彼方の薄明
アシタカは眼前に切り立つ崖を見上げて溜め息をついた。
足早に薮を掻き分けて進もうとして急に地面がなくなり、転げ落ちながら咄嗟に木に絡む蔓を掴んだのも束の間、思いのほか脆かった山葡萄の枯れた蔓の先が、握り締めた手の先で無惨に千切れていた。
助けを呼ぼうと崖上に向かって口を開きかけて飲み込んだ。一番近くにいるはずの叔父は、彼がそこから遠ざかろうと脇目も振らず森を突っ切ってきた当の理由であったから。
一昨年身罷 った父に代わって村を治める叔父が、アシタカには山のアカシシを持たせる、と告げたのは二晩前のことだ。
この夏はアシタカのまだ少ない記憶にあるうちでもとりわけ寒かった。陽はなかなか差さず、冷たい風がひっきりなしに山から吹き下ろし、村の南に広がるアカシシを放つ牧場の草が育たなかった。代わりに麦をやろうにもこの分では人の冬越しの蓄えにも足りない始末、アシタカは野良仕事の合間を縫ってカヤたち年少の子らとともに早朝から山を駆けずりまわって若葉や笹を集めたが、それでもアカシシたちはしだいに痩せていった。
春に生まれたばかりの幼獣たちは肥える間もなく、盛夏の前に病が流行ってあっけなく死んだ。
――こういうことは時々起こるものだ。小さな群れで暮らしていればいずれ血が濃くなって弱い仔が生まれる。時には野に生きる強い血と番 わせなければならぬ。お前には良い機会だ、己が手で次の長に相応しいアカシシを捕らえるが良い。
そもそもはこの春生まれた仔の中で育ちの良い一頭がアシタカに与えられるはずだったのだ。
村では十二、三になれば男子にはアカシシが与えられる。少年たちはアカシシの幼獣とともに大きくなる。じいじの若い頃には、少年たちは暇さえあればアカシシに跨って狩りに出、獲物の数を競い合うようにして弓と刀の扱いを覚えていくものだったという。
そうして一人前に乗りこなせるようになれば、長の信篤い者は交易についてゆくこともできるのだ。春と秋の二度、毛皮や干し肉をアカシシの背に積み、懐には川で採れた砂金を携えて、口伝えだけで受け継がれてきた道を辿り、常には禁じられている峠を越えて麓の里へ下りて行く。ヤマトの城塞へは決して近寄らぬこと、村の場所は決して口外せぬこと、いくつもの掟を固く守れる者にだけ与えられる使命だった。
幾日も旅して手に入れてきた木綿に絹糸、染料、塩と酒、海の魚、時に鋳鉄などのめずらかな品は子どもらを夢中にした。隊の戻った日はちょっとした祭りになる。
アカシシは交易の要であり、狩りに見張りに、畑仕事に、生活のすべてに欠かせない家畜であったから、長となる者が自分のアカシシを持たないわけにはいかなかった。
色づき始めた森の中、彼の数歩前を行く叔父は上機嫌だった。アカシシを持てばお前も一人前だ、できるだけ早く妻を娶 れ。常には無関心に見える叔父の声に誇らしげな響きが混じることに背筋をくすぐられながらも、アシタカはそれに頷くことができずにいた。
「カヤにはたくさん子を産んでもらわねばな」
――カヤ。その名を聞いて違和感は決定的なものになった。
いつだったか、まだ暗いうちに交易に発つ一行のあとを追って二人でこっそり門をくぐり、行き先を確かめようとした。仕置きとしてひと晩蔵に込められたことをものともせず、カヤも大人になったらアカシシに乗って交易に行きたい、と目を輝かせていた、妹のように一緒に育った娘。
カヤが妻になることは幼い頃から決まったことだった。辿っていけば誰もがどこかで交わる狭い村のこと、カヤとはもっとも血が遠い。カヤに何かあれば他の二人の娘のうちのどちらかを選ぶことになるだろう。それだけのことだ。父も叔父も、皆がそうしてきた。なのにアシタカはそれをうまく呑み込むことができないのだった。
「カヤにも望みがありましょう」
