GS3嵐×バンビ
いい夫婦の日
シャーペンの芯がこすれる音が静かな部屋に響く。
机の上に広げたノートのほぼ半分以上は埋まり、要注意箇所を再度読み直しながら頭の中で復唱する。ここまでのペースは悪くない。
「ふぅ」
自分の部屋の勉強机と違って折りたたみ机に向かって座布団の上に直座りは、時折足を動かさないと痺れそうになる。
軽く伸びをして横座りの足を軽く叩き、スカートがまくれないように裾を片手で軽く引っ張りながら足をずらして座りなおす。もっとも見えて困る相手は現在机に突っ伏して静かに寝息を立てているわけだが。
「嵐くん」
返事はない。
「あーらーし、くん」
顔を寄せて耳元に呼びかける。
「ん……」
僅かに身じろぎし、閉じたまぶたが微かに動いたものの、起きる気配はない。
「もう」
常に赤点ギリギリラインをキープしているといってもやはりそれなりに危機感はあるということで、今後の試験に備えて一緒に勉強をしようという話だったのだが、その当の不二山本人が勉強を始めて10分と立たないうちに寝落ちしている。
「ほら嵐くん、起きて。次はここまでやるよー」
壁掛け時計の時間を確認しながら、寝落ちする不二山を起こしては先に準備しておいた問題を受けさせていくこと数回。
「はい、朝ですよー嵐くーん。起きてー」
もうすっかり慣れた調子で突っ伏した耳元に呼びかけながら肩を揺する。
「ん……も、ちょっと」
「だーめ、起きて、ほら。あと少しだから、ね?」
まるで小さな子の相手をしているような錯覚を覚えながら、耳元でゆっくりと声を出す。
「ほら、お・き・て、嵐くん。朝だよー」
「んー」
もそりと顔を上げて目を擦る、机に突っ伏した頬にはくっきりと赤い跡が残っている。肩を鳴らして目を瞬かせながら大きく欠伸をする。
「おはよ、美奈子」
「もう!おはよ、じゃないの。ほらっ!あと少しなんだから寝ちゃダメ」
「……ん、わかった」
「とりあえず、ここまで終わらせちゃおう?今度の試験範囲なんだから」
「うん」
もう一つ欠伸をして、ようやく覚めた目でシャーペンを手にとってノートに向かう。
「ここの赤線引いてあるところ、要注意だよ。あとここのポイントはしっかり押えておいて」
「ああ、わかった。ありがとな」
頷いてノートに向かう顔は真面目だ、最初だけは。これから段々と半ボケ顔になっていくのだけれど。
一問、また一問。無骨な手からは想像もできないくら綺麗な文字がノートに書かれていく。その姿を眺めながら、また頭の中で復習しつつ間違いがないよう目を配る。
ふと、ノートに書かれた文字がくにゃりと歪んだ。
「あーらーしくん」
「ん……」
「寝ちゃダメ、あと少し」
「……うん」
一瞬落ちかけたのをなんとか持ち直して机に向き直る。さっきからこんな調子だが、それでも随分と勉強の方は進んでいる感じだ。
ノートと教科書を畳んで、大きく一息。
「よし、終わり。お疲れ様っ」
結構時間が経っていたのか、いつの間にか窓の外は夕暮れも大分過ぎて暗くなり始めている。
「うん、ありがとな。お前のおかげでちょっと余裕できそうだ」
「よかった、ってもう時間遅くなっちゃったね。そろそろ帰らないと、お夕飯の時間になっちゃう」
「ああ、送ってく。ついでに夕飯かって帰らないといけねーし」
「え?どういうこと」
ノートをしまおうとする手を止めて顔を上げる。
「ああ、今日うちのお袋、婦人会の食事会で帰り遅いから。夕飯は買って済ませてくれって言われてて」
「ええっ、そうなんだ?それなら先に言ってくれればよかったのに。うちも今日は両親遅いから自分で作る予定だったんだよ、それなら何か作ってきたのに」
「そっか、なんだ……学校で話しとけばよかった」
この時間で一旦家に帰って作って戻ってくるのは流石に時間が掛かりすぎる。
