GS3嵐×バンビ
日常風景。
『柔の道、事始』
意気込み ~美奈子
ゆっくりと大きく息を吸って、細く長く吐いて。
「はぁー」
両手をぎゅっと握ってゆっくりと開く、広げた指先が少し強張ってるのが自分でもわかる、昔から緊張してるときの癖。開いた指をもう一度ぎゅっときつく握りなおして大きく息を吐く。
意気込んで机に向かい、紙袋から買ってきたばかりのまっさらなノートを置く。
手にしたペンをくるりと回して軽く握りなおしてピンクの表紙の少し手前で止める。
「んー」
キュッとかすかに紙に擦れる音を立てて黒い線が延びる。なかなか書きなれない字だからいまいち形がうまく取れてない『柔』の文字、続けて『道』の文字がその隣に、こうしていくつか曲がった所もあるけれど表紙には油性ペンで大きく『柔道同好会記録』の文字が並んだ。まだ乾ききっていない黒インクに息を吹きかけながら両手でノートを掲げる。
「よしっ」
何事も初めが肝心、ということで。
「それにしても……」
入学早々、わけもわからずいきなり発足したての柔道同好会のマネージャーにスカウトされて、誘われるままに入部を決めたのはいいけれど、そも柔道のこともよく知らずマネージャーの仕事すら初めてという、まったくの手探り状態。
「大丈夫かな」
意気込みをこめて記録ノートを用意したものの、これから何をどうはじめたらいいのか検討もつかない。
それこそ勧誘した当の本人とも、同じクラスながらもまっとうに会話したのがチラシをもらったその日がはじめてだった。
「まぁ、なんとかなるよね」
ぺちんとノートの文字を軽く叩いてカバンにしまう。
明日から柔道同好会のマネージャー初仕事がんばっていこう。
何もなし。まっさら、ホントにホントのゼロスタート。
言葉にするのは簡単だけど、ここまでまったく何もないゼロからというのは初めてだ。
『活動記録』
・中庭でストレッチ(柔軟各種三セット、腕立て腹筋背筋それぞれ百回)
・校外で走りこみ(5周)
・活動ミーティング
初練習というか初活動を終えて。
部室もない柔道同好会のミーティング場所は階段の踊り場。窓から差し込む西日を避けて座った段差、ひざの上で二つ折ったノートに指先を滑らせる。
「うーん」
気合を入れて用意した記録ノートはやっと一ページの半分とちょっとが埋まった所。
初日の活動で書き留めた内容は今日の簡単な活動記録と今後の活動に必要な練習場所の確保手順に学校内にある各施設やスペースの情報。
「とりあえず、ここまででなんか質問あるか?」
ジャージ姿のまま隣に座った不二山くんの顔を見上げて小さく首をかしげる。
「施設の使用状況は……各部の顧問の先生に確認したり、交渉する必要があるかもね」
「そうだな。交渉するにしてもまだ今の状態じゃ厳しいだろ。まずは基礎練習を積みながら宣伝して人集めと部の流れを作ってくとこからだ」
スポーツドリンク片手に口元に手を当てて大きくうなずく。
「ん、そうだね」
手にしたシャーペンをくるりと回して今日の活動内容の下一行あけて『当面の目標』と書いて黒丸をつける。
『当面の目標』
・基礎練習(走りこみ、柔軟、筋肉トレーニング)
・同好会の宣伝(ポスター等)
・活動の基本的な流れ(練習、役割分担等)を決める。
「こんな感じかな?」
書き留めた内容を掲げて見せる。
「うん。とりあえず週末にでももっかい打ち合わせすっか」
「わかった、私あと聞きたいことというか柔道のこと勉強したいんだけど、どこから手をつけていいのかわからなくて、どうしたらいいかな?」
「そうだな、今度俺が持ってる本貸してやる」
「ありがとう。やってみようと思ったのはいいけど柔道のこととかよくわからないし、マネージャーをやった経験もないから、大丈夫かなぁってちょっと不安だったから」
「最初はみんなそうだろ、心配すんな。いきなりルールと技全部技覚えてこいとか言わねーから、そんな気負うな」
「……うん」
柔道同好会記録、一日目。
ようやく一ページ埋まったノートを眺めて。
「よし、がんばる」
「押忍、今日はそろそろ着替えて帰るか」
「うんっ」
お風呂から上がってパジャマ姿で寝転がったベッドの上。白い天井を見上げたまま小さく息をつく。
「うーん」
今日一日をゆっくり反芻しながら両腕を天井に上げて伸びをする。
「不二山くん、気負うなって言ってくれたけど……よっと」
軽く勢いをつけて体を起こしてベッド脇に置かれた目覚まし時計を見る、九時半をちょっと回ったところ。まだもう少し時間に余裕はある。
「よしっ」
椅子の背にかけたカーディガンを羽織って机の前に座り、ノートパソコンの電源を入れ、立ち上がってくるまでの間に充電器に置いた携帯を取り上げて電話帳を手繰る。
「起きてるかな?」
番号を選んで、ちょっと考えてから通話ボタンを押す。
1コール、2コール、3コール目が鳴り終わる前に電話がつながった。
「バンビ」
「あ、もしもしミヨ」
「何?」
「ごめんね、遅くに。時間平気?」
「平気、どうしたの?」
「えっとね、柔道部のマネージャー始めたって話はしたよね」
「うん」
「それで、勉強をかねて色々調べたいことがあって。はばたき市やこの近辺で柔道が強い学校を探そうと思ってるんだけど、こっちの学校とかまだよくわからなくて。何か情報を持ってないかなって思って」
受話器の向こう、ひとつ間を置いて。
「柔道部のある高校リストでいい?それならすぐに出せる。強豪かどうかまではすぐにはわからない」
「うん、そこは自分で調べるから」
「わかった、ちょっと待ってて」
受話器の向こう、情報メモを探っているらしいミヨを待ちながら。ようやく起動したパソコンから検索サイトを開いて柔道と打ち込んで検索開始。
「多いなあ……」
ずらっと並ぶ検索結果を眺めながら画面をスクロールする。
柔道自体を知らないわけではないけど、実際どんなものかと聞かれるとまだいまいちピンとこない。いくつか詳しそうなリンクを開いて読んでみたけれど、どれもいまいちピンとこない。
