マイエラ地方出身、マスター・ライラスの養女。
04:マイエラ修道院編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
アンジェリカが宿舎内に入ると、人の気配がまるでしなかった。まるで各々が部屋に篭り、息を殺しているかの様に。
あまりにも不思議に思ったので、階段横の小部屋をノックすると、間髪入れずに反応があった。修道士の見習いと思しき少年が、怯えた様子で扉を開けたのだ。
「貴女は?!」
「許可を得て入った者よ。貴方は修道士見習い?」
「......ええ。オディロ院長様のご好意で、此処に住まわせていただいております」
つまり、孤児なのだろう。アンジェリカは、膝をつき、少年と目線を合わせた。
「怖がらないで。少しだけ教えてちょうだい。今の騎士団長はマルチェロ様?」
「はい」
「この厨房にいる子達は、みんな孤児なの?」
「はい」
必要最低限の返答。アンジェリカは溜息を呑み込み、少年の手を包んだ。回復呪文が、水仕事で荒れた指先を癒して行く。
少年は、驚いた表情で自分の手を見詰めていた。治療がすむと、窓の光にかざし、よくよく観察をする。
「ありがとう」
アンジェリカは立ち上がり、少年の頭を撫でた。厨房にいる、怯えた子供達の姿が、マイエラ修道院の現状なのだ。
「あの......」
立ち去るアンジェリカを、少年の消えそうな声が引き留めた。彼は、アンジェリカの服を掴み、縋るような視線で見上げた。
「僕を貰ってください! 何でもしますから!」
「......無理」
アンジェリカは、胸を締め付けられる様な痛みを感じながら、返した。幼い子供が、どれほど辛い気持ちで、その言葉を吐いたのだろう。アンジェリカは、敢えて冷たい声音で続ける。
「私は、貴方と同じ。家も無いし、家族も無い。子供を養って、守りながら旅をするのは、無理よ」
「一回くらいなら、貴女の盾に成れます!」
「ふざけないで」
アンジェリカは、少年の肩を小突いた。怒りと悲しみの入り混じった、複雑な心境で彼を見据える。
「ここの人達は、貴方に神様の事を教えてはくれないの?」
「......オディロ院長が、たまに聞かせて下さいます」
「じゃあ、習ったはずでしょう。モノを大切にしろって事くらい」
「僕の命は物では無いです!」
「それは、貴方が決める事じゃ無いわ。世界が決める事よ。でも、そうね......今の貴方は、修道騎士団の小間使いで、手が荒れるまで雑用を押し付けられる、便利な道具。大切にされるモノに成りたければ、生きて、学ばないといけないわ」
「僕は文字すら読めないんですよ?! どうやって学べば良いんですか?!」
少年の叫びに、アンジェリカは心底失望し、息を吐いた。マイエラ修道院は、最早孤児院として、まともに機能していない。
オディロ院長は、かなりの高齢。手が回らないのも理解出来る。それを補佐する役割を背負っているのが、聖堂騎士団長だ。
アンジェリカは、少年の肩を叩き頷いた。
「忙しい所、ごめんなさい。取り敢えず、今は調理に戻って」
「貴女はーー」
「騎士団長を、ぶん殴りに行って来るわ」
言うなり、彼女は少年が二の句を発する前に扉を無理矢理閉めてしまった。
階段を降ると、其処には......
