マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
05:アスカンタ編
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マルチェロは、誰もいない執務室で額に手を当てた。時折、思い出したかのように傷が痛み出すのだ。煮え滾った油を掛けられたかのように痛んでは、波のように引いて行き、忘れた頃に再び激痛が襲う。
仕事は半分も片付いていなかった。第三者から見れば、半分も片付いた事を賞賛するべきだと言うだろうが、彼は納得出来ない性分なのだ。
修道院長が亡くなって、彼はまず、サヴェッラの法皇に書簡を送った。法皇とオディロ院長は旧知の仲だったらしい。
しかし、法皇は老齢による心身の衰えを理由に、マイエラを訪れることは無かった。代わりに丁寧な返信と、使者により花が手向けられた。
ドルマゲスに破壊された修道院長の館は、聖堂騎士団員による突貫工事で、何とか雨風をしのげる状態になった。が、トタン丸見えの其処に、貴重な書物を置き去りにするわけにもいかず、旧修道院跡地の一室を片付け、そちらに移動。
「マルチェロ様」
扉の向こう側から声が響いた。マルチェロが側近に任命した男だ。
「入れ」
彼が不機嫌に応えると、ゆっくり扉が開いた。聖堂騎士団員ジーノは、完璧な礼をし、丁寧な所作で扉を閉ざした。
「どうした」
マルチェロは苦痛を隠し、顔を上げる。ジーノは困り顔で首を横に振った。
「ドニの街の民から、寄付を得る事が出来ませんでした」
「何故だ」
「......なんでも、魔女が訪れ祈りを捧げたことで、病に臥せっていた者や、傷を負っていた者が回復したそうです。皆、騎士団や教会への不信感を募らせております」
「あの娘の仕業だな」
マルチェロは、肩を揺らして笑った。
「では、魔物を狩って稼ぐより他にあるまい。我々はオディロ院長と共に、聖なる威厳を失った。しかし、これから剣と盾の力は増し、民衆にとって、より現実的な恵沢を与える存在になる。これまで通り、孤児を受け入れ、助けを求める者に祈りを捧げれば良い」
「アンジェリカ殿を、連れもどしましょう」
ジーノは、唐突に提案した。
「あの方は、良い魔法使いです。マルチェロ様のお怪我を治す事も出来るでしょう」
「駄目だ」
マルチェロは、間髪入れずに拒否した。ジーノは怪訝な様子で眉を吊り上げる。
「何故でしょうか」
ジーノは、心からマルチェロを案じ、それ故に疑問を口にした。
「出過ぎた言葉をお許しください。マルチェロ様は、あの方を、心底信頼されている様にお見受けします」
「あの娘は、性根の真っ直ぐな人間だ。賢く、強い。しかし、私に逆らう事が出来ない」
マルチェロは立ち上がり、窓際へ向かった。丁度其処からは、院長の館へと続く裏庭が見える。
「ジーノ。こっちへ来てみろ」
ジーノは声に従い、マルチェロの隣に立った。そして、その光景を目にし、むくむくと怒りがこみ上げて来るのを感じた。
「なんと!」
修道院裏口の見張り役の騎士団員たちが、木陰に座り込み、居眠りをしていた。
「聖堂騎士団員ともあろう者が、あの様な......。直ぐに然るべき罰をーー」
「よせ」
マルチェロは、ジーノの腕を掴んで諌めた。深い緑の瞳に暗い影が差していた。
「無用の反感をかうだけだ」
「しかしーー」
「あいつらの身体には、貴族の血が流れている。お前がとやかく言ったところで、行動を改めはしないだろう」
「......っ」
ジーノは苦しげに顔を逸らした。彼は孤児だ。幼い頃から、貴族出身の騎士見習いとは、一線を設けられていた。食事の順番であったり、雑務であったり、随所に些細な差別を感じて育った。
「だからこそ、マルチェロ様には、一刻も早く回復していただきたいのです!」
「......あの娘は、これからの私の生き様を良しとしない。許せずに、それでいて、直向きに私を助けようとするだろう。そして、いずれ、私を助けた事を後悔する」