「バンビ、お待たせ」
「あ、うん。ごめんね」
「ううん、じゃあ今からメールでリスト送るから確認して」
「わかった」
マウスを動かしてメールボックスの新着メールを開いて添付ファイルをクリックする。
「ごめんね、急に。リストありがとう」
「いい。情報なら任せて。おやすみ、バンビ」
「おやすみ、ミヨ」
電話を切って、画面に表示されたはばたき市の高校リストを眺める。
「柔道部のある学校割とあるんだね。この中からもっと詳しく調べてみて……って続きは明日かな」
机に広げた記録ノートにリストの高校名と連絡先を一つ一つ書き記す。
「よしっ、後は不二山くんと話して色々考えよう」
見開き一ページ、今日一日で全部埋まった内容を眺めて。
「柔道同好会一日目、終わりっ」
明日は私が練習場所確保の当番だから、まずは先に場所を確保してから話そうか。
閉じた記録ノートを軽く指先ではじいてカバンにしまう。
「がんばろうね」
手に残る感覚 ~不二山
目を閉じて、イメージする。
自分と、目の前で向き合う相手。
お互い向かい合って構えた状態から、どう相手を攻めるか、どう動くか、相手の動きにどう反応するか。
ゆっくり、息を吸う。
そのまま息を止めて、今度は細くゆっくりと吐く。
腹から吸ってヘソで溜める。
動じない心の強さ、胆力をつける為の練習の一環。
目を開ける。
もう日も暮れかかった夕暮れの空、海岸の向こうにかすかに夕焼けの赤い色が滲むように伸びている。新マネージャーを迎えた一日目の部活を終えた後、まだ少し時間に余裕があったので家に帰った後またすぐにトレーニングでここまでひた走ってきていた。
「創設者、か」
バカ正直に感心する顔を思い出して、少し笑みがこみあげる。
「そんな大層なもんじゃねーよ」
一人で柔道同好会を立ち上げて。ビラを配って宣伝して、半ば引っ張り込むように小波を勧誘して。
でもそれはすべて自分が柔道をやりたいというわがままを通す為だった。もちろん柔道を広めたいとか知ってほしいという気持ちはある。でも最初の目的は何よりも自分が柔道をしたいということ、ただそれだけだった。
手を広げて、握る。
最後に組み合いをしたのはいつだろう。
中学三年目は道場に通う時間を削って勉強漬けだった。それでも時折時間を見つけては道場で組み合ったり、師範に教えをこうたり、帰りには道場の仲間と柔道談義に花を咲かせることもできた。時間が取れない時も模試帰りに練習風景をちらりと眺めるだけの時もあった。実際に柔道はできなくても、すぐそこに柔道がある日常を肌で感じられたし、組み合う姿を見ているだけでも気分は晴れた。
でも……
道場を辞め、はばたき市に引越して、高校に入学してから。
自分の周りから柔道というものがすべてなくなった今、すべての色が消えてしまったように自分の中で何かが欠けてしまった感覚。
親に柔道を辞めろと言われたあの時、はば学に入学することを勧められた時、師範の道場を辞めたあの日、引越しの車に乗った日。どの時も自分の中で苦い思いがあった、そしてそれは仕方のないことだと納得したつもりだった。
握りこんだ手に力がこもる。
引っ越してしまえば。新しい生活が始まれば気が紛れる。高校生活三年間を過ぎて、自分のことを自分でどうにかできる大人になってから、改めて自分のやりたいことを存分にすればいい、そう思っていたはずだった。
なのに、自分の周りから一切柔道が消えてしまってた今になって、心の奥からこみ上げてくるのは。
握った手を開く。
道着を掴む手、捌きあいの手の動き、ぎゅっと握った帯、引っ越してからずっと触れていなかった感触。
柔道がしたい。
道場で組み合う姿、響く掛け声、畳を揺らして叩きつけられる音。
今は遠くなってしまったすべてが懐かしくて、恋しくて仕方がない。
「よし、行くか」
両手で軽く足を叩いて顔を上げる、ちょっと一息をつくつもりが大分時間を取ってしまった。2・3軽く体を弾ませて元来た道を走り出す。
一度納得してあきらめたはずの柔道。
もう一度、走り出す。今度は自分から。
柔道同好会を立ち上げ、強引に引っ張り込んだマネージャーの小波と共に始まった部活二日目。
校門入り口からスタートし、海沿いの道を走りこんで戻ってくる走りこむロードワーク。下校途中の生徒から時折からかい混じりの視線を浴びながら、ペース一定にを保ったまま、弾ませるように足を踏み出す。
右、左、右、左。
早すぎず遅すぎず、早さではなく持続して体を動かすことを意識してゆっくり体を上下させる。
目的によって運動のやり方は色々違う、持久力をつけるものや足腰の強さを重視するもの、瞬発力を鍛えるもの。今の走りこみも早く走る事ではなく、体力と自分のリズムを保つ為の鍛錬のひとつ。
海沿いの道を走りながら、吹き付ける風が頬を叩く。自分の他にも列を組んで走る野球部やテニス部員達の姿も見えた。
「声だしていけー!」
「はい!」
野太い掛け声と規則正しい足音。
先頭を走って後輩に声を掛ける先輩の姿、息を切らしながらもついていく一年の姿。へばりそうな部員に声を掛け、肩を叩きあいながら走っていく野球部の姿を姿を横目に見ながら唇を小さくかみ締める。
少しピッチを上げて野球部員達の横をすり抜けて走る。
道場に通っていた頃も、あんな風に互いに気合を入れながら走っていた。
ゆっくりと体を上下させながら一歩、一歩足を踏み出す。昔はどうであれ、今はここから柔道部を作っていく、そのためにできることは全てやる。
そう決めた。
時計の時間を確認する、予定の時間まであと少し。はば学の校門入り口はもう目と鼻の先だ。
門をくぐった校舎入り口前、ジャージ姿のあいつが手を振った。
「おかえり、不二山くん!」
少しづつペースを落として足を止める、息を整えながら両足を軽く回して深く息を吐いた。
