雛の我が儘
初めて目見えたのはトルメキア戦役の開始直前、ペジテ討伐の帰りだった。
いささか乱暴な訪れ方をした風の谷で、族長の娘は毛並みを逆立てた猫のように怒りくるって剣を振るっていた。
その目に武装した親衛隊も後ろに控えた装甲コルベットも映っていないのはすぐに知れた。
ーーなぜだろう、戦略も勝機もなく突っ込んでくるだけの無謀な戦い方をする娘が、不利な戦は避けよ、と叩き込まれてきたはずの己とふと重なってしまったのは。
次に会ったのは酸の湖のほとりだった。蟲に襲われ壊滅した軍の残骸を背に、娘は王蟲を助けたいと言った。静かで揺るぎのないまなざしをしていた。
********
「ここにおられたのですか、殿下」
セネイの声がしてクシャナは振り返った。セネイは簡素な毛織の上着を羽織り、いかにも慌てて出てきた風だ。
「今日は非番ではなかったのか」
「殿下の行方が知れないというので非番の俺たちが駆り出されたのですよ。あの教師はヴ王派の側近が選んできた臆病者ですからね、自分の授業中に逃げ出されて責任問題になっちゃたまらないと思ったんでしょう。ーー馬が気になりますか」
先日の軍事教練で怪我をした乗騎だった。脚を傷めた馬は食糧にするのが通例だが、クシャナが殺すなと言ったのだ。
「見物だ。どうやって治療するのか見てみたかった」
厩舎係が馬の脚の添え木を外して薬を塗るのを興味深げに眺めながらクシャナは答えた。
「戦地で負傷した馬をすべて潰していては尽きてしまうだろう。治療をして少しでも生かす手立ても必要ではないのか」
軍事に関する教師代わりでもあるセネイに問うともなく問うと、彼は無言でうなずいてクシャナの隣に立った。心の裡を見透かされているような気がしてクシャナは目を逸らす。
「お偉いさん方が兵卒のこともそんな風に考えてくれりゃ、俺たちの待遇もちっとはましになるのかもしれませんがね」
セネイは言って、寄ってきた馬の頭を撫でる。
「こいつは人懐っこすぎるな。戦場には向かない」
顔を擦り付ける馬のくちばしの付け根を掻いてやると、セネイはふと真顔になり、クシャナに目線を移した。
「殿下は指揮官になられるのですから、時には部下を切り捨てる決断もせねばなりません。あまり情けをかけすぎてもおつらいことになりましょう」
セネイのまなざしを受け止めきれずに、馬から目を離さぬままふん、と鼻であしらってクシャナは厩を出た。
セネイ自身が、軍にいるには優しすぎると気づいているのだろうか、と考えながら。
********
娘に王蟲を運べと言われて浮かんだのはなぜかあの時の馬だった。結局は怪我がもとで弱り、ほんの数ヶ月寿命を延ばしてやっただけに終わった、厩へ入ると嬉しげに近寄ってきたあの馬。
あの頃の自分は甘かった。血を分けた兄妹に毒を盛ることを厭わぬ毒蛇と同じ屋根の下で寝起きしながら、弱いものに情けをかけることはすなわち弱さであるとまだ飲み込んでいなかったのだ。
この娘はあの時の自分だ。
だから一笑に付して終わらせようとした。なのに娘は引き下がらなかった。
顔に貼り付けた嘲笑を保ちながらクシャナはあの馬のことを考える。厩番が始末する直前に会いに行った。変わらず顔を擦り付けてくる馬をクシャナはまともに見られなかった。泣くことができるほど幼くはなかった。怒るには多くを学び過ぎていたが、平然と受け入れるほど固くなり切れてもいなかった。それで黙って地面を見ていた。
ーーいいだろう、とクシャナは言った。それで娘がなにがしかの満足を得、母を喪ったばかりで情に流されやすかった年若い愚かなクシャナが満足するなら、それで良いではないか。
数百の部下とコルベット一機あるだけの今の己に振るえるだけの力を、いずれ無駄になる命のために振るってやるのも一興だろう。
娘は満足そうにするでもなく、悲嘆に酔うでもなく、至極冷静に自分が風を読む、と言った。
娘の頬についた涙の跡が妙に目に残った。
いささか乱暴な訪れ方をした風の谷で、族長の娘は毛並みを逆立てた猫のように怒りくるって剣を振るっていた。