ふと黙り込んだ不二山がいいことを思いついたとばかりに顔を輝かせた。
「あ、じゃあさ」
「え?」
「なあ、お前なんかうちでメシ作ってくれよ」
「ええっ!」
突然の発言に思わず大声を上げてしまう。
「お前も自分の飯作るんだろ?だったらうちで作って一緒に食おう」
「ちょ、え、でも」
「な、いいだろ?お前の弁当うまいし、お前の作った飯食いたい……ダメか?」
語尾がかすかに小さくなって、じっと目を見つめてくる。そうやって頼まれるとどうにも断れない。
「だ……ダメじゃないけど、作るのはいいんだけど。その、嵐くんちで作るのは、ちょ、ちょっとだめだよ!」
「え?なんでだよ」
「だ、だって、ほら他所の台所だし。台所ってはお母さんの領域なんだよ?その、聖域みたいなもんだし!勝手に上がりこんで使ったりしたら失礼だよ!」
「……聖域」
言った後でなんだか自分自身妙なことを言ってしまった感に真っ赤になる。当の不二山のほうは妙に納得したように頷いて。
「そうかぁ……うん、そういうもんなんか、わかった。よし!ちょっと待ってろ」
「え?」
ぽん、と。膝を叩いて立ち上がって部屋の外に出て行く。
「嵐くん?」
ひょっとして怒らせてしまったのか?言い方がわるかったのか?などとあれこれ考えていると、程なく戻ってくる。
「よ、待たせたな」
「嵐くん、どうしたの?急に」
「台所とか冷蔵庫の中のもん、好きに使っていいって」
「えっ」
「電話で聞いた」
「……え?」
「ウチのお袋に」
「ええっ?!」
突然の発言に思わず耳を疑う。
「お前、台所は母親の聖域だから勝手に使ったらダメだって言ってただろ。だからさっき電話で確認した」
「ちょっ……」
「な、確認とったしいいだろ?買出しいこ」
「……ちょ……っと」
一気に顔が赤くなる。
「そ、そんなこと言わないでよ、恥ずかしい!」
「なんで?勝手に使ったらダメだって言うから」
「そうだけどっ!恥ずかしいよ!」
しかも家に女の子が居て料理を作ってもらいたいから使っていいかなどと素で聞くとか色々待って欲しい。
「もう……」
大きく溜息をついて、腹をくくる。
「わかったから、その前にちょっと冷蔵庫の残り見て買うものと献立考えるから」
「やった、よし台所こっちな」
嬉しそうに手招きする不二山の姿にそれ以上何も言えなくなってしまう。
初めて足を踏み入れた不二山家の台所。きっちりと並んだ調理器具や磨きぬかれたシンクに使い込まれた様子が伺える。
「えー、失礼しまーす」
無論答えがあるわけはないのだが、一応断りの言葉をつぶやいて冷蔵庫を開ける。
「わぁ……」
整然と並んだタッパー、きっちりと無駄なく並べられた食材。
「さすが、嵐くんのお母さん。スキル高い……」
とりあえず食事に一品添えられそうなオカズの作り置きを確認しつつ。
「ひじきの煮物と、えーと、ちくわ……あ、タマネギ半分残ってる。これ使っちゃったほうがいいのかな?」
とりあえずあるものを使いつつ、献立をあれこれ考えて。
「えーと、すみませんまたまた失礼します」
今度は流し台の引き出しを開けて中身を確認。
「切り干し大根にかんぴょう、鰹節パックに、綺麗に揃ってるなぁ。というか、嵐さんのお母さんてひょっとしてダシの素を使わない人?」
いきなり要求レベルが高い。
「えーと、あとは使いさしの煮干パック……ふむ、お味噌汁はいりこ派?」
引き出しの中身を確認しながらあれこれを推測を立てていく。なんだか探偵あるいはコソ泥のような気分になりつつも、大まかなメニューが頭の中で決まってきた。
「むぅ」
顎に手をあてて情報を整理する。
「なるべく残り物消費しちゃったほうが、いいよね、たぶん」
お味噌汁は恐らく煮干を使ったいりこ出汁、具は冷蔵庫の残ったタマネギ半分とちくわで、一品であとひじきの煮物の残りをいただくとして、あとはご飯ともう一品と魚か肉の主菜があれば充分か。
