き覚えの無い名だ。
「マ⋯⋯マルチェロ様の、右腕とも言われるお方です⋯⋯。貴女を連れ戻す様、マルチェロ様に訴えていたのですが⋯⋯マルチェロ様はそれを許さず⋯⋯昨晩とうとう無断で修道院を抜け出して⋯⋯」
「つまり、凄くアテに出来る味方が、いなくなってしまったって事ね」
彼女は納得し、溜息を吐いた。マルチェロの権力は未だ安定しておらず、おまけに彼自身が大怪我をしているとなれば、修道院長の席を狙う者も多いだろう。
「マルチェロ様は、今どちらに?」
「上の部屋を使っていらっしゃいます」
「分かったわ。ありがとう」
もう、1秒たりとも無駄にしたくは無かった。アンジェリカは急いで階段を駆け上がり、修道院長の部屋の扉へ突撃した。見張りはいなかった。
ノックをすると、気怠げな声が返って来た。
「入れ」
誰かを尋ねる余裕もないのだろうか。アンジェリカの心臓は、ギュッと掴まれた様に縮み上がってしまった。
恐る恐る扉を開け、室内に入る。マルチェロは顔を上げず、ひたすら書類の始末を続けていた。頭には包帯が巻かれ、微かに血が滲んでいる。
アンジェリカは、それほど出血が無い事に、一先ず安堵した。
「マルチェロ様。その書類を、まず一纏めにして書棚に戻しましょう」
瞬間、彼はばっと顔を上げ、痛そうに顔を顰めた。
「何故ここへ戻った?!」
キツイ口調で、来訪者を拒む。
「出て行け!! 今すぐ──」
「その書類を台無しにしたくなければ、今すぐ仕分けて下さい!!」
アンジェリカは、つかつかと部屋を横切り、マルチェロの作業テーブルの上を睨み回した。どうやら写本の作業をしていたらしい。羊皮紙をどうやって束ねたら良いか、アンジェリカにも分かった。
まず、アスカンタから持って来た本を、壁際の本棚の下に下ろし、次にテーブルの上の原書を隣へ運んだ。
新しく書き写した羊皮紙の、インクが乾いているものは丁寧に丸めて紙紐で縛り、まだ乾ききっていないものは、一枚ずつ本棚の下に並べて置いた。
「私が何をしたのか、忘れたのか!」
「忘れていません!!」
アンジェリカは、衝動的に叫び返していた。何一つ、忘れるはずが無いのだ。
「全部覚えています。⋯⋯包帯を外します」
彼女は、マルチェロを椅子に座らせたまま、恐る恐る包帯を巻き取った。全部を外した瞬間、悲鳴を挙げそうになった。
包帯の下には油紙が巻かれており、それを外すと、血塗れの、濡れた包帯が何重にもきつく巻かれていたのだ。
更にそれを解くと、ぞっとする様な傷口が姿を現した。まるで、出来立ての傷の様に、血が滴り落ちて来る。
どうにか治療を試みたのか、糸で縫われていたが、ちっとも役には立っていなかった。
「こ⋯⋯これは⋯⋯この糸は──」
「自分で縫った」
マルチェロの答えに、アンジェリカはか細く震えた。どれほどの痛みがあった事だろう。並みの人間なら、とても耐え切れない。
「まず、糸を外します。⋯⋯これを」
彼女は道具袋から、清潔な綿の布を取り出した。
「噛んでいて下さい」
「必要無い」
マルチェロは即答し、歯を食いしばった。アンジェリカも、議論の余地無しと悟り、治療に取り掛かった。
まず、短剣を抜き、糸の結び目を切り取った。余計な傷を作らない様に、細心の注意を払いながら。
「一気に抜きます。良いですか?」
マルチェロは、微かに頷いた。アンジェリカは大きく息を吸い......糸を引き抜いた。
マルチェロは冷や汗を流しながらも、一切声を漏らさず耐え切った。その胆力に、アンジェリカは畏怖の念を抱いた。
次は、呪いを解く作業だ。
