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GS3嵐×バンビ

親友の行末

 目の前にうっすらもやが掛かったような感覚。
 判断力を失うほどに完全に回りきっているわけではないが、頭の中の半分ほどが酒に溶けている。
 座り込んだ足元には脱ぎ捨てられたスーツの上着、寄りかかったクロゼットのひんやりとした感触が酔いにぼやけた頭をやんわりと冷やしているような気がする。
 ここは自分の部屋ではない。
 一人暮らしの女の部屋。家具は壁沿いに置かれたベッドと小さなテーブル、ベッドの脇に置かれた小さなタンスくらいしかない。一見殺風景のようにも見えるが、きちんと整理整頓されたいい部屋だ。
 窮屈なネクタイに指をかけて下に引っ張り、ワイシャツのボタンをひとつはずす。あまり着慣れないスーツとネクタイ姿というのは息苦しくてたまらない。
 大きく息を吸って吐き出すと自分でもわかる程の甘ったるい酒の匂いが鼻をついた。
「……どうすっかな」
 どうするもこうするも、この部屋の主はとっくに潰れてベッドの上で寝息を立てている。今日の為に買ったと言っていた淡い緑のスーツはここにくるまでの間ですっかりしわだらけだ。かといって流石に脱がせて寝かせるわけにもいかずそのままベッドに寝かせたままだ。
 テーブルの上に置いたペットボトルを手にとり、生ぬるくなったミネラルウォーターを一口含んでゆっくりと飲み込む。まだ酔いは覚めないが、頭の中に掛かったもやがほんの少し和らぐのを感じる。
「ん……」
 あいつがベッドの上で小さく身じろぎして背を向ける。
「しょうがねえ奴」
 ペットボトルを置いて寄りかかったクロゼットに頭を軽くぶつけた。
 男と女が一つ屋根の下にいる。
 だが俺とこいつ――小波と俺はそんな仲じゃない。
 高校時代、三年間一緒のクラスメイト、柔道部の主将とマネージャー、そして男と女とかを抜きにした気の置けない友人。
 そのはずだった。
 クラスメイトとして、柔道部創設の立役者として、同じバイト先の相棒として、同じ時間を一緒に過ごしてきた友人。俺のことを誰よりも一番知っていて、頼りになって、女にしておくのが惜しいくらいの肝の据わった奴。
 だが、その逆もそうかと言われると。
「いや……違うか」
 こいつのことを俺が一番知ってるかというと、それは違うような気がする。
 知ろうとしなかった、というより知りたくなかったというのが本音なのかもしれない。

 高校三年間、ただひたすらやりたい事だけに夢中だった頃。
 今にして思えば、高校の三年間というのは、がむしゃらで居られるということが許される最後の時間だったのかもしれない。
 あの頃の俺は柔道をやりたいという想いばかりが先走って、他の事をおろそかにしていた。
 もっと他に知るべきことは沢山あったはずだったのに、自分のやりたい事ばかりを見て他の事から目を逸らしていた。だから小波の気持ちに気づかずいつも変わらず傍に居てそれが当たり前であると信じきっていた。
 静かに寝息を立てる小さな背中を眺めて。
「なぁ、小波」
 返事はない。
「言葉にできねーんだな、こういうの」
 思ったことを伝えたくても、うまい言葉が浮かばない。
 あいつの気持ちを何も知らない頃の自分だったら、きっと何の引け目もなく思った気持ちをそのまま口にできていたのかもしれない。
「馬鹿だったんだよな、俺」
 あの頃、自分のことばかりでなくもっとお前のことを見て、話して、理解していたら?
 たとえお前に応えてもらえないとわかっていても、ちゃんと自分の気持ちを正直に伝えていたら?
 俺らは何かが変わっていただろうか?あるいは、こうして会うことすらなくなっていただろうか?
 好きな人が居ると聞かされたあの日、想い人の背中を見つめる横顔を見たあの時から。
 胸の奥に閉じ込めた想いが未だに消えることも燃えあがることもなく焦げ付いている。
 今この時も。
 高校を卒業してから俺は一流体育大学に、小波は一流大学へと進学した。
 毎日のように顔をつきあわせてそこに居るのが当たり前だった環境は変わり、たまに送りあうメールと電話、そして数ヶ月に一度顔を合わせて他愛のない話をするのがせいぜいだった。
 今まであまり女と親しく接することがなかった自分にとって小波は初めての女友達であり、異性だということを抜きにして当たり前のように話せる奴で、交友の広かったあいつを通じて男女問わず色んな奴と知り合いになることができた。柔道以外の視野が極端に狭かった自分にとって、あいつとの出会いは世界を広げるきっかけでもあった。
 大学に進学してから。
 部活の先輩や仲間との付き合いや名目上の付き合いを覚えた。回りに急に増えた女の取り巻き達を適当あしらえるようになった。時に煩わしいと思う時もあったが、それも人付き合いの一環として自分で納得できるようになった。
 それはすべてあいつを通じて学んだこと。
 人は一人では何もできない。何を成すにも人と人との繋がりがなければ立ち行かない。
 昔、師範が言っていた言葉が今更のように心に沁みる。
 小波と出会わなかったらどうなっていたのか、もう想像もできない程に自分の中であいつの存在は大きなものになっていた。
 だから逆に、何も言えなくなる。
 今の親友という状態が壊れてこいつを失ってしまうことがきっと自分は耐えられないから。
「情けねぇ」
 なぁ、お前知ってるか?
 男らしいとか強いとか言われてあちこちでもてはやされていて、でもその正体は自分の気持ちを告げる勇気もない情けない男だってこと。
 クロゼットに寄りかかったまま、自嘲気味に小さく笑った。
 
