黄昏の娘
満月の夜だった。煌々 と明るい月に追いやられて星々の光は地上へ届かず、山の稜線は鋭利に切り立った濃い影となって聳 えている。
モロが撃たれたことに激怒し、今生の別れと思うような言葉を残してタタラ場へ向かったサンは、夜更けにひどく疲れた様子で洞窟へ戻ってきた。
先に戻ってきた弟たちから無事であることは聞いていた。洞窟の外で出迎え、体のあちこちにできた擦り傷を舐めてやる。
サンは黙っていた。身体から漂ってくる濃い人間の血のにおいにモロが気づいていることはサンも知っていただろうが。少ししてからサンは失敗した、邪魔が入った、と小さく言った。無茶をする、と言って鼻先で突くと泣きそうな顔をしてモロの胸に顔を埋めた。
サンは泣きたくなるといつもこうする。それが一族の中でさえ決して涙を見せないためのこの子の術 だ。
弟たちが無事を喜んで近づいてくるとサンは顔を上げていつもするように笑顔を見せた。モロの傷を気遣い、弟たちに危険な目に遭わせたことを謝る。胸に秘めたものがあるときのぎこちない自然さでサンはいつも通りにふるまってみせる。
乙事主の着いた朝、サンはシシ神の池のほとりに横たわっていたあの呪われた若者を角持つ獣に乗せて連れ帰ってきた。シシ神様が助けた、でも弱っているからしばらく世話をしてやる、私の寝床を使うからみんなは気にしなくていい。言い訳めいてまくしたてるとサンは水を汲みに出ていった。弟たちは怪訝そうに若者のにおいを嗅いでいる。
若者は青い顔をして眠っていた。サンと何かがあったのであろうことは昨晩サンがまとっていたにおいと若者のそれが同じであることから知れたが、サンが話すまでは尋ねないことにした。弟たちにも釘を刺しておく。
そこからサンの長い看病の日々が始まった。
サンは迷いなく自分の寝床を若者に譲り渡し、最初の数日は狩りにも出ずに世話をした。寝返りを打たせ、水を飲ませ、ふだんは食べない蓄えのための木の実を出してきて口移しで与える。
角持つ獣は洞窟の外でじっと待っていた。サンは獣に食べさせるために草地へ連れ出し、水場へ連れていきもした。
サンは草を食む獣とも意を通じる。自ら屠る鹿たちに心を寄せて苦しむことさえあった子だ。
獣は存外話好きと見えて、サンが繕いものなどしているあいだ懸命に話しかけているようだった。サンにとっては見知らぬ里の話は興味深かったようだ。ずっと北の山にもここと同じコダマがいるらしい、とどこか嬉しそうに話す。
食欲とサンへの気遣いのあいだで悩んでいた様子の弟たちもいつのまにか打ち解けていった。山犬と角持つ獣が共にいるのは奇妙な光景だった。
若者は眠り続ける。サンが水を飲ませてやりながら知ってか知らずかあやすように声をかけるのを見るようになった。髪を撫でる仕草は慈愛さえ感じさせた。
日が経つにつれ、サンが同族に心惹かれていることに気づかざるをえなかった。ほかならぬモロがそうさせたのだ。幼いサンを洞窟に連れ帰った時、裸にして四つ足で歩くよう育てなかったのはモロだった。育った村で身に付けたことを忘れぬよう繰り返させた。火を焚くこと、服を着ること、二本足で歩くこと。肉を焼くこと、服を縫うこと。それがサンに否応なく母やきょうだいとの違いを際立たせることを知りながら。煙のにおいが猩々たちを苛立たせることを知りながら。
初めて森の中で贄に捧げられたサンを見つけたとき、サンはモロの姿を見ても泣きも騒ぎもしなかった。手近な木に縄で縛られたまま感情のない顔でじっと立っていた。
それが気に入らずモロは一歩近づいて子どもを覗き込む。子どもはかすかに目を見開いた。怯えを感じさせない不思議な色の目でこちらを見返す。
視線が交わる。モロは笑った。憐みと蔑みが同時に訪れてしばし佇む。