アシタカの声に隠し切れない苛立ちがにじんでいることに気づいてか、叔父は振り返った。その目には先ほどまでの声色とは打って変わった、見慣れた嘲笑が浮かんでいた。不本意な形で手にした族長の地位だったが、それでも譲るときが刻一刻近づいてくるのを彼は恐れているように見えた。
アシタカの発する問いはたびたび叔父を不機嫌にした。叔父にとっては自明の掟を彼が簡単には聞き入れないことをはじめは面白がっていたものの、徐々に苛立ちを隠さなくなっていった。最近では何事か異を唱えるたびに嘲笑を隠さない。
「お前は村が滅びることより女に勝手をさせることが大事と見える」
叔父は挑発するように言う。
「あれを娶るのが気に入らぬなら、ヤマトの里から娘でも攫ってくるがよい。かつて我らの祖がしていたようにな」
それを聞いた瞬間にアシタカの目の奥で火花が爆ぜた。
「カヤは、」思わず零れ出た声は震えていたが止めることはできなかった。「女子は子を生すための道具ではありません!」
衝動のままに叫んで睨みつけた叔父の目の冷たさに弾き返されるように背を向ける。
アシタカヒコ、と連れの男が呼ぶのを「放っておけ」と一喝する叔父の声を背中に聞きながら、ただ叔父のもとから遠ざかろうとしゃにむに藪を掻き分けて歩いた。
耳にこびりつくその声から逃れるようにがむしゃらに歩いて、――踏み出した足の先から忽然と地面が消えたのだった。
色づいた橅 の葉が微風に散り落ち、こそりと小さく音を立てて同じように降り積もった朽葉の上に着地する。ついさっき彼を怪我から守ったのも同じ地面だった――もっとも彼は鳥の逃げ出す派手な音を立てて尻から着地したのだったが。
髷を結うために伸ばしていた髪が邪魔で振り払うと、アシタカは自分のいる場所を確かめようとあたりを見回した。
崖下は訪れたばかりの秋に染まりつつあった。かすかな風にも次々と枝から離れる橅の葉が散って地面は黄金 を撒いたよう、頭上の木々は夏の緑から黄金あるいは紅へと移ろいつつあった。斜面を下った先にはかすかな水音がしている。
この地の秋は短い。橅の最後の葉が落ちる前に山には雪が降り積み、数頭の雌と子どもの小さな群れで秋までを過ごしたアカシシたちは、冬が到来しきる前に大群を作って雪の少ない低地へ下りていく。母親から引き離すのが早すぎれば乳が足りずに大きく育たず、遅すぎれば人に馴れない。捕らえるに適した季節は短く、今日はその貴重な一日のはずだった。
アシタカは手足に痛みがないのを確かめると、水音のほうへ斜面を降りていった。
平らな岩と倒木の隙間を縫うように流れる渓流は、苔の深緑の上に鮮やかな紅と黄金を纏って静かに流れていた。
皮袋に水を満たそうと流れに近づいて、アシタカは湿った土の上に散らばる足跡に気づいた。鹿よりも大きく、先の広がった二本の蹄は見慣れたアカシシのものに違いなかった。
いっとき皮袋のことも叔父のことも忘れて検分する。数頭の大人とそのまわりを跳ねまわる子ども――朝から探していた、雌と子どもの群れである。
足跡は渓流で喉を潤したあと、上流へ向かっていた。
この流れを下った先、二手に分かれた東側を流れるのが彼の村が生活用水を引いている川だ。叔父たちの計画では森の中を川に沿って上流へ向かったあと、尾根伝いにアカシシの棲む北の崖山へ向かう手筈だった。
場所の検討がつくとアシタカはひそかに高鳴っていた胸を撫でおろした。激情に駆られて叔父に歯向かうことは今までにもないではなかったが、これだけはっきりと反逆したのは初めてだったからだ。どうやら全く見ず知らずの土地まで来てしまったわけではないらしい。
すぐに合流できるかもしれない、という思いと、ひとりでアカシシを捕らえて叔父たちの鼻を明かしてやりたい、という思いがせめぎ合った。
姿を消したアシタカを探して叔父たちが追ってくるとは念頭に浮かばなかった。先の対立は決定的な訣別だった――少なくともアシタカにとっては。