「此処まで来るのに、随分と時間が掛かりましたな。もしや、部下に斬られたのではと、心配していた所です」
マルチェロが、両脇に部下を従えて立っていた。慇懃無礼が、服を着て生きている様だ、とアンジェリカは思った。
彼女は、マルチェロと同じくらい醜悪な笑みを浮かべ、わざとらしく手摺に縋った。
「ご心配には及びません。何しろ、だいぶ年を取りましたので、杖が無いと辛いのです。騎士団員は、心配性ですね。木の棒一本を担いだ女すら、貴方に近付けたく無いらしい」
いつの間にか、アンジェリカの口調が、乱暴な物に変わっていた。昔、男だらけの修道院で暮らしていた時の癖が、自然と戻って来たのだ。
彼女の台詞に、騎士団員二人は同時に剣を抜いた。今度はマルチェロも、止めなかった。その代わり、自分の短剣をアンジェリカに投げて寄越した。
試されていると悟ったアンジェリカは、渋々得物を拾い上げた。短剣は、三番目に使い慣れた武器だ。一番は杖、二番は扇。
「殺しても構わん」
マルチェロの指示に、騎士団員達は一呼吸置いて、武器を振り上げた。その一瞬で、アンジェリカは、十分策を考じられた。ほんの少し与えられた時間で、気合を高め、小さくスカラを詠唱。
次の瞬間、二本の刃が彼女に襲い掛かった。一突きは、心臓を狙って。それは、短剣の剣腹で受け止めた。もう一つは、真上から振り下ろされた。頭を狙ったそれは、アンジェリカが身体を捻った事で僅かに逸れ、彼女の強化された左肩の肉を薄く斬った。
騎士団員は、明らかに動揺した様子を見せた。アンジェリカは、御構い無しに、心臓を狙って来た男の腹を思い切り蹴飛ばし、肩に食い込んだ刃を振り払う。そのまま、魔力を載せた一斬......デインを放つ。
すると、頭上から斬りかかって来た男の刃は、いとも容易く吹き飛んで、少し離れた床に突き刺さった。同時に、腹を蹴られた男が立て直し、再びレイピアを構える。アンジェリカは、一切の油断を見せずに、身を屈め、男の足を蹴飛ばして転ばせた。次の瞬間には、男の首筋をかすめる様に、アンジェリカの投げ捨てた短剣が、床に突き刺さっていた。
勝負はついた。アンジェリカは、無言でマルチェロを見据えた。彼は深い笑みを浮かべ、瞳に強い光を宿した。
「何を見て来た?」
「......人が生まれて、死んで逝く所」
アンジェリカの強さは、生きて来た全てだ。彼女は、投げやりな口調でマルチェロと向き合った。床に倒れていた騎士団員が、即座に身を起こし、彼を背後に庇う。
「無意味だ」
マルチェロは、団員達を払いのけ、彼らに厳しい目を向けた。
「己の得物でもない、ナイフ一本を持った女にやられるとは、鍛錬不足に他ならない」
「監督不行き届きの間違いでは?」
アンジェリカは、辛辣な言葉を放ち、マルチェロを睨め付けた。彼は鼻を鳴らすと、用心棒役の二人に素振りをを命じ、アンジェリカに歩み寄った。
「廊下での立ち話が趣味ではなければ、部屋で聞こう」
彼は踵を返した。アンジェリカは、無言で後を追う。
彼女は、酷く失望していた。マルチェロが、何れ騎士団の頂点に立つであろう事は、幼い時分より勘付いていた。賢く、強く、優しい青年が騎士団長に就任すれば、こんなに頼もしい事は無いと考えていた。
しかし、彼は変わってしまった。何かが彼を変えてしまったようだ。優しかった眼差しが、鷹のように鋭く、まるで世界の全てを拒むかのように、暗い色を帯びていた。
聖堂騎士団長の私室は、かなり広かった。調度品は質素であったが、騎士団員の部屋に比べれば、沢山の物があった。
壁に掛けられた、剣。書物に、装飾的な燭台。衝立を挟んで大きめな寝台も。
そして、部屋の奥には、長机。その上には、羽ペンと羊皮紙と、砂時計。
マルチェロは椅子に掛け、彼とアンジェリカは机を挟んで向き合う事となった。
