GS3嵐×バンビ
なんでも鵜呑みにしてはいけません テーマ:変態
帰り道
もう何度となく二人で歩いた家へと続く帰り道。
卒業後、春も大分過ぎて目に優しい若緑の森林公園の木々の色が段々と深みを増した色に変わりつつある。
もう夕暮れも当に過ぎた時間だが、道もまだ明るく人通りもまだ途切れない。
日が落ちるのが遅くなった分、帰りの時間を長く過ごせるが、逆に今まで夜の戸張が隠してくれていた二人きりの時間が少し短くなってしまうのが悩みどころでもある。
指を絡めて繋いだ手を握り返す。一回り大きくて、少し骨ばってて、繰り返しの稽古で皮膚の固くなった不二山の手。絡めた指先にテーピングのごわごわとした感触と手の平にしっとりと汗ばんだ体温を感じる。
「手、熱くねえ?
「ううん、平気」」
「そっか」
しっかりと手を握り締めたまま、美奈子の歩調に合わせてゆっくりと歩く。高校の頃から変わらないさり気無い心配りが心地いい。
一流体育大学へ進学した不二山と一流大学へ進学した美奈子。
今まで当たり前のように毎日顔を合わせていた二人だが、進む道が別れてから一緒に過ごせる時間が減り、二人で会うのも月に数回程度。柔道部の練習に忙しい不二山に合わせて何とか空けた時間で短いデートをするのがせいぜいだった。
「なぁ、お前そのカッコこの時間だと寒いんじゃねーか?」
「ん?平気だよ?」
足にふわふわとまとわりつくシフォンミニスカートを軽くつまむ、一緒に買った白のキャミソールと合わせたお気に入りの品。最初はあまり興味のなさそうだった不二山も何度かデートで着ていくうちにすっかり気に入ってくれた品。
「そうか?女は体冷やすのよくねーっていうし、夏前っていっても夜んなるとちょっと冷えるだろ?」
「ふふっ、ありがと」
「ほら、もっとこっちこい」
「うん」
握った手が離れて、一瞬後れて肩に手をかけて引寄せられる。
「もうすぐ、着くな」
「うん」
「腹冷やすなよ?」
「もう、わかってるってば」
まるで子供に言い聞かせる親のような言葉に思わず笑って、擦り寄る。
「次、会えるの再来週……かな?」
「うん、来週は合同練習で泊り」
「がんばってね」
「ああ」
寂しい、と言いたいのを飲み込んで足を止める。
もうそこは家の前。
「じゃあ、後でメールする」
「うん、じゃあね嵐くん」
門の前で手を振って、遠ざかっていく背中を目に焼き付けるように見送る。
角を曲がって不二山の姿が見えなくなってから小さく溜息をついた。
家に入って真っ直ぐ自分の部屋に向かい、ドアを閉めて倒れこむようにベッドに転がる。
「はぁ」
両手を組んで枕に乗せて顔をうずめる。
この所、いつもこうだ。電話をした後、メールをした後、二人で会った後も、いつも一人になった時に溜息が出る。
「嵐くん」
顔を上げて指先を唇に触れる、気合を入れてつけていった色つきリップは半分落ちかけている。
高校の卒業式、お互いの気持ちを伝え合ってからもう数ヶ月。
二人で出かけているときは手を繋いだり腕を組んだり、当たり前のようにお互い触れているのに、そこからいっこうに先に進まない。軽く触れるキスを交わすのがせいぜいで、それすらもう一ヶ月以上触れてない。
「うー」
枕を抱きかかえて丸くなる。
「嵐くん」
ふと、響く携帯のメール着信。
「あ!」
慌てて枕を放りだしてベッドサイドに置いた携帯を手に取り、発信元を見てメールを開いた。
『今日楽しかった、帰したくないっていつも思う』
じっと文字を読み返して。
「うん、私も」
液晶に軽く唇を触れて、ごろりと仰向けにベッドに横になる。
「私も……もっと触れたいよ。嵐くん」
首筋に手を触れる、誕生日プレゼントで貰ったアイオライトの感触を確かめて、小さく息を吐いた。
責任感
「バンビ、眉間」
「え?」
ストローをかき回す手を止めて、目の前に座るミヨの顔を見る。
「そんな顔してると眉間にしわがよるよ」
「えっ、そ、そんな顔してた?」
慌てて額に手をやって指先で眉間の皮膚を引っ張る美奈子の様子をじっと見つめて目を細める。
「揺らいでいる。バンビの中にある小さな星、不安と寂しさ」
「え」
ぎくりと体を強張らせて手を止める。
「二人の想いは通じている。けれど、お互いの気持ちは繋ぎとめることは出来てもそれだけではダメ、今のバンビは不安で心が震えてる、それを安定することができるのは彼だけ」
きっぱりと言い切ると、手にしたフォークでチョコレートケーキをひとかけ削って口に運ぶ。
「ねぇ、ミヨ」
「うん」
「私、ダメなのかな」
「なにが?」
ミヨの問いに一瞬ためらいつつ、意を決して口を開く。
「嵐くん、ね。その、何もしてきてくれない。というか、えっと、何にもってわけじゃなくて、その、キスはしてくれるんだけど……その、先というか」
