マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
04:マイエラ修道院編
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地下牢へと続く階段。一歩踏み出すごとに、ひんやりとした空気と、錆びた鉄の臭いが鼻をついた。
幾つも有る拷問用の檻は、長い間使われていないらしく、おどろおどろしい器具は埃を被っている。アンジェリカは、胸を撫で下ろした。
奥の方から人の声がした。幾つ角を曲がった所で足を止める。この世の憎悪を一身に詰め込まれた様な、マルチェロの言葉がはっきりと聞こえてきたからだ。
「またドニの酒場で、騒ぎを起こしたようだな。この恥知らずめ」
「随分、お耳が早いようで。流石聖堂騎士団のーー」
「どこまで、わがマイエラ修道院の名を落とせば気が済むんだ? 全く、お前は厄病神だ。そう......厄病神だよ。お前さえ生まれて来なければ、誰も不幸になぞ、ならなかったのに」
ーー生まれて来なければ。
アンジェリカは、息を漏らしそうになり、慌てて口を覆った。それは、絶対に言ってはならない言葉だ。
親に捨てられた、あるいは親を失ってここへやって来た子供たちは、皆、心に深い傷を負っている。その子らに無償の愛情を注ぐのが、聖職者の役割だというのに。
マルチェロの辛辣な言葉は、尚も続く。
「顔とイカサマだけが取り柄の出来損ないめ。半分でも、この私にもお前と同じ血が流れていると思うと、ぞっとする」
「......っ」
アンジェリカは、喉のあたりが詰まり、手が震えるのを感じた。
昔、聞いた事があった。マルチェロは、ドニの領主の妾腹の子だった、と。
「まあ、いい。聖堂騎士団員、ククール。団長の名において、お前に当分の間、謹慎を言い渡す。いかなる理由があろうとも、この修道院から出る事は、許さん。いいか。一歩たりともだ。それさえ守れぬようなら、院長がいくら庇おうとも、修道院から追放だ。分かったな」
ククールと言う男は、何の言葉も発しなかった。カツンと靴音が鳴り響く。
アンジェリカは、ようやく現実に引き戻され、慌てた。このままでは、鉢合わせしてしまう。しかし、逃げ場は無かった。
「おっと」
角を曲がって来た、銀髪の男は、1ミリも反省をしている風もなく、アンジェリカに気付くと淡く微笑んだ。
「こんな所で美しいレディーに会えるとは、思っていなかった。此れなら少しの謹慎も堪えられそうだ」
「触らないで!」
アンジェリカは、反射的に馴れ馴れしく頬に添えられた手を振り払い、真っ直ぐ男と向き合った。
確かに、彼は整った顔立ちをしていた。今までアンジェリカが出会った、どんな男性よりも魅力的な外見だった。
「ククール」
マルチェロが、雪国オークニスの寒風より冷たい声色で、二人の元へ歩み寄った。
「貴様、よくもぬけぬけと、声を掛けられたものだな」
「何のことですかね?」
「この方の母親は、貴様の父親に使えていた。そして、私の母を庇い続けて、屋敷を後にした」
流石の軽薄な男も、衝撃を受けた様子で口を噤んだ。
アンジェリカは、ようやく得心が行った。マルチェロを歪めて行ったのは、ククールの存在そのものだ。
しかし、こうも思う。ククールを歪めて行ったのも、マルチェロだろう。
領主が死んだのは、約20年ほど前の事。ククールという青年は、まだ年端も行かない子供だったはずだ。きっと、自分の周りで何が起きていたのかさえ、分かっていなかったはずだ。
「......そう。貴方......」
アンジェリカは、戸惑いながらも手を差し出した。
「初めまして」
彼女の瞳に、憎しみの色が浮かんでいない事に、ククールもマルチェロも、意外に思った。
「ああ」
ククールは、何とも間抜けな声で返し、握手に応じた。瞬間、アンジェリカは顔をしかめた。
香水と酒の臭い。
これでは、マルチェロが激怒するのも、仕方のない事だと思った。しかも、ククールは性懲りも無く、目を細めてアンジェリカの手に口付けを落とした。
「いい加減にしろ!」
マルチェロは、とうとう堪え切れず、異母弟の肩を突き飛ばした。その様子を見て、ククールは肩を揺らして笑った。