「お疲れさま、次は体育館だよ、バレー部が外出するから空くんだって。体育用具室でマットも借りられるように頼んできたから、受身の練習とかできるよ」
「ホントか?」
「うん、バレーの顧問の先生と大迫先生に許可もらったから。私、先にいって準備してくるね」
「ああ、すぐ行く。道着とってくるから」
「うん!」
うなずくと小波は手にしたタオルを広げて俺の首にかけて走り出す。
「ちゃんと汗拭いてね、体冷やさないように。じゃあ後でね」
「押忍」
遠ざかっていく背中を見送って、頬を伝った汗を拭う。
さっき走っていた時に感じていた苦い気持ちはすっかり晴れていた。
「せいっ」
掛け声とともに踏み切って、跳ぶ。
伸ばした腕をついて肩から背中を転がって、マットを叩いて勢いよく立ち上がる。
普段はバレー部の活動と応援でにぎわっているはずの体育館だが、今日は柔道部の貸しきり状態だ。
「よし」
もう一度、跳ぶ。
久しぶりに袖を通した道着の肌触り、跳んだ足の感触、ストレッチやトレーニングとはまた一味違う受身の動き。
二回、三回、敷き詰めたマットの端まで受身を繰り返す。
「長いマットあってよかったね」
受身の勢いでマットがずれないよう押さえている小波の声が後方から聞こえる。
「ああ、思い切り受身が取れる」
体育館の片隅、マットを数枚しいた中で受身の練習。
畳とはまた感触は違うが、板張りの上で受身を取るよりずっとましだ。
「背中、痛くない?結構大きな音してるけど……」
「平気、こんくらい慣れてる。それに勢いあるほうが痛くねぇんだよ」
「そうなんだ」
少しずれた襟元を引っ張って帯をギュッと結びなおす。
この感触、この感覚。
どんなに頭の中で割り切っても、体が覚えている、心が反応する。
柔道がやりたい、この感触を湧き上がる感覚を失いたくない。
「よし、もう一往復」
「押忍、がんばってね」
「……ああ、ありがとな」
「え?」
「なんでもねえ」
両襟を引っ張り襟を正す。
久々に感じた柔道の心地よさをかみ締めながら。
ヘソに力を ~美奈子
なんというか、ホントに楽しそう。
バレー部が外出でガランとした体育館の端っこ。長いマットを敷いた上で不二山くんの体がくるんと回ってマットを叩いて立ち上がる。
受身。
格闘技や柔術などで投げられて地面に激突する際に身体ダメージを軽減させる為に行う防御のことを指す。種目や流派、受ける方向によって種類は様々。いずれも共通しているのは頭を打たないようにすること、体より先に腕や足を地面について衝撃を減らすこと。
と、ここまで本の受け売り。
文字で読んだだけだといまいちわかり辛かったけど、こうして実際動いているのを見るとなんとなくわかるような気がする。基本的に頭や体を直接打たないように手をついたり体をごろんと転がして守るという感じ。
受身の勢いでマットがずれないようにしゃがんで端っこを手で押さえながら、一心不乱に受身を取ってる不二山くんの動きを眺める。流石に小さい頃から習ってるとあって、素人目の自分から見ても動きがすごく安定してるというか、表現がおかしいかもしれないけどすごく綺麗、そこらのでんぐりがえりとは一味違う気がする。
ばしんとマットを叩いて立ち上がる音、衝撃でずれそうになるのをなんとか押さえて体育館の時計を見上げる。
「そろそろだよ」
「ああ、次あと少し」
言い終わらないうちにマットを蹴って体が飛んだ。腕から背中へとくるりと体を一回転させて小気味良い音を立ててマットを叩いて勢いよく起き上がる。
「はい、お疲れさま」
「おう」
まだ少し物足りないような様子でマットの上で軽く体を弾ませてる。
「不二山くん?」
「ああ、悪い」
何事もなかったように額に滲んだ汗を拭ってるけど。ちょっといつもと違ったというか、一瞬表情が曇ったような気がする。何か考えてたのかな?
「受身、すごいね」
「ん?まぁ、基本だからな。受身くらいならお前も覚えておいて損はないぞ」
「そっかあ」
道着の帯を締めなおして笑う顔はいつもの不二山くん。でも、やっぱり柔道って一人でやるものじゃないし相手が居ないのって物足りないのかもしれない。
「わたしが柔道できたらいいのにね」
「お前が?」
「ほら、たとえばわたしが柔道できたら乱取りとかは無理だけど型の練習相手くらいなら何とかできるかなって……無理か」
「まあ、女でも柔道やってる奴はいるけどな」
そこで言葉を切ると、じろりと私の頭のてっぺんからつま先まで視線を動かす。
「な、なに?」
思わず背筋を伸ばして身構える。
「まだ体が足りねーな、結構しまってるほうだけどもうちょっとついてないと駄目だな」
「う、これでも結構鍛えてるほうだと思ったんだけどな……」
「柔道は力だけじゃねーけど、最低限基本的な筋力がついてねぇと相手崩せねえし」
「ふむ」
マットの上、ちょっと足を開いて仁王立ちして踏ん張ってみる。もともと運動は好きなほうだったけど、柔道に使う筋肉とかはまたどこか違うのかも。
「そういえばこないだ貸した本読んでみたか?」
「うん、一通り読んでみたよ」
少し前に貸してくれた年季の入った柔道教本。元はカラーだった表紙はすっかり色あせて、角のところも削れて中の紙もすっかり薄茶に焼けた古い本。よっぽど何度も読み返したものらしく、あちこちにチラシをちぎったしおりが挟んであって少し微笑ましかった。
「どうだ?わかんねーとことかあったら教えるぞ」
「うーん」
腕組みして首をひねる。
どうだと言われるとまだピンとこない。
「えっとね。やっぱりこう、読んだだけじゃいまいち掴めなくて……投げとか崩しとか組み手とか言葉の説明読んでもなんかこう頭で再現されないなーっていうのが」
「そうだなぁ」
それこそ文字の説明はもう覚えられそうなほど読み返したけど、文章としては理解できてもそれが実際の動きにつながってこない。
「こう、わーっと掴んでがーっと投げる……うーん」
「ちょっとやってみるか?」
「え、いいの?」
とは言うものの、思いっきりズブの素人でも大丈夫かな?