「性欲のない成人男子は居ない。彼にも普通に性欲はあるしバンビにちゃんと欲情してる、安心して」
「よっ」
はっきりと断言する声に頷くことも否定することも出来ずにうつむく。
「そうかな、なんだか、その……何もしてこないっていうの、私、何かだめなのかな?とか何かもっとアピールとか足りないのかな、なんて」
「そんなことはない、むしろ常に彼は臨戦状態」
「そ、そうかな」
何がと問うてはいけないような気がしてこくこくと頷く。
「ただ」
一口オレンジジュースを口に含んで人差し指で眉間を軽く叩く。
「彼はすごく真面目、そして想いも強い、なによりも責任感が強い」
「うん、それは知ってる」
「だから、男女の深い触れ合いや性行為は自立して結婚してからだと信じている」
「せっ」
続きの言葉を慌てて飲み込んで。
「その考え自体は間違ってはいない。責任を持とうと思うことも正しいし、バンビを大切にしたい気持ちの裏返しでもある」
「うん、えっと……それは、そう、だよね」
今どきそんな古風な考えを、と思いつつ。ちょっとどころではない天然な不二山なら充分ありえる。
「じゃあ、しょうがない、のかな」
「それは違う」
「えっ?」
「スキンシップは言葉の代わり、気持ちを伝え合う手段。触れ合うことも性行為も例外ではない」
「う、うん」
あまりにもはっきりと言葉にするミヨに思わず周囲に聞かれていないかこっそり見回しつつ。
「恋人同士が触れ合いたいと願いのは自然の摂理」
「うん……」
「バンビは今不安で揺らいでいる、信じたい心を支えて欲しいと願っている。それを叶えられるのは不二山だけ」
「でも、嵐くんは」
「不二山が自分の信念を貫いて、結果それでバンビを不安で悲しませるならそんな信念いらない」
「ミヨ……」
「これを貸してあげる」
隣に置いたバッグからテーブルの上に乗せられた紙袋、手にとって中を覗くと一冊の本が入っている。
「バンビの悩みは星の声で調査済み、この本にバンビに必要な知識が全てのっている。再来週にかけて恋愛運が上昇するからねらい目はそこ、ラッキーカラーはブルー、下着はちゃんと上下揃えて」
「ホント?」
「大丈夫、星の加護を信じて」
「うん、わかった!ありがとうミヨ!」
両手で紙袋を抱きしめて大きく頷いた。
本の教え
しっかり部屋のドアに鍵をかけ、カーテンを閉める。
父親は仕事、母親は習い事にいっていて不在なのは知っているが、それでもほんの少し後ろ暗い気持ちは隠せなくて。
「よし」
バッグから先ほどミヨが貸してくれた紙袋を取り出して机に向かう。心持ち緊張で僅かに手が震えるのを抑えつつ中の本を取り出した。
「ミヨ、ありがとう。私頑張る」
神妙な面持ちでぱらりと表紙をめくり、読み始める。
はじめに。
この著書は、男と女の愛情を再確認するための心構えを得ることとパートナーとの対等な信頼関係を築くことを第一の目標とし、この本を手に取ったすべてのパートナーの手本となるべく、様々な資料や実践経験を元に専門用語やわかりづらい文を極力廃し、イラストによる図解を使って初心者でも無理なく新たな世界に足を踏み入れることを目標とした一冊である。
「わぁ、なんかすごく真面目そう」
ごくりと唾を飲んで、ページをめくる。
第一章、緊縛の歴史について。
「……え」
目の前に飛び込んできた見出しに目が点になった。
小一時間後。
一息つく余裕もなくじっくりと読みつくした本を閉じる。
心持ち顔が熱くて、動悸が少し激しくなっているのを他人事のように感じる。
「どうしよう」
初夏の少し蒸し暑くなってきた部屋の中、額にうっすら汗が滲んでいた。
閉じた本を押さえた姿勢のまま動けない、頬が熱い、どきどきと激しい動悸が治まらない。
本はイラスト図解と簡潔な説明でわかりやすく記述されており、前提知識の全くなかった美奈子にも緊縛の歴史から主従のあり方、パートナーシップにおける信頼関係の築き方、様々な縛り方等々が理解できた。
実践できるかどうかはさておき。
「どうしよう、ミヨ。私ちゃんと出来る自信ない」
眩暈を覚えそうになりつつも、なんとか気持ちを奮い立たせて引き出しからメモ帳とシャーペンを引っ張り出してもう一度本を開く。
「と、とにかくまずは準備するものは」
麻縄(ジュート縄が一般的)
「縄……えーと、ホームセンターで売ってるかなぁ、引越し用のビニールロープならあったと思うんだけど、使えるかな」
目隠し用の布
「どんなのだろう?目隠しなんだよね、アイマスクでいいのかな」
ロウソク
「たしか、台所の引き出しにクリスマスケーキで使わなかったのが」
鞭
「皮……えーっと、ベルトでなんとかなる、のかな?」
一つ一つメモを取りながら、頭をひねる。