「うん、とりあえず何となく浮かんできた」
ぽん、と。手を叩いて引き出し中に発見した米びつからカップで掬う。
「残りご飯はなかったし、二合……うーん三合炊いとこうか」
お米を研ぎながら時計を確認。
「よし」
「なぁ、買い物いかねーの?」
しびれを切らしたように顔を出す不二山のほうを振り返って、棚の端にかけられたエコバッグを手にとる。
「よし、じゃあ行こうか」
「うん」
夕飯時の少し前、少し歩いた先にあるスーパーは美奈子らと同じく夕飯の材料を求める買い物客で賑わっている。買い物カゴを持った不二山を従えて売り場に並ぶ食材を睨んで腕組みする。
「ねえ嵐くん、何食べたい?」
「んー、魚でも肉でもなんでも」
「何でもって言われると困るかも……」
「お前が作るもんならなんでもいい」
相変わらずの直球発言に真っ赤になりながら不二山の袖を引く。
「もうっ、と、とりあえず色々見てから考えよう」
「わかった、ほら、行くぞ」
「あ、待って。もうっ」
買い物カゴ片手に先に行く不二山の後を追いかける、なんだか買い物に出るあたりから妙にはしゃいでいるように見えるのは気のせいではないかもしれない。
「エリンギ、98円の30%引き……うーん……」
値札と手に取った品とでにらめっこしながら一考。本当はその隣にあるシイタケ一袋を買いたいところだが、ここはぐっと我慢する。
「ねえ、嵐くん……あれ?」
振り向くと不二山の姿がない。
「嵐くん、どこいったの?」
きょろきょろ見回すと、少し先のコーナーで手を振って何かを指差している。
「なぁ、あっちでマグロの解体販売やってる!見に行こう」
「えっ?もうっ!マグロなんて買わないよ?!」
「わかってるって、見るだけだって、ほらこっち!」
「もう……見るだけだからね」
そう言いながらも子供みたいにはしゃぐ姿に思わず笑ってしまう。
「さて」
買い物も終わり、台所で腕まくり。
一通り並んだ材料を手に時計を再度確認しながらご飯が炊き上がるまでの時間を考えつつ小鍋に水を入れて塩をひと匙いれて火にかける。
「とりあえずブロッコリー茹でてて……次にお肉の下ごしらえかな、エリンギは後でいいか」
包丁を手にブロッコリーをバラしていると、背後から不二山が覗き込んでくる。
「なぁ、俺なんか手伝うことあるか?」
「ん、大丈夫だよ。座って待ってて」
「……いいのか?」
「あとで食器の準備とか手伝ってくれればいいから」
そう言われて大人しく引っ込むものの、エリンギを刻んでる間や肉を炒めている間に何度も顔を出してはソワソワしたように手伝いはないかと聞いてくる。
「な、ホントに手伝いとかしなくてもいいのか?」
「平気だってば、もうすぐ出来るから待っててね」
「わかった」
こういうシチュエーション、どこかで見たような見ないような気がするなぁなどと思いつつ、使い込まれたフライパンからおかずを取り分ける。
自宅の食卓とはちょっと違う、畳間に低いテーブルに座布団敷き。
木目調のテーブルの上には小皿に盛ったおかずにご飯とお味噌汁に主菜が並ぶ。
「お、すげーうまそう」
「そんな手の込んだものじゃないけど」
「いただきます!」
大盛りの茶碗を片手に忙しなく箸が動くのを思わず固唾を飲んで見守る。
「味、濃くないかな?」
「うまい」
「お味噌汁、どうかな……お家のと比べて」
「ん?うまいぞ、全部」
「そう、よかった……」
ほっと一息ついて箸を取る。
「なぁ、お前なんでそんな気にしてんだ?」
「だって、人のお家でご飯作るってあんまり経験ないから、うまく出来たのかなって気になるし」
ナムル風ブロッコリーを一つ口に入れてお味噌汁をすする、味はまあまあ?と自己評価。
「そっか」