「道場の合同練習でも女子で柔道やってる奴はいた、組んだこともある」
「へぇ」
女子で柔道、そりゃいるのは知ってるけど。
「けど、組むとやりづらいんだ、女は」
「そうなの?」
やっぱり不二山くんも女の子と組むのは緊張しちゃうのかな?
「体小さくて、間接も柔らけぇし、組み辛い」
なるほど、そっちの意味か。なんかちょっと残念なようなホッとしたような。
「私、体固いからなぁ」
「簡単な型なら教えてやる、掴んでみろ」
「うん」
と言われても。
いざ目の前で仁王立ちする不二山くん相手にどう掴んだらいいものか。
「いいぞ、どこからでも来い」
「えーと、じゃあ」
図解で見た絵を反芻しながら、両手を伸ばして道着の前襟を両手で掴む。うろ覚えだけどたぶんこれであってるはず。
「組み合うのは、これでいいんだよね?」
「まあ、こんな感じだな」
余裕たっぷりというか、実際余裕なんだろうけど、両襟を掴まれた状態でびくともしない。
「ここから」
まず組み合ってから、たしか足を払うんだったっけ?
「えい」
ぺち。
間の抜けた音を立ててぶつかる足、もちろん不二山くんは微動だにしない。
「あれ?えーっと」
教本のお手本っぽく動いてみたけどなんだか全然うまくいかない。そりゃあ有段者相手に通用するなんて思ってないけど。
そういえばもっとこう腰を落として上半身をひねってたような気がする。掴んだ襟を引っ張って、内側から足を払って。
ぺち。
「んー」
やっぱりビクともしない。やっぱり基本的な筋力の問題なのかも。しばらく黙って動きを見ていた不二山くんが襟を掴んだ手を外す。
「柔よく剛を制す、知ってるだろ?」
「うん……本にのってた」
確か体の小さい人でも相手の力を利用すれば大きな者を倒せる、だったかな。
「足りないのは崩しだ」
「くずし?」
「相手を不安定な状態して投げやすくする。口で説明すんのはちょっと難しいな」
そう言って少し考えて。
「ちょっと腕掴んでみろ」
「うん」
言われるままに目の前に伸ばされた腕の袖をぎゅっと両手で掴む。
「たとえばこうやって腕つかまれて、俺がそのまま腕を引いたとする」
「うん」
引いた腕に引っ張られるのを軽く踏ん張って耐える。
「この状態で逆に腕を急に押し返す、と」
「わっ」
反対にいきなり押されて後ろにつまずきそうになった。
「ほらバランス崩れるだろ?逆にこっから俺がお前を押したとする」
「うん」
ぐっと力の篭った腕を両手でがしっと止める。
「で、そこで不意をついて腕を引く、と」
「っととと」
引っ張られるように前につんのめったのを支えられる。
「簡単な説明だけどこんな感じだ。人間動こうとすればどっかしらに力が入る、その力を利用してバランスを崩す。それをきっかけにして相手を投げやすい状態に持ってく。これが崩し」
「なるほど……」
なんか思いっきりいいように振り回されたっぽいけど。
「これがまったくの素人のお前相手なら簡単だけど、経験者や上級者相手になるとこうはいかない。強え奴ほど崩しがうまいんだ、力だけじゃ勝てねぇ」
「ははぁ」
なんか思ったよりも奥が深いかも。
「試合ん時、組み合って動かない時はお互い相手を崩すタイミングや動きを計ってんだ。動きがあれば隙は必ず出来る、けど動かないと相手を倒せない」
そういえば柔道の試合を見ててたまに組み合ったままなかなか動かない場面とかよくあった気がする。
「そういうときはどうするの?」
「狙われるのをわかってて仕掛ける。対する相手の動きによってどう切り返すのかも頭に入れながら」
「駆け引きって奴だね」
「まあな」
思ってたより柔道って頭脳戦なのかな、頭脳というか反射とか読みあいとか。
「結構深いんだね」
「まあな」
なんか得意げに答えるのがちょっと可愛い。
「わたしもっとこう、とりゃーばしぃ!みたいな感じだと思ってた」
「なんだそりゃ」
笑われた。まあ、間抜けなのは間違いないけど。
「じゃあ、投げられないようにするのは、やっぱり相手の動きを読むことなの?」
「そうだな、あとは足の踏ん張り。足腰が安定してる奴はなかなか崩れない、崩されても簡単には倒れねえし」
「むぅ」
「臍下丹田に力を入れて体の重心を安定させる、よく師範に言われた」
なんかよくわかんない単語出てきた。
「せいかたんでん、って?」
「臍下丹田、へそからちょい下指三本くらいのとこだ」
おへそから指三本くらい下、お腹に手を当てて少し下に手を滑らせる。
「このへん?」
「そ。で息を吸うとき腹から吸ってここに溜める。これが体を安定させんだ」
「えーと」
両手でお腹に手を当てる。腹から吸って……って腹式呼吸のことだよね。
手を当てたままゆっくり息を吸ってお腹を膨らませる。
「吸ったら止めて腹に少し力入れて細く吐く、一気に吐くと力が抜けるからゆっくりな」
お腹で息を吸って止めて、ちょっとお腹に力を入れつつ口を細めてゆっくりと息を吐いていく。心なしかなんとなく落ち着くような気がする。
「腹から吸ってヘソで溜める。そんで重心を落として足腰を安定させる。気持ちだって落ち着くぞ、腹も引き締まるしな」
「腹が引き締まるにちょっと興味津々」
「興味出てきたか?」
「正直かなり」
「じゃあ今度それも宣伝に盛り込むか。よし、練習再開!」
不二山くんはなんだか嬉しそうにくしゃくしゃと私の頭を撫でて道着の襟を直した。
『柔の道、事始』
意気込み ~美奈子
ゆっくりと大きく息を吸って、細く長く吐いて。
「はぁー」
両手をぎゅっと握ってゆっくりと開く、広げた指先が少し強張ってるのが自分でもわかる、昔から緊張してるときの癖。開いた指をもう一度ぎゅっときつく握りなおして大きく息を吐く。
意気込んで机に向かい、紙袋から買ってきたばかりのまっさらなノートを置く。