自分が何となく考えていた路線と180度違う流れに違和感を覚えながらも必要道具と手順をメモにまとめる。
「とりあえず、頑張ろう。やれるだけやって……限界は自分で作ったら終わりだよね、嵐くん」
宙を見上げて、小さくガッツポーズを決める。
「うーん」
頭をひねって、見開きで置いた本の挿絵を眺める。そこには結び目の作り方や縄の通し方が大きな絵でわかりやすく記述してあった。
「こう、かな?」
物置から引っ張り出してきたビニールロープの玉と引き出しから持ってきたアイマスク、クリスマスケーキ用のキャンドル。
「ここを、こう結んで」
手にしたクマのぬいぐるみに図解の見本どおりにビニール紐を巻きつけて結び目を作る。
「できた!」
そこにはきっちり亀甲縛り状態になったクマのぬいぐるみ、可愛らしい部屋にまるでそぐわないにも程がある。
「なんだろう……なんだかすごく何かが違う気がする」
今まで読んできた小説や少女漫画にも男女のシーンがあるものもあったが、こんなシーンは今まで見たことも聞いたこともない。
「でも必要な知識、なんだよね。ミヨが言ってたんだし」
浮かんでくる疑問はあれど、今は親友の言葉を信じて、一つ頷く。
「よし、次はこっちの結び方も練習しよう」
本のページをめくって次の縛り方の説明と図解を確認しながら、縛られたクマの紐を解き始めた。
彼氏の胸の内
道路を照り返す日差し、美奈子の家へと向かう道。
『嵐くん、今日はウチに遊びに来ない?』
高校を卒業して会う機会が減ってから、少しでも時間を有意義に使おうとあちこちのスポットを二人で回っていたが、今日は珍しく部屋へ誘いに少し戸惑っていた。
部屋で会うこと自体はいい、外出ばかりも流石に飽きてきたし、のんびりと二人で過ごすというのも悪くない。ただ、不二山にとって正直複雑でもあった。
自分の中で引いた一線、節度と責任。
美奈子と付き合っていない頃は自分の中でしっかりと引かれていたが、正式に付き合うことになってから、その一線が時々揺らぎそうになっているのを自分でも時折感じている。男のケジメとして、節度を守った付き合いをしていきたい。そう頭では理解しているし、美奈子のことを本気で考えているなら約束も無く無責任なことはしたくない。
ただ、頭で理解していても。二人で居る時にふと感じる視線や触れてくる肌の感触に思わず体が反応してしまいそうになるのも事実ではある。
玄関の前、一息ついて指を伸ばしてインターホンを押す。一瞬遅れてざらついた音に混じって美奈子の声が響く。
『はい、小波です』
「不二山です」
『あ、嵐くん!すぐ開けるね』
「うん」
程なくドアが開いた。
「いらっしゃい、どうぞ、あがって」
「お邪魔します」
靴を脱いでいそいそとスリッパを出す美奈子の後について、心なしか緊張を覚えながら口を開く。
「なぁ、親御さんは?」
「あ、えっと、お父さんはゴルフでお母さんはお友達とお出かけ」
「え?」
「先にお部屋行ってて、お茶いれて持っていくから」
誰も居ない。
いや、それはちょっとよくない。主に、自分に。
「ほら、先にお部屋行ってて」
「わかった」
半分押されるように階段を登っていく。
「いいのか?」
いや、いいけどよくない。いや、やっぱりいいのか?
疑問を繰り返す心の中の声に答えられないまま、足は美奈子の部屋へと向かっていた。
正念場
「深呼吸……落ち着いて」
両手に紅茶とおやつの載ったトレイをもって、ゆっくりゆっくりと階段を登る。ミヨが貸してくれた本にも書いてあった、リラックスが大事と。
「よし」
足を止めてドアを開ける。
「お待たせ」
「ああ、どうもな」
ちょこんと所在無さげにベッドの上に座った不二山の姿。
「どうぞ、何もないけど」
「ああ」
本はちゃんと読んだ。
道具も準備した。
縛る練習もしっかりした。
相手を部屋に呼ぶことも成功した。
が。
ここからどうやって縛る方向に持っていけばいいのか。
「……えっと」
「なんだ……?」
この次どうすればいいのか、どうやって切り出せばいいのか。
本来なら一番知りたい知識があの本にはまるっきり抜けている。
(どうしよう)
ベッドの上に座った不二山の隣に座って、落ち着かない。
(どうやって切り出せばいいのかな?なんて言った方がいいのかな?)
例えば物語で言うところの、例えばロミオをジュリエットに置き換えて考えてみる。
『ロミオ、ああロミオ』
『ジュリエット、私のジュリエット』
『ロミオ、私を愛している?』
『もちろんだよ、ジュリエット』
『嬉しい、私もよ。ねぇロミオお願いがあるの?』
『なんだいジュリエット』
『縛ってもいいかしら?』
『わかったよ、さぁ!君の好きにしておくれ!』
縛られるロミオと鞭を振るうジュリエット。
(どうしよう、おかしい!やっぱり何かおかしいよ?!)