じいじに仕込まれた、アカシシを捕らえるための技と道具は彼も備えている。このままひとりでアカシシの足跡を追うことを彼なりの覚悟でもって決めると、背負い袋の中の、女たちが持たせてくれた粟餅の包みを確かめた。少し考えて、三つあるうちの一つだけを食べた。
蒸した粟を搗 いて朴の葉に包み、炉の灰に一晩埋めて焼いた餅は香ばしく、思いのほか空腹だったことを思い出させた。腹が温まると、胸につかえていた不安が解けてゆくようだった。皮袋に水を満たすと、アシタカはじいじに教えられた通り注意深く足跡を追って渓流をさかのぼり始めた。
沢胡桃 の実が羽をはためかせてちらちらと舞い、枯れ葉の上に次々と降ってゆく。静かな水音とにわかに響く熊啄木鳥 の声の他には森には静寂が満ちて、足を止めれば乾いた枯れ葉に実の落ちる密やかな音さえ聞き取れた。
――お前には辛い時代が来るやもしれぬ。だが決して短慮を起こすな。長は百年、二百年先を見据えて村を治めるのだ。
病の床からアシタカの肩を掴んで諌める父の声が耳に蘇って彼は足を速める。
叔父には息子がいない。アシタカの二年あとに生まれた叔父の子は最初の冬を越えられなかった。そのあと続けて生まれた三人はみな女子だった。昨年は死産が一人、山に迷い込んで見つからなかった幼子が一人。アシタカの上にはもう成人して妻を娶った若者が一人いるきり、今の彼に弓の腕を競い合う相手はいない。
死は老人だけのものではなく、いつでもすぐ隣で息を潜めているものだった。アシタカがその手に絡め取られなかったのは偶さか巡り合わせが良かったに過ぎない。
慣れる暇も与えず次々と襲い来る困難を躱 しかわし、躱しきれぬものは不運とあきらめ、飲み込んで粛々と糧を得るために働くのが生きていくということだった。
叔父の含みのある眼差しから逃れるように、西の山に設けられた櫓の下で弓矢の稽古に勤しむ彼にじいじは何も言わずに手ほどきをした。やがて彼は大人にも引けを取らない腕になった。狩りでは一人前に役目を任されるようにもなった。
もう立派な男だ、いつでも長を継げるぞ。村の者からそう誇らしげに言われるたび、頭上に石の蓋が置かれたような胸苦しさに襲われるのだった。
いつの間にかアシタカはひとりで森に入ることを好むようになった。
野に生きる獣は彼の目にかなしむことも悼むこともないかのように超然として見える。時に彼の放つ矢を受け取って血肉となることも厭わないその姿は、いくぶんかの自棄をも含んだ憧憬を呼び起こさずにいなかった。
しばらく歩いて渓流に面する大岩を越えると、火のような赤い葉に覆われた桂の大樹が現れた。その幹に絡みつく蔓とまるい葉を見つけてアシタカは思わず歓声を上げて走り寄る。渓流に足を浸すようにして根を張る桂に、猿梨 が絡んで鈴生りの実をつけているのだった。
獣たちがこぞって糧にする猿梨は山仕事の折に偶さか出会えるご馳走である。すぐさま手を伸ばしかけて、頭上の枝に座ったコダマが笑っているのが目に入り慌てて引っ込める。ヒイさまから教わった、山の恵みを分けてもらう時の祈りを捧げた。
アカシシたちもこの恵みを思うさま味わったと見えて、木の周りには足跡が散らばり、低い位置にある実はあらかた食べ尽くされていた。
アシタカは幹に足をかけて蔓を引き寄せ、届く分だけ実を捥いだ。捥いだ手をそのまま口に運ぶ。甘酸っぱい果汁が喉を滑り降りる。
手の届かない高い場所の枝にはまだこぼれんばかりの実が生っている。
自分が腹を満たすだけ採っても獣たちの分は残るだろう、そう判断してアシタカはその艶々とした若緑の実を背負い袋に詰め込んだ。これだけあればカヤや他の子たちにも分けてやれそうだ。
頼もしい重みを背中に感じながらアシタカはさらに上流へ向かっていった。
日が傾いて空が橅の葉と同じ色に染まり始める。渓流を離れて斜面を登り始めた足跡は、叔父たちと向かっていた北の崖の西隣に聳える岩山へ向かっていた。