彼女は血塗れになった手を拭い、道具袋から万能薬を取り出した。丸薬のそれを、まず自分の口に含み安全を示した後、マルチェロの手の平に一錠落とした。
「毒、麻痺、眠り、混乱⋯⋯様々な症状に効果のある薬です。口に含んでいて下さい」
マルチェロは素直に従った。
アンジェリカは、いよいよ彼の額に手を触れ、目を閉じた。魔法を楔の様に彼の中へと打ち込み、呪いの根を探す。
それは、恐ろしく困難な治療だった。なにか、とてつもなく邪悪な呪いが、植物の細い根の様にマルチェロに絡みついている。
間も無く、アンジェリカは、その呪いが意志を持っている事に気がついた。まるで、人間の切り取られた考えの一部の様だ。
目に見えないもの⋯⋯魂が器を欲している。執拗に。振り払っても、振り払っても、しがみついて来るのだ。
しかし、マルチェロの中に残された呪いには、人一人を乗っ取るだけの力は無いと気が付いた。苦しめる事しか出来ない。
アンジェリカは、呪いに訴えかけた。此処に留まっていても、目的を果たすことは出来ないのだ、と。杖に戻る様に、と。
そして、呪文の言葉を唱えた。
「シャナク」
瞬間、フッと身体が軽くなった。マルチェロも、驚いた様子で目を見開いた。
大きな魔法を使ったせいで、アンジェリカはフラフラしていたが、其れでも最後の一仕事をこなそうと、根性で身体を奮い立たせた。
「アンジェリカっ! もう──」
「ベホイミ」
回復呪文のお陰で、マルチェロの傷は完全に癒えた。しかし同時に、アンジェリカは床に崩れ、えずいた。
「アンジェリカ!」
マルチェロは、自らも床に膝を着き、彼女を抱き寄せ、背中をさすった。
「この愚か者が! 何故戻った?! 何故私を助けた!!」
「生きて⋯⋯欲しかったのです」
アンジェリカは、切れ切れに言葉を紡いだ。
「ただ⋯⋯救える命を⋯⋯救いたかった⋯⋯の⋯⋯」
「お前のせいで私は⋯⋯罪を犯す事になるのだ!」
マルチェロは、彼女の額に唇を押し付けた。その時になって初めて、マルチェロは自分がどうしようもないほど不安に駆られていた事に気が付いた。
死に対する恐怖は無かった。それよりも、居場所を失う恐怖⋯⋯心を傾けた者が失われる恐怖が、大きかった。
誰が味方か分からぬ状況で、何の見返りも求めず、自分を救ってくれた少女の存在は、余りにも大き過ぎた。
「修道士見習いの部屋が空いている」
マルチェロは、アンジェリカを横抱きにして立ち上がった。少し怠さが残っていたが、剣の鞘で思い切り殴られたかのような頭痛は止み、吐き気も治っていた。
「呪いを解く術は、門外不出の技だが、一体何処で身に付けた?」
「お教え出来ません。もう、遠い昔の事なので、忘れてしまいました」
「惚けたことを」
マルチェロは、滅多に見せない笑みを浮かべた。それ以上は追求せず、久々に自室を出て、斜向かいの部屋に向かった。
小部屋の扉を開けると、三人の幼い修道士が、飛び上がってマルチェロの方を向いた。
「この魔法使いを休ませてやってくれ」
マルチェロは、簡潔に用件を伝えると、空いているベッドにアンジェリカをそっと下ろした。
「むやみに宿舎内をうろつくな。特に今夜は⋯⋯」
「何かあったのですか?」
アンジェリカが訊ねると、マルチェロは首を横に振った。
「何かが起こるなら、今晩だ」
「どうして⋯⋯あ」
ジーノが⋯⋯マルチェロの右腕が、修道院を離れているのだ。
「まさか⋯⋯わざと──」
「口数の多いヤツは早死にするぞ」
マルチェロは、ゾッとするようなドスの効いた声で言い、踵を返した。
部屋の外へ出ようとしたが、そこでふと立ち止まり、顔だけ振り返った。
「目を閉じて横になっているんだな。そうすれば、全てが片付いているだろう」
