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GS2若デジ

Dream of egg

エンブリオ Embryo

 そこは閉じた世界だった。
 僕は閉ざされた殻の中から外の世界の出来事をまるで他人事のように眺めていた。
 殻の中はとても居心地がよかったし、不自由と感じることは何一つなかった。望めば欲しいものは得られ、暖かい寝床があり、世界中を繋いだネットワークから居ながらにして様々な情報をすぐさま知ることができた。
 殻の中に居る資格を得ているということはとても喜ばしいことなのだと、名誉あることだと、何度となく繰り返し聞かされてきた、実際僕は長い間そのことに疑問を抱くこともないまま、ただ時間は過ぎていった。

 君たちは『金の卵』
 素晴らしい『金の卵』達の可能性を生かす為、望む限りの施設と環境を用意する。
 金の卵。
 可能性という名の黄金を産む為だけに閉じ込められた雛。
 そのまま孵ることもなく、殻の中に閉じこもったまま成長してしまった出来損ないの雛。
 
 僕は殻を飛び出した。
 
 * * *

 そこが何処のなんという街だったのか、よく覚えていない。
 だだ、霧のように降り注ぐ雨の冷たさと懐に抱いた小さな暖かさだけが鮮明だった。
 細かな水の玉を含んで湿った髪が視界を遮る、これだけ降り注いでいても滴が垂れることもなく、細かな霧雨は重りのように体中を包んでじわじわと温もりを奪っていく。
 今日は何処に行くのか、これからどうするのか。
 何も見えない、この濁った空のように。
 懐の中に動く感触。
「ごめんなさい、苦しかったですか?」
 襟元から顔を出し、問いかけに答えるように小さな鳴き声をあげる。
「雨、やみませんね。もう少し辛抱してください」
 濁った空、この雨はいつまで降り続くのかいつ晴れるのか、自分は何処に行くのか。
 殻の外へと飛び出して、当てもなく街から街をさすらい、それでも孵ることのできなかった自分はどうすればよかったのか。
 霧雨の中、何も見えない。
 
 差し出された傘の影に気づいて顔を上げた。
「風邪を引いてしまいますよ」
 目に映ったのは少し濡れたスーツと眼鏡の奥の眼差し。
「いえ、僕は」
「その子猫さんも、これから雨脚が強くなります。こんなところに居てはずぶ濡れになってしまいますよ」
 彼の誘いに応えたのは懐にいる小さな温もりの為だった。胸の子猫を落とさないように手を添えて立ち上がって頭を下げた。
「……はい」
「車にどうぞ、まずは暖まりましょう」
 霧雨の中、男の車へと向かう。
 後部座席に横たわったまま、程なく意識が落ちた。
 
 両手で持ったマグカップにたっぷりのホットミルク。
 椅子に座ったまま、飲むでもなく両手に伝わる温かさを噛み締める。
「牛乳はお嫌いでしたかな?」
「いいえ、いただきます」
 一口飲んだホットミルクはほのかに甘い。
 体中に沁みこんでくる温かさに小さく息を吐いた。
 足元ではさっきの仔猫が小皿に注がれたミルクをぺろぺろと舐めている。
 無言のまま、半分ほど中身の減ったカップを両手に持ったまま顔を上げた。
「ありがとうございます」
「いえ、どうぞ気にせず」
 
 夕暮れ時霧雨の中、僕は彼に拾われた。

 * * *

 袖を通した洗いざらしの白衣は少し皺がよっていた。
 雨の日に彼に拾われてからどれくらい経ったか。根無し草のようにあちこちさすらってきた僕にしては珍しいくらい長くこの地に留まっている。
「せーんせ、おはよっ」
「はい、おはようございます」
「若サマ~おはようございまーす!」
「おはようございます、元気があって感心」
 にぎやかに笑いあう生徒達の姿、掛けていく姿、ふざけてつつきあう姿。
 殻の中に居た頃にはほとんど見ることのなかった光景。
「若王子先生っ、おはようございます!」
 軽く背中を叩かれてふと我に返った。
「おや、おはようございます。そんなに叩いたら先生壊れちゃいます」
「だって、先生ちょっとぼんやりしてたから」
「大丈夫、先生起きてます。夕べはちゃんと寝ました」