時に四つ這いになりながら岩山を中腹まで登ると、ようやく足跡の主たちの姿を見つけた。数頭の雌とその仔たちが転々と岩場に散って、低木の若葉や岩に生した苔を一心に食んでいる。
アシタカは投げ縄を手に、岩に身を隠して群れに近づいた。じいじから手ほどきを受けた投げ縄は弓矢と並んでアシタカの得意だ。息を潜めて一頭一頭に目を走らせる。
思わず目が留まったのは周りの仔よりひとまわり小柄な幼獣だった。心許なげに成獣に近づいては離れ、困ったように少し草を食んではまた近づくことを繰り返している。
群れを見渡せばすぐにその理由が知れた。成獣が三頭――幼獣が四頭。
アカシシは一度に一頭だけを産む。この仔には親がないのだ。狼にでも襲われたか、それともこの夏に里でも流行った病か。
毛には艶がなく、どこか怯えた風な仕草は守る者のいないせいだった。なぜだか目が離せなくなって、アシタカは幼獣の一挙手一投足をいっしんに見つめる。
幼獣はやがて群れに背を向けるようにして岩に張り付く苔を探し探し、アシタカの方へ近づいてきた。
風向きが変わる。
獣が顔を上げた。慣れない匂いをかぎ取る。
アシタカは肩にかけた縄を右手に握って立ち上がった。
獣と視線が交わる。
獣の目に怯えのほかに強い感情が一瞬よぎる。
考える前に体が動いた。
アシタカの腕は獣に向けて重石のついた縄を放った。それは正確に獣の後脚を絡め取る。
跳ねる獣の力に引かれて一歩、二歩と前に出る。
脚を痛めぬように力加減をしながら足を踏ん張った。
獣は散りぢりに逃げていく群れに向かってひと声呼ばわった。かなしげな声だった。
捕われていることを悟って獣はアシタカに向き直る。頭を低く下げてアシタカを睨みつける。
先ほどまでの怯えた風と打って変わって、獣の目には恐怖よりも大きな怒りが宿っていた。
脚を縄に縛られながらもその目に燃えているのは運命への怒りだった。姿勢を低くしたまま、まだわずかな額の膨らみに過ぎない角を狩人に向けて闘うことも辞さない構えだ。こんなに小さく痩せた身体で。
じりじりと縄を引きながら睨み合ううちに短い陽は落ちて、あたりは急速に暮れていった。
迷ったら負けだ、とアシタカは己に言い聞かせる。憧憬を抱いていたはずの山に生きる獣のありようを撓 めさせ、従えることに迷っている己を自覚していた。
守る者がなく飢えて死ぬならそれがこの獣のさだめではないのか、そこから逃れようと悪あがきしても、所詮は絡め取られて終いではないか。
一方でこの獣を助けたい思いがひどく沸き立ってもいた。母を亡くした子どもに己を重ねたのだといえば簡単なことだったが、それ以上に彼は獣が見せた怒りに感応していた。先の見えない運命に、微力でも迷いなく抗うその姿は紛うことなく美しかった。
しかし彼はその煌めきをこれからへし折る者なのだ。誇りを折り、服従させ、人里に押し込めてその道具とならしめる。獣が命と引き換えに得るのはそんな運命に過ぎない……。
迷いは縄を握った腕の力を鈍らせ、獣はその隙をついて逃げようともがいた。
――もうしかたがないのだ、そなたも、わたしも。こうするしかないのだ。
半ば投げやりになってアシタカは声に出して言う。諦めがある種の力を呼び込むことがあるのを彼は知っていた。ほんの少し緩んだ縄を今度は強めに引く。獣との距離はあと四歩ほどである。
山の稜線から最後の光が消えるのとほとんど同時に、獣の仔の目の中の光が消えた。抵抗が弱まった縄をさらに引いて、アシタカは四歩の距離をひと息に引き寄せると獣の仔を腕の中におさめた。縄を首にかけ直し、暴れる獣に何度も頭突きを喰らってよろけながら岩山を下る。両腕におさまるほどの獣の力は存外強く、アシタカは何度も尻餅をつく。最後には尻をついたまま滑り落ちるように崖を降りた。
じいじや叔父から聞かされてきた武勇伝と違ってずいぶん無様なものだな、と擦り剝けた手のひらをこすりながら思った。