その場で食い殺さなかったのは人間たちへの意趣返しのつもりだった。人間たちが怒りを鎮めたいのならば逆をいってやろう。贄を喰らって満足するのではなくさらに怒りを燃やす糧としてやろう。この子を人間たちの愚行の証としてやろう。
「母さん」、掠れた声で子どもがつぶやいた。
それがモロを指しているのでないことは明らかだったが、モロはどこかで己が呼ばれている気になった。憐みが行き過ぎたか、なんとなくいとおしい気がして鼻面を寄せると、子どもは今度は火がついたように泣き出した。
にやりと笑んでモロはそこにしゃがみ込む。
「そう、これから私がおまえの母だ」
そうして玉でも抱えるように子どもを舌の上に乗せて洞窟へ連れ帰った。乳飲み子だったわが子の間に放り込んで一緒に乳をやった。
いい気味だ、と思った。
喰われるために捧げられた子は生き残り、生き延びるために子を捧げた村人たちが食い殺される。子どもの復讐も兼ねてモロはそうした。生みの親もいるかもしれない村を襲って滅ぼした。
子どもはすぐにモロに懐いた。それは幼子が生き延びるために残されたたったひとつの方法に過ぎなかったが、モロはことさらにサンと名付けた子どもをかわいがった。
そうしてモロは悟る。捧げ物に対して更なる怒りをもって応える己がすでに人間たちの畏怖を集める神ではなくなっていることに。 遠い上代の風習を蘇らせてまで人間たちが行った、捧げ物と怒りの鎮静という関係がもう破綻していることに。子どもひとりでは到底贖 いきれないほどに人間の侵略は荒く、森の傷は深かった。
その時でさえもう回復しきらないのではと思ったものだったのに、あの女が来てから森は更なる破壊に晒されることになった。モロ一族は否応なく戦に出ていった。まだ稚い子どもを連れて、見せたくなどないものばかりを見せることになった。モロはますます人間を憎み、それは子どもたちにも伝播していった。サンが人の姿でありながら人間への憎悪を募らせていくのは止めようがなかった。
毎朝サンとシシ神の池に行く。サンの器用な手が水を掬い、何度も傷を清める。サンの目は期待に満ちて小島の方を見つめる。今日こそはシシ神が現れ、モロの傷を癒すのではないかと。
シシ神は現れない。モロの気のない様子にがっかりしながらもサンは傷口を洗い終わった後もしばらく名残惜しそうにしている。
洞窟へ帰れば若者と角持つ獣の世話が待っていた。その合間に武器を直し、肉を干し、若者に与える木の実を茹でてつぶして食べ物を拵える。モロの短い眠りのあいだにもサンは何度か起きて若者の様子を見ているようだった。それでは体力がもつまいに、何に突き動かされているのか、この子は自分で答えを知っていただろうか。若者の眠りはしだいに穏やかなものになっていった。いつ目覚めてもおかしくないだろう。
森は沈黙していた。猪の群れに怯えて鹿たちは遠くへ逃げてしまった。
――帰せばあの女とともにシシ神を狙うかもしれない。
弟が言う。
――だからと言ってこのままモロ一族へ迎え入れるのか。あの女のもとから来た人間を。
もう一頭が言う。
――今のうちに止めを刺した方がよくはないか。
若者に情の移っていない弟たちは簡単に考えていた。
サンは迷っている。答えは出ない。
モロは何も言わなかった。殺してやりたいのは山々だが、サンが何に惹かれているかを思えば台無しにすることはできなかった。
何度か乙事主に会いに行った。
多すぎる猪の群れに森が荒れていることに苦言を呈したが、乙事主はいっときのことと受け付けない。そもそも生き残る気で来ていない彼に何を言っても聞く耳はなかった。
「人間」という言葉が猪神たちの口の端にのぼるたびにサンが身を固くしているのは傍目に明らかだった。これまで幾度も繰り返されてきたことだ。口さがない猩々たちと同じように猪神たちはサンがいようと頓着しなかった。