 学校という集団の中で、僕は殻の中にはなかった色々な世界を知った。
 そこは僕が知っていた小さな世界とは比べ物にならないほど、たくさんの心と、数え切れない希望と、表情豊かな生徒達の笑顔に満ちていて。
 狭い殻の中で僕が取りこぼしていたものすべてが、そこにはあった。
 小さな卵達。
 彼らは金の卵ではないかもしれない。けれど彼らは学校という殻の中で笑ったり悩んだり仲間と過ごしたり、短い時間の中で沢山の経験をし、そして殻を割って卒業していく。
 きっとまたこれから彼らにはいくつもの殻を割って、飛び立っていくのだ。
 より、広い世界へと。
「僕は――」
 つぶやいた言葉は声にならずに消える。
 
 僕は殻を割ることができなかった。

 * * *

 教師として羽ヶ崎学園にきてから時間の流れの早さに驚かされる。
 沢山の生徒達と出会って、授業を受け持って、時には相談に乗ったり、行事に参加したり。親しく話しかけてくれる子、一緒にはしゃいでくれた子、共に過ごしながら失った何かを取り戻すように過ごした日々。
 けれど三年間という時間は悲しいほどに短く、手から零れ落ちていく。卒業し、殻を割って飛び立っていく彼らを僕はただ見送ることしかできない。
 どうやって殻を割ればいいのか? 失ったものを取り戻せるのか? 未だに答えは見えないまま。
 
 そして、また新しい春。
 期待する目、緊張する顔、おろしたての制服に身を包んだ卵達を前にして。
「初めまして。みなさんの担任になります、若王子貴文です」
 生徒同士で囁きあう姿も楽しそうに質問をしてくる姿がとても眩しい。
 初々しさと希望と期待と不安がごちゃ混ぜになった大小さまざまな卵達を前に、僕は未だに孵ることができないまま取り残されている。
 
 化学準備室、ビーカーに淹れたコーヒーの香りが広がる中で。
 頬杖をついて湧き立つ湯気を眺めて。
 
 潮時なのかもしれない。
 ぼんやりと校庭を眺めながら、コーヒーを一口含んだ。
 思い返すと、この街には随分留まりすぎている。そろそろこの街を出て他のところに行くべきではないか?と。
 得体の知れない放浪者だった自分を助けて、教師という職まで世話してくれた彼にはもちろん感謝している。
 この学校を嫌っているわけではもちろんない、教師という仕事も。たくさんの卵達は率直で純粋で危うくて未完成で、毎日発見と学習の連続だ。
 いや、だからこそ。
 孵化していく、卒業していく彼らをただ見送り続けることしかできないのが辛いだけなのかもしれない。
 殻を割ることができなかった自分には。
 
 ノックの音に手にしたビーカーを置いて顔を上げた。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
 閉ざされた殻の中、春の訪れと共に僕の前に現れたのは。
「若王子せんせーい!」
「はい、どうしました?」
 受け持ったクラスの女子の姿。両手に持ったノートと本を胸に抱いて、興奮に頬を染めながらドアを開けて入ってくる。
「えっと質問があるんです、先生って色々詳しい人だって聞いたんです」
「質問されるのは好きです。どんな質問ですか?」
「はいっ、ええと」
 栗色の髪を揺らして、元気よく笑う姿はとても微笑ましくて――眩しい。
 