「知りませんでしたよ。人には厄病神だの何だのと言って、自分はこんなに美しい女の子とーー」
ククールの声が途切れた。アンジェリカが、ありったけの嫌悪と、バイキルトの効果が載せられた片腕で彼の胸倉を掴み、壁に押し付けたからだ。
「奇遇なことに、私も髪の毛一本分も信仰心を持ち併せておりません。故に同じ立場から物を申し上げますが、お酒を飲もうが、女性と遊ぼうが、自分に与えられた任務を全う出来るのであれば、勝手でしょう」
「......なんて女だ」
ククールは、何とかしてアンジェリカを振り払おうとしたが、上手くいかなかった。少女の細い腕は、石のように頑丈で、ビクともしない。
「ただ、世界には、本当に純粋で善良な人間もいるのです。そうした人々が、汗水流して働き、生活を切り詰めて寄進したゴールドが、貴方の糧になり、貴方を生かして来た事も、お忘れなきよう」
その言葉は、どんなに厳しい説教や、荘厳な雰囲気の中で聞かされる説法よりも、ククールの心に衝撃を与えた。彼は、すっかり反論の言葉を失って、うな垂れた。
アンジェリカが、ゆっくり手を離すと、ククールは物言いたげに顔を上げたが、結局何も言わずに一礼し、立ち去ってしまった。
間髪入れず、アンジェリカは平手を掲げたが、其れは、マルチェロに取り押さえられた。反対の手で彼を振り払おうとしたが、全く歯が立たなかった。
「貴方はっ!」
それでも、彼女は気丈に、早口で続ける。
「貴方は、言ってはならない事を、言ってしまっ......っ!!」
背中と頭を石の壁に、強かに打ちつけられ、アンジェリカは視界の端に星がチラつく幻想を見た。体勢を立て直す前に追撃が鳩尾を襲い、彼女は壁を伝うようにして、床に崩れ落ちた。
それでも、意識を持ったまま、彼女が顔を上げた事に、マルチェロは驚いた。同時に安堵した。もしアンジェリカが普通の女性であったら、彼は、母親の恩人の娘に、深手を負わせていただろう。
「......すまない」
マルチェロは膝を折り、彼女の首の後ろを腕で支え、腹部に回復呪文を掛けた。
アンジェリカは、肩で息をしながら、動けずに固まってしまった。魔力の消耗も理由の一つだが、恐怖に竦んでしまったのだ。
彼女は知らなかった。憎しみが人間を、どれほど恐ろしい魔物に変えてしまうのか、を。同時に、驚いた。愛と憎しみが両立し合った存在が、今目の前にいる事に。
「しっかりしろ! 私の顔が見えているか?」
マルチェロは、乱暴にアンジェリカを揺さぶった。その切迫した声色から、彼が本気でアンジェリカの身を心配している事が伺えた。
不意に、アンジェリカは、心の中に潜んでいた数々の思いが、鎌首を持ち上げて自分の弱い所に噛み付くのを感じた。疑心、無力感、悲しみ、その全てが、堰を切ったように溢れ、やがて一筋の雨となった。
目の前の男に、言ってやりたい事は山程あった。けれど、多すぎて、どれも言葉にならなかった。
「アンジェリカ!」
マルチェロの声が、彼女を現実に連れ戻した。
「......骨の柔らかい子供なら、致命傷を負っていました」
アンジェリカは、マルチェロが言い返してくると踏んでいた。しかし、彼は安心した様に息を吐き、アンジェリカの身体を支え、頭を下げた。
「......すまなかった。あやつに関わると、自制が効かなくなる」
「そんなの、言い訳になりません。居合わせたのが、私で良かった......」
マルチェロにとっては、寧ろ最悪だった。アンジェリカが、自分を否定する言葉を発した途端、何時もククールに向けている憎悪を、数百倍増しにした感情が溢れて来たのだ。何処かで期待をしていたのかも知らない。自分と似た境遇の彼女なら、醜い感情を肯定してくれるのでは無いか、と。
マルチェロは、少女に手を貸して立ち上がらせた。瞬間、思わず笑いを浮かべそうになってしまった。彼女が、微かに顔を赤らめ、フイと横を向いてしまったのだ。確かに二人は、やや不適切な距離感で、抱き合う様な体勢になっていた。
つい数分前、異常な殺気を迸らせ、ククールを驚かせた少女が、普通の少女らしい姿を見せた事に、マルチェロは肩を揺らした。
「しかし、貴女の方も気をつけたまえ。......あれは、危険思想だ」
彼は、わざと体勢を変えずに、忠告をした。アンジェリカは、落ち着かない様子で視線を漂わせ、身を縮めては瞬きを繰り返す。それが面白くて、マルチェロはつい、余計な行動を取ってしまった。