そのたびモロは己の罪を思い知らされる。どうしようもなく愛しい娘を切り裂き打ちのめす原因をつくったのはほかならぬモロだった。
「私はモロの一族?」
どうしても堪 えきれなくなったとき、サンはモロの胸に顔を埋めたまま尋ねる。
そうだよ、とモロは答える。そうして生まれる群れをまちがえた若い山犬の昔話をしてやる。その山犬は苦難の旅の末に自分の本当の群れを見つけるのだ。
モロにはそれしかしてやれることがない。しばらくじっとしていた後サンはきっと顔を上げる。そうして干した木の実を取り込む仕事に取り掛かる。
そうやって幾年もをやり過ごしてきた。
――サンをどうする気だ。
だからそう問われてモロは怒りを剥き出しにした。
少し揶揄 ってやるだけのつもりだったのが、いつしか沸々と若者への苛立ちが揺らめいていた。
若者の言うことは正しい。森と人が共に生きる道――モロも幾百の春が巡る前にはそう考えていた。森の声に耳を傾ける人間を探し、対話し、脅し、宥め、賺 ししてさまざまに試みてきた。
成功したかに見えたのは一時に過ぎなかった。人間たちは森を決して諦めなかった。
生存を侵されたものがこれ以上侵されぬように牙を剥き出しに攻撃に転ずることを誰が責められようか。憎悪の連鎖を断ち切ることを誰が望んでいないといえようか。
モロ一族はすでに連鎖のただなかにいる。侵略者を噛み裂いて復讐を遂げることのほか、燃え盛る憎悪を解放する術はもうない。
森は飼い馴らされていくだろう。旧き神々は去り、人の支配する世が始まる。
他ならぬモロが知りたい、森の一族として戦って死なせてやることのほか、一体どうすればあの娘を救えるのか。
人間の群れから追われ、戦の中に育ち戦の中に死にゆこうとしている、神々の黄昏の時代に生まれた娘。このように生まれたことが不幸というなら癒す術などないのが当然だった。若者の言う通り、苦しみながら共に生きることのほかできることなどない。そしてモロにはもう時間がなかった。
愚かな正しさを笑い飛ばしてやったが、若者は諦めてはいない顔で洞窟へ戻った。滾るものを抱えながら、モロは不思議と満足していた。一族の他にサンを思いやるものが初めて現れたことへの満足かもしれなかった。
湖のほとりの人間たちは増えていく。鉄のにおいに混じって怪しげな煙のにおいもし始めていた。
養いきれない猪の大群に森は疲弊している。
胸に撃ち込まれた礫 は身体を穿って刻一刻と命を奪いにかかっていた。
すべては終焉へ向けて動き始めていた。
ーーお前には、あの若者と生きる道もあるのだが。
乙事主と行くというサンに、言うつもりのなかった言葉が思わずこぼれた。展望は何もない。サンが激しく嫌悪するだろうことも想像がついた。それでもなおサンの心のうちのどこかに小さな石を投げ込んでおきたい、と思った。
想像通りサンの答えはにべもなかったが、それで構わなかった。
おそらくこの戦でサンは死ぬだろう。乙事主はそれをよしとしているからだ。森の眷属たるモロ自身も半ばそう思っている。
もう半ばはサンが生き延びることを望んでいた。モロ一族としてでなくてかまわない。モロを憎むことになってもかまわない。
若者に希望を見たというのは言い過ぎだった。それでもモロは賭けることにする。呪われた人間の子どうしが手を取り合い、モロには為しえなかった憎悪を越える道を見出すことに。
サンたちが走り去った木立から立ち上がる。人間の発する煙はいよいよ充満している。
森はこれから死にゆこうとしている。モロもまた最後の時を迎えようとしていた。
最後に話すには悪くない相手だった、と若者を思い浮かべる。