手にしたペンをくるりと回して軽く握りなおしてピンクの表紙の少し手前で止める。
「んー」
キュッとかすかに紙に擦れる音を立てて黒い線が延びる。なかなか書きなれない字だからいまいち形がうまく取れてない『柔』の文字、続けて『道』の文字がその隣に、こうしていくつか曲がった所もあるけれど表紙には油性ペンで大きく『柔道同好会記録』の文字が並んだ。まだ乾ききっていない黒インクに息を吹きかけながら両手でノートを掲げる。
「よしっ」
何事も初めが肝心、ということで。
「それにしても……」
入学早々、わけもわからずいきなり発足したての柔道同好会のマネージャーにスカウトされて、誘われるままに入部を決めたのはいいけれど、そも柔道のこともよく知らずマネージャーの仕事すら初めてという、まったくの手探り状態。
「大丈夫かな」
意気込みをこめて記録ノートを用意したものの、これから何をどうはじめたらいいのか検討もつかない。
それこそ勧誘した当の本人とも、同じクラスながらもまっとうに会話したのがチラシをもらったその日がはじめてだった。
「まぁ、なんとかなるよね」
ぺちんとノートの文字を軽く叩いてカバンにしまう。
明日から柔道同好会のマネージャー初仕事がんばっていこう。
何もなし。まっさら、ホントにホントのゼロスタート。
言葉にするのは簡単だけど、ここまでまったく何もないゼロからというのは初めてだ。
『活動記録』
・中庭でストレッチ(柔軟各種三セット、腕立て腹筋背筋それぞれ百回)
・校外で走りこみ(5周)
・活動ミーティング
初練習というか初活動を終えて。
部室もない柔道同好会のミーティング場所は階段の踊り場。窓から差し込む西日を避けて座った段差、ひざの上で二つ折ったノートに指先を滑らせる。
「うーん」
気合を入れて用意した記録ノートはやっと一ページの半分とちょっとが埋まった所。
初日の活動で書き留めた内容は今日の簡単な活動記録と今後の活動に必要な練習場所の確保手順に学校内にある各施設やスペースの情報。
「とりあえず、ここまででなんか質問あるか?」
ジャージ姿のまま隣に座った不二山くんの顔を見上げて小さく首をかしげる。
「施設の使用状況は……各部の顧問の先生に確認したり、交渉する必要があるかもね」
「そうだな。交渉するにしてもまだ今の状態じゃ厳しいだろ。まずは基礎練習を積みながら宣伝して人集めと部の流れを作ってくとこからだ」
スポーツドリンク片手に口元に手を当てて大きくうなずく。
「ん、そうだね」
手にしたシャーペンをくるりと回して今日の活動内容の下一行あけて『当面の目標』と書いて黒丸をつける。
『当面の目標』
・基礎練習(走りこみ、柔軟、筋肉トレーニング)
・同好会の宣伝(ポスター等)
・活動の基本的な流れ(練習、役割分担等)を決める。
「こんな感じかな?」
書き留めた内容を掲げて見せる。
「うん。とりあえず週末にでももっかい打ち合わせすっか」
「わかった、私あと聞きたいことというか柔道のこと勉強したいんだけど、どこから手をつけていいのかわからなくて、どうしたらいいかな?」
「そうだな、今度俺が持ってる本貸してやる」
「ありがとう。やってみようと思ったのはいいけど柔道のこととかよくわからないし、マネージャーをやった経験もないから、大丈夫かなぁってちょっと不安だったから」
「最初はみんなそうだろ、心配すんな。いきなりルールと技全部技覚えてこいとか言わねーから、そんな気負うな」
「……うん」
柔道同好会記録、一日目。
ようやく一ページ埋まったノートを眺めて。
「よし、がんばる」
「押忍、今日はそろそろ着替えて帰るか」
「うんっ」
お風呂から上がってパジャマ姿で寝転がったベッドの上。白い天井を見上げたまま小さく息をつく。
「うーん」
今日一日をゆっくり反芻しながら両腕を天井に上げて伸びをする。
「不二山くん、気負うなって言ってくれたけど……よっと」
軽く勢いをつけて体を起こしてベッド脇に置かれた目覚まし時計を見る、九時半をちょっと回ったところ。まだもう少し時間に余裕はある。
「よしっ」
椅子の背にかけたカーディガンを羽織って机の前に座り、ノートパソコンの電源を入れ、立ち上がってくるまでの間に充電器に置いた携帯を取り上げて電話帳を手繰る。
「起きてるかな?」
番号を選んで、ちょっと考えてから通話ボタンを押す。
1コール、2コール、3コール目が鳴り終わる前に電話がつながった。
「バンビ」
「あ、もしもしミヨ」
「何?」
「ごめんね、遅くに。時間平気?」
「平気、どうしたの?」
「えっとね、柔道部のマネージャー始めたって話はしたよね」
「うん」
「それで、勉強をかねて色々調べたいことがあって。はばたき市やこの近辺で柔道が強い学校を探そうと思ってるんだけど、こっちの学校とかまだよくわからなくて。何か情報を持ってないかなって思って」
受話器の向こう、ひとつ間を置いて。
「柔道部のある高校リストでいい?それならすぐに出せる。強豪かどうかまではすぐにはわからない」
「うん、そこは自分で調べるから」
「わかった、ちょっと待ってて」
受話器の向こう、情報メモを探っているらしいミヨを待ちながら。ようやく起動したパソコンから検索サイトを開いて柔道と打ち込んで検索開始。
「多いなあ……」
ずらっと並ぶ検索結果を眺めながら画面をスクロールする。
柔道自体を知らないわけではないけど、実際どんなものかと聞かれるとまだいまいちピンとこない。いくつか詳しそうなリンクを開いて読んでみたけれど、どれもいまいちピンとこない。
「バンビ、お待たせ」
「あ、うん。ごめんね」
「ううん、じゃあ今からメールでリスト送るから確認して」
「わかった」
マウスを動かしてメールボックスの新着メールを開いて添付ファイルをクリックする。