「ん?」
「他所の家だとやっぱ勝手とか違うんだよな」
「そりゃあ違うよ」
ふと手を止めて不二山が神妙な顔になる。
「それってさ、自分のとこじゃなくて他の道場で稽古するようなもんか」
「ちょ……っと違うようなあってるような。うん、でも確かにそんな感じ」
らしいといえばらしい例えに思わず笑ってしまう。
「なるほどな」
納得したように頷いて。
「でもさ、お前の飯すげーうまいし、また食いたい」
「そ、そう、かな……そんな誉められると恥ずかしいよ」
「つーか、毎日食いてーな」
「え?」
「毎日食いたい、お前の作った飯」
大事なことを二度言った。
「えっ……と、毎日は、ほら、無理だよ、うん」
「そだな、まだ先か」
「……う、うん」
その言葉の意味を何処まで解釈したらいいのか混乱しながら、真っ赤になった顔をごまかすように慌てて箸を動かした。
いい夫婦の日、おまけ
ひときわ大きく響いた腹の音に、美奈子は思わず顔を上げた。
「あー」
目の前でシャーペンを片手に大きく溜息をつきながら不二山が天井を仰いだ。
「腹減ったー」
続く言葉は予想通り。
「もう、夕ご飯にはまだ早いよ?」
大きく両腕を上に伸ばして肩を鳴らす不二山を見て苦笑する。壁の時計の針はまだ四時前を差している、美奈子の部屋で勉強を始めてからまだ一時間も経ってない。
「もう……お弁当二つにお昼のパンも食べたでしょ?」
「たりねーよ、全然」
しょんぼりとした顔でもう一度深々と溜息をつく。
「しょうがないなぁ、残りご飯くらいならあるけど。少し食べる?」
「食う!」
ついさっきまでの切なげな顔とはうって変わって顔を輝かせる。
真剣な顔、眠そうな顔、お腹が空いて切なげな顔、嬉しそうに笑う顔、面白いくらいにコロコロと表情を変えるのが少しおかしい。
「はいはい、じゃあちょっと待ってて。机片付けておいてね」
「わかった」
半分眠そうな顔で勉強していた時とは別人のように、さっさとノートを畳んでしまう姿にちょっと笑いながら部屋を後にした。
台所で冷蔵庫のタッパーに入った残りご飯の量を確認しつつ、レンジに入れてスイッチを押す。
「ご飯だけだとなぁ、あ、切り干し大根がある。あとはタマゴ……かな」
別のタッパーとタマゴを一つ取り出して。
「あ」
フタを開けて気づく。切り干し大根の煮物、薄切りの干しシイタケが入っている。
「……避けて盛れば、気づかない、かな?大丈夫かなぁ」
シイタケは変な匂いがすると言っていたが、実際嗅いでみてもよくわからない。
「味が嫌いとは言ってなかったし、匂いが気にならなければいいんだよね、うん」
しばし思考中。
ゆっくりと台所を見回して、視線がぴたりと止まった。
「ふふふ、これだ」
焼き海苔の筒を手ににやりと笑みを浮かべる。
お盆を持ったまま部屋の前で足を止めて
「嵐くーん、ドア開けてくれる?」
「うん」
ドアを開けて美奈子の手にしたお盆を見て嬉しそうな顔になる。
「お、うまそう」
とりあえず第一関門は突破、気づいてない。
テーブルの上に並ぶお茶碗と小皿、タマゴかけご飯と切り干し大根の煮付け。そして湯のみが二つ。
「ありあわせだけど、どうぞ」
「いただきまーす」
箸を手にとって。
「なぁ、これすげーいい匂いする、海苔?」
「うん、焼き海苔をねコンロで炙ってちぎってかけるの」
「へー」
少し焦げた香ばしい海苔の匂いが鼻をくすぐる。じっと見守る中、ためらう事無く茶碗を手にとってご飯と切り干し大根をかっこむのを確認。
「……よし」
心の中でガッツポーズ。
シイタケ対策、匂いが嫌いならば別の匂いで鼻を騙す。
「ん、どうした?」
「あ、ううん。なんでもない。おいしい?」
「うまい」
躊躇無く箸を動かす不二山の姿を眺めて、ホッとしてお茶を一口すする。
「まずは第一歩成功、かな。うん」