ここからはモロ自身の望みを叶える時だ。あの女との邂逅が近づいている。女の首を嚙み砕き、これまでついぞ見せたことのない憎悪と恐怖で満たされた血の味で口腔を満たす時だ。
モロはシシ神の池に向かう。死へのおそれはもうなかった。
モロが撃たれたことに激怒し、今生の別れと思うような言葉を残してタタラ場へ向かったサンは、夜更けにひどく疲れた様子で洞窟へ戻ってきた。
先に戻ってきた弟たちから無事であることは聞いていた。洞窟の外で出迎え、体のあちこちにできた擦り傷を舐めてやる。
サンは黙っていた。身体から漂ってくる濃い人間の血のにおいにモロが気づいていることはサンも知っていただろうが。少ししてからサンは失敗した、邪魔が入った、と小さく言った。無茶をする、と言って鼻先で突くと泣きそうな顔をしてモロの胸に顔を埋めた。
サンは泣きたくなるといつもこうする。それが一族の中でさえ決して涙を見せないためのこの子の
弟たちが無事を喜んで近づいてくるとサンは顔を上げていつもするように笑顔を見せた。モロの傷を気遣い、弟たちに危険な目に遭わせたことを謝る。胸に秘めたものがあるときのぎこちない自然さでサンはいつも通りにふるまってみせる。
乙事主の着いた朝、サンはシシ神の池のほとりに横たわっていたあの呪われた若者を角持つ獣に乗せて連れ帰ってきた。シシ神様が助けた、でも弱っているからしばらく世話をしてやる、私の寝床を使うからみんなは気にしなくていい。言い訳めいてまくしたてるとサンは水を汲みに出ていった。弟たちは怪訝そうに若者のにおいを嗅いでいる。
若者は青い顔をして眠っていた。サンと何かがあったのであろうことは昨晩サンがまとっていたにおいと若者のそれが同じであることから知れたが、サンが話すまでは尋ねないことにした。弟たちにも釘を刺しておく。
そこからサンの長い看病の日々が始まった。
サンは迷いなく自分の寝床を若者に譲り渡し、最初の数日は狩りにも出ずに世話をした。寝返りを打たせ、水を飲ませ、ふだんは食べない蓄えのための木の実を出してきて口移しで与える。
角持つ獣は洞窟の外でじっと待っていた。サンは獣に食べさせるために草地へ連れ出し、水場へ連れていきもした。
サンは草を食む獣とも意を通じる。自ら屠る鹿たちに心を寄せて苦しむことさえあった子だ。
獣は存外話好きと見えて、サンが繕いものなどしているあいだ懸命に話しかけているようだった。サンにとっては見知らぬ里の話は興味深かったようだ。ずっと北の山にもここと同じコダマがいるらしい、とどこか嬉しそうに話す。
食欲とサンへの気遣いのあいだで悩んでいた様子の弟たちもいつのまにか打ち解けていった。山犬と角持つ獣が共にいるのは奇妙な光景だった。
若者は眠り続ける。サンが水を飲ませてやりながら知ってか知らずかあやすように声をかけるのを見るようになった。髪を撫でる仕草は慈愛さえ感じさせた。
日が経つにつれ、サンが同族に心惹かれていることに気づかざるをえなかった。ほかならぬモロがそうさせたのだ。幼いサンを洞窟に連れ帰った時、裸にして四つ足で歩くよう育てなかったのはモロだった。育った村で身に付けたことを忘れぬよう繰り返させた。火を焚くこと、服を着ること、二本足で歩くこと。肉を焼くこと、服を縫うこと。それがサンに否応なく母やきょうだいとの違いを際立たせることを知りながら。煙のにおいが猩々たちを苛立たせることを知りながら。
初めて森の中で贄に捧げられたサンを見つけたとき、サンはモロの姿を見ても泣きも騒ぎもしなかった。手近な木に縄で縛られたまま感情のない顔でじっと立っていた。
それが気に入らずモロは一歩近づいて子どもを覗き込む。子どもはかすかに目を見開いた。怯えを感じさせない不思議な色の目でこちらを見返す。
視線が交わる。モロは笑った。憐みと蔑みが同時に訪れてしばし佇む。