土壇場になった今更ながら、本の前提のおかしさが更に浮き彫りになってくる。
「美奈子?どうした、さっきから様子おかしいぞ」
「あ、ううん。な、なんでもないの!」
ここからどうすればいいのか。
しっかりと読みつくした本の内容を頭の中で反芻するものの。次に取るべき行動の内容がまるきり浮かんでこない。
(私、ダメなのかも)
だが、ここでこのまま諦めてしまったら。また不安ともどかしさを抱えたままの生活に逆戻りになってしまう。
「嵐くん!」
「ん?どうした」
「あのね、嵐くん」
隣に座って、じっと顔を見あげる。
「なぁ、どうかしたのか?さっきから、その……ちょっと待て」
「え?」
「こういう状態、あんまよくねぇ」
視線をそらして隣に座った美奈子から離れようと体を動かす。
「嵐くん……私、ダメなの?」
「違うって、お前がダメなんじゃなくて。俺責任とかそういうのまだ取れねーし、こういう状況、よくない」
逃げるように離れる不二山の服の裾をつかんだ。
「嵐くん」
「美奈子……」
「嵐くん……縛っていい?」
一方その頃
明かりを少し落とした部屋で天球儀を眺めながら、宇賀神みよはテーブルの端に置かれたカップを手に取った。カレンからもらったハーブティーの香りを楽しんでから口に含む。
ほんのりとした甘さと口の中に残る酸味を楽しみつつ、指先で天球儀に触れる。
「バンビ、うまくいってるかな」
もう一口ハーブティーを飲んで顔を上げる。
この間貸した本に必要な知識やマナーは全てのっている。だが、バンビ側の準備は万端になっていても、肝心なのは当の不二山本人の方だ。
「変に意固地になったりしなければいいんだけど」
椅子から立ち上がって本棚の前に立つ。本の背を辿りながら、一冊抜けた跡で指を止める。
「あれ?」
ここにあったのはこの間美奈子に貸したはずの本、なのだが。一冊空いた隣にあった本を引っ張り出す。
『初体験マニュアル、女の子のマナー100選!』
この間バンビに貸したはずの本が何故かまだ本棚にある。
「え」
息を飲んだ。
胃の底がすっと冷えていく、感覚。
貸したはずの本が残ったままで、空いているのはその隣に並んでいた……
「あああああああっ!?」
絹を裂くような悲鳴が響いた。
重い沈黙
混乱していた。
重苦しい無言の時間が続いている。
状況と発言とその意味と、全てがまるきり噛み合わない中。必死に今の状況を理解しようと普段使い慣れない頭を働かせる。
「なぁ、美奈子」
問いかけに答えず、目に涙を溜めてうつむいたまま黙り込んでしまった。
「あのさ。意味、よくわかんなかったんだけど……縛る、って」
「ごめんなさい!」
涙をこぼしながら逃げるように飛びのこうとした腕を捕まえて。
「待てって」
「ごめんなさい、やっぱり……やっぱり何か違う!」
「だから、落ち着けって!」
真っ赤な顔で半泣きで暴れる体を抱きかかえるように捕まえる。
「ごめんなさいっ」
「だから、それがわかんねーんだって、一体なにが」
なにが、に重なってベッドの端から何かが落ちる音。
「あ……」
ぴたっと暴れる体が止まって美奈子の視線が床に落ちた本に向かう。
『プロが認めたSMマニュアル!緊縛の様式美』
つられて見た表紙の文字、二度目の息苦しい沈黙に包まれた。
美奈子の本音
「ごめんなさい」
さっきから美奈子がしゃべる言葉はそればかりで。
「で、この本を貸したのは宇賀神なんだな?」
「うん、でも、私が……ミヨに相談して……それで、必要な知識がのってるって」
「何を相談したんだ?」
涙をこすって、黙り込む。
「その相談て、俺のことか?」
「……うん」
「何を相談したんだ?」
肩を引寄せたまま、なだめるように。
「その、えっと……先に進まないのを、どうしたらいいのか、って」
「先?」
「だから」
真っ赤になってうつむく。
「その、キスだけじゃなくて、その先とか……でも、嵐くんは真面目に考えてて……でも」
ぼそぼそと呟く言葉がようやく繋がってくる。
「それで、ミヨが必要な知識が乗ってるって、本、貸してくれて。でも……考えてたのと全然違ってて」
必要な知識に関する疑問はあるものの、大まかな話が大体見えてきた。
「悪かった」
「え?」
顔を上げた美奈子の顔を胸に引寄せて。
「俺が自分のことしか考えてなかったってことに、気づいた」
自分がこうあるべきだと思い込んで、律していたけれど。その影で一人で悩んでいたことに気づかなかった。
「お前がそんな風に不安に思ってること全然気づいてなかった」
「え?」
指先で目尻に浮かんだ涙を拭う。
「悪かった」
そのまま顎を上げて唇が触れる直前、携帯電話の着信メロディが流れた。
不幸な間違い
部屋に鳴り響く着信音。
「ごめんなさい!」
慌てて美奈子の体が離れてベッドに置かれた携帯を押さえる。
「ミヨ?」
画面を開いて手を止める。伺うように不二山の顔と携帯を見比べる。
「後で俺も話す」
「うん……」
通話ボタンを押す、と。
『バンビ!バンビ!ごめんなさい!』
電話の向こうでいつに無く取り乱したミヨの声が響く。
『バンビに貸した本、間違ってた!ごめんなさい!バンビ今どこ!』
「えっと……」
「俺が替わる」
言うのと同時に美奈子の手から携帯をとる。
「宇賀神か」
『不二山っ……バンビは!?』
「今あいつの部屋だ、お前にちょっと聞きたいことがある」
冷静にと考えながらも、その声に若干ドスが利いていた。
忘れろ
最後に言葉にしてしまえば。
不幸な間違い、この一言で終わってしまう。
引っかかっていた全ての疑問が解けて、電話を切った。
「嵐くん……」
「悪かった」
「え?」
不幸な間違い、そのそもそもの原因は自分だったこと。
「もう本とか借りなくていい」
「嵐くん?」
「つーか忘れろ、あの本のことは」
「え?わっ」
腕をつかんで抱き上げてベッドに下ろす。
「俺が忘れさせる」
END
帰り道
もう何度となく二人で歩いた家へと続く帰り道。
卒業後、春も大分過ぎて目に優しい若緑の森林公園の木々の色が段々と深みを増した色に変わりつつある。
もう夕暮れも当に過ぎた時間だが、道もまだ明るく人通りもまだ途切れない。
日が落ちるのが遅くなった分、帰りの時間を長く過ごせるが、逆に今まで夜の戸張が隠してくれていた二人きりの時間が少し短くなってしまうのが悩みどころでもある。
指を絡めて繋いだ手を握り返す。一回り大きくて、少し骨ばってて、繰り返しの稽古で皮膚の固くなった不二山の手。絡めた指先にテーピングのごわごわとした感触と手の平にしっとりと汗ばんだ体温を感じる。
「手、熱くねえ?