END
シャーペンの芯がこすれる音が静かな部屋に響く。
机の上に広げたノートのほぼ半分以上は埋まり、要注意箇所を再度読み直しながら頭の中で復唱する。ここまでのペースは悪くない。
「ふぅ」
自分の部屋の勉強机と違って折りたたみ机に向かって座布団の上に直座りは、時折足を動かさないと痺れそうになる。
軽く伸びをして横座りの足を軽く叩き、スカートがまくれないように裾を片手で軽く引っ張りながら足をずらして座りなおす。もっとも見えて困る相手は現在机に突っ伏して静かに寝息を立てているわけだが。
「嵐くん」
返事はない。
「あーらーし、くん」
顔を寄せて耳元に呼びかける。
「ん……」
僅かに身じろぎし、閉じたまぶたが微かに動いたものの、起きる気配はない。
「もう」
常に赤点ギリギリラインをキープしているといってもやはりそれなりに危機感はあるということで、今後の試験に備えて一緒に勉強をしようという話だったのだが、その当の不二山本人が勉強を始めて10分と立たないうちに寝落ちしている。
「ほら嵐くん、起きて。次はここまでやるよー」
壁掛け時計の時間を確認しながら、寝落ちする不二山を起こしては先に準備しておいた問題を受けさせていくこと数回。
「はい、朝ですよー嵐くーん。起きてー」
もうすっかり慣れた調子で突っ伏した耳元に呼びかけながら肩を揺する。
「ん……も、ちょっと」
「だーめ、起きて、ほら。あと少しだから、ね?」
まるで小さな子の相手をしているような錯覚を覚えながら、耳元でゆっくりと声を出す。
「ほら、お・き・て、嵐くん。朝だよー」
「んー」
もそりと顔を上げて目を擦る、机に突っ伏した頬にはくっきりと赤い跡が残っている。肩を鳴らして目を瞬かせながら大きく欠伸をする。
「おはよ、美奈子」
「もう!おはよ、じゃないの。ほらっ!あと少しなんだから寝ちゃダメ」
「……ん、わかった」
「とりあえず、ここまで終わらせちゃおう?今度の試験範囲なんだから」
「うん」
もう一つ欠伸をして、ようやく覚めた目でシャーペンを手にとってノートに向かう。
「ここの赤線引いてあるところ、要注意だよ。あとここのポイントはしっかり押えておいて」
「ああ、わかった。ありがとな」
頷いてノートに向かう顔は真面目だ、最初だけは。これから段々と半ボケ顔になっていくのだけれど。
一問、また一問。無骨な手からは想像もできないくら綺麗な文字がノートに書かれていく。その姿を眺めながら、また頭の中で復習しつつ間違いがないよう目を配る。
ふと、ノートに書かれた文字がくにゃりと歪んだ。
「あーらーしくん」
「ん……」
「寝ちゃダメ、あと少し」
「……うん」
一瞬落ちかけたのをなんとか持ち直して机に向き直る。さっきからこんな調子だが、それでも随分と勉強の方は進んでいる感じだ。
ノートと教科書を畳んで、大きく一息。
「よし、終わり。お疲れ様っ」
結構時間が経っていたのか、いつの間にか窓の外は夕暮れも大分過ぎて暗くなり始めている。
「うん、ありがとな。お前のおかげでちょっと余裕できそうだ」
「よかった、ってもう時間遅くなっちゃったね。そろそろ帰らないと、お夕飯の時間になっちゃう」
「ああ、送ってく。ついでに夕飯かって帰らないといけねーし」
「え?どういうこと」
ノートをしまおうとする手を止めて顔を上げる。
「ああ、今日うちのお袋、婦人会の食事会で帰り遅いから。夕飯は買って済ませてくれって言われてて」
「ええっ、そうなんだ?それなら先に言ってくれればよかったのに。うちも今日は両親遅いから自分で作る予定だったんだよ、それなら何か作ってきたのに」
「そっか、なんだ……学校で話しとけばよかった」
この時間で一旦家に帰って作って戻ってくるのは流石に時間が掛かりすぎる。