「今、歳は?」
「18です」
「......ああ。どうりでお美しく成られたわけだ」
マルチェロの世辞に、アンジェリカは言葉を失った。これまで、その類の褒め言葉を掛けられた事が無かったからだ。
代わりに、頑なまでに無表情を装い、片手で机を叩いた。
「人殺しがこの辺りをウロウロしております。しかも、道化師の姿をした」
「最悪だな」
オディロ院長は、昔からお笑い好きで、度々道化師を呼んでいた。これは、周知の事実だ。だから、旅芸人の一人や二人が出入りしようと、誰も対して気に掛けないのだ。
「かと言って、この地を訪れた道化師を、片っ端から捕らえるわけにもいかん。......因みにそやつは、誰を殺した?」
「養父と、サーベルト・アルバートを」
アンジェリカは、その事実をハッキリと口にし、心臓を鷲掴みにされたかの様な、激しい痛みを感じた。
結局彼女は、また何もかもを失って、この場所に戻って来てしまったのだ。悔しさと、寂しさが、鋭い刃となって全身を貫いた。
何故、自分だけが生き残ってしまったのか。それは、誰のせいでも無いと、頭では理解している。しかし、心が納得してはいなかった。
「......すまない、失念していた」
突然、マルチェロは立ち上がり、アンジェリカの傍に歩み寄ると、彼女の細い腰を抱き寄せた。
「っーー」
アンジェリカが押し返すよりも早く、マルチェロは彼女の顔を自分の胸に埋め、頭を撫でた。
温かい魔法の力が、肩の傷を塞いで行くのを感じながら、アンジェリカは不意に一筋の雫が、頬を伝うのを感じた。
閉ざされた視界に、次々と過去の幻影が蘇る。
秋風の吹く夜、父を見送った日。木枯らしの吹く季節、扉越しに聞いた最期の叫び。その数日後、かつての面影もない程、やせ細った母の亡骸を土の下に見送った。
そして、修道院での生活の後、マスター・ライラスの元に引き取られた事。養父は粗暴な口調で、アンジェリカがこれまでに出会った、どんな人物よりも、彼女を女の子扱いしなかった。けれども、アンジェリカは確かな愛を感じていた。食事の支度は一緒にしたし、祭日や誕生日には、ささやかながらもお祝いをした。プレゼントをくれた事もある。
けれど、そんな養父も、アンジェリカの前からいなくなった。炎の壁に阻まれ、幼い頃の母との別れを彷彿させられた。
とめどなく溢れる涙がこらえ切れず、アンジェリカは嗚咽を漏らした。自分は、何一つ変わらぬまま、故郷に戻って来てしまった。そして、また、無言の優しさに身を委ね、泣いている。
しかし、それでも彼女は生きている。戦える。
「......ごめんなさい」
アンジェリカは、やんわりとマルチェロから距離を取り、涙を拭った。
「ドルマゲスと言う名の道化師が、一体何の目的で人殺しをしているのかは、分かりません。ですが、養父も、アルバート家の跡取りも、偉大な人でした。オディロ院長や、貴方の身にも危険が及ぶやも知れません」
「警備を強化しよう。......案ずるな。騎士団にも腕の立つ者は少なからずいる」
正直なところ、アンジェリカは全くアテにしていなかった。この地に、マルチェロより強い魔力を持った人間の気配を感じなかったからだ。
「......それと、下の修道士見習いの子供達は、皆酷く怯えていました。まさか虐待をしているわけでは無いですよね?」
「オディロ院長が、許すはずも無かろう!」
マルチェロは声を荒げた。
「確かに聖堂騎士団は、近頃血の気が多いと囁かれているが、子供に手をあげる事は断じて無い!」
「女性の胸を押し飛ばす男が、子供に手をあげないとは、思えません!」
アンジェリカは、負けじと食い下がった。ここで引き下がれば、厨房の子供たちが、とばっちりを受けかねない。
「......なにがあったのですか?」
彼女はマルチェロに詰め寄った。