川沿いの大樹の陰で火を焚いて夜明かしの準備をした。
猿梨の実と道中で集めた笹の葉を乾いた地面に置き、少し離れて待つと、アカシシの仔は警戒しながらも近寄ってきた。村で世話をしていた春生まれの仔より赤みの強い毛並みは柔らかそうで、触れてみたいと思ったがこらえた。
アカシシは食べ物の少し手前で立ち止まって動かない。アシタカはさらに数歩下がって待った。
ひとりでアカシシを捕らえて連れ帰ればさぞ誇らしかろうと今朝は思ったのに、いざ獣を目の前にしてそれを誇る気持ちはついぞ湧いてこなかった。
獣の本性を曲げさせたのだ、という苦い悔いと、それでも自分が捕らえなければこの仔は飢えて死んでいたに違いないのだから、と肯じようとする思いが拮抗していた。
いずれにせよ、里へ帰ればこの獣は長となる者の威信の象徴となるのだ。叔父が再三言っていた「群れで一番よく肥えた雄をな」という言葉にこの子は反しているだろう。
それでもここで生きるしか道はないのだ、ふと空を見上げて思う。叔父の前から消え失せたら彼は喜ぶのではないかと捨て鉢な思いも過ったが、捨て去るには彼はあまりにこの山を、里を慈しんでいた。
――長となることが揺るがぬなら。
アカシシ一頭だけではない、村ひとつの命運を左右しかねない力を持たずにはいられぬものなら、それを正しく使えればこの柵 に満ちた掟を変えることもできるかもしれないのだ。たとえば女子は交易に出てはならないといった掟も。
ならばやはり、この小さな獣を連れて帰らねばならない。
――もうしかたがないのだ。
再び口にした言葉は思いのほかずしりと胸の奥に落ちて、喉に熱い塊がせり上がったが、アシタカは慎重にそれを飲み込んだ。彼はもうこらえることに慣れてしまっていた。
獣はただ見ている。
蓑をかぶって眠った翌朝、背中にかすかなあたたかさを感じて後ろを振り返ると、アカシシの仔が遠慮がちに身を寄せていた。アシタカが起きたのに気づいて慌てて逃げようとするのが不憫だった。
地面に置いた猿梨と笹の葉はきれいになくなっていた。
繋いだ木の向こうから覗く眼差しが昨日よりは優しいように見えて、アシタカは一掴みの塩をてのひらに乗せてゆっくりと差し出してみる。
獣は恐る恐るという足取りで近寄ると、薄紅色の鼻をひくつかせてにおいを嗅いだ。
さらにいっときの逡巡ののち、はじめに湿ってひんやりとした鼻先が、それからあつくやわらかな舌がてのひらに触れた。
不意に強風が吹き荒れるような愛おしさが襲った。この先あらゆる飢えと寒さから遠ざけ、あらゆる危険と恐怖からその身を守ってやるのだ、我が身を擲っても、この小さな獣だけは。
アシタカは身のうちの嵐に戸惑いながらアカシシを驚かせないようゆっくりと立ち上がって縄を木から解いた。
獣の名は明け方の夢うつつに彼のもとを訪れていた。
「わたしと一緒においで、――ヤックル」
**********
月影を頼りに夜通しヤックルを進めて村の西に聳え立つ峠を越えた。かの猪神の足跡は崖の道にくっきりと焦げ跡を残して続いていた。
東の空が明るむと、アシタカはひりつく右腕も体の芯に居座る疲れにも構わずヤックルを駆けさせた。
速く、速く。あの里から、カヤの瞼からついに溢れることのなかった涙から、一刻も早く遠ざかるように。
水辺で短い休憩を取った。荒い息をしながらふたりで水を飲む。
簡単には引き返せないだけ遠くへとにかく早く行きたい、という思いは立ち止まるとさらに強まった。
「もう少しだけ、私の我が儘につきあってくれるか」
鞍を直しながら言うと物言わぬ獣は静かに頬に鼻づらを寄せる。胸の和毛に顔をうずめると身体の奥でごうごうと呼吸の音がした。生きている。ヤックルも、己も、まだ。
ヒイ様がかすかな希望とともに語った道はひどく不確かなものに思えた。