その瞬間、ジーノは不思議な感覚に囚われた。隣にいる男が、知らない人間の様に感じられたのだ。
マルチェロは、物憂げな表情で手元を見つめていた。先日、オディロ院長の遺言に基づき、手に入れた、修道院長の指輪と、騎士団長の指輪がはめられている。
二度と戻る事の出来ない荊の道に、マルチェロは足を踏み入れようとした。これより先に広がるのは、光に照らされた昼間の道ではない。
アンジェリカには、到底受け入れられない道を行くのだ。
「あの娘を頼る事は出来ない。......どちらかといえば、目先の問題でお前を頼りたいのだが」
「私を......ですか」
ジーノは驚き、目を瞬いた。
マルチェロは窓から離れ、眉間を摩りながら執務椅子に戻った。品定めをする様に、何時もの冷たく、底の見えない視線をジーノへ送り、徐に口を開いた。
「オディロ院長の遺言......つまり、私が修道院長を兼任する旨についてだが......それを無効だと囁いている輩がいる。 」
「そんなはずがありません! オディロ院長は聖人とも呼べるおかた。あれほどマイエラに尽くして来た院長様のお言葉を無効だなどとーー」
「聖人か」
マルチェロは唇を歪めて笑った。
「聖人は神では無い。故に、その言葉は、死とともに効力を失うと......そう解釈する者がいる。"私も"、そう考えている」
あの日、人であるが故に、オディロ院長は死んだのだ。生き物が刃物で刺されて血を流す様に、凶器に貫かれ、在り来たりな反応をし、そして死んだ。
マルチェロは、ジーノが反論を諦めたものと思ったが、違った。生真面目な騎士団員は、積み重ねた知識と知性を発揮し、論議を深める様な事を口にした。
「ですが、聖人の呼称は神より賜りし物で、人が死した後にも、その位は残ります。目に見えぬそれが残るのなら、言の葉もまた然り......ではありませんか?」
「......なるほど」
マルチェロはかたを揺らして笑った。その瞬間に頭が激しく痛み、涙が出そうになったが、慌てて堪えた。
「では、その屁理屈を私も利用しよう。問題は、人である私を、物理的に害そうとする者たちの事だ。つい先日、食事に睡眠薬を混ぜた大馬鹿者がいるくらいだ。何時、何を仕掛けてくるか分かったものではない」
「......私に、何が出来ると言うのですか」
ジーノは背筋に冷や汗をかきながら、マルチェロの出方を伺った。ジーノの所業は、全てマルチェロに知れていたのだ。結果的に、あの旅人一行が悪人では無かったから良かったものの、何かあれば、今頃この大陸から逃げ出していただろう。
マルチェロは、至って冷静だった。
「あの修道士見習いの......サージュに、銀食器を一式用意させろ。敵は、ここマイエラでは少数派だろう。襲い掛かって来た者は、全員捕らえ、拷問に掛ける。お前を警備の責任者に任命しよう」
「かしこまりました」
ジーノは一礼しつつ、堪えきれずに疑念を口にした。
「何故、私を信頼して下さるのですか?」
「お前には、真実が見えていた。だから、あの娘を手助けしたのだろう」
「マルチェロ様は、最初からアンジェリカ殿を信じていたのですか?!」
「あれは幼少時、オディロ院長に育てられ、私が教育を施した」
マルチェロの言葉の隅々に、微かな心の揺れが浮かび上がった。それが何なのか、ジーノには分からなかったが、マルチェロの表情は穏やかだった。
「人を殺せる人間ではない」
そう断言し、彼は目を伏せた。
ジーノは無言で一礼し、踵を返した。マルチェロがどんな顔をしているのか、見たく無かったのだ。
ジーノにとってマルチェロは、完全無欠な存在。品行方正の、絵に描いたような騎士だ。その存在が、今、確かに揺らいでいる。
ほんの束の間だが、マルチェロは心に纏っていた、聖堂騎士団長の隊服を脱ぎ捨て、一人の人間としてジーノと向き合った。
「マルチェロ様」
ジーノは、振り返らずに主の名を呼んだ。
「なんだ」
マルチェロは、普段と変わらなぬ様子で応える。ジーノは、心臓を鷲掴みにされた様な息苦しさと、胃の痛みを堪えて唇を噛んだ。