「ううん、平気」」
「そっか」
しっかりと手を握り締めたまま、美奈子の歩調に合わせてゆっくりと歩く。高校の頃から変わらないさり気無い心配りが心地いい。
一流体育大学へ進学した不二山と一流大学へ進学した美奈子。
今まで当たり前のように毎日顔を合わせていた二人だが、進む道が別れてから一緒に過ごせる時間が減り、二人で会うのも月に数回程度。柔道部の練習に忙しい不二山に合わせて何とか空けた時間で短いデートをするのがせいぜいだった。
「なぁ、お前そのカッコこの時間だと寒いんじゃねーか?」
「ん?平気だよ?」
足にふわふわとまとわりつくシフォンミニスカートを軽くつまむ、一緒に買った白のキャミソールと合わせたお気に入りの品。最初はあまり興味のなさそうだった不二山も何度かデートで着ていくうちにすっかり気に入ってくれた品。
「そうか?女は体冷やすのよくねーっていうし、夏前っていっても夜んなるとちょっと冷えるだろ?」
「ふふっ、ありがと」
「ほら、もっとこっちこい」
「うん」
握った手が離れて、一瞬後れて肩に手をかけて引寄せられる。
「もうすぐ、着くな」
「うん」
「腹冷やすなよ?」
「もう、わかってるってば」
まるで子供に言い聞かせる親のような言葉に思わず笑って、擦り寄る。
「次、会えるの再来週……かな?」
「うん、来週は合同練習で泊り」
「がんばってね」
「ああ」
寂しい、と言いたいのを飲み込んで足を止める。
もうそこは家の前。
「じゃあ、後でメールする」
「うん、じゃあね嵐くん」
門の前で手を振って、遠ざかっていく背中を目に焼き付けるように見送る。
角を曲がって不二山の姿が見えなくなってから小さく溜息をついた。
家に入って真っ直ぐ自分の部屋に向かい、ドアを閉めて倒れこむようにベッドに転がる。
「はぁ」
両手を組んで枕に乗せて顔をうずめる。
この所、いつもこうだ。電話をした後、メールをした後、二人で会った後も、いつも一人になった時に溜息が出る。
「嵐くん」
顔を上げて指先を唇に触れる、気合を入れてつけていった色つきリップは半分落ちかけている。
高校の卒業式、お互いの気持ちを伝え合ってからもう数ヶ月。
二人で出かけているときは手を繋いだり腕を組んだり、当たり前のようにお互い触れているのに、そこからいっこうに先に進まない。軽く触れるキスを交わすのがせいぜいで、それすらもう一ヶ月以上触れてない。
「うー」
枕を抱きかかえて丸くなる。
「嵐くん」
ふと、響く携帯のメール着信。
「あ!」
慌てて枕を放りだしてベッドサイドに置いた携帯を手に取り、発信元を見てメールを開いた。
『今日楽しかった、帰したくないっていつも思う』
じっと文字を読み返して。
「うん、私も」
液晶に軽く唇を触れて、ごろりと仰向けにベッドに横になる。
「私も……もっと触れたいよ。嵐くん」
首筋に手を触れる、誕生日プレゼントで貰ったアイオライトの感触を確かめて、小さく息を吐いた。
責任感
「バンビ、眉間」
「え?」
ストローをかき回す手を止めて、目の前に座るミヨの顔を見る。
「そんな顔してると眉間にしわがよるよ」
「えっ、そ、そんな顔してた?」
慌てて額に手をやって指先で眉間の皮膚を引っ張る美奈子の様子をじっと見つめて目を細める。
「揺らいでいる。バンビの中にある小さな星、不安と寂しさ」
「え」
ぎくりと体を強張らせて手を止める。
「二人の想いは通じている。けれど、お互いの気持ちは繋ぎとめることは出来てもそれだけではダメ、今のバンビは不安で心が震えてる、それを安定することができるのは彼だけ」
きっぱりと言い切ると、手にしたフォークでチョコレートケーキをひとかけ削って口に運ぶ。
「ねぇ、ミヨ」
「うん」
「私、ダメなのかな」
「なにが?」
ミヨの問いに一瞬ためらいつつ、意を決して口を開く。
「嵐くん、ね。その、何もしてきてくれない。というか、えっと、何にもってわけじゃなくて、その、キスはしてくれるんだけど……その、先というか」
「性欲のない成人男子は居ない。彼にも普通に性欲はあるしバンビにちゃんと欲情してる、安心して」
「よっ」
はっきりと断言する声に頷くことも否定することも出来ずにうつむく。
「そうかな、なんだか、その……何もしてこないっていうの、私、何かだめなのかな?とか何かもっとアピールとか足りないのかな、なんて」
「そんなことはない、むしろ常に彼は臨戦状態」
「そ、そうかな」
何がと問うてはいけないような気がしてこくこくと頷く。
「ただ」