 春の日差しが差し込む中、僕は彼女に出会った。
 
 * * *

 子供みたいな夢ですよ。
 彼女はちょっと照れくさそうにそう言った。
「私が小さいころの話なんです。昔ちょっと喘息で夜咳が酷くて眠れない日とかがあって」
 化学準備室に置かれた古いパソコンを立ち上げながら、彼女は手にしたノートと本を開いた。
「そんな時、よく母親が私を外に連れていって、咳がおさまるまで二人で空を見てたんです」
「やさしいお母さんだ、君はとても大切にされていたんですね」
「えへへ」
 はにかんでちょっと誇らしげに笑う顔、彼女の言葉の向こうに仄見える母親に対する暖かい想いを感じる。
 そして僕は、母親と言われて咄嗟に思い出すものがない。もちろん覚えていないわけではない、蔑ろにされていたわけでもない。けれど彼女が嬉しそうに母との思い出を語るように、自分の母のことを語ることができない。
 思い出すのは、殻の中で過ごした柔らかさや暖かさの欠片もない無機質な記憶だけ。
「それ以来、星とか宇宙とかすごく好きなんです」
「宇宙、それは素敵だ」
「小さい頃は私は将来宇宙飛行士になる!って豪語してました」
「私はカモメ、ですね」
「無重力の中をばっさばっさですね」
 ぱたぱたと両手を小さく羽ばたかせて。
「や、これは可愛い宇宙のスズメさんだ」
「なんでそこでスズメなんですか」
 頬を膨らませる彼女の笑顔が微笑ましくて、眩しい。
「そこでちょうど満月の日だったんです、その日。お月様を指差して『知ってる?月の裏側は地球から見えないのよ』って」
 宙を指差して微笑む彼女の声が弾む。
「そこで私言ったんですよ『大人になったら月の裏に秘密基地を作るって』」
 荒唐無稽で夢見がちな、子供みたいな夢。
 昔の僕が両手からこぼしてしまった、失われたもの。
「それは実に壮大です」
「もっと可愛らしい夢はないの?って言われましたけどね」
 ぺろりと舌を出して、ようやく立ち上がったパソコンの前でマウスを動かす。
「秘密基地の夢、本気かどうかっていうとまだまだわかんないんですけどね。あ、先生、今日聞きたい事はこれなんです」
 彼女が手にしたプログラム教本と思われる本を開いてみせる。
「やや、これは懐かしい。月面着陸ゲームですね」
 まだコンピュータが普及する前、パソコンではなくマイコンと呼ばれていた時代にあったゲーム。
 内容はごく単純、月面に宇宙船を激突させないように着陸させるというもの。
 空気が無く重力が地球の1/6の月で、重力加速度とエンジンの推進力を計算して落下速度を減少させ激突しない速度で月面に到達させるという。
 今ではプログラムのアルゴリズム概要を理解するための一環として課題として作ることも多い。
「これ、作ってみたいんです」
「懐かしいですね、僕もよく遊びました」
 まだ小さな頃、遊び相手の居なかった僕はよく一人で家の片隅に置かれたパソコンで遊んでいた。落下速度と推進力を計算してベクトルを合わせて燃料ゲージを消費せずにいかに無駄なく着陸するかを考えて。
 そのうちゲームで遊ぶだけでなく、自分で新しくプログラムを組んで改良したものを作って、そして……ラボの目に留まった。
「先生?」
「ああ、ごめんなさい。先生ぼんやりしちゃいました」
「えっと、この落下速度の計算のロジックを教えて欲しいんです」
「わかりました、お安い御用です。ゲームができたら先生にも遊ばせてください」
「はいっ」
 ノートを広げた彼女が真剣な顔でシャーペンを手に僕の顔を見る。
 その顔が、眼差しが、とても眩しい。
 不完全で、未完成で、危うくて、純粋で、とても輝いていて。
「はいでは注目、まず基本から。月の重力は地球の1/6です、そして空気抵抗はありません。なので落下速度は毎秒で1.62m/sで増加します。ここで激突せずに着陸する為には少なくとも月面到着までに1.0m/s以下の速度でなければいけません」
「はい」
 日差しが傾いて、赤い夕日が差し込んでくる時間まで。
 彼女は熱心にノートを取り、古いパソコンの前でキーを叩いていた。
 