「いえ。失礼致します」
彼は、最も重要な瞬間に口を開き、結局何も喋らずに部屋を後にした。
マルチェロは、誰もいない執務室で額に手を当てた。時折、思い出したかのように傷が痛み出すのだ。煮え滾った油を掛けられたかのように痛んでは、波のように引いて行き、忘れた頃に再び激痛が襲う。
仕事は半分も片付いていなかった。第三者から見れば、半分も片付いた事を賞賛するべきだと言うだろうが、彼は納得出来ない性分なのだ。
修道院長が亡くなって、彼はまず、サヴェッラの法皇に書簡を送った。法皇とオディロ院長は旧知の仲だったらしい。
しかし、法皇は老齢による心身の衰えを理由に、マイエラを訪れることは無かった。代わりに丁寧な返信と、使者により花が手向けられた。
ドルマゲスに破壊された修道院長の館は、聖堂騎士団員による突貫工事で、何とか雨風をしのげる状態になった。が、トタン丸見えの其処に、貴重な書物を置き去りにするわけにもいかず、旧修道院跡地の一室を片付け、そちらに移動。
「マルチェロ様」
扉の向こう側から声が響いた。マルチェロが側近に任命した男だ。
「入れ」
彼が不機嫌に応えると、ゆっくり扉が開いた。聖堂騎士団員ジーノは、完璧な礼をし、丁寧な所作で扉を閉ざした。
「どうした」
マルチェロは苦痛を隠し、顔を上げる。ジーノは困り顔で首を横に振った。
「ドニの街の民から、寄付を得る事が出来ませんでした」
「何故だ」
「......なんでも、魔女が訪れ祈りを捧げたことで、病に臥せっていた者や、傷を負っていた者が回復したそうです。皆、騎士団や教会への不信感を募らせております」
「あの娘の仕業だな」
マルチェロは、肩を揺らして笑った。
「では、魔物を狩って稼ぐより他にあるまい。我々はオディロ院長と共に、聖なる威厳を失った。しかし、これから剣と盾の力は増し、民衆にとって、より現実的な恵沢を与える存在になる。これまで通り、孤児を受け入れ、助けを求める者に祈りを捧げれば良い」
「アンジェリカ殿を、連れもどしましょう」
ジーノは、唐突に提案した。
「あの方は、良い魔法使いです。マルチェロ様のお怪我を治す事も出来るでしょう」
「駄目だ」
マルチェロは、間髪入れずに拒否した。ジーノは怪訝な様子で眉を吊り上げる。
「何故でしょうか」
ジーノは、心からマルチェロを案じ、それ故に疑問を口にした。
「出過ぎた言葉をお許しください。マルチェロ様は、あの方を、心底信頼されている様にお見受けします」
「あの娘は、性根の真っ直ぐな人間だ。賢く、強い。しかし、私に逆らう事が出来ない」
マルチェロは立ち上がり、窓際へ向かった。丁度其処からは、院長の館へと続く裏庭が見える。
「ジーノ。こっちへ来てみろ」
ジーノは声に従い、マルチェロの隣に立った。そして、その光景を目にし、むくむくと怒りがこみ上げて来るのを感じた。
「なんと!」
修道院裏口の見張り役の騎士団員たちが、木陰に座り込み、居眠りをしていた。
「聖堂騎士団員ともあろう者が、あの様な......。直ぐに然るべき罰をーー」
「よせ」
マルチェロは、ジーノの腕を掴んで諌めた。深い緑の瞳に暗い影が差していた。
「無用の反感をかうだけだ」
「しかしーー」
「あいつらの身体には、貴族の血が流れている。お前がとやかく言ったところで、行動を改めはしないだろう」
「......っ」
ジーノは苦しげに顔を逸らした。彼は孤児だ。幼い頃から、貴族出身の騎士見習いとは、一線を設けられていた。食事の順番であったり、雑務であったり、随所に些細な差別を感じて育った。
「だからこそ、マルチェロ様には、一刻も早く回復していただきたいのです!」
「......あの娘は、これからの私の生き様を良しとしない。許せずに、それでいて、直向きに私を助けようとするだろう。そして、いずれ、私を助けた事を後悔する」
その瞬間、ジーノは不思議な感覚に囚われた。隣にいる男が、知らない人間の様に感じられたのだ。