その目に武装した親衛隊も後ろに控えた装甲コルベットも映っていないのはすぐに知れた。
ーーなぜだろう、戦略も勝機もなく突っ込んでくるだけの無謀な戦い方をする娘が、不利な戦は避けよ、と叩き込まれてきたはずの己とふと重なってしまったのは。
次に会ったのは酸の湖のほとりだった。蟲に襲われ壊滅した軍の残骸を背に、娘は王蟲を助けたいと言った。静かで揺るぎのないまなざしをしていた。
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「ここにおられたのですか、殿下」
セネイの声がしてクシャナは振り返った。セネイは簡素な毛織の上着を羽織り、いかにも慌てて出てきた風だ。
「今日は非番ではなかったのか」
「殿下の行方が知れないというので非番の俺たちが駆り出されたのですよ。あの教師はヴ王派の側近が選んできた臆病者ですからね、自分の授業中に逃げ出されて責任問題になっちゃたまらないと思ったんでしょう。ーー馬が気になりますか」
先日の軍事教練で怪我をした乗騎だった。脚を傷めた馬は食糧にするのが通例だが、クシャナが殺すなと言ったのだ。
「見物だ。どうやって治療するのか見てみたかった」
厩舎係が馬の脚の添え木を外して薬を塗るのを興味深げに眺めながらクシャナは答えた。
「戦地で負傷した馬をすべて潰していては尽きてしまうだろう。治療をして少しでも生かす手立ても必要ではないのか」
軍事に関する教師代わりでもあるセネイに問うともなく問うと、彼は無言でうなずいてクシャナの隣に立った。心の裡を見透かされているような気がしてクシャナは目を逸らす。
「お偉いさん方が兵卒のこともそんな風に考えてくれりゃ、俺たちの待遇もちっとはましになるのかもしれませんがね」
セネイは言って、寄ってきた馬の頭を撫でる。
「こいつは人懐っこすぎるな。戦場には向かない」
顔を擦り付ける馬のくちばしの付け根を掻いてやると、セネイはふと真顔になり、クシャナに目線を移した。
「殿下は指揮官になられるのですから、時には部下を切り捨てる決断もせねばなりません。あまり情けをかけすぎてもおつらいことになりましょう」
セネイのまなざしを受け止めきれずに、馬から目を離さぬままふん、と鼻であしらってクシャナは厩を出た。
セネイ自身が、軍にいるには優しすぎると気づいているのだろうか、と考えながら。
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娘に王蟲を運べと言われて浮かんだのはなぜかあの時の馬だった。結局は怪我がもとで弱り、ほんの数ヶ月寿命を延ばしてやっただけに終わった、厩へ入ると嬉しげに近寄ってきたあの馬。
あの頃の自分は甘かった。血を分けた兄妹に毒を盛ることを厭わぬ毒蛇と同じ屋根の下で寝起きしながら、弱いものに情けをかけることはすなわち弱さであるとまだ飲み込んでいなかったのだ。
この娘はあの時の自分だ。
だから一笑に付して終わらせようとした。なのに娘は引き下がらなかった。
顔に貼り付けた嘲笑を保ちながらクシャナはあの馬のことを考える。厩番が始末する直前に会いに行った。変わらず顔を擦り付けてくる馬をクシャナはまともに見られなかった。泣くことができるほど幼くはなかった。怒るには多くを学び過ぎていたが、平然と受け入れるほど固くなり切れてもいなかった。それで黙って地面を見ていた。
ーーいいだろう、とクシャナは言った。それで娘がなにがしかの満足を得、母を喪ったばかりで情に流されやすかった年若い愚かなクシャナが満足するなら、それで良いではないか。
数百の部下とコルベット一機あるだけの今の己に振るえるだけの力を、いずれ無駄になる命のために振るってやるのも一興だろう。
娘は満足そうにするでもなく、悲嘆に酔うでもなく、至極冷静に自分が風を読む、と言った。
娘の頬についた涙の跡が妙に目に残った。
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