「貴方は教えることが好きだった筈です。沢山の子供たちを支えて、私にも知識を与えてくださいました。昔の様に、本当の事だけを教えて下さい! あの子たちは、本当に教育を受けているのですか?!」
沈黙。
マルチェロは、苦々しい思いでアンジェリカを見詰めた。彼女には何も教えてはいない。オディロ院長の離れで生活していた彼女は、マルチェロの元に不意に転がり込んで来た、不幸の種を知らないのだ。
マルチェロの母を殺した......そして、アンジェリカの母を苦しめた、間接的な存在が、この神聖な地にやって来たのだ。
彼は暫し悩んだ末、首を横に振った。今更、何故彼女に気を遣ってやるのか分からなかったが、兎に角、その不幸の種をばら撒きたくは無かった。
「警備の件は分かった。すぐに手を打とう。この地は貴女にとって、既に無縁の場所ーー」
皆まで言い終える前に、部屋の扉が音を立て開いた。剃髪の騎士団員が、オセアーノンもびっくりするほど、頭のてっぺんまで真っ赤にして、膝をついた。
「ご報告します! ドニの酒場で乱闘騒ぎが起きましーー」
「首謀者は地下牢に居るのだろうな?!」
マルチェロは、吐き捨てる様に訊ねた。団員は反射的に震え、無理矢理声を絞り出した。おかげで変な節が付き、ヨーデルの様になった。
「は! ククールは拷問部屋にーー」
「あの厄病神が!!」
騎士団長は、乱心の一歩手前のような気迫で、団員の横を通り過ぎた。しかし、触れる扉の取っ手の冷たさが、ティースプーン一杯分の冷静さを取り戻させた。
「アンジェリカ、ここで待っていろ。誰かが手をだしたら、消し炭にしても構わん」
マルチェロは、嵐の様に部屋を出て行ってしまった。
騎士団員は、苦々しげな表情で立ち上がり、アンジェリカと向き合った。
「見苦しい所をお見せして、申し訳御座いません。マルチェロ様も、ククールの事となると、取り分け厳しく振舞われるものでして」
「ククール?」
アンジェリカは、初めて聞く名に首を傾げた。騎士は意外そうに目を見開いた。
「ご存知ありませんでしたか?! でしたら、どうぞ、お忘れになってください!!」
「貴方から聞いた事は、忘れます」
アンジェリカは、そう言い残しマルチェロの後を追った。彼は誰が見ても常軌を逸していた。
その諸悪の根源を見極めねば、と思ったからだ。
あまりにも不思議に思ったので、階段横の小部屋をノックすると、間髪入れずに反応があった。修道士の見習いと思しき少年が、怯えた様子で扉を開けたのだ。
「貴女は?!」
「許可を得て入った者よ。貴方は修道士見習い?」
「......ええ。オディロ院長様のご好意で、此処に住まわせていただいております」
つまり、孤児なのだろう。アンジェリカは、膝をつき、少年と目線を合わせた。
「怖がらないで。少しだけ教えてちょうだい。今の騎士団長はマルチェロ様?」
「はい」
「この厨房にいる子達は、みんな孤児なの?」
「はい」
必要最低限の返答。アンジェリカは溜息を呑み込み、少年の手を包んだ。回復呪文が、水仕事で荒れた指先を癒して行く。
少年は、驚いた表情で自分の手を見詰めていた。治療がすむと、窓の光にかざし、よくよく観察をする。
「ありがとう」
アンジェリカは立ち上がり、少年の頭を撫でた。厨房にいる、怯えた子供達の姿が、マイエラ修道院の現状なのだ。
「あの......」
立ち去るアンジェリカを、少年の消えそうな声が引き留めた。彼は、アンジェリカの服を掴み、縋るような視線で見上げた。
「僕を貰ってください! 何でもしますから!」
「......無理」
アンジェリカは、胸を締め付けられる様な痛みを感じながら、返した。幼い子供が、どれほど辛い気持ちで、その言葉を吐いたのだろう。アンジェリカは、敢えて冷たい声音で続ける。