ふと黙り込んだ不二山がいいことを思いついたとばかりに顔を輝かせた。
「あ、じゃあさ」
「え?」
「なあ、お前なんかうちでメシ作ってくれよ」
「ええっ!」
突然の発言に思わず大声を上げてしまう。
「お前も自分の飯作るんだろ?だったらうちで作って一緒に食おう」
「ちょ、え、でも」
「な、いいだろ?お前の弁当うまいし、お前の作った飯食いたい……ダメか?」
語尾がかすかに小さくなって、じっと目を見つめてくる。そうやって頼まれるとどうにも断れない。
「だ……ダメじゃないけど、作るのはいいんだけど。その、嵐くんちで作るのは、ちょ、ちょっとだめだよ!」
「え?なんでだよ」
「だ、だって、ほら他所の台所だし。台所ってはお母さんの領域なんだよ?その、聖域みたいなもんだし!勝手に上がりこんで使ったりしたら失礼だよ!」
「……聖域」
言った後でなんだか自分自身妙なことを言ってしまった感に真っ赤になる。当の不二山のほうは妙に納得したように頷いて。
「そうかぁ……うん、そういうもんなんか、わかった。よし!ちょっと待ってろ」
「え?」
ぽん、と。膝を叩いて立ち上がって部屋の外に出て行く。
「嵐くん?」
ひょっとして怒らせてしまったのか?言い方がわるかったのか?などとあれこれ考えていると、程なく戻ってくる。
「よ、待たせたな」
「嵐くん、どうしたの?急に」
「台所とか冷蔵庫の中のもん、好きに使っていいって」
「えっ」
「電話で聞いた」
「……え?」
「ウチのお袋に」
「ええっ?!」
突然の発言に思わず耳を疑う。
「お前、台所は母親の聖域だから勝手に使ったらダメだって言ってただろ。だからさっき電話で確認した」
「ちょっ……」
「な、確認とったしいいだろ?買出しいこ」
「……ちょ……っと」
一気に顔が赤くなる。
「そ、そんなこと言わないでよ、恥ずかしい!」
「なんで?勝手に使ったらダメだって言うから」
「そうだけどっ!恥ずかしいよ!」
しかも家に女の子が居て料理を作ってもらいたいから使っていいかなどと素で聞くとか色々待って欲しい。
「もう……」
大きく溜息をついて、腹をくくる。
「わかったから、その前にちょっと冷蔵庫の残り見て買うものと献立考えるから」
「やった、よし台所こっちな」
嬉しそうに手招きする不二山の姿にそれ以上何も言えなくなってしまう。
初めて足を踏み入れた不二山家の台所。きっちりと並んだ調理器具や磨きぬかれたシンクに使い込まれた様子が伺える。
「えー、失礼しまーす」
無論答えがあるわけはないのだが、一応断りの言葉をつぶやいて冷蔵庫を開ける。
「わぁ……」
整然と並んだタッパー、きっちりと無駄なく並べられた食材。
「さすが、嵐くんのお母さん。スキル高い……」
とりあえず食事に一品添えられそうなオカズの作り置きを確認しつつ。
「ひじきの煮物と、えーと、ちくわ……あ、タマネギ半分残ってる。これ使っちゃったほうがいいのかな?」
とりあえずあるものを使いつつ、献立をあれこれ考えて。
「えーと、すみませんまたまた失礼します」
今度は流し台の引き出しを開けて中身を確認。
「切り干し大根にかんぴょう、鰹節パックに、綺麗に揃ってるなぁ。というか、嵐さんのお母さんてひょっとしてダシの素を使わない人?」
いきなり要求レベルが高い。
「えーと、あとは使いさしの煮干パック……ふむ、お味噌汁はいりこ派?」
引き出しの中身を確認しながらあれこれを推測を立てていく。なんだか探偵あるいはコソ泥のような気分になりつつも、大まかなメニューが頭の中で決まってきた。
「むぅ」
顎に手をあてて情報を整理する。
「なるべく残り物消費しちゃったほうが、いいよね、たぶん」
お味噌汁は恐らく煮干を使ったいりこ出汁、具は冷蔵庫の残ったタマネギ半分とちくわで、一品であとひじきの煮物の残りをいただくとして、あとはご飯ともう一品と魚か肉の主菜があれば充分か。