 小さな卵は、遠い空の向こうへの憧れと想いを胸に目を輝かせていた。
 
 あれから彼女が化学準備室の住人になるのに時間は掛からなかった、むしろ放課後の時間に彼女がいない時のほうが珍しい程だった。
「やっぱり、物理は基本……ですよね」
「そうです。物事の基本、物理法則がしっかり頭に入っていないと難しいです。航空宇宙工学というのは空気力学、構造力学、流体力学、沢山の知識の集合です。その全ての根っこは物理学です。ここをおろそかにしちゃいけません」
「むぅ」
 机の端に積まれた物理学、アルゴリズム概要、航空工学入門、様々な専門書。
 年季の入った古いパソコンには彼女が独学で取り組んだ物理演算システムの様々なサンプルプログラムのアイコンがびっしりと並んでいる。
 淡い光に照らされながら食い入るようにモニタに見つめてキーを叩いて、画面に表示される計算結果と予測した数値を何度も確認しながら隣の僕を見上げる。
「先生。これ、どうですか?」
「ええ、凄くしっかり組んでありますね。シミュレーション結果のほうもできてますか?」
「はい、もちろん!」
 弾んだ声でマウスを動かす。
 彼女は傍で見ている僕が舌を巻くほどの学習意欲と探究心で、砂が水を吸うように知識を吸収していった。その姿はとても頼もしくもあり、また逆にほんの少しだけ心配でもあった。
 まだ急がなくていい、宝物のような時間を無駄にしないで欲しい、僕のようになって欲しくない。
 でも、こうして一つ一つを知るたびに喜びに顔をほころばせる彼女を見ていると、ただの杞憂なのかもしれない。
 例えば。いつかの僕はあんな風に顔を輝かせていただろうか?
 ひとつの法則を理解したとき、ひとつの理論を理解したとき、その小さな一歩に心を躍らせたことがあっただろうか?
 思い出せなかった。
 
「私、思うんですよ」
 夕日が差す化学準備室、いつものように古いパソコンのモニタをにらみながら彼女が口を開いた。
「私の周りには、きっとたくさんの殻があると思うんです」
「殻、ですか」
 夕暮れすぎ、窓の向こうは校門へと向かう生徒達の姿がちらほらと見える。
「私が小さい頃、家族とか近所とか、学校とか……小さな殻がたくさんあって。そこから段々外の世界を知って、そしてまた次の殻があるんです」
 彼女が越えてきたたくさんの殻。そして僕が知ることができなかった小さな世界。
「子供の頃、月を見上げてあそこに秘密基地を作るって言った時。あの頃はそんな殻なんて知らなかった、ただ目の前に浮かんでる月しか見えてなかった」
「はい」
「でも、だんだん色んなことを知って……そしてだんだん現実が見えてくるんです。自分が言い出したのは荒唐無稽な子供の夢なんだって」
 かち、と。マウスをクリックして画面を切り替える。
 荒唐無稽な子供の夢。
 たとえば、僕はどんな夢を見ただろう?
「君の言う殻とはは、新しく知った世界の法則ですね。小さな世界を形作る法則と自分の大きさ、君は殻を知ったことで物事を、世界を知ることができた」
「はい」
 小さな僕は物分りが良かった、いや良すぎた。
 物分りが良すぎた為に、殻を超えることなく壁にぶつかることもなく、世界を知ったつもりになっていた。
「君は空が好き?宇宙が好き?」
「好きです」
 顔を上げてまっすぐに答える彼女の目。
「なら、大丈夫です」
「え?」
「君は殻の向こうにある何かを知りたい、辿り着きたい、そうせずにはいられない」
「はい」
 彼女は孵化しようとしてる。
 これまで見送ってきたたくさんの生徒達のように。
「君は殻を割ろうとしてるんです、自分の中の葛藤や悩みを超えて飛び立つために」
「……先生?」
 
「僕は殻を割ることが出来なかったんですよ」
 
「若王子先生……」
「ああ、ごめんなさい。へんなこと言っちゃいました」
 なぜ、彼女の前でそんな事を言ってしまったのか。
「そろそろ帰らないと遅くなっちゃいます。さ、鍵を閉めるからパソコンの電源を落として」
「先生」
 きつく手を握り締めて問いかける彼女に背中を向ける。
 
 甘えを吐いた自分の弱さに後悔した。

 * * *

 ここを離れるべきだった。
 そう思った時には何もかもが遅かった。

 彼女と二人で会う時間を作るようになったのはいつからだろう。もう随分昔のことのようにも思えるし、彼女が始めて教えを請いに来た日から幾日も経っていないようにも思えた。
 夕暮れも過ぎて、だんだん群青に染まっていく空の色。夕暮れとのほんのわずかの隙間を眺めながら、傍らに佇む彼女を見た。
「先生」
「どうしたの?」
 その問いかけには答えず、腕に寄りかかるように頭を寄せる。頬をすべり落ちた髪が顔を隠した。
「……なんでもないです」
 袖をつまんだ小さな手がしっかりと握り締められている。
 数日前の彼女とのやり取り以来、どことなく会話が続かない。こうして二人になっている時も、お互いなかなか言葉を出せないまま黙り込んでしまう。
 