少女顎を親指で持ち上げ、無理矢理瞳を覗き込む。
「本当に、私の声が聞こえているか?」
「き......聞こえています!」
アンジェリカは、漸く声を絞り出し、全身に気合を入れると、マルチェロの肩を両手で押して、フラフラと距離を取った。
酷く混乱した様子で、一瞬顔を覆い、それから、可笑しなタイミングで礼の姿勢を取ると、逃げ出すように地下牢を後にした。
マルチェロは、暫くの間、呆然とその場に佇んだ。時間の経過とともに、全身に感じていた、自分のものでは無い体温の記憶は、薄れて行く。何とかそれを留めたいと思う自分がいる事に、驚いた。
もどかしさに混じって、マルチェロの心を侵食して行くのは、消しても消えない、嫌な記憶。
ククールが初めて、この修道院を訪れた日の事。あの時の衝撃は、忘れられない。
父に捨てられ、母親を亡くし、命懸けで辿り着いた修道院で、やっと安らぎを手に入れた頃、何も知らない異母弟が転がり込んで来たのだ。
そうだ。マルチェロが苦しんでいる間も、半分同じ血の通ったククールは、安穏と暮らしていたのだ。この世界に、決して等量には降り注がない愛を、何の疑問もなく受け入れて。
もし、ククールがあの時、マルチェロの存在を知っていれば、あるいは何か違ったのでは、と返り見る。もし異母弟が、自分の影の存在を知り、少しでも後ろめたさを抱えていたのなら、許せはしなくとも、これ程の憎悪は湧かなかったかもしれない。
「全ては、仮定にすぎん」
マルチェロは、溜息と共に、思いを断ち切るように言葉を吐いた。
今更過去の事など、幾ら思い出してもキリが無い。今現在抱いている不快感に目を向け、彼は一人で笑いそうになった。
どうもマルチェロは、如何なるモノでも、ククールに奪われる事を許せないらしい。だから、アンジェリカがククールを庇うような発言をした時、苛立ちを抑え切れなくなった。簡単な事だ。
そう結論付けた。にもかかわらず、マルチェロの心は不満を声高に主張し続けた。
「くそ!」
彼は、思い切り石壁を殴りつけた。当然皮膚が浅く擦れ、血が滲む。誰にも見られていないからこそ、マルチェロは精神の苦痛を、表情に浮かべた。
暫くは一人でいようと、拷問部屋の椅子に掛け、目を閉じた。
幾つも有る拷問用の檻は、長い間使われていないらしく、おどろおどろしい器具は埃を被っている。アンジェリカは、胸を撫で下ろした。
奥の方から人の声がした。幾つ角を曲がった所で足を止める。この世の憎悪を一身に詰め込まれた様な、マルチェロの言葉がはっきりと聞こえてきたからだ。
「またドニの酒場で、騒ぎを起こしたようだな。この恥知らずめ」
「随分、お耳が早いようで。流石聖堂騎士団のーー」
「どこまで、わがマイエラ修道院の名を落とせば気が済むんだ? 全く、お前は厄病神だ。そう......厄病神だよ。お前さえ生まれて来なければ、誰も不幸になぞ、ならなかったのに」
ーー生まれて来なければ。
アンジェリカは、息を漏らしそうになり、慌てて口を覆った。それは、絶対に言ってはならない言葉だ。
親に捨てられた、あるいは親を失ってここへやって来た子供たちは、皆、心に深い傷を負っている。その子らに無償の愛情を注ぐのが、聖職者の役割だというのに。
マルチェロの辛辣な言葉は、尚も続く。
「顔とイカサマだけが取り柄の出来損ないめ。半分でも、この私にもお前と同じ血が流れていると思うと、ぞっとする」
「......っ」
アンジェリカは、喉のあたりが詰まり、手が震えるのを感じた。
昔、聞いた事があった。マルチェロは、ドニの領主の妾腹の子だった、と。
「まあ、いい。聖堂騎士団員、ククール。団長の名において、お前に当分の間、謹慎を言い渡す。いかなる理由があろうとも、この修道院から出る事は、許さん。いいか。一歩たりともだ。それさえ守れぬようなら、院長がいくら庇おうとも、修道院から追放だ。分かったな」
ククールと言う男は、何の言葉も発しなかった。カツンと靴音が鳴り響く。
アンジェリカは、ようやく現実に引き戻され、慌てた。このままでは、鉢合わせしてしまう。しかし、逃げ場は無かった。
「おっと」