一口オレンジジュースを口に含んで人差し指で眉間を軽く叩く。
「彼はすごく真面目、そして想いも強い、なによりも責任感が強い」
「うん、それは知ってる」
「だから、男女の深い触れ合いや性行為は自立して結婚してからだと信じている」
「せっ」
続きの言葉を慌てて飲み込んで。
「その考え自体は間違ってはいない。責任を持とうと思うことも正しいし、バンビを大切にしたい気持ちの裏返しでもある」
「うん、えっと……それは、そう、だよね」
今どきそんな古風な考えを、と思いつつ。ちょっとどころではない天然な不二山なら充分ありえる。
「じゃあ、しょうがない、のかな」
「それは違う」
「えっ?」
「スキンシップは言葉の代わり、気持ちを伝え合う手段。触れ合うことも性行為も例外ではない」
「う、うん」
あまりにもはっきりと言葉にするミヨに思わず周囲に聞かれていないかこっそり見回しつつ。
「恋人同士が触れ合いたいと願いのは自然の摂理」
「うん……」
「バンビは今不安で揺らいでいる、信じたい心を支えて欲しいと願っている。それを叶えられるのは不二山だけ」
「でも、嵐くんは」
「不二山が自分の信念を貫いて、結果それでバンビを不安で悲しませるならそんな信念いらない」
「ミヨ……」
「これを貸してあげる」
隣に置いたバッグからテーブルの上に乗せられた紙袋、手にとって中を覗くと一冊の本が入っている。
「バンビの悩みは星の声で調査済み、この本にバンビに必要な知識が全てのっている。再来週にかけて恋愛運が上昇するからねらい目はそこ、ラッキーカラーはブルー、下着はちゃんと上下揃えて」
「ホント?」
「大丈夫、星の加護を信じて」
「うん、わかった!ありがとうミヨ!」
両手で紙袋を抱きしめて大きく頷いた。
本の教え
しっかり部屋のドアに鍵をかけ、カーテンを閉める。
父親は仕事、母親は習い事にいっていて不在なのは知っているが、それでもほんの少し後ろ暗い気持ちは隠せなくて。
「よし」
バッグから先ほどミヨが貸してくれた紙袋を取り出して机に向かう。心持ち緊張で僅かに手が震えるのを抑えつつ中の本を取り出した。
「ミヨ、ありがとう。私頑張る」
神妙な面持ちでぱらりと表紙をめくり、読み始める。
はじめに。
この著書は、男と女の愛情を再確認するための心構えを得ることとパートナーとの対等な信頼関係を築くことを第一の目標とし、この本を手に取ったすべてのパートナーの手本となるべく、様々な資料や実践経験を元に専門用語やわかりづらい文を極力廃し、イラストによる図解を使って初心者でも無理なく新たな世界に足を踏み入れることを目標とした一冊である。
「わぁ、なんかすごく真面目そう」
ごくりと唾を飲んで、ページをめくる。
第一章、緊縛の歴史について。
「……え」
目の前に飛び込んできた見出しに目が点になった。
小一時間後。
一息つく余裕もなくじっくりと読みつくした本を閉じる。
心持ち顔が熱くて、動悸が少し激しくなっているのを他人事のように感じる。
「どうしよう」
初夏の少し蒸し暑くなってきた部屋の中、額にうっすら汗が滲んでいた。
閉じた本を押さえた姿勢のまま動けない、頬が熱い、どきどきと激しい動悸が治まらない。
本はイラスト図解と簡潔な説明でわかりやすく記述されており、前提知識の全くなかった美奈子にも緊縛の歴史から主従のあり方、パートナーシップにおける信頼関係の築き方、様々な縛り方等々が理解できた。
実践できるかどうかはさておき。
「どうしよう、ミヨ。私ちゃんと出来る自信ない」
眩暈を覚えそうになりつつも、なんとか気持ちを奮い立たせて引き出しからメモ帳とシャーペンを引っ張り出してもう一度本を開く。
「と、とにかくまずは準備するものは」
麻縄(ジュート縄が一般的)
「縄……えーと、ホームセンターで売ってるかなぁ、引越し用のビニールロープならあったと思うんだけど、使えるかな」
目隠し用の布
「どんなのだろう?目隠しなんだよね、アイマスクでいいのかな」
ロウソク
「たしか、台所の引き出しにクリスマスケーキで使わなかったのが」
鞭
「皮……えーっと、ベルトでなんとかなる、のかな?」
一つ一つメモを取りながら、頭をひねる。
自分が何となく考えていた路線と180度違う流れに違和感を覚えながらも必要道具と手順をメモにまとめる。
「とりあえず、頑張ろう。やれるだけやって……限界は自分で作ったら終わりだよね、嵐くん」
宙を見上げて、小さくガッツポーズを決める。
「うーん」