その場で食い殺さなかったのは人間たちへの意趣返しのつもりだった。人間たちが怒りを鎮めたいのならば逆をいってやろう。贄を喰らって満足するのではなくさらに怒りを燃やす糧としてやろう。この子を人間たちの愚行の証としてやろう。
「母さん」、掠れた声で子どもがつぶやいた。
それがモロを指しているのでないことは明らかだったが、モロはどこかで己が呼ばれている気になった。憐みが行き過ぎたか、なんとなくいとおしい気がして鼻面を寄せると、子どもは今度は火がついたように泣き出した。
にやりと笑んでモロはそこにしゃがみ込む。
「そう、これから私がおまえの母だ」
そうして玉でも抱えるように子どもを舌の上に乗せて洞窟へ連れ帰った。乳飲み子だったわが子の間に放り込んで一緒に乳をやった。
いい気味だ、と思った。
喰われるために捧げられた子は生き残り、生き延びるために子を捧げた村人たちが食い殺される。子どもの復讐も兼ねてモロはそうした。生みの親もいるかもしれない村を襲って滅ぼした。
子どもはすぐにモロに懐いた。それは幼子が生き延びるために残されたたったひとつの方法に過ぎなかったが、モロはことさらにサンと名付けた子どもをかわいがった。
そうしてモロは悟る。捧げ物に対して更なる怒りをもって応える己がすでに人間たちの畏怖を集める神ではなくなっていることに。 遠い上代の風習を蘇らせてまで人間たちが行った、捧げ物と怒りの鎮静という関係がもう破綻していることに。子どもひとりでは到底
その時でさえもう回復しきらないのではと思ったものだったのに、あの女が来てから森は更なる破壊に晒されることになった。モロ一族は否応なく戦に出ていった。まだ稚い子どもを連れて、見せたくなどないものばかりを見せることになった。モロはますます人間を憎み、それは子どもたちにも伝播していった。サンが人の姿でありながら人間への憎悪を募らせていくのは止めようがなかった。
毎朝サンとシシ神の池に行く。サンの器用な手が水を掬い、何度も傷を清める。サンの目は期待に満ちて小島の方を見つめる。今日こそはシシ神が現れ、モロの傷を癒すのではないかと。
シシ神は現れない。モロの気のない様子にがっかりしながらもサンは傷口を洗い終わった後もしばらく名残惜しそうにしている。
洞窟へ帰れば若者と角持つ獣の世話が待っていた。その合間に武器を直し、肉を干し、若者に与える木の実を茹でてつぶして食べ物を拵える。モロの短い眠りのあいだにもサンは何度か起きて若者の様子を見ているようだった。それでは体力がもつまいに、何に突き動かされているのか、この子は自分で答えを知っていただろうか。若者の眠りはしだいに穏やかなものになっていった。いつ目覚めてもおかしくないだろう。
森は沈黙していた。猪の群れに怯えて鹿たちは遠くへ逃げてしまった。
――帰せばあの女とともにシシ神を狙うかもしれない。
弟が言う。
――だからと言ってこのままモロ一族へ迎え入れるのか。あの女のもとから来た人間を。
もう一頭が言う。
――今のうちに止めを刺した方がよくはないか。
若者に情の移っていない弟たちは簡単に考えていた。
サンは迷っている。答えは出ない。
モロは何も言わなかった。殺してやりたいのは山々だが、サンが何に惹かれているかを思えば台無しにすることはできなかった。
何度か乙事主に会いに行った。
多すぎる猪の群れに森が荒れていることに苦言を呈したが、乙事主はいっときのことと受け付けない。そもそも生き残る気で来ていない彼に何を言っても聞く耳はなかった。
「人間」という言葉が猪神たちの口の端にのぼるたびにサンが身を固くしているのは傍目に明らかだった。これまで幾度も繰り返されてきたことだ。口さがない猩々たちと同じように猪神たちはサンがいようと頓着しなかった。