角を曲がって来た、銀髪の男は、1ミリも反省をしている風もなく、アンジェリカに気付くと淡く微笑んだ。
「こんな所で美しいレディーに会えるとは、思っていなかった。此れなら少しの謹慎も堪えられそうだ」
「触らないで!」
アンジェリカは、反射的に馴れ馴れしく頬に添えられた手を振り払い、真っ直ぐ男と向き合った。
確かに、彼は整った顔立ちをしていた。今までアンジェリカが出会った、どんな男性よりも魅力的な外見だった。
「ククール」
マルチェロが、雪国オークニスの寒風より冷たい声色で、二人の元へ歩み寄った。
「貴様、よくもぬけぬけと、声を掛けられたものだな」
「何のことですかね?」
「この方の母親は、貴様の父親に使えていた。そして、私の母を庇い続けて、屋敷を後にした」
流石の軽薄な男も、衝撃を受けた様子で口を噤んだ。
アンジェリカは、ようやく得心が行った。マルチェロを歪めて行ったのは、ククールの存在そのものだ。
しかし、こうも思う。ククールを歪めて行ったのも、マルチェロだろう。
領主が死んだのは、約20年ほど前の事。ククールという青年は、まだ年端も行かない子供だったはずだ。きっと、自分の周りで何が起きていたのかさえ、分かっていなかったはずだ。
「......そう。貴方......」
アンジェリカは、戸惑いながらも手を差し出した。
「初めまして」
彼女の瞳に、憎しみの色が浮かんでいない事に、ククールもマルチェロも、意外に思った。
「ああ」
ククールは、何とも間抜けな声で返し、握手に応じた。瞬間、アンジェリカは顔をしかめた。
香水と酒の臭い。
これでは、マルチェロが激怒するのも、仕方のない事だと思った。しかも、ククールは性懲りも無く、目を細めてアンジェリカの手に口付けを落とした。
「いい加減にしろ!」
マルチェロは、とうとう堪え切れず、異母弟の肩を突き飛ばした。その様子を見て、ククールは肩を揺らして笑った。
「知りませんでしたよ。人には厄病神だの何だのと言って、自分はこんなに美しい女の子とーー」
ククールの声が途切れた。アンジェリカが、ありったけの嫌悪と、バイキルトの効果が載せられた片腕で彼の胸倉を掴み、壁に押し付けたからだ。
「奇遇なことに、私も髪の毛一本分も信仰心を持ち併せておりません。故に同じ立場から物を申し上げますが、お酒を飲もうが、女性と遊ぼうが、自分に与えられた任務を全う出来るのであれば、勝手でしょう」
「......なんて女だ」
ククールは、何とかしてアンジェリカを振り払おうとしたが、上手くいかなかった。少女の細い腕は、石のように頑丈で、ビクともしない。
「ただ、世界には、本当に純粋で善良な人間もいるのです。そうした人々が、汗水流して働き、生活を切り詰めて寄進したゴールドが、貴方の糧になり、貴方を生かして来た事も、お忘れなきよう」
その言葉は、どんなに厳しい説教や、荘厳な雰囲気の中で聞かされる説法よりも、ククールの心に衝撃を与えた。彼は、すっかり反論の言葉を失って、うな垂れた。
アンジェリカが、ゆっくり手を離すと、ククールは物言いたげに顔を上げたが、結局何も言わずに一礼し、立ち去ってしまった。
間髪入れず、アンジェリカは平手を掲げたが、其れは、マルチェロに取り押さえられた。反対の手で彼を振り払おうとしたが、全く歯が立たなかった。
「貴方はっ!」
それでも、彼女は気丈に、早口で続ける。
「貴方は、言ってはならない事を、言ってしまっ......っ!!」
背中と頭を石の壁に、強かに打ちつけられ、アンジェリカは視界の端に星がチラつく幻想を見た。体勢を立て直す前に追撃が鳩尾を襲い、彼女は壁を伝うようにして、床に崩れ落ちた。
それでも、意識を持ったまま、彼女が顔を上げた事に、マルチェロは驚いた。同時に安堵した。もしアンジェリカが普通の女性であったら、彼は、母親の恩人の娘に、深手を負わせていただろう。
「......すまない」
マルチェロは膝を折り、彼女の首の後ろを腕で支え、腹部に回復呪文を掛けた。
アンジェリカは、肩で息をしながら、動けずに固まってしまった。魔力の消耗も理由の一つだが、恐怖に竦んでしまったのだ。
彼女は知らなかった。憎しみが人間を、どれほど恐ろしい魔物に変えてしまうのか、を。同時に、驚いた。愛と憎しみが両立し合った存在が、今目の前にいる事に。