夜明けの薄明は空をわずかに照らすばかりだ。光はまだ遠く、これだけを見れば日の出とも日の入りともつかない青白い空には紫雲がたなびいていた。彼の先に待つのは落日か、それとも光明だろうか。
あたたかい胸から顔を離すと、アシタカはヤックルの背に跨った。
ヤックルは黙って手綱の命ずるところを待つ。この獣がいる限り、足掻いてみよう、もう何も背負うものはないのだから。
アシタカは獣の首のあたりを叩いて言う。
「ヤックル、行こう」
地の果てまでも、ともに。
足早に薮を掻き分けて進もうとして急に地面がなくなり、転げ落ちながら咄嗟に木に絡む蔓を掴んだのも束の間、思いのほか脆かった山葡萄の枯れた蔓の先が、握り締めた手の先で無惨に千切れていた。
助けを呼ぼうと崖上に向かって口を開きかけて飲み込んだ。一番近くにいるはずの叔父は、彼がそこから遠ざかろうと脇目も振らず森を突っ切ってきた当の理由であったから。
一昨年
この夏はアシタカのまだ少ない記憶にあるうちでもとりわけ寒かった。陽はなかなか差さず、冷たい風がひっきりなしに山から吹き下ろし、村の南に広がるアカシシを放つ牧場の草が育たなかった。代わりに麦をやろうにもこの分では人の冬越しの蓄えにも足りない始末、アシタカは野良仕事の合間を縫ってカヤたち年少の子らとともに早朝から山を駆けずりまわって若葉や笹を集めたが、それでもアカシシたちはしだいに痩せていった。
春に生まれたばかりの幼獣たちは肥える間もなく、盛夏の前に病が流行ってあっけなく死んだ。
――こういうことは時々起こるものだ。小さな群れで暮らしていればいずれ血が濃くなって弱い仔が生まれる。時には野に生きる強い血と
そもそもはこの春生まれた仔の中で育ちの良い一頭がアシタカに与えられるはずだったのだ。
村では十二、三になれば男子にはアカシシが与えられる。少年たちはアカシシの幼獣とともに大きくなる。じいじの若い頃には、少年たちは暇さえあればアカシシに跨って狩りに出、獲物の数を競い合うようにして弓と刀の扱いを覚えていくものだったという。
そうして一人前に乗りこなせるようになれば、長の信篤い者は交易についてゆくこともできるのだ。春と秋の二度、毛皮や干し肉をアカシシの背に積み、懐には川で採れた砂金を携えて、口伝えだけで受け継がれてきた道を辿り、常には禁じられている峠を越えて麓の里へ下りて行く。ヤマトの城塞へは決して近寄らぬこと、村の場所は決して口外せぬこと、いくつもの掟を固く守れる者にだけ与えられる使命だった。
幾日も旅して手に入れてきた木綿に絹糸、染料、塩と酒、海の魚、時に鋳鉄などのめずらかな品は子どもらを夢中にした。隊の戻った日はちょっとした祭りになる。
アカシシは交易の要であり、狩りに見張りに、畑仕事に、生活のすべてに欠かせない家畜であったから、長となる者が自分のアカシシを持たないわけにはいかなかった。
色づき始めた森の中、彼の数歩前を行く叔父は上機嫌だった。アカシシを持てばお前も一人前だ、できるだけ早く妻を
「カヤにはたくさん子を産んでもらわねばな」
――カヤ。その名を聞いて違和感は決定的なものになった。
いつだったか、まだ暗いうちに交易に発つ一行のあとを追って二人でこっそり門をくぐり、行き先を確かめようとした。仕置きとしてひと晩蔵に込められたことをものともせず、カヤも大人になったらアカシシに乗って交易に行きたい、と目を輝かせていた、妹のように一緒に育った娘。
カヤが妻になることは幼い頃から決まったことだった。辿っていけば誰もがどこかで交わる狭い村のこと、カヤとはもっとも血が遠い。カヤに何かあれば他の二人の娘のうちのどちらかを選ぶことになるだろう。それだけのことだ。父も叔父も、皆がそうしてきた。なのにアシタカはそれをうまく呑み込むことができないのだった。
「カヤにも望みがありましょう」