そのたびモロは己の罪を思い知らされる。どうしようもなく愛しい娘を切り裂き打ちのめす原因をつくったのはほかならぬモロだった。
「私はモロの一族?」
どうしても
そうだよ、とモロは答える。そうして生まれる群れをまちがえた若い山犬の昔話をしてやる。その山犬は苦難の旅の末に自分の本当の群れを見つけるのだ。
モロにはそれしかしてやれることがない。しばらくじっとしていた後サンはきっと顔を上げる。そうして干した木の実を取り込む仕事に取り掛かる。
そうやって幾年もをやり過ごしてきた。
――サンをどうする気だ。
だからそう問われてモロは怒りを剥き出しにした。
少し
若者の言うことは正しい。森と人が共に生きる道――モロも幾百の春が巡る前にはそう考えていた。森の声に耳を傾ける人間を探し、対話し、脅し、宥め、
成功したかに見えたのは一時に過ぎなかった。人間たちは森を決して諦めなかった。
生存を侵されたものがこれ以上侵されぬように牙を剥き出しに攻撃に転ずることを誰が責められようか。憎悪の連鎖を断ち切ることを誰が望んでいないといえようか。
モロ一族はすでに連鎖のただなかにいる。侵略者を噛み裂いて復讐を遂げることのほか、燃え盛る憎悪を解放する術はもうない。
森は飼い馴らされていくだろう。旧き神々は去り、人の支配する世が始まる。
他ならぬモロが知りたい、森の一族として戦って死なせてやることのほか、一体どうすればあの娘を救えるのか。
人間の群れから追われ、戦の中に育ち戦の中に死にゆこうとしている、神々の黄昏の時代に生まれた娘。このように生まれたことが不幸というなら癒す術などないのが当然だった。若者の言う通り、苦しみながら共に生きることのほかできることなどない。そしてモロにはもう時間がなかった。
愚かな正しさを笑い飛ばしてやったが、若者は諦めてはいない顔で洞窟へ戻った。滾るものを抱えながら、モロは不思議と満足していた。一族の他にサンを思いやるものが初めて現れたことへの満足かもしれなかった。
湖のほとりの人間たちは増えていく。鉄のにおいに混じって怪しげな煙のにおいもし始めていた。
養いきれない猪の大群に森は疲弊している。
胸に撃ち込まれた
すべては終焉へ向けて動き始めていた。
ーーお前には、あの若者と生きる道もあるのだが。
乙事主と行くというサンに、言うつもりのなかった言葉が思わずこぼれた。展望は何もない。サンが激しく嫌悪するだろうことも想像がついた。それでもなおサンの心のうちのどこかに小さな石を投げ込んでおきたい、と思った。
想像通りサンの答えはにべもなかったが、それで構わなかった。
おそらくこの戦でサンは死ぬだろう。乙事主はそれをよしとしているからだ。森の眷属たるモロ自身も半ばそう思っている。
もう半ばはサンが生き延びることを望んでいた。モロ一族としてでなくてかまわない。モロを憎むことになってもかまわない。
若者に希望を見たというのは言い過ぎだった。それでもモロは賭けることにする。呪われた人間の子どうしが手を取り合い、モロには為しえなかった憎悪を越える道を見出すことに。
サンたちが走り去った木立から立ち上がる。人間の発する煙はいよいよ充満している。
森はこれから死にゆこうとしている。モロもまた最後の時を迎えようとしていた。
最後に話すには悪くない相手だった、と若者を思い浮かべる。
ここからはモロ自身の望みを叶える時だ。あの女との邂逅が近づいている。女の首を嚙み砕き、これまでついぞ見せたことのない憎悪と恐怖で満たされた血の味で口腔を満たす時だ。
モロはシシ神の池に向かう。死へのおそれはもうなかった。
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