 カチカチ響く時計の音に耳を傾けながら、思い出す。
 高校を卒業して三年目の春にかかってきたあいつからの電話。
『もしもし、不二山くん』
「ああ、どうした」
 懐かしい声が耳をくすぐる。卒業してから大分時間が経っていても、こうして声を聞くと高校の頃のやり取りや何気ない仕草を思い出す。
『不二山くん、もう招待状の返事送った?』
「招待状、なんかあんのか?」
『あれ、知らないの?結婚式の招待状だよ』
 一瞬、あいつの言葉の意味に反応できずに体が凍りついたのを覚えている。
「結婚……て」
『ほら、クラスメイトの緒方さん。不二山くんも知ってるでしょ?招待状送ったって聞いたから』
 説明を聞いてようやく固まった頭が回り始める、つい先日届いた郵便物の中にあった一通の封筒を思い出す。
 クラスメイトの女子の結婚式の知らせ、話で聞いても妙に現実感がない。
「悪い、まだ見てねえ。いつなんだ?」
『五月の中旬だよ、まだ返事の期限は大丈夫だから。不二山くんは出席する?他のクラスの子はほとんど出席するみたいだからどうかなって思って』
「ああ、連休明けか。たぶん空けられる」
『よかった、みんな来るみたいだから楽しみにしてるんだよ、同窓会みたいで』
「そうだな、じゃあ帰ったら返事送っとく」
『うん、じゃあまたメールするね』
 電話を切って、携帯を握り締めたまま目を閉じる。
 あの頃から変わらないあいつの声の余韻に浸るように。

 着慣れないスーツを着て出席した結婚式は見慣れたクラスメイト達の顔で溢れていた。
「不二山!おーいこっちこっち」
「おう、不二山。テレビ見たぞ、すげーなおい」
「あ、不二山くーん。写真撮らせてー」
 会場に着くなり元クラスメイト達に取り囲まれる。
 大学に入って柔道の大会で活躍できるようになってから、自分の周りに男女問わず大勢の人間が集まるようになった。その中にはいい者もいればそうでないのもいる。最初の頃は煩わしいと思うこともあったが、今ではすっかり慣れた。
 わいわい騒ぐ連中をやり過ごしながらあたりを見回すと、すぐに大人っぽい淡い緑のスーツにコサージュを飾ったあいつの姿を見つけた。
「小波!」
「あ、不二山くん」
 こっちに負けず大勢のクラスメイトに囲まれたあいつがこちらを見て大きく手を振った。
 変わらない。
 昔からあいつの周りには男女先輩問わず大勢の人間が集まっていた。そして同じく傍にいた自分もあいつを通じてほとんど話をしなかった女子や他のタイプの違う男子とも親しくすることができた。
 ただ、一つ変わったことがあるとすれば。
 いまのあいつはすっきりしたスーツの似合う大人の女になっていたということだ。
 変わらないと思っていても、確実に過ぎていく。
 時間は止まらない。
 