 海からの風が吹く海岸は夏の名残のある時期でも肌寒い。
「寒くない?」
「はい」
 砂浜にいくつも続く小さな窪みの列、二人が歩いた足跡。
 繋いだ手、小さな彼女が遅れがちに僕に続く。
 
 本当ならもっと早くここを離れるべきだったのかもしれない。
 でも、もう遅かった。
 離れるべきなのかもしれないと思った時には、僕はもう彼女と出会っていた。
 
「そろそろ戻ろう、風が強くなってきちゃいました」
「はい」
 腕から滑り落ちるように彼女の手が僕の手に触れる。
「行こう」
 握った手は細くて冷たかった。
 日が落ちかかった青黒い海の向こう、瞬く光が海岸の向こうに見える。遠い海の向こう――人生の半分以上を過ごしたあの国のことを思い返しながら。
 あの国にまったく未練がないと言ってしまえば、それは嘘なのかもしれない。
 成長してしまった僕は全くの無垢で純粋な子供ではなく、彼らのいう利益や理屈を充分理解することはできたし、彼らが僕を追う理由を納得することはできた。
 けれど、中途半端に成長してしまった不完全な僕は失った時間を諦めきれないまま、未だに答えを探し続けている。
 何もかもが取り戻せるとは思っていない。
 せめてほんのひと欠片でも、失ってしまった何かを取り戻したかった。
 成長し、殻を割って飛び立っていく生徒たちのように。
「ん?」
 急にきつく握り返された手に足を止める。
「歩くの、早かった?」
「いいえ」
 俯いたまま、言葉が途切れる。
「……先生」
 か細い声を遮るように、彼女の体を引き寄せた。
 遠慮がちに背中に回した手がぎゅっと服をつかむ。
「どうしたの?」
 腕の中で、微かに肩を震わせながら。
「若王子先生……消えちゃったりしませんよね?」
 心の奥まで見透かされたような気がして、胸の奥に軋むように響いた。
「ここに居ますよ、大丈夫」
 取り戻せたものはないのかもしれない、けれど、得たものはある。
 ちっぽけな僕をこの世界に繋ぎとめてくれる小さな手が。
「先生は、失ったものを取り戻したいって言ってましたよね」
「……うん」
「殻を割ることができなかった、って」
「そう……」
 背中に回された手がきつく服をつかんだ。
「やっと、ホントの先生が見えましたね」
「え……?」
 体を離して僕を見上げる。
「私、先生には殻があるって思ったんです。ずっと前から」
 息を呑んだ。
「いつもニコニコしていて、でも殻の向こうの本当の顔を見せてくれない。だから、私ずっと待ってたんです。殻の中から本当の先生が出てくるの」
 するりと両手を滑らせて、僕の両頬を撫でる。
 背伸びした彼女の額がこつんと僕の額を小突いた。
「大丈夫。殻、割れましたよ。本当の先生を見せてくれたんだから」
 微笑む彼女の前で僕はすごく間抜けな顔をしていたと思う。
 
「無くしたもの、私が一緒に取り戻します。だから……先生の傍にいていいですか?」
 いつの間にか自分の中で分厚く塗り固めてしまった殻にヒビが入る。
「ありがとう……ずっと、傍に居て」
「はい、嬉しいです」
 
 僕は長い長い時間をかけて、やっと孵ることができた。
 

星の卵 Star Egg

 鏡の前、くるくると回る彼女の姿を目で追いながら。
「おかしくないですか?」
 もう何度目かの彼女の言葉に思わず笑みが浮かぶ。
「とても可愛いです、まるでお人形さんみたいだ」
 淡いピンク色のおろしたてのスーツは彼女にとても良く似合っている。
「……うーん、やっぱり服に着られてる気がする」
「そんなことはない。君はすごく可愛い、とっても似合ってる」
「だって子供っぽく見えちゃうし」
 鏡とにらめっこしながら襟元を引っ張ったり袖を直す姿が可愛らしい。
「向こうの人って、大人っぽいんですよね? 子供に見えたら嫌だなぁ」
「焦ることなんかない。そんなに焦らなくても、君なら大丈夫です。僕が保証する」
「本当ですか?」
「もちろん」
 くるりと僕に向き直った彼女の額と額を合わせて。
「君はとても可愛くて魅力的だ。だからちょっとだけ心配」
「……もう」
 真っ赤になって俯いた頬をそっと指先で撫でた。
 