「私は、貴方と同じ。家も無いし、家族も無い。子供を養って、守りながら旅をするのは、無理よ」
「一回くらいなら、貴女の盾に成れます!」
「ふざけないで」
アンジェリカは、少年の肩を小突いた。怒りと悲しみの入り混じった、複雑な心境で彼を見据える。
「ここの人達は、貴方に神様の事を教えてはくれないの?」
「......オディロ院長が、たまに聞かせて下さいます」
「じゃあ、習ったはずでしょう。モノを大切にしろって事くらい」
「僕の命は物では無いです!」
「それは、貴方が決める事じゃ無いわ。世界が決める事よ。でも、そうね......今の貴方は、修道騎士団の小間使いで、手が荒れるまで雑用を押し付けられる、便利な道具。大切にされるモノに成りたければ、生きて、学ばないといけないわ」
「僕は文字すら読めないんですよ?! どうやって学べば良いんですか?!」
少年の叫びに、アンジェリカは心底失望し、息を吐いた。マイエラ修道院は、最早孤児院として、まともに機能していない。
オディロ院長は、かなりの高齢。手が回らないのも理解出来る。それを補佐する役割を背負っているのが、聖堂騎士団長だ。
アンジェリカは、少年の肩を叩き頷いた。
「忙しい所、ごめんなさい。取り敢えず、今は調理に戻って」
「貴女はーー」
「騎士団長を、ぶん殴りに行って来るわ」
言うなり、彼女は少年が二の句を発する前に扉を無理矢理閉めてしまった。
階段を降ると、其処には......
「此処まで来るのに、随分と時間が掛かりましたな。もしや、部下に斬られたのではと、心配していた所です」
マルチェロが、両脇に部下を従えて立っていた。慇懃無礼が、服を着て生きている様だ、とアンジェリカは思った。
彼女は、マルチェロと同じくらい醜悪な笑みを浮かべ、わざとらしく手摺に縋った。
「ご心配には及びません。何しろ、だいぶ年を取りましたので、杖が無いと辛いのです。騎士団員は、心配性ですね。木の棒一本を担いだ女すら、貴方に近付けたく無いらしい」
いつの間にか、アンジェリカの口調が、乱暴な物に変わっていた。昔、男だらけの修道院で暮らしていた時の癖が、自然と戻って来たのだ。
彼女の台詞に、騎士団員二人は同時に剣を抜いた。今度はマルチェロも、止めなかった。その代わり、自分の短剣をアンジェリカに投げて寄越した。
試されていると悟ったアンジェリカは、渋々得物を拾い上げた。短剣は、三番目に使い慣れた武器だ。一番は杖、二番は扇。
「殺しても構わん」
マルチェロの指示に、騎士団員達は一呼吸置いて、武器を振り上げた。その一瞬で、アンジェリカは、十分策を考じられた。ほんの少し与えられた時間で、気合を高め、小さくスカラを詠唱。
次の瞬間、二本の刃が彼女に襲い掛かった。一突きは、心臓を狙って。それは、短剣の剣腹で受け止めた。もう一つは、真上から振り下ろされた。頭を狙ったそれは、アンジェリカが身体を捻った事で僅かに逸れ、彼女の強化された左肩の肉を薄く斬った。
騎士団員は、明らかに動揺した様子を見せた。アンジェリカは、御構い無しに、心臓を狙って来た男の腹を思い切り蹴飛ばし、肩に食い込んだ刃を振り払う。そのまま、魔力を載せた一斬......デインを放つ。
すると、頭上から斬りかかって来た男の刃は、いとも容易く吹き飛んで、少し離れた床に突き刺さった。同時に、腹を蹴られた男が立て直し、再びレイピアを構える。アンジェリカは、一切の油断を見せずに、身を屈め、男の足を蹴飛ばして転ばせた。次の瞬間には、男の首筋をかすめる様に、アンジェリカの投げ捨てた短剣が、床に突き刺さっていた。
勝負はついた。アンジェリカは、無言でマルチェロを見据えた。彼は深い笑みを浮かべ、瞳に強い光を宿した。
「何を見て来た?」
「......人が生まれて、死んで逝く所」