しかし、アンジェリカは、川沿いの教会で呪いを解いた時と違い、気を失う事は無かった。酷く疲れていたが、横になっていれば直ぐに良くなるだろう。
魔法の力が成長していたのだ。
「あ⋯⋯あの」
マルチェロが去った後、騎士見習いが遠慮がちに口を開いた。
「お水をお持ちしましょうか?」
「⋯⋯いいえ」
アンジェリカは、少し考えて断った。
マルチェロを暗殺したい者が行動に出るなら、今夜だろう。その時、まだ見えざる敵は、どう動くか。
「ねえ、今、持ち場を離れられる人で、聖堂騎士団員のジーノさんと親しい人を知らない?」
すると、修道士見習い達は顔を見合わせた。
「⋯⋯フェデーレさんは?」
「駄目だ。今日はドニの街へ祈祷に行ってる」
「修道士のルーカスさんは──」
「船着場に、積み荷を降ろしに行ってる」
「ワルターさんは?」
「ジーノさんと一緒に出掛けたよ」
つまり、誰もいない。そういう事だ。
「あ! 待って! 一人いるや! ⋯⋯でも」
「その人は?」
アンジェリカが身を乗り出すと、修道士見習いは困った様な顔をした。
「あの⋯⋯僕たちと同じ、修道士見習いなんです」
「その子は、今この宿舎内にいるの?」
「サージュです! 今は炊事場にいるはずなんですが⋯⋯」
「その子を連れて来て。今直ぐ。⋯⋯貴方達三人にこれをあげるわ」
アンジェリカは、道具袋から、革紐に通された、赤、青、緑の宝石を取り出した。どれも、魔除けの呪文を掛けて置いた物だ。
「首から掛けて、肌身離さず持っていて。貴方達が大人になって、この石の本当の価値が分かるようになったら、商人に売りなさい。一月、遊んで暮らせるわ。⋯⋯その代わり、私がサージュを呼んだことを黙っていて。ところで、貴方達、字は書ける?」
早口に言われ、少年たちは目を回していたが、なんとか頷いた。
「そう。それは良かった」
アンジェリカは、持ち前の聡明さを遺憾無く発揮し、指示を出す。
「マルチェロ様の所に、アスカンタからの書物があるわ。写本の手伝いをして頂戴。マルチェロ様に何か言われたら、"私が"そうする様に指示したと言って」
これで、修道士見習い達が、部屋を離れる口実が出来た。
「わ⋯⋯分かりました!」
少年たちは、足を縺れさせながら駆けて行った。1分も経たない内に、サージュがグラスを手に現れた。
「貴女が、私を呼んでいると聞きました」
「扉を閉めて」
アンジェリカは身体を起こし、壁に寄り掛かりながら命じた。サージュは大人しく従い、扉を閉めるとアンジェリカの向かいのベッドに座った。
「怖がらないで良いわ。聞きたいことがあるの」
アンジェリカは、出来るだけ優しく、ゆっくりと語り掛けた。
「ジーノさんという騎士団員と親しい人を訊ねたら、貴方の事を教えてくれたの。どうして、その人と親しくなったの?」
「⋯⋯貴女の⋯⋯お仲間を牢屋から出すために、僕⋯⋯いえ、私は牢番の食事に睡眠薬を盛りました。誰が当番なのか、ジーノさんが教えてくれて⋯⋯手を貸してくれたんです」
「⋯⋯そうだったのね」
アンジェリカにとって、寝耳に水の話だった。エイト達を逃したのは、ククールだとばかり思っていたが、共犯者がいた様だ。
「助けてくれてありがとう。⋯⋯出来れば、今夜も貴方の力を借りたいのだけれど⋯⋯」
「今夜⋯⋯何が起きるんですか?!」
サージュは、声を抑えながらも、動揺を隠しきれず、身震いした。
「だって、ジーノさんも居ないのに!」
「ジーノさんが居ないからこそ、よ。私がマルチェロ様の命を狙おうと思ったら、優秀な護衛がいない時を選ぶわ。⋯⋯貴方に頼みたいのは」
アンジェリカは、万能薬の入った袋を取り出した。