頭をひねって、見開きで置いた本の挿絵を眺める。そこには結び目の作り方や縄の通し方が大きな絵でわかりやすく記述してあった。
「こう、かな?」
物置から引っ張り出してきたビニールロープの玉と引き出しから持ってきたアイマスク、クリスマスケーキ用のキャンドル。
「ここを、こう結んで」
手にしたクマのぬいぐるみに図解の見本どおりにビニール紐を巻きつけて結び目を作る。
「できた!」
そこにはきっちり亀甲縛り状態になったクマのぬいぐるみ、可愛らしい部屋にまるでそぐわないにも程がある。
「なんだろう……なんだかすごく何かが違う気がする」
今まで読んできた小説や少女漫画にも男女のシーンがあるものもあったが、こんなシーンは今まで見たことも聞いたこともない。
「でも必要な知識、なんだよね。ミヨが言ってたんだし」
浮かんでくる疑問はあれど、今は親友の言葉を信じて、一つ頷く。
「よし、次はこっちの結び方も練習しよう」
本のページをめくって次の縛り方の説明と図解を確認しながら、縛られたクマの紐を解き始めた。
彼氏の胸の内
道路を照り返す日差し、美奈子の家へと向かう道。
『嵐くん、今日はウチに遊びに来ない?』
高校を卒業して会う機会が減ってから、少しでも時間を有意義に使おうとあちこちのスポットを二人で回っていたが、今日は珍しく部屋へ誘いに少し戸惑っていた。
部屋で会うこと自体はいい、外出ばかりも流石に飽きてきたし、のんびりと二人で過ごすというのも悪くない。ただ、不二山にとって正直複雑でもあった。
自分の中で引いた一線、節度と責任。
美奈子と付き合っていない頃は自分の中でしっかりと引かれていたが、正式に付き合うことになってから、その一線が時々揺らぎそうになっているのを自分でも時折感じている。男のケジメとして、節度を守った付き合いをしていきたい。そう頭では理解しているし、美奈子のことを本気で考えているなら約束も無く無責任なことはしたくない。
ただ、頭で理解していても。二人で居る時にふと感じる視線や触れてくる肌の感触に思わず体が反応してしまいそうになるのも事実ではある。
玄関の前、一息ついて指を伸ばしてインターホンを押す。一瞬遅れてざらついた音に混じって美奈子の声が響く。
『はい、小波です』
「不二山です」
『あ、嵐くん!すぐ開けるね』
「うん」
程なくドアが開いた。
「いらっしゃい、どうぞ、あがって」
「お邪魔します」
靴を脱いでいそいそとスリッパを出す美奈子の後について、心なしか緊張を覚えながら口を開く。
「なぁ、親御さんは?」
「あ、えっと、お父さんはゴルフでお母さんはお友達とお出かけ」
「え?」
「先にお部屋行ってて、お茶いれて持っていくから」
誰も居ない。
いや、それはちょっとよくない。主に、自分に。
「ほら、先にお部屋行ってて」
「わかった」
半分押されるように階段を登っていく。
「いいのか?」
いや、いいけどよくない。いや、やっぱりいいのか?
疑問を繰り返す心の中の声に答えられないまま、足は美奈子の部屋へと向かっていた。
正念場
「深呼吸……落ち着いて」
両手に紅茶とおやつの載ったトレイをもって、ゆっくりゆっくりと階段を登る。ミヨが貸してくれた本にも書いてあった、リラックスが大事と。
「よし」
足を止めてドアを開ける。
「お待たせ」
「ああ、どうもな」
ちょこんと所在無さげにベッドの上に座った不二山の姿。
「どうぞ、何もないけど」
「ああ」
本はちゃんと読んだ。
道具も準備した。
縛る練習もしっかりした。
相手を部屋に呼ぶことも成功した。
が。
ここからどうやって縛る方向に持っていけばいいのか。
「……えっと」
「なんだ……?」
この次どうすればいいのか、どうやって切り出せばいいのか。
本来なら一番知りたい知識があの本にはまるっきり抜けている。
(どうしよう)
ベッドの上に座った不二山の隣に座って、落ち着かない。
(どうやって切り出せばいいのかな?なんて言った方がいいのかな?)
例えば物語で言うところの、例えばロミオをジュリエットに置き換えて考えてみる。
『ロミオ、ああロミオ』
『ジュリエット、私のジュリエット』
『ロミオ、私を愛している?』
『もちろんだよ、ジュリエット』
『嬉しい、私もよ。ねぇロミオお願いがあるの?』
『なんだいジュリエット』
『縛ってもいいかしら?』
『わかったよ、さぁ!君の好きにしておくれ!』
縛られるロミオと鞭を振るうジュリエット。
(どうしよう、おかしい!やっぱり何かおかしいよ?!)