マルチェロは、物憂げな表情で手元を見つめていた。先日、オディロ院長の遺言に基づき、手に入れた、修道院長の指輪と、騎士団長の指輪がはめられている。
二度と戻る事の出来ない荊の道に、マルチェロは足を踏み入れようとした。これより先に広がるのは、光に照らされた昼間の道ではない。
アンジェリカには、到底受け入れられない道を行くのだ。
「あの娘を頼る事は出来ない。......どちらかといえば、目先の問題でお前を頼りたいのだが」
「私を......ですか」
ジーノは驚き、目を瞬いた。
マルチェロは窓から離れ、眉間を摩りながら執務椅子に戻った。品定めをする様に、何時もの冷たく、底の見えない視線をジーノへ送り、徐に口を開いた。
「オディロ院長の遺言......つまり、私が修道院長を兼任する旨についてだが......それを無効だと囁いている輩がいる。 」
「そんなはずがありません! オディロ院長は聖人とも呼べるおかた。あれほどマイエラに尽くして来た院長様のお言葉を無効だなどとーー」
「聖人か」
マルチェロは唇を歪めて笑った。
「聖人は神では無い。故に、その言葉は、死とともに効力を失うと......そう解釈する者がいる。"私も"、そう考えている」
あの日、人であるが故に、オディロ院長は死んだのだ。生き物が刃物で刺されて血を流す様に、凶器に貫かれ、在り来たりな反応をし、そして死んだ。
マルチェロは、ジーノが反論を諦めたものと思ったが、違った。生真面目な騎士団員は、積み重ねた知識と知性を発揮し、論議を深める様な事を口にした。
「ですが、聖人の呼称は神より賜りし物で、人が死した後にも、その位は残ります。目に見えぬそれが残るのなら、言の葉もまた然り......ではありませんか?」
「......なるほど」
マルチェロはかたを揺らして笑った。その瞬間に頭が激しく痛み、涙が出そうになったが、慌てて堪えた。
「では、その屁理屈を私も利用しよう。問題は、人である私を、物理的に害そうとする者たちの事だ。つい先日、食事に睡眠薬を混ぜた大馬鹿者がいるくらいだ。何時、何を仕掛けてくるか分かったものではない」
「......私に、何が出来ると言うのですか」
ジーノは背筋に冷や汗をかきながら、マルチェロの出方を伺った。ジーノの所業は、全てマルチェロに知れていたのだ。結果的に、あの旅人一行が悪人では無かったから良かったものの、何かあれば、今頃この大陸から逃げ出していただろう。
マルチェロは、至って冷静だった。
「あの修道士見習いの......サージュに、銀食器を一式用意させろ。敵は、ここマイエラでは少数派だろう。襲い掛かって来た者は、全員捕らえ、拷問に掛ける。お前を警備の責任者に任命しよう」
「かしこまりました」
ジーノは一礼しつつ、堪えきれずに疑念を口にした。
「何故、私を信頼して下さるのですか?」
「お前には、真実が見えていた。だから、あの娘を手助けしたのだろう」
「マルチェロ様は、最初からアンジェリカ殿を信じていたのですか?!」
「あれは幼少時、オディロ院長に育てられ、私が教育を施した」
マルチェロの言葉の隅々に、微かな心の揺れが浮かび上がった。それが何なのか、ジーノには分からなかったが、マルチェロの表情は穏やかだった。
「人を殺せる人間ではない」
そう断言し、彼は目を伏せた。
ジーノは無言で一礼し、踵を返した。マルチェロがどんな顔をしているのか、見たく無かったのだ。
ジーノにとってマルチェロは、完全無欠な存在。品行方正の、絵に描いたような騎士だ。その存在が、今、確かに揺らいでいる。
ほんの束の間だが、マルチェロは心に纏っていた、聖堂騎士団長の隊服を脱ぎ捨て、一人の人間としてジーノと向き合った。
「マルチェロ様」
ジーノは、振り返らずに主の名を呼んだ。
「なんだ」
マルチェロは、普段と変わらなぬ様子で応える。ジーノは、心臓を鷲掴みにされた様な息苦しさと、胃の痛みを堪えて唇を噛んだ。
「いえ。失礼致します」
彼は、最も重要な瞬間に口を開き、結局何も喋らずに部屋を後にした。