アンジェリカの強さは、生きて来た全てだ。彼女は、投げやりな口調でマルチェロと向き合った。床に倒れていた騎士団員が、即座に身を起こし、彼を背後に庇う。
「無意味だ」
マルチェロは、団員達を払いのけ、彼らに厳しい目を向けた。
「己の得物でもない、ナイフ一本を持った女にやられるとは、鍛錬不足に他ならない」
「監督不行き届きの間違いでは?」
アンジェリカは、辛辣な言葉を放ち、マルチェロを睨め付けた。彼は鼻を鳴らすと、用心棒役の二人に素振りをを命じ、アンジェリカに歩み寄った。
「廊下での立ち話が趣味ではなければ、部屋で聞こう」
彼は踵を返した。アンジェリカは、無言で後を追う。
彼女は、酷く失望していた。マルチェロが、何れ騎士団の頂点に立つであろう事は、幼い時分より勘付いていた。賢く、強く、優しい青年が騎士団長に就任すれば、こんなに頼もしい事は無いと考えていた。
しかし、彼は変わってしまった。何かが彼を変えてしまったようだ。優しかった眼差しが、鷹のように鋭く、まるで世界の全てを拒むかのように、暗い色を帯びていた。
聖堂騎士団長の私室は、かなり広かった。調度品は質素であったが、騎士団員の部屋に比べれば、沢山の物があった。
壁に掛けられた、剣。書物に、装飾的な燭台。衝立を挟んで大きめな寝台も。
そして、部屋の奥には、長机。その上には、羽ペンと羊皮紙と、砂時計。
マルチェロは椅子に掛け、彼とアンジェリカは机を挟んで向き合う事となった。
「今、歳は?」
「18です」
「......ああ。どうりでお美しく成られたわけだ」
マルチェロの世辞に、アンジェリカは言葉を失った。これまで、その類の褒め言葉を掛けられた事が無かったからだ。
代わりに、頑なまでに無表情を装い、片手で机を叩いた。
「人殺しがこの辺りをウロウロしております。しかも、道化師の姿をした」
「最悪だな」
オディロ院長は、昔からお笑い好きで、度々道化師を呼んでいた。これは、周知の事実だ。だから、旅芸人の一人や二人が出入りしようと、誰も対して気に掛けないのだ。
「かと言って、この地を訪れた道化師を、片っ端から捕らえるわけにもいかん。......因みにそやつは、誰を殺した?」
「養父と、サーベルト・アルバートを」
アンジェリカは、その事実をハッキリと口にし、心臓を鷲掴みにされたかの様な、激しい痛みを感じた。
結局彼女は、また何もかもを失って、この場所に戻って来てしまったのだ。悔しさと、寂しさが、鋭い刃となって全身を貫いた。
何故、自分だけが生き残ってしまったのか。それは、誰のせいでも無いと、頭では理解している。しかし、心が納得してはいなかった。
「......すまない、失念していた」
突然、マルチェロは立ち上がり、アンジェリカの傍に歩み寄ると、彼女の細い腰を抱き寄せた。
「っーー」
アンジェリカが押し返すよりも早く、マルチェロは彼女の顔を自分の胸に埋め、頭を撫でた。
温かい魔法の力が、肩の傷を塞いで行くのを感じながら、アンジェリカは不意に一筋の雫が、頬を伝うのを感じた。
閉ざされた視界に、次々と過去の幻影が蘇る。
秋風の吹く夜、父を見送った日。木枯らしの吹く季節、扉越しに聞いた最期の叫び。その数日後、かつての面影もない程、やせ細った母の亡骸を土の下に見送った。
そして、修道院での生活の後、マスター・ライラスの元に引き取られた事。養父は粗暴な口調で、アンジェリカがこれまでに出会った、どんな人物よりも、彼女を女の子扱いしなかった。けれども、アンジェリカは確かな愛を感じていた。食事の支度は一緒にしたし、祭日や誕生日には、ささやかながらもお祝いをした。プレゼントをくれた事もある。
けれど、そんな養父も、アンジェリカの前からいなくなった。炎の壁に阻まれ、幼い頃の母との別れを彷彿させられた。