土壇場になった今更ながら、本の前提のおかしさが更に浮き彫りになってくる。
「美奈子?どうした、さっきから様子おかしいぞ」
「あ、ううん。な、なんでもないの!」
ここからどうすればいいのか。
しっかりと読みつくした本の内容を頭の中で反芻するものの。次に取るべき行動の内容がまるきり浮かんでこない。
(私、ダメなのかも)
だが、ここでこのまま諦めてしまったら。また不安ともどかしさを抱えたままの生活に逆戻りになってしまう。
「嵐くん!」
「ん?どうした」
「あのね、嵐くん」
隣に座って、じっと顔を見あげる。
「なぁ、どうかしたのか?さっきから、その……ちょっと待て」
「え?」
「こういう状態、あんまよくねぇ」
視線をそらして隣に座った美奈子から離れようと体を動かす。
「嵐くん……私、ダメなの?」
「違うって、お前がダメなんじゃなくて。俺責任とかそういうのまだ取れねーし、こういう状況、よくない」
逃げるように離れる不二山の服の裾をつかんだ。
「嵐くん」
「美奈子……」
「嵐くん……縛っていい?」
一方その頃
明かりを少し落とした部屋で天球儀を眺めながら、宇賀神みよはテーブルの端に置かれたカップを手に取った。カレンからもらったハーブティーの香りを楽しんでから口に含む。
ほんのりとした甘さと口の中に残る酸味を楽しみつつ、指先で天球儀に触れる。
「バンビ、うまくいってるかな」
もう一口ハーブティーを飲んで顔を上げる。
この間貸した本に必要な知識やマナーは全てのっている。だが、バンビ側の準備は万端になっていても、肝心なのは当の不二山本人の方だ。
「変に意固地になったりしなければいいんだけど」
椅子から立ち上がって本棚の前に立つ。本の背を辿りながら、一冊抜けた跡で指を止める。
「あれ?」
ここにあったのはこの間美奈子に貸したはずの本、なのだが。一冊空いた隣にあった本を引っ張り出す。
『初体験マニュアル、女の子のマナー100選!』
この間バンビに貸したはずの本が何故かまだ本棚にある。
「え」
息を飲んだ。
胃の底がすっと冷えていく、感覚。
貸したはずの本が残ったままで、空いているのはその隣に並んでいた……
「あああああああっ!?」
絹を裂くような悲鳴が響いた。
重い沈黙
混乱していた。
重苦しい無言の時間が続いている。
状況と発言とその意味と、全てがまるきり噛み合わない中。必死に今の状況を理解しようと普段使い慣れない頭を働かせる。
「なぁ、美奈子」
問いかけに答えず、目に涙を溜めてうつむいたまま黙り込んでしまった。
「あのさ。意味、よくわかんなかったんだけど……縛る、って」
「ごめんなさい!」
涙をこぼしながら逃げるように飛びのこうとした腕を捕まえて。
「待てって」
「ごめんなさい、やっぱり……やっぱり何か違う!」
「だから、落ち着けって!」
真っ赤な顔で半泣きで暴れる体を抱きかかえるように捕まえる。
「ごめんなさいっ」
「だから、それがわかんねーんだって、一体なにが」
なにが、に重なってベッドの端から何かが落ちる音。
「あ……」
ぴたっと暴れる体が止まって美奈子の視線が床に落ちた本に向かう。
『プロが認めたSMマニュアル!緊縛の様式美』
つられて見た表紙の文字、二度目の息苦しい沈黙に包まれた。
美奈子の本音
「ごめんなさい」
さっきから美奈子がしゃべる言葉はそればかりで。
「で、この本を貸したのは宇賀神なんだな?」
「うん、でも、私が……ミヨに相談して……それで、必要な知識がのってるって」
「何を相談したんだ?」
涙をこすって、黙り込む。
「その相談て、俺のことか?」
「……うん」
「何を相談したんだ?」
肩を引寄せたまま、なだめるように。
「その、えっと……先に進まないのを、どうしたらいいのか、って」
「先?」
「だから」
真っ赤になってうつむく。
「その、キスだけじゃなくて、その先とか……でも、嵐くんは真面目に考えてて……でも」
ぼそぼそと呟く言葉がようやく繋がってくる。
「それで、ミヨが必要な知識が乗ってるって、本、貸してくれて。でも……考えてたのと全然違ってて」
必要な知識に関する疑問はあるものの、大まかな話が大体見えてきた。
「悪かった」
「え?」
顔を上げた美奈子の顔を胸に引寄せて。
「俺が自分のことしか考えてなかったってことに、気づいた」
自分がこうあるべきだと思い込んで、律していたけれど。その影で一人で悩んでいたことに気づかなかった。
「お前がそんな風に不安に思ってること全然気づいてなかった」
「え?」
指先で目尻に浮かんだ涙を拭う。
「悪かった」
そのまま顎を上げて唇が触れる直前、携帯電話の着信メロディが流れた。
不幸な間違い
部屋に鳴り響く着信音。
「ごめんなさい!」
慌てて美奈子の体が離れてベッドに置かれた携帯を押さえる。
「ミヨ?」
画面を開いて手を止める。伺うように不二山の顔と携帯を見比べる。
「後で俺も話す」
「うん……」
通話ボタンを押す、と。
『バンビ!バンビ!ごめんなさい!』
電話の向こうでいつに無く取り乱したミヨの声が響く。
『バンビに貸した本、間違ってた!ごめんなさい!バンビ今どこ!』
「えっと……」
「俺が替わる」
言うのと同時に美奈子の手から携帯をとる。
「宇賀神か」
『不二山っ……バンビは!?』
「今あいつの部屋だ、お前にちょっと聞きたいことがある」
冷静にと考えながらも、その声に若干ドスが利いていた。
忘れろ
最後に言葉にしてしまえば。
不幸な間違い、この一言で終わってしまう。
引っかかっていた全ての疑問が解けて、電話を切った。
「嵐くん……」
「悪かった」
「え?」
不幸な間違い、そのそもそもの原因は自分だったこと。
「もう本とか借りなくていい」
「嵐くん?」
「つーか忘れろ、あの本のことは」
「え?わっ」
腕をつかんで抱き上げてベッドに下ろす。
「俺が忘れさせる」
END