「まっさか緒方ちゃんが最初に結婚するとはなー」
「ホント、てっきりお前らが最初だと思ってたんだけどな」
「もう、からかわないでよ」
 テーブルについた元クラスメイト達との何気ない会話。
 卒業してもう大分時間が経ったというのに、こうして顔を突き合わせていると学生時代に戻った気がする。
 クラスで柔道部夫婦とからかわれていたあの頃。まだ小波への恋心を自覚する前、こいつはいつまでも自分と一緒にいてそれが当たり前だと何の根拠もないのに信じきっていた。
 お互い何の約束をしていたわけでもなく、手に入れるための苦労の何もせず、あるがままが当然だと勝手に思っていた。
「つーか俺らが最初って、そういうお前のほうははどうなんだよ?」
「え、どうって」
「ほら、あいつ来てるんだろ。クラスでお前の後ろの席だった。声かけねぇの?」
「って、おまっ、それ何で覚えてんだよ!」
「え、なになに詳しく!不二山くんがその手の話乗ってくるなんて珍しい~」
「ねぇちょっと、詳しく」
「いや、ちょまっ、昔のことだしさぁ」
 こちらに予想してない返しに慌てふためく男子に興味を引かれた女子が話題に食いついてくる。
 矛先を返されて質問攻めに合う姿を他人事のように眺めながらグラスのビールに口をつけた。
 最初飲んだとき、こんな苦いものが旨いと思えるわけがないと思っていたが、今では普通に乾杯でビールを空けられるようになった。

 大学生になった。
 二十歳になった。
 酒の味を覚えた。
 先輩の付き合いで何度か飲み会に参加することもあった。
 周りに合わせて適当に話を流すことも覚えた。
 でもそれは決して自分の考えを曲げることではなく、世間や人との付き合いの中で必要なことだということもちゃんとわかっている。
 昔とは違う、自分もあいつもクラスの連中も。
 もうひたすらに柔道に夢中だったあの頃と同じというわけにはいかない。頭ではわかっていても、ふと気づいた時に言葉にはできない奇妙な寂しさを感じる一瞬がある。
 今の生活は充足している、稽古は厳しいがもう誰に隠すことなく柔道に打ち込むことができて、あの頃より肉体的にも精神的にも成長したという手ごたえを感じている。
 けれど、何かが足りなかった。
 
 ほろ酔い加減で向かった二次会の会場。
 ほとんどクラスメイトばかりが集まり、披露宴というかしこまった一次会とは打って変わって学生時代のノリそのままのどんちゃん騒ぎとなっていた。
「タイラー、ほら注文!」
「ちょっ、はいはい……」
 すっかり酔いの回った連中が好きなように座ってしゃべりながらじゃれあう姿をぼんやり眺めて、すっかり泡の消えたビールのグラスを飲むでもなく指でなぞる。
 遠目に見える女子の輪の中心にはもちろん今日の主役の緒方とその隣に座った小波の姿が見える。
 式の開始からずっといるはずなのに、最初の時以来声を掛けず仕舞いだった。昔からそうだ、あいつはいつだって人気者でクラスでも部活でもいつも誰かしらが傍にいた。おそらくは今でもあいつを慕う奴らが回りに居るんだろう。
 あいつを欲しているのは自分だけじゃない、そう考えると胸の奥が微かに軋んだ。
 
 人一倍努力家で、誰からも必要とされて、思ったことをやり遂げる行動力があって。
 そんなあいつが望んでいたのはたった一つのこと。
「おーい、不二山。どうしたぁ大人しいぞ」
 ほんのり酔った頭を覚ます懐かしい声に顔を上げる。
「大迫先生」
「おお、立派になったなぁ。こないだの大会もすごかったぞ、先生感動したぞ」
 あの頃と変わらない笑顔のまま、自然に隣の席に腰を下ろす。
「押忍、先生お久しぶりです」
「はははっ、お前らとこうして一緒に酒が飲めるようになれて嬉しいぞ」
 この人は変わらない、そして敵わない。
 あの頃からずっとそうだった。
「向こうには行かんのか?小波も居るぞ」
「あいつら楽しそうに話してるんで」
「お前は、そう見えるのか?」
 一瞬、その声が鋭さを増す。
 先生はわかっている、俺のこともあいつのことも。
 すべてわかったうえでこうして気遣ってくれる。
 確かに小波は笑っていた。
 クラスメイトの輪の中、笑いながら話題の中心になっている。
 だが、その笑顔の影でいつも周りを気遣って無理している事を知ってるものは少ない。
「なぁ、不二山」
「はい」
「せっかく久しぶりに皆と会えたんだ、こんな時は無理しないで思ったことをちゃんと口にしろ」
 握った拳が軽く肩を叩く。
「あいつのこと、気になってるんだろう?」
 小波のことも自分のことも察してくれて、気遣ってくれる先生の言葉。なのに心の底に残った苦さが素直に従おうとしない。
「先生」
「なんだ?」
「先生のほうこそ、どうなんですか……あいつのこと」
 心の底で焦げ付いた苦味。
 ――小波が三年間思いを寄せていた相手。
 担任教師としてではなく、恋敵の大迫力への嫉妬。
「あいつ、小波は……俺の大事な生徒だ。お前の事もな。それは変わってない、あれから何年経ってお前らがどう変わっても」
 返ってきたのは何もかも予想した通りの答え。
 大迫先生は大人だ。
 少しは成長したと思った今の自分と比べても、それでもまだあの時の先生と同じ位置にすら立てていない。
 そんな人だからこそあいつが惹かれて、敵わない相手だと嫉妬する。
「そういうお前はどうなんだ、不二山」
 半分ほどに減ったグラスにゆるゆるとビールが注がれる。
 湧き立つ白い細かな泡がぐるぐると回って、レモン色と白の境目に分かれていく。
「俺は大迫先生が相手なら……あいつを譲れると思いました」
 少し驚いたように手を止めてこちらを見る先生の視線から目を逸らす。
「譲る……か」
 ビールを注ぐ手を止めて肩を竦める。
「なぁ不二山」
 苦笑してグラスを手に手にとって。
「俺が聞いてるのは、俺なら譲れるとかそういうのじゃなくて、一番肝心なお前の気持ちがどうなんだってことなんだがなあ」
 小さく息を吐いて、先生が表情を引き締めた。
「わかった。すまん、ハッキリ言う。俺は昔からあいつのことを心配してたし目をかけてた、大事な生徒だと思ってる、これは認める」
「はい」
「けどな、あいつのことをそういう風には思えない。あいつは大事な生徒で心配な奴。でもそれ以上には思えない、これから先も」
「……はい」
「正直、今だから白状するがな。俺もちょっとは迷った」
 グラスを傾けて苦笑いする。
 それはいつもの教師の顔ではなく、自分と同じ男の顔が垣間見えた。
「けれど、気づいた。うまい説明はできんが、あいつと俺は似すぎてる。だからあいつのことを理解することはできても、支えあう相手にはなれない、と」
「大迫先生と、あいつが?」
 似ても似つかないようでいて、どこか不思議なほどに違和感がない気もする。
「あいつはな、しっかりしてる。勉強も部活もなんだって人一倍頑張って、誰よりも努力家で……だから見守ってやりたくなる。時々見てて危なっかしいところもあるから」
 自分があいつのことをずっと見てきたように。
 先生もあいつのことを知っている。
「お前とはいい組み合わせだと、見てていつも思ったぞ」
「え?」
 半分ほど減ったビールのグラスを置いてにやりと笑う。
「小波は頑張り屋で行動力もある、だが頑張りすぎて自分を省みないところや自分を押さえ込んで無理するところがある。その点、お前はがっしり地に足がついていてぶれない。反面、少し頑固で融通が利かないところがあるんだがな。地に足がついたお前と視野が広くて行動力のある小波。お互い足りないところを補い合えるいいコンビだ」
 指先でつまんだグラスをくるくると回して。
「不二山」
「はい」
「お前が気持ちを告げなかったのは、誰の為だ?」
 問いかける言葉が心に刺さった。
 
 言えなかった理由は何か、あいつの為か?先生の為か?
 いや違う、自分の為だ。
 気持ちを告げてしまったことで、あいつとの関係が崩れてしまうのが怖かったのだ。
 だから、応援すると言った。
 たとえ自分の想いが通じなくとも。部長とマネージャーとして、クラスメイトとして、気の置けない友人として、少しでも繋がって居たかったからだ。
「なぁ、不二山。お前と小波がこの先どうなるかなんて、先生にもわからん。だがお前達が高校三年で過ごした中で積み上げたものは絶対なくなったりはしない、これだけは確かだ」
「……先生」
「だから、もっと自信を持て。お前達がこれまで積んできたものをもっと信じてやれ」
 気合を入れるように先生の手が肩を叩く。
「ほら、行ってこい。俺もそろそろあいつらのはしゃぎすぎを抑えてやらんとな」
「はいっ」
 燻っていた心のもやを吹き飛ばすように席を立った。
 
 ***
 
「ほら、お前ら。そろそろセーブしとけ、はしゃぎすぎだぞ」
 大げさに両手を叩きながら近寄ってきた先生の声にテーブルに固まってしゃべっていた一同が注目する。
「大迫ちゃん!」
「せーんせ、変わんないなあ」
「あったりまえだ、俺はいつだってお前らの先生だ」
「大迫センセ、かんぱい!かんぱい!」
「コラ、飲みすぎ禁物だ」
「はーい」
 あっという間に取り囲まれる姿を横目に席に残った小波の隣に腰を下ろす。
「やっぱり……人気者だね、先生」
「そうだな」
 小波はどこか遠くを見るように輪の中心にいる先生を眺めている。あの頃と同じように。
「お前は大丈夫か?話ながら大分飲んでただろ?」
「うん、平気。でもちょっと控えようかな」
「そうしとけ、ウーロン茶頼んどいてやる」
「うん、ありがとう」
 見つめる視線、手を伸ばしても届かないものをただ見つめているしかできない横顔。同じように、今の自分は同じ顔で小波を見ているのだろう。
「小波」
「ん?」
 積み上げてきたものは無くなったりしない。
 その言葉を信じて。
「……ん」
「小波?」
 ふと張り詰めていたものが切れたように小波の体が揺らいで。
「おい小波!」
 抱きとめた体から微かに香水の匂いがした。
 
 ***
 



 二次会を終えて、酔いつぶれた小波に付き添って三次会へと向かう連中と別れた帰り道。
 ほんのりと冷えた夜風で火照った頭が洗われる。
「ごめんね不二山くん」
「気にすんな、それよりお前大丈夫か?」
「うん。それより、もう歩けるからもう平気だよ」
「無理はするなよ?」
 片手を腰に回して体を支えたまま、小波の歩みに合わせてゆっくりと道を歩く。本人は大丈夫と言ってるが、まだ大分足元がふらついている。
「お前どんだけ飲んだ?」
「えっと」
 視線を逸らして口ごもる。咄嗟に思い出せないかどれだけ飲んだか覚えていないか或いは自分でもわかるほどに飲みすぎていたのか。
「……ごめんなさい」
「しょうがねぇな」
「ごめん、ちょっと休めば落ち着くから」
「無茶すんな、送ってやる」
「大丈夫だよ」
 無理に笑って一歩踏み出そうとしてその場にへたり込む。
「小波」
「……ご、ごめん」
「無理してんだろ、ちゃんと言え」
 でも、と、更にしゃべろうとする小波をさえぎって背を向けてしゃがむ。
「ほら」
「え?」
「乗れ、そんなんじゃ家つくまでに朝になる」
「でも」
「いいから、乗れ」
「でも……あっ」
 腕を引いて問答無用で背負い上げる。
 歩き出してからしばらく足をばたつかせたり肩を叩いたりと抗議していたが、次第におとなしくなっておずおずと背中に寄りかかってきた。
「重くない?」
「平気」
「ありがとう、ごめんね」
 首の後ろのあたりに感じる重みと微かに聞こえる息遣い。
 ずっと気を張っていた反動か、程なく小波はぐったりと体を預けて寝入ってしまった。
 
 ***

 薄暗い部屋。
 クロゼットに寄りかかったまま、どれだけ時間が経ったのかよくわからない。
 随分と過ぎているような、全然過ぎていないような、ごちゃ混ぜになった感覚。
 ベッドの上では小波が背を向けたまま起きる気配はない。
 一人暮らししている賃貸マンションまで小波を送った後、そのまま帰るでもなく部屋に残っている。
 常識で考えたら年頃の娘の部屋に男が居座るというのは色々よろしくない、それはわかっている。
 こつんと、クロゼットに軽く頭をぶつける。
「なぁ、お前。なんであんなこと言ったんだ?」
 返事はない。
 呼吸のたびに微かに動く背中を見つめながら、この部屋に来たときの小波の言葉が頭をよぎった。
 
『ついたぞ、大丈夫か?』
『うん……』
 ふらつく足取りの体を支えて。
『歩けるか?ほら、とりあえず横になって』
 言葉を遮って腕を掴まれた。
『どうした?』
『……帰らないで』

 消え入りそうな小波の声が酒でにごった頭にやけに大きく響いたのを覚えている。
 こいつが何を考えてどんな想いで自分を引き止めたのか、真意が読めないまま、立ち去ることもできないで居る。
 あの言葉の意味をどう受け取ればいいのか、どうすればいいのか。
「小波」
 返事はない。
 だが、ほんのわずかに後姿がこわばったのに気づいた。
「お前、起きたのか?」
 問いかけに答えはなかったが、微かに体が震えたのがわかる。
「……なぁ、小波」
 そっと音を立てないようゆっくりと体を起こす。
 こっちの動きを感じてか、小波がぴくりと体を震わせた。
 さっきの言葉の意味はなんなのか、お互い口にしなくてもなんとなくその意味を感じ取っている。
 小さく震える指先を緩んだネクタイの結び目にかけてゆっくりと引く、微かな衣擦れの音を立ててネクタイが床に落ちた。
 お前、言ったよな。帰らないで、って。
 ワイシャツのボタンを片手で外す、体が火照ってるのは酒のせいだけじゃない。
 
 俺のこと誘ったんだろ、お前。
 ベッドの端に歩み寄ってそっと膝を乗せゆっくりと体重をかける、微かに軋む音を聞きながら片手をついて膝で体を支えながら横たわった小波の耳元に顔を寄せる。
「小波」
 問いかけに答えるように、黙ったまま体をこちらに向けて目を開いた。
 薄暗がりの中、ぶつかる視線。
 その目の奥、心の中に映っているのは誰なのか。
 
「いいよ、不二山くんなら……」
 
 体中の血が一気に湧いた。
 このまま勢いのままに流されてしまいたい。奪ってしまいたい。たとえそれが叶わない想いを誤魔化す為のものだったとしても。
 体重をかけないように手と膝で体を支えながら、そっと小波の体に覆いかぶさる。
「重くねえか?」
「うん……」
 消え入りそうな声で答えて小波が目を閉じる。
 
 両手をついた腕の中、間近で見る小波の顔。このままあと少し踏み出せば、触れることができる、手に入れることができる。
 だが、これでいいのか? 本当に?
 
 溜まった熱を吐き出すようにゆっくりと息を吐く、さっきまで沸騰しそうなほどに昂ぶっていた気持ちが冷めていった。
「ダメだ」
「え?」
 体を起こして頭を振って。
「ここで、酔っ払って弱ってるお前に手ぇ出すのはフェアじゃねー気がする」
「不二山くん……」
 外したボタンを留めて小波に向き直る。
「お前はさ『俺でもいい』かもしんねーけど。俺は『お前じゃないと嫌』だ」
 小波が目を見開いて、大きく息を呑む。
「お前が他の誰でもいいって思うんなら、嫌だ」
「ごめんなさい!」
「謝んなくていい」
「どうして、私ずっと!」
「いいんだよ、逃げてたのは俺も同じだから」
 今まで積み上げてきたものは無くならない、でもここで勢いのまま流されてしまったらきっと二人で積んできた大切な何かが無くなってしまう、そんな気がする。
「先にお前に言わなくちゃいけないことがある、ホントはもっとずっと前から」
「……うん」

「好きだ」

 たったこれだけの言葉。
 ずっとしまいこんできたことを告げるのにどれだけ時間がかかったのか。
「お前が好きなのは俺じゃないことは知ってた、だからずっとしまいこんでた」
「でも、私気づいてて……なのに」
「いいんだ、臆病だったから、俺。ホントのこと言ってお前が離れるじゃないかって思って」
 ずっと胸の奥に溜まっていたつかえが取れるように。
「でも、もう隠さない。お前が他の誰を想っていても、お前が好きだ」
 自分の本当の気持ちをこめて、まっすぐに向き合う。
 どれくらいお互い見つめ合っていたか、小波が視線から逃れるように顔を伏せた。
「ダメだよ不二山くん。私、ずるいんだよ」
 頬を伝った涙が落ちる。
「私ね、先生のこと好きだった」
「知ってる」
「がんばって、がんばればいつか振り向いてくれるって信じてた、だけど」
「うん」
 自分を抑えることをしない、取り繕わない言葉に耳を傾ける。
「でもダメだった。頑張ってもダメだった。先生はずっと先生だって、私を生徒としてしか見てくれないって。頭でわかってても心がずっとついてきてくれなかった」
 そのまま口をつぐみ、顔を覆って声を震わせる。
「辛かったんだな、お前も」
 そっと包み込むように頭を撫でる。
「でも、ずるいんだよ。先生のこと好きなのに……不二山くんに離れて欲しくないって、勝手なこと考えてた。不二山くんの気持ち気づいてたのに」
「俺もお前が離れるのが怖かった、だから言えなかった。お互い様だろ」
「違う!」
「違わねえよ」
 だって、と尚も言い返そうとする小波の体を引き寄せる。そのまま閉じ込めるように細い体を抱きしめて頭を撫でた。
「強がらなくてもいい、俺の前では」
 頬に触れる髪の感触、ほんのり柔らかな匂いが鼻を掠める。
「辛いとか、そういうのちゃんと言え。半分持ってやるから」
「……不二山くん」
「言わずに仕舞いこむな」
「でも」
「いいんだよ、俺がそうしたいんだから。お前も俺の前ではちゃんと弱がれ」
「ちゃんと弱がれって、なんか表現ヘンだよ」
 腕の中、抱きしめた体から力が抜けて。遠慮がちに小波の腕が背中に回される。
「あのね」
「なんだ?」
「まだ、ね。苦しいの。先生のこと考えると」
「わかってる」
「そんなずるい女でもいい?」
「言ったろ、俺はお前じゃなきゃ嫌だ」
 答えは最初からわかっていた。
 あの頃からずっと、誰を想っていようと自分に想いが向いていなかろうと、こいつでなければ駄目だ。
 ずっと前から、答えはたった一つだけ。
「だめだよ不二山くん、甘やかしたら。私、ずるいから、きっと甘えっぱなしになる」
「いいよ、甘えとけ。俺だけに」
 こんな風に自分の前だけで弱いところを見せてくれればいい。
 そして、いつかは自分のことを見てくれるなら。
 いくらでも甘やかしてやる、そして俺から抜け出せなくしてやる。姑息だろうと構わない。
 俺にはこいつでなければダメだ。
 だから。
「甘やかしてやる、お前の気が済むまで、ずっと。俺はお前のことあきらめねーから」
 腕を緩めて、小波の目ににじんだ涙を指先でぬぐう。

「お前を『俺じゃなきゃ嫌』にさせる、絶対」

 一瞬ぽかんとした顔になって、くしゃっと崩れるように小波が笑う。
「なんで笑うんだよ?」
「不二山くんて、実はすごい女たらしなんじゃないかな」
「なんで?」
 胸に額を寄せて寄りかかってきた体に腕を回す。
「教えない。ありがとう……不二山くん」

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