 * * *
 
 彼女がアメリカに行くと言い出したのは大学に進学してから少し経ってからのことだった。

「アメリカ?」
 膝の上の猫を撫でる手を止めて。
「はい、と言ってもまだ先ですけど。親には早いうちに話して説得しようと思って。それに向こうにも慣れておきたいし」
 両手で持ったマグカップからコーヒーを一口飲んでテーブルに置く。
 それは十分に予想できることだった。
 彼女が望む道からして、いずれはそういう進路を選ぶだろうということは想像できるはずだった。
 けれど、こうして彼女の口からハッキリ聞かされるまでまるで考えもしていなかった。
「どっちにしても今の大学を出てからですけど」
「……君なら大丈夫。僕が保証する」
 頭では理解している、けれど。今でもあの国で過ごした頃を思い出すと、今でも少なからぬ苦い想いが胸をよぎった。
「英語とかも、日常会話とかの方を覚えないとかなって」
「うん、そうだね」
 不安がないと言えば嘘になる。
 でもそんなことで彼女の歩みを止めたくなかった。
 いくつもの殻を超えて、前へと進んでいく彼女の夢を邪魔したくなかった。
「それで……貴文さんにお願いがあるんです」
「僕にお願い?」
 テーブルに置いたマグカップを両手で包んだまま、しばらく顔を伏せて。
 静かな時間が流れる中、意を決したように彼女が顔を上げた。
 
「貴文さん、私と一緒にアメリカに行って欲しい、って言ったら怒りますか?」
 
 彼女のその意味をどう解釈して、どう受け止めたらいいのか。
 ほんの少しだけ時間が掛かった。
「君は本気?」
「え、はい」
 不意に真顔になった僕に少し驚いたように。
「それは、君と僕がアメリカで一緒に暮らすということ?」
 僕の言葉に彼女は目を見開いて、すぐに顔を真っ赤にしてあわてて両手を振った。
「あの、えっと、そ、そ、そういう意味じゃなくて。あの、こ、今度夏休みにアメリカに行こうと思って、その、一緒に……貴文さんも行ってくれたらな、って、意味だったんですけど」
 真っ赤になってオロオロと周りを見回す彼女の動揺っぷりに思わず吹き出した。
「ごめんなさい、てっきり君がプロポーズしてくれたと思ってドッキリしちゃいました」
「えっと、あの、ごめんなさいっ!そうじゃなくて、紛らわしくてごめんなさい!でも、違うわけじゃなくて……その」
 真っ赤になって慌てる彼女の頭にそっと手をのせる。
「謝らなくていい。そういうことはちゃんと僕から言うから」
「……はい」
「アメリカ連れて行ってあげる、これから先もずっと。見ていたいんだ、君のこれから先、ずっと……」
「貴文さん……」
 いくつもの殻の向こう。彼女が超えていくもの全て。
「だからずっと一緒にいよう、僕と。返事は?」
「はい、貴文さん。オーケーです」

 * * *

 飛行場は夏の旅行を目的にした人でごった返していた。
「はぐれないように、ちゃんと僕の手を握ってて」
「はい」
 片手でスーツケースを押しながら、二人歩く。
 飛行機に乗ったことは何度もある。ただの移動手段の一つでなんの珍しくもないものだと思っていた。
 ひとつ違うのは、彼女が一緒であるということ。
「私たちが乗る飛行機はどれかな」
「まずは搭乗手続きを済ませないとね。大丈夫、ちゃんと案内するよ」
「頼りにしてます」
 何気ない生活の中のひとコマでも。そこに彼女が居る、それだけで全てが黄金に変わるように。
「僕たち、新婚さんに見えるかな?」
「貴文さんっ」
「あはは。さ、行こう」
 繋いだ手を引いて、歩き出す。
 
 僕は、本当の金の卵を見つけた。

END
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