「ごめんね、急に。リストありがとう」
「いい。情報なら任せて。おやすみ、バンビ」
「おやすみ、ミヨ」
電話を切って、画面に表示されたはばたき市の高校リストを眺める。
「柔道部のある学校割とあるんだね。この中からもっと詳しく調べてみて……って続きは明日かな」
机に広げた記録ノートにリストの高校名と連絡先を一つ一つ書き記す。
「よしっ、後は不二山くんと話して色々考えよう」
見開き一ページ、今日一日で全部埋まった内容を眺めて。
「柔道同好会一日目、終わりっ」
明日は私が練習場所確保の当番だから、まずは先に場所を確保してから話そうか。
閉じた記録ノートを軽く指先ではじいてカバンにしまう。
「がんばろうね」
手に残る感覚 ~不二山
目を閉じて、イメージする。
自分と、目の前で向き合う相手。
お互い向かい合って構えた状態から、どう相手を攻めるか、どう動くか、相手の動きにどう反応するか。
ゆっくり、息を吸う。
そのまま息を止めて、今度は細くゆっくりと吐く。
腹から吸ってヘソで溜める。
動じない心の強さ、胆力をつける為の練習の一環。
目を開ける。
もう日も暮れかかった夕暮れの空、海岸の向こうにかすかに夕焼けの赤い色が滲むように伸びている。新マネージャーを迎えた一日目の部活を終えた後、まだ少し時間に余裕があったので家に帰った後またすぐにトレーニングでここまでひた走ってきていた。
「創設者、か」
バカ正直に感心する顔を思い出して、少し笑みがこみあげる。
「そんな大層なもんじゃねーよ」
一人で柔道同好会を立ち上げて。ビラを配って宣伝して、半ば引っ張り込むように小波を勧誘して。
でもそれはすべて自分が柔道をやりたいというわがままを通す為だった。もちろん柔道を広めたいとか知ってほしいという気持ちはある。でも最初の目的は何よりも自分が柔道をしたいということ、ただそれだけだった。
手を広げて、握る。
最後に組み合いをしたのはいつだろう。
中学三年目は道場に通う時間を削って勉強漬けだった。それでも時折時間を見つけては道場で組み合ったり、師範に教えをこうたり、帰りには道場の仲間と柔道談義に花を咲かせることもできた。時間が取れない時も模試帰りに練習風景をちらりと眺めるだけの時もあった。実際に柔道はできなくても、すぐそこに柔道がある日常を肌で感じられたし、組み合う姿を見ているだけでも気分は晴れた。
でも……
道場を辞め、はばたき市に引越して、高校に入学してから。
自分の周りから柔道というものがすべてなくなった今、すべての色が消えてしまったように自分の中で何かが欠けてしまった感覚。
親に柔道を辞めろと言われたあの時、はば学に入学することを勧められた時、師範の道場を辞めたあの日、引越しの車に乗った日。どの時も自分の中で苦い思いがあった、そしてそれは仕方のないことだと納得したつもりだった。
握りこんだ手に力がこもる。
引っ越してしまえば。新しい生活が始まれば気が紛れる。高校生活三年間を過ぎて、自分のことを自分でどうにかできる大人になってから、改めて自分のやりたいことを存分にすればいい、そう思っていたはずだった。
なのに、自分の周りから一切柔道が消えてしまってた今になって、心の奥からこみ上げてくるのは。
握った手を開く。
道着を掴む手、捌きあいの手の動き、ぎゅっと握った帯、引っ越してからずっと触れていなかった感触。
柔道がしたい。
道場で組み合う姿、響く掛け声、畳を揺らして叩きつけられる音。
今は遠くなってしまったすべてが懐かしくて、恋しくて仕方がない。
「よし、行くか」
両手で軽く足を叩いて顔を上げる、ちょっと一息をつくつもりが大分時間を取ってしまった。2・3軽く体を弾ませて元来た道を走り出す。
一度納得してあきらめたはずの柔道。
もう一度、走り出す。今度は自分から。
柔道同好会を立ち上げ、強引に引っ張り込んだマネージャーの小波と共に始まった部活二日目。
校門入り口からスタートし、海沿いの道を走りこんで戻ってくる走りこむロードワーク。下校途中の生徒から時折からかい混じりの視線を浴びながら、ペース一定にを保ったまま、弾ませるように足を踏み出す。
右、左、右、左。
早すぎず遅すぎず、早さではなく持続して体を動かすことを意識してゆっくり体を上下させる。
目的によって運動のやり方は色々違う、持久力をつけるものや足腰の強さを重視するもの、瞬発力を鍛えるもの。今の走りこみも早く走る事ではなく、体力と自分のリズムを保つ為の鍛錬のひとつ。
海沿いの道を走りながら、吹き付ける風が頬を叩く。自分の他にも列を組んで走る野球部やテニス部員達の姿も見えた。
「声だしていけー!」
「はい!」
野太い掛け声と規則正しい足音。
先頭を走って後輩に声を掛ける先輩の姿、息を切らしながらもついていく一年の姿。へばりそうな部員に声を掛け、肩を叩きあいながら走っていく野球部の姿を姿を横目に見ながら唇を小さくかみ締める。
少しピッチを上げて野球部員達の横をすり抜けて走る。
道場に通っていた頃も、あんな風に互いに気合を入れながら走っていた。
ゆっくりと体を上下させながら一歩、一歩足を踏み出す。昔はどうであれ、今はここから柔道部を作っていく、そのためにできることは全てやる。
そう決めた。
時計の時間を確認する、予定の時間まであと少し。はば学の校門入り口はもう目と鼻の先だ。
門をくぐった校舎入り口前、ジャージ姿のあいつが手を振った。
「おかえり、不二山くん!」
少しづつペースを落として足を止める、息を整えながら両足を軽く回して深く息を吐いた。
「お疲れさま、次は体育館だよ、バレー部が外出するから空くんだって。体育用具室でマットも借りられるように頼んできたから、受身の練習とかできるよ」
「ホントか?」