アシタカの声に隠し切れない苛立ちがにじんでいることに気づいてか、叔父は振り返った。その目には先ほどまでの声色とは打って変わった、見慣れた嘲笑が浮かんでいた。不本意な形で手にした族長の地位だったが、それでも譲るときが刻一刻近づいてくるのを彼は恐れているように見えた。
アシタカの発する問いはたびたび叔父を不機嫌にした。叔父にとっては自明の掟を彼が簡単には聞き入れないことをはじめは面白がっていたものの、徐々に苛立ちを隠さなくなっていった。最近では何事か異を唱えるたびに嘲笑を隠さない。
「お前は村が滅びることより女に勝手をさせることが大事と見える」
叔父は挑発するように言う。
「あれを娶るのが気に入らぬなら、ヤマトの里から娘でも攫ってくるがよい。かつて我らの祖がしていたようにな」
それを聞いた瞬間にアシタカの目の奥で火花が爆ぜた。
「カヤは、」思わず零れ出た声は震えていたが止めることはできなかった。「女子は子を生すための道具ではありません!」
衝動のままに叫んで睨みつけた叔父の目の冷たさに弾き返されるように背を向ける。
アシタカヒコ、と連れの男が呼ぶのを「放っておけ」と一喝する叔父の声を背中に聞きながら、ただ叔父のもとから遠ざかろうとしゃにむに藪を掻き分けて歩いた。
耳にこびりつくその声から逃れるようにがむしゃらに歩いて、――踏み出した足の先から忽然と地面が消えたのだった。
色づいた
髷を結うために伸ばしていた髪が邪魔で振り払うと、アシタカは自分のいる場所を確かめようとあたりを見回した。
崖下は訪れたばかりの秋に染まりつつあった。かすかな風にも次々と枝から離れる橅の葉が散って地面は
この地の秋は短い。橅の最後の葉が落ちる前に山には雪が降り積み、数頭の雌と子どもの小さな群れで秋までを過ごしたアカシシたちは、冬が到来しきる前に大群を作って雪の少ない低地へ下りていく。母親から引き離すのが早すぎれば乳が足りずに大きく育たず、遅すぎれば人に馴れない。捕らえるに適した季節は短く、今日はその貴重な一日のはずだった。
アシタカは手足に痛みがないのを確かめると、水音のほうへ斜面を降りていった。
平らな岩と倒木の隙間を縫うように流れる渓流は、苔の深緑の上に鮮やかな紅と黄金を纏って静かに流れていた。
皮袋に水を満たそうと流れに近づいて、アシタカは湿った土の上に散らばる足跡に気づいた。鹿よりも大きく、先の広がった二本の蹄は見慣れたアカシシのものに違いなかった。
いっとき皮袋のことも叔父のことも忘れて検分する。数頭の大人とそのまわりを跳ねまわる子ども――朝から探していた、雌と子どもの群れである。
足跡は渓流で喉を潤したあと、上流へ向かっていた。
この流れを下った先、二手に分かれた東側を流れるのが彼の村が生活用水を引いている川だ。叔父たちの計画では森の中を川に沿って上流へ向かったあと、尾根伝いにアカシシの棲む北の崖山へ向かう手筈だった。
場所の検討がつくとアシタカはひそかに高鳴っていた胸を撫でおろした。激情に駆られて叔父に歯向かうことは今までにもないではなかったが、これだけはっきりと反逆したのは初めてだったからだ。どうやら全く見ず知らずの土地まで来てしまったわけではないらしい。
すぐに合流できるかもしれない、という思いと、ひとりでアカシシを捕らえて叔父たちの鼻を明かしてやりたい、という思いがせめぎ合った。
姿を消したアシタカを探して叔父たちが追ってくるとは念頭に浮かばなかった。先の対立は決定的な訣別だった――少なくともアシタカにとっては。
じいじに仕込まれた、アカシシを捕らえるための技と道具は彼も備えている。このままひとりでアカシシの足跡を追うことを彼なりの覚悟でもって決めると、背負い袋の中の、女たちが持たせてくれた粟餅の包みを確かめた。少し考えて、三つあるうちの一つだけを食べた。
蒸した粟を
――お前には辛い時代が来るやもしれぬ。だが決して短慮を起こすな。長は百年、二百年先を見据えて村を治めるのだ。