とめどなく溢れる涙がこらえ切れず、アンジェリカは嗚咽を漏らした。自分は、何一つ変わらぬまま、故郷に戻って来てしまった。そして、また、無言の優しさに身を委ね、泣いている。
しかし、それでも彼女は生きている。戦える。
「......ごめんなさい」
アンジェリカは、やんわりとマルチェロから距離を取り、涙を拭った。
「ドルマゲスと言う名の道化師が、一体何の目的で人殺しをしているのかは、分かりません。ですが、養父も、アルバート家の跡取りも、偉大な人でした。オディロ院長や、貴方の身にも危険が及ぶやも知れません」
「警備を強化しよう。......案ずるな。騎士団にも腕の立つ者は少なからずいる」
正直なところ、アンジェリカは全くアテにしていなかった。この地に、マルチェロより強い魔力を持った人間の気配を感じなかったからだ。
「......それと、下の修道士見習いの子供達は、皆酷く怯えていました。まさか虐待をしているわけでは無いですよね?」
「オディロ院長が、許すはずも無かろう!」
マルチェロは声を荒げた。
「確かに聖堂騎士団は、近頃血の気が多いと囁かれているが、子供に手をあげる事は断じて無い!」
「女性の胸を押し飛ばす男が、子供に手をあげないとは、思えません!」
アンジェリカは、負けじと食い下がった。ここで引き下がれば、厨房の子供たちが、とばっちりを受けかねない。
「......なにがあったのですか?」
彼女はマルチェロに詰め寄った。
「貴方は教えることが好きだった筈です。沢山の子供たちを支えて、私にも知識を与えてくださいました。昔の様に、本当の事だけを教えて下さい! あの子たちは、本当に教育を受けているのですか?!」
沈黙。
マルチェロは、苦々しい思いでアンジェリカを見詰めた。彼女には何も教えてはいない。オディロ院長の離れで生活していた彼女は、マルチェロの元に不意に転がり込んで来た、不幸の種を知らないのだ。
マルチェロの母を殺した......そして、アンジェリカの母を苦しめた、間接的な存在が、この神聖な地にやって来たのだ。
彼は暫し悩んだ末、首を横に振った。今更、何故彼女に気を遣ってやるのか分からなかったが、兎に角、その不幸の種をばら撒きたくは無かった。
「警備の件は分かった。すぐに手を打とう。この地は貴女にとって、既に無縁の場所ーー」
皆まで言い終える前に、部屋の扉が音を立て開いた。剃髪の騎士団員が、オセアーノンもびっくりするほど、頭のてっぺんまで真っ赤にして、膝をついた。
「ご報告します! ドニの酒場で乱闘騒ぎが起きましーー」
「首謀者は地下牢に居るのだろうな?!」
マルチェロは、吐き捨てる様に訊ねた。団員は反射的に震え、無理矢理声を絞り出した。おかげで変な節が付き、ヨーデルの様になった。
「は! ククールは拷問部屋にーー」
「あの厄病神が!!」
騎士団長は、乱心の一歩手前のような気迫で、団員の横を通り過ぎた。しかし、触れる扉の取っ手の冷たさが、ティースプーン一杯分の冷静さを取り戻させた。
「アンジェリカ、ここで待っていろ。誰かが手をだしたら、消し炭にしても構わん」
マルチェロは、嵐の様に部屋を出て行ってしまった。
騎士団員は、苦々しげな表情で立ち上がり、アンジェリカと向き合った。
「見苦しい所をお見せして、申し訳御座いません。マルチェロ様も、ククールの事となると、取り分け厳しく振舞われるものでして」
「ククール?」
アンジェリカは、初めて聞く名に首を傾げた。騎士は意外そうに目を見開いた。
「ご存知ありませんでしたか?! でしたら、どうぞ、お忘れになってください!!」
「貴方から聞いた事は、忘れます」
アンジェリカは、そう言い残しマルチェロの後を追った。彼は誰が見ても常軌を逸していた。
その諸悪の根源を見極めねば、と思ったからだ。