「うん、とりあえず何となく浮かんできた」
ぽん、と。手を叩いて引き出し中に発見した米びつからカップで掬う。
「残りご飯はなかったし、二合……うーん三合炊いとこうか」
お米を研ぎながら時計を確認。
「よし」
「なぁ、買い物いかねーの?」
しびれを切らしたように顔を出す不二山のほうを振り返って、棚の端にかけられたエコバッグを手にとる。
「よし、じゃあ行こうか」
「うん」
夕飯時の少し前、少し歩いた先にあるスーパーは美奈子らと同じく夕飯の材料を求める買い物客で賑わっている。買い物カゴを持った不二山を従えて売り場に並ぶ食材を睨んで腕組みする。
「ねえ嵐くん、何食べたい?」
「んー、魚でも肉でもなんでも」
「何でもって言われると困るかも……」
「お前が作るもんならなんでもいい」
相変わらずの直球発言に真っ赤になりながら不二山の袖を引く。
「もうっ、と、とりあえず色々見てから考えよう」
「わかった、ほら、行くぞ」
「あ、待って。もうっ」
買い物カゴ片手に先に行く不二山の後を追いかける、なんだか買い物に出るあたりから妙にはしゃいでいるように見えるのは気のせいではないかもしれない。
「エリンギ、98円の30%引き……うーん……」
値札と手に取った品とでにらめっこしながら一考。本当はその隣にあるシイタケ一袋を買いたいところだが、ここはぐっと我慢する。
「ねえ、嵐くん……あれ?」
振り向くと不二山の姿がない。
「嵐くん、どこいったの?」
きょろきょろ見回すと、少し先のコーナーで手を振って何かを指差している。
「なぁ、あっちでマグロの解体販売やってる!見に行こう」
「えっ?もうっ!マグロなんて買わないよ?!」
「わかってるって、見るだけだって、ほらこっち!」
「もう……見るだけだからね」
そう言いながらも子供みたいにはしゃぐ姿に思わず笑ってしまう。
「さて」
買い物も終わり、台所で腕まくり。
一通り並んだ材料を手に時計を再度確認しながらご飯が炊き上がるまでの時間を考えつつ小鍋に水を入れて塩をひと匙いれて火にかける。
「とりあえずブロッコリー茹でてて……次にお肉の下ごしらえかな、エリンギは後でいいか」
包丁を手にブロッコリーをバラしていると、背後から不二山が覗き込んでくる。
「なぁ、俺なんか手伝うことあるか?」
「ん、大丈夫だよ。座って待ってて」
「……いいのか?」
「あとで食器の準備とか手伝ってくれればいいから」
そう言われて大人しく引っ込むものの、エリンギを刻んでる間や肉を炒めている間に何度も顔を出してはソワソワしたように手伝いはないかと聞いてくる。
「な、ホントに手伝いとかしなくてもいいのか?」
「平気だってば、もうすぐ出来るから待っててね」
「わかった」
こういうシチュエーション、どこかで見たような見ないような気がするなぁなどと思いつつ、使い込まれたフライパンからおかずを取り分ける。
自宅の食卓とはちょっと違う、畳間に低いテーブルに座布団敷き。
木目調のテーブルの上には小皿に盛ったおかずにご飯とお味噌汁に主菜が並ぶ。
「お、すげーうまそう」
「そんな手の込んだものじゃないけど」
「いただきます!」
大盛りの茶碗を片手に忙しなく箸が動くのを思わず固唾を飲んで見守る。
「味、濃くないかな?」
「うまい」
「お味噌汁、どうかな……お家のと比べて」
「ん?うまいぞ、全部」
「そう、よかった……」
ほっと一息ついて箸を取る。
「なぁ、お前なんでそんな気にしてんだ?」
「だって、人のお家でご飯作るってあんまり経験ないから、うまく出来たのかなって気になるし」
ナムル風ブロッコリーを一つ口に入れてお味噌汁をすする、味はまあまあ?と自己評価。
「そっか」
「ん?」