病の床からアシタカの肩を掴んで諌める父の声が耳に蘇って彼は足を速める。
叔父には息子がいない。アシタカの二年あとに生まれた叔父の子は最初の冬を越えられなかった。そのあと続けて生まれた三人はみな女子だった。昨年は死産が一人、山に迷い込んで見つからなかった幼子が一人。アシタカの上にはもう成人して妻を娶った若者が一人いるきり、今の彼に弓の腕を競い合う相手はいない。
死は老人だけのものではなく、いつでもすぐ隣で息を潜めているものだった。アシタカがその手に絡め取られなかったのは偶さか巡り合わせが良かったに過ぎない。
慣れる暇も与えず次々と襲い来る困難を
叔父の含みのある眼差しから逃れるように、西の山に設けられた櫓の下で弓矢の稽古に勤しむ彼にじいじは何も言わずに手ほどきをした。やがて彼は大人にも引けを取らない腕になった。狩りでは一人前に役目を任されるようにもなった。
もう立派な男だ、いつでも長を継げるぞ。村の者からそう誇らしげに言われるたび、頭上に石の蓋が置かれたような胸苦しさに襲われるのだった。
いつの間にかアシタカはひとりで森に入ることを好むようになった。
野に生きる獣は彼の目にかなしむことも悼むこともないかのように超然として見える。時に彼の放つ矢を受け取って血肉となることも厭わないその姿は、いくぶんかの自棄をも含んだ憧憬を呼び起こさずにいなかった。
しばらく歩いて渓流に面する大岩を越えると、火のような赤い葉に覆われた桂の大樹が現れた。その幹に絡みつく蔓とまるい葉を見つけてアシタカは思わず歓声を上げて走り寄る。渓流に足を浸すようにして根を張る桂に、
獣たちがこぞって糧にする猿梨は山仕事の折に偶さか出会えるご馳走である。すぐさま手を伸ばしかけて、頭上の枝に座ったコダマが笑っているのが目に入り慌てて引っ込める。ヒイさまから教わった、山の恵みを分けてもらう時の祈りを捧げた。
アカシシたちもこの恵みを思うさま味わったと見えて、木の周りには足跡が散らばり、低い位置にある実はあらかた食べ尽くされていた。
アシタカは幹に足をかけて蔓を引き寄せ、届く分だけ実を捥いだ。捥いだ手をそのまま口に運ぶ。甘酸っぱい果汁が喉を滑り降りる。
手の届かない高い場所の枝にはまだこぼれんばかりの実が生っている。
自分が腹を満たすだけ採っても獣たちの分は残るだろう、そう判断してアシタカはその艶々とした若緑の実を背負い袋に詰め込んだ。これだけあればカヤや他の子たちにも分けてやれそうだ。
頼もしい重みを背中に感じながらアシタカはさらに上流へ向かっていった。
日が傾いて空が橅の葉と同じ色に染まり始める。渓流を離れて斜面を登り始めた足跡は、叔父たちと向かっていた北の崖の西隣に聳える岩山へ向かっていた。
時に四つ這いになりながら岩山を中腹まで登ると、ようやく足跡の主たちの姿を見つけた。数頭の雌とその仔たちが転々と岩場に散って、低木の若葉や岩に生した苔を一心に食んでいる。
アシタカは投げ縄を手に、岩に身を隠して群れに近づいた。じいじから手ほどきを受けた投げ縄は弓矢と並んでアシタカの得意だ。息を潜めて一頭一頭に目を走らせる。
思わず目が留まったのは周りの仔よりひとまわり小柄な幼獣だった。心許なげに成獣に近づいては離れ、困ったように少し草を食んではまた近づくことを繰り返している。
群れを見渡せばすぐにその理由が知れた。成獣が三頭――幼獣が四頭。
アカシシは一度に一頭だけを産む。この仔には親がないのだ。狼にでも襲われたか、それともこの夏に里でも流行った病か。
毛には艶がなく、どこか怯えた風な仕草は守る者のいないせいだった。なぜだか目が離せなくなって、アシタカは幼獣の一挙手一投足をいっしんに見つめる。
幼獣はやがて群れに背を向けるようにして岩に張り付く苔を探し探し、アシタカの方へ近づいてきた。
風向