「しっかりしろ! 私の顔が見えているか?」
マルチェロは、乱暴にアンジェリカを揺さぶった。その切迫した声色から、彼が本気でアンジェリカの身を心配している事が伺えた。
不意に、アンジェリカは、心の中に潜んでいた数々の思いが、鎌首を持ち上げて自分の弱い所に噛み付くのを感じた。疑心、無力感、悲しみ、その全てが、堰を切ったように溢れ、やがて一筋の雨となった。
目の前の男に、言ってやりたい事は山程あった。けれど、多すぎて、どれも言葉にならなかった。
「アンジェリカ!」
マルチェロの声が、彼女を現実に連れ戻した。
「......骨の柔らかい子供なら、致命傷を負っていました」
アンジェリカは、マルチェロが言い返してくると踏んでいた。しかし、彼は安心した様に息を吐き、アンジェリカの身体を支え、頭を下げた。
「......すまなかった。あやつに関わると、自制が効かなくなる」
「そんなの、言い訳になりません。居合わせたのが、私で良かった......」
マルチェロにとっては、寧ろ最悪だった。アンジェリカが、自分を否定する言葉を発した途端、何時もククールに向けている憎悪を、数百倍増しにした感情が溢れて来たのだ。何処かで期待をしていたのかも知らない。自分と似た境遇の彼女なら、醜い感情を肯定してくれるのでは無いか、と。
マルチェロは、少女に手を貸して立ち上がらせた。瞬間、思わず笑いを浮かべそうになってしまった。彼女が、微かに顔を赤らめ、フイと横を向いてしまったのだ。確かに二人は、やや不適切な距離感で、抱き合う様な体勢になっていた。
つい数分前、異常な殺気を迸らせ、ククールを驚かせた少女が、普通の少女らしい姿を見せた事に、マルチェロは肩を揺らした。
「しかし、貴女の方も気をつけたまえ。......あれは、危険思想だ」
彼は、わざと体勢を変えずに、忠告をした。アンジェリカは、落ち着かない様子で視線を漂わせ、身を縮めては瞬きを繰り返す。それが面白くて、マルチェロはつい、余計な行動を取ってしまった。
少女顎を親指で持ち上げ、無理矢理瞳を覗き込む。
「本当に、私の声が聞こえているか?」
「き......聞こえています!」
アンジェリカは、漸く声を絞り出し、全身に気合を入れると、マルチェロの肩を両手で押して、フラフラと距離を取った。
酷く混乱した様子で、一瞬顔を覆い、それから、可笑しなタイミングで礼の姿勢を取ると、逃げ出すように地下牢を後にした。
マルチェロは、暫くの間、呆然とその場に佇んだ。時間の経過とともに、全身に感じていた、自分のものでは無い体温の記憶は、薄れて行く。何とかそれを留めたいと思う自分がいる事に、驚いた。
もどかしさに混じって、マルチェロの心を侵食して行くのは、消しても消えない、嫌な記憶。
ククールが初めて、この修道院を訪れた日の事。あの時の衝撃は、忘れられない。
父に捨てられ、母親を亡くし、命懸けで辿り着いた修道院で、やっと安らぎを手に入れた頃、何も知らない異母弟が転がり込んで来たのだ。
そうだ。マルチェロが苦しんでいる間も、半分同じ血の通ったククールは、安穏と暮らしていたのだ。この世界に、決して等量には降り注がない愛を、何の疑問もなく受け入れて。
もし、ククールがあの時、マルチェロの存在を知っていれば、あるいは何か違ったのでは、と返り見る。もし異母弟が、自分の影の存在を知り、少しでも後ろめたさを抱えていたのなら、許せはしなくとも、これ程の憎悪は湧かなかったかもしれない。
「全ては、仮定にすぎん」
マルチェロは、溜息と共に、思いを断ち切るように言葉を吐いた。
今更過去の事など、幾ら思い出してもキリが無い。今現在抱いている不快感に目を向け、彼は一人で笑いそうになった。
どうもマルチェロは、如何なるモノでも、ククールに奪われる事を許せないらしい。だから、アンジェリカがククールを庇うような発言をした時、苛立ちを抑え切れなくなった。簡単な事だ。
そう結論付けた。にもかかわらず、マルチェロの心は不満を声高に主張し続けた。
「くそ!」
彼は、思い切り石壁を殴りつけた。当然皮膚が浅く擦れ、血が滲む。誰にも見られていないからこそ、マルチェロは精神の苦痛を、表情に浮かべた。
暫くは一人でいようと、拷問部屋の椅子に掛け、目を閉じた。