「他所の家だとやっぱ勝手とか違うんだよな」
「そりゃあ違うよ」
ふと手を止めて不二山が神妙な顔になる。
「それってさ、自分のとこじゃなくて他の道場で稽古するようなもんか」
「ちょ……っと違うようなあってるような。うん、でも確かにそんな感じ」
らしいといえばらしい例えに思わず笑ってしまう。
「なるほどな」
納得したように頷いて。
「でもさ、お前の飯すげーうまいし、また食いたい」
「そ、そう、かな……そんな誉められると恥ずかしいよ」
「つーか、毎日食いてーな」
「え?」
「毎日食いたい、お前の作った飯」
大事なことを二度言った。
「えっ……と、毎日は、ほら、無理だよ、うん」
「そだな、まだ先か」
「……う、うん」
その言葉の意味を何処まで解釈したらいいのか混乱しながら、真っ赤になった顔をごまかすように慌てて箸を動かした。
いい夫婦の日、おまけ
ひときわ大きく響いた腹の音に、美奈子は思わず顔を上げた。
「あー」
目の前でシャーペンを片手に大きく溜息をつきながら不二山が天井を仰いだ。
「腹減ったー」
続く言葉は予想通り。
「もう、夕ご飯にはまだ早いよ?」
大きく両腕を上に伸ばして肩を鳴らす不二山を見て苦笑する。壁の時計の針はまだ四時前を差している、美奈子の部屋で勉強を始めてからまだ一時間も経ってない。
「もう……お弁当二つにお昼のパンも食べたでしょ?」
「たりねーよ、全然」
しょんぼりとした顔でもう一度深々と溜息をつく。
「しょうがないなぁ、残りご飯くらいならあるけど。少し食べる?」
「食う!」
ついさっきまでの切なげな顔とはうって変わって顔を輝かせる。
真剣な顔、眠そうな顔、お腹が空いて切なげな顔、嬉しそうに笑う顔、面白いくらいにコロコロと表情を変えるのが少しおかしい。
「はいはい、じゃあちょっと待ってて。机片付けておいてね」
「わかった」
半分眠そうな顔で勉強していた時とは別人のように、さっさとノートを畳んでしまう姿にちょっと笑いながら部屋を後にした。
台所で冷蔵庫のタッパーに入った残りご飯の量を確認しつつ、レンジに入れてスイッチを押す。
「ご飯だけだとなぁ、あ、切り干し大根がある。あとはタマゴ……かな」
別のタッパーとタマゴを一つ取り出して。
「あ」
フタを開けて気づく。切り干し大根の煮物、薄切りの干しシイタケが入っている。
「……避けて盛れば、気づかない、かな?大丈夫かなぁ」
シイタケは変な匂いがすると言っていたが、実際嗅いでみてもよくわからない。
「味が嫌いとは言ってなかったし、匂いが気にならなければいいんだよね、うん」
しばし思考中。
ゆっくりと台所を見回して、視線がぴたりと止まった。
「ふふふ、これだ」
焼き海苔の筒を手ににやりと笑みを浮かべる。
お盆を持ったまま部屋の前で足を止めて
「嵐くーん、ドア開けてくれる?」
「うん」
ドアを開けて美奈子の手にしたお盆を見て嬉しそうな顔になる。
「お、うまそう」
とりあえず第一関門は突破、気づいてない。
テーブルの上に並ぶお茶碗と小皿、タマゴかけご飯と切り干し大根の煮付け。そして湯のみが二つ。
「ありあわせだけど、どうぞ」
「いただきまーす」
箸を手にとって。
「なぁ、これすげーいい匂いする、海苔?」
「うん、焼き海苔をねコンロで炙ってちぎってかけるの」
「へー」
少し焦げた香ばしい海苔の匂いが鼻をくすぐる。じっと見守る中、ためらう事無く茶碗を手にとってご飯と切り干し大根をかっこむのを確認。
「……よし」
心の中でガッツポーズ。
シイタケ対策、匂いが嫌いならば別の匂いで鼻を騙す。
「ん、どうした?」
「あ、ううん。なんでもない。おいしい?」
「うまい」
躊躇無く箸を動かす不二山の姿を眺めて、ホッとしてお茶を一口すする。
「まずは第一歩成功、かな。うん」
END