「これを、マルチェロ様と私の食事に混ぜて欲しいの。勿論、誰にもばれずに」
「何ですか⋯⋯コレは」
「万能薬。眠り薬や、痺れ薬の効果を打ち消せるの。食事に良からぬ薬が紛れ込んでいれば、それを無効化出来る」
「⋯⋯どうして、全員の食事に混ぜてはいけないのですか?」
サージュは、案外鋭い所があった。アンジェリカは、大人に話すのと同じ様に接する事にした。
「あのね、マルチェロ様を害そうとする人は、マルチェロ様がどれだけ強いか、ちゃんと知っているはずなの。それでも、刃を向けようって言うんだか、それなりに腕に自信があるはずよ。⋯⋯もし、事件の最中、修道士や修道士見習いが目覚めたなら、その人たちは、マルチェロ様を守ろうとするでしょう。そして、何人かは⋯⋯殺されてしまうでしょうね」
アンジェリカは、サージュからグラスを受け取り、一気に水を飲み干した。彼の事を信頼出来たからだ。
そのお陰で、少し頭がはっきりした。
「私とマルチェロ様以外に起きている人物がいたら、その人が敵。分かりやすくて良いと思うわ」
「良くないですよ! 貴女も⋯⋯マルチェロ様だけではありません! 貴女も殺されてしまいます!」
「大丈夫よ」
アンジェリカは、旅に出てからの事を振り返った。
怒り狂った滝の主に、怒り狂ったタコに、怒り狂った亡霊を倒したのだ。
「私は絶対に負けない。だから、お願い。言う通りにして? ね?」
「⋯⋯分かりました。やってみます」
サージュは、渋々頷きアンジェリカから、空のグラスを受け取った。
「でも、失敗したら⋯⋯もし誰かに、入れている所を見られたら──」
「知っている事を何でも話して良いわ。私に脅されてやったと言いなさい」
「わ⋯⋯私はそんなに薄情者にはなれませんよ!」
サージュは身震いして言った。アンジェリカは、何とか丸め込もうとしたが諦めた。マイエラの人々は、どうしてこうも堅物ばかりなのだろうか。自分の事は、すっかりさておき、彼女は嘆息した。
「それなら、絶対に失敗しないでね。私はこの部屋で夜まで"眠っている"わ。マルチェロ様とはお会いせずにね。⋯⋯これを渡しておくわ」
アンジェリカは、万能薬の薬と、先ほど修道士見習いに与えたのと同じ宝石の首飾りを手渡した。
「何かあったら、即修道院から逃げて。この宝石は、五千ゴールド分の価値があるわ。商人に買い叩かれない様に⋯⋯絶対に、五千ゴールド以下で手放しては駄目よ。⋯⋯それから、うーん」
彼女は首を捻った。
「やっぱり、修道院の薬棚から、薬草を煎じて持って来てくれる? アンジェリカは重体で動けないって事にしておきましょう」
「⋯⋯貴女が男性だったら、マルチェロ様はタダでは置かなかったと思います」
サージュは、複雑な表情で本音を吐露した。
「貴女なら、修道院長に成り得ます」
「そんな事を口にしては駄目よ。⋯⋯分かっているでしょうけど」
アンジェリカは、ベッドに横になった。夜に備えて、少し休む必要がある。
「話を聞いてくれて、ありがとう。ちょっとだけ眠るわ」
「⋯⋯薬を取って来ます」
サージュは、俯き加減に部屋を出て行った。
静かになった部屋の天井を眺め、アンジェリカは益体も無い事を思った。もし、オディロ院長が生きていれば⋯⋯あともう五年経てば、マルチェロも三十を超える。
そうなれば、少なくとも若さを理由に、彼を院長の椅子から引きずり下ろそうとする人間は、減るはずだ。
何もかもが、上手くいかず、運命の歯車が、ほんの少しずつ噛み合っていない様な⋯⋯そんな違和感を覚えた。何時か、そのほんの僅かの歪みが、大きな不幸を招くのでは無いかと、アンジェリカは、不安に震えた。