「うん、バレーの顧問の先生と大迫先生に許可もらったから。私、先にいって準備してくるね」
「ああ、すぐ行く。道着とってくるから」
「うん!」
うなずくと小波は手にしたタオルを広げて俺の首にかけて走り出す。
「ちゃんと汗拭いてね、体冷やさないように。じゃあ後でね」
「押忍」
遠ざかっていく背中を見送って、頬を伝った汗を拭う。
さっき走っていた時に感じていた苦い気持ちはすっかり晴れていた。
「せいっ」
掛け声とともに踏み切って、跳ぶ。
伸ばした腕をついて肩から背中を転がって、マットを叩いて勢いよく立ち上がる。
普段はバレー部の活動と応援でにぎわっているはずの体育館だが、今日は柔道部の貸しきり状態だ。
「よし」
もう一度、跳ぶ。
久しぶりに袖を通した道着の肌触り、跳んだ足の感触、ストレッチやトレーニングとはまた一味違う受身の動き。
二回、三回、敷き詰めたマットの端まで受身を繰り返す。
「長いマットあってよかったね」
受身の勢いでマットがずれないよう押さえている小波の声が後方から聞こえる。
「ああ、思い切り受身が取れる」
体育館の片隅、マットを数枚しいた中で受身の練習。
畳とはまた感触は違うが、板張りの上で受身を取るよりずっとましだ。
「背中、痛くない?結構大きな音してるけど……」
「平気、こんくらい慣れてる。それに勢いあるほうが痛くねぇんだよ」
「そうなんだ」
少しずれた襟元を引っ張って帯をギュッと結びなおす。
この感触、この感覚。
どんなに頭の中で割り切っても、体が覚えている、心が反応する。
柔道がやりたい、この感触を湧き上がる感覚を失いたくない。
「よし、もう一往復」
「押忍、がんばってね」
「……ああ、ありがとな」
「え?」
「なんでもねえ」
両襟を引っ張り襟を正す。
久々に感じた柔道の心地よさをかみ締めながら。
ヘソに力を ~美奈子
なんというか、ホントに楽しそう。
バレー部が外出でガランとした体育館の端っこ。長いマットを敷いた上で不二山くんの体がくるんと回ってマットを叩いて立ち上がる。
受身。
格闘技や柔術などで投げられて地面に激突する際に身体ダメージを軽減させる為に行う防御のことを指す。種目や流派、受ける方向によって種類は様々。いずれも共通しているのは頭を打たないようにすること、体より先に腕や足を地面について衝撃を減らすこと。
と、ここまで本の受け売り。
文字で読んだだけだといまいちわかり辛かったけど、こうして実際動いているのを見るとなんとなくわかるような気がする。基本的に頭や体を直接打たないように手をついたり体をごろんと転がして守るという感じ。
受身の勢いでマットがずれないようにしゃがんで端っこを手で押さえながら、一心不乱に受身を取ってる不二山くんの動きを眺める。流石に小さい頃から習ってるとあって、素人目の自分から見ても動きがすごく安定してるというか、表現がおかしいかもしれないけどすごく綺麗、そこらのでんぐりがえりとは一味違う気がする。
ばしんとマットを叩いて立ち上がる音、衝撃でずれそうになるのをなんとか押さえて体育館の時計を見上げる。
「そろそろだよ」
「ああ、次あと少し」
言い終わらないうちにマットを蹴って体が飛んだ。腕から背中へとくるりと体を一回転させて小気味良い音を立ててマットを叩いて勢いよく起き上がる。
「はい、お疲れさま」
「おう」
まだ少し物足りないような様子でマットの上で軽く体を弾ませてる。
「不二山くん?」
「ああ、悪い」
何事もなかったように額に滲んだ汗を拭ってるけど。ちょっといつもと違ったというか、一瞬表情が曇ったような気がする。何か考えてたのかな?
「受身、すごいね」
「ん?まぁ、基本だからな。受身くらいならお前も覚えておいて損はないぞ」
「そっかあ」
道着の帯を締めなおして笑う顔はいつもの不二山くん。でも、やっぱり柔道って一人でやるものじゃないし相手が居ないのって物足りないのかもしれない。
「わたしが柔道できたらいいのにね」
「お前が?」
「ほら、たとえばわたしが柔道できたら乱取りとかは無理だけど型の練習相手くらいなら何とかできるかなって……無理か」
「まあ、女でも柔道やってる奴はいるけどな」
そこで言葉を切ると、じろりと私の頭のてっぺんからつま先まで視線を動かす。
「な、なに?」
思わず背筋を伸ばして身構える。
「まだ体が足りねーな、結構しまってるほうだけどもうちょっとついてないと駄目だな」
「う、これでも結構鍛えてるほうだと思ったんだけどな……」
「柔道は力だけじゃねーけど、最低限基本的な筋力がついてねぇと相手崩せねえし」
「ふむ」
マットの上、ちょっと足を開いて仁王立ちして踏ん張ってみる。もともと運動は好きなほうだったけど、柔道に使う筋肉とかはまたどこか違うのかも。
「そういえばこないだ貸した本読んでみたか?」
「うん、一通り読んでみたよ」
少し前に貸してくれた年季の入った柔道教本。元はカラーだった表紙はすっかり色あせて、角のところも削れて中の紙もすっかり薄茶に焼けた古い本。よっぽど何度も読み返したものらしく、あちこちにチラシをちぎったしおりが挟んであって少し微笑ましかった。
「どうだ?わかんねーとことかあったら教えるぞ」
「うーん」
腕組みして首をひねる。
どうだと言われるとまだピンとこない。
「えっとね。やっぱりこう、読んだだけじゃいまいち掴めなくて……投げとか崩しとか組み手とか言葉の説明読んでもなんかこう頭で再現されないなーっていうのが」
「そうだなぁ」
それこそ文字の説明はもう覚えられそうなほど読み返したけど、文章としては理解できてもそれが実際の動きにつながってこない。
「こう、わーっと掴んでがーっと投げる……うーん」
「ちょっとやってみるか?」
「え、いいの?」
とは言うものの、思いっきりズブの素人でも大丈夫かな?
「道場の合同練習でも女子で柔道やってる奴はいた、組んだこともある」
「へぇ」
女子で柔道、そりゃいるのは知ってるけど。
「けど、組むとやりづらいんだ、女は」
「そうなの?」
やっぱり不二山くんも女の子と組むのは緊張しちゃうのかな?
「体小さくて、間接も柔らけぇし、組み辛い」
なるほど、そっちの意味か。なんかちょっと残念なようなホッとしたような。
「私、体固いからなぁ」
「簡単な型なら教えてやる、掴んでみろ」
「うん」
と言われても。
いざ目の前で仁王立ちする不二山くん相手にどう掴んだらいいものか。
「いいぞ、どこからでも来い」
「えーと、じゃあ」
図解で見た絵を反芻しながら、両手を伸ばして道着の前襟を両手で掴む。うろ覚えだけどたぶんこれであってるはず。
「組み合うのは、これでいいんだよね?」
「まあ、こんな感じだな」
余裕たっぷりというか、実際余裕なんだろうけど、両襟を掴まれた状態でびくともしない。
「ここから」
まず組み合ってから、たしか足を払うんだったっけ?
「えい」
ぺち。
間の抜けた音を立ててぶつかる足、もちろん不二山くんは微動だにしない。
「あれ?えーっと」
教本のお手本っぽく動いてみたけどなんだか全然うまくいかない。そりゃあ有段者相手に通用するなんて思ってないけど。
そういえばもっとこう腰を落として上半身をひねってたような気がする。掴んだ襟を引っ張って、内側から足を払って。
ぺち。
「んー」
やっぱりビクともしない。やっぱり基本的な筋力の問題なのかも。しばらく黙って動きを見ていた不二山くんが襟を掴んだ手を外す。
「柔よく剛を制す、知ってるだろ?」
「うん……本にのってた」
確か体の小さい人でも相手の力を利用すれば大きな者を倒せる、だったかな。
「足りないのは崩しだ」
「くずし?」
「相手を不安定な状態して投げやすくする。口で説明すんのはちょっと難しいな」
そう言って少し考えて。
「ちょっと腕掴んでみろ」
「うん」
言われるままに目の前に伸ばされた腕の袖をぎゅっと両手で掴む。
「たとえばこうやって腕つかまれて、俺がそのまま腕を引いたとする」
「うん」
引いた腕に引っ張られるのを軽く踏ん張って耐える。
「この状態で逆に腕を急に押し返す、と」
「わっ」
反対にいきなり押されて後ろにつまずきそうになった。
「ほらバランス崩れるだろ?逆にこっから俺がお前を押したとする」
「うん」
ぐっと力の篭った腕を両手でがしっと止める。
「で、そこで不意をついて腕を引く、と」
「っととと」
引っ張られるように前につんのめったのを支えられる。
「簡単な説明だけどこんな感じだ。人間動こうとすればどっかしらに力が入る、その力を利用してバランスを崩す。それをきっかけにして相手を投げやすい状態に持ってく。これが崩し」
「なるほど……」
なんか思いっきりいいように振り回されたっぽいけど。
「これがまったくの素人のお前相手なら簡単だけど、経験者や上級者相手になるとこうはいかない。強え奴ほど崩しがうまいんだ、力だけじゃ勝てねぇ」
「ははぁ」
なんか思ったよりも奥が深いかも。
「試合ん時、組み合って動かない時はお互い相手を崩すタイミングや動きを計ってんだ。動きがあれば隙は必ず出来る、けど動かないと相手を倒せない」
そういえば柔道の試合を見ててたまに組み合ったままなかなか動かない場面とかよくあった気がする。
「そういうときはどうするの?」
「狙われるのをわかってて仕掛ける。対する相手の動きによってどう切り返すのかも頭に入れながら」
「駆け引きって奴だね」
「まあな」
思ってたより柔道って頭脳戦なのかな、頭脳というか反射とか読みあいとか。
「結構深いんだね」
「まあな」
なんか得意げに答えるのがちょっと可愛い。
「わたしもっとこう、とりゃーばしぃ!みたいな感じだと思ってた」
「なんだそりゃ」
笑われた。まあ、間抜けなのは間違いないけど。
「じゃあ、投げられないようにするのは、やっぱり相手の動きを読むことなの?」
「そうだな、あとは足の踏ん張り。足腰が安定してる奴はなかなか崩れない、崩されても簡単には倒れねえし」
「むぅ」
「臍下丹田に力を入れて体の重心を安定させる、よく師範に言われた」
なんかよくわかんない単語出てきた。
「せいかたんでん、って?」
「臍下丹田、へそからちょい下指三本くらいのとこだ」
おへそから指三本くらい下、お腹に手を当てて少し下に手を滑らせる。
「このへん?」
「そ。で息を吸うとき腹から吸ってここに溜める。これが体を安定させんだ」
「えーと」
両手でお腹に手を当てる。腹から吸って……って腹式呼吸のことだよね。
手を当てたままゆっくり息を吸ってお腹を膨らませる。
「吸ったら止めて腹に少し力入れて細く吐く、一気に吐くと力が抜けるからゆっくりな」
お腹で息を吸って止めて、ちょっとお腹に力を入れつつ口を細めてゆっくりと息を吐いていく。心なしかなんとなく落ち着くような気がする。
「腹から吸ってヘソで溜める。そんで重心を落として足腰を安定させる。気持ちだって落ち着くぞ、腹も引き締まるしな」
「腹が引き締まるにちょっと興味津々」
「興味出てきたか?」
「正直かなり」
「じゃあ今度それも宣伝に盛り込むか。よし、練習再開!」
不二山くんはなんだか嬉しそうにくしゃくしゃと私の頭を撫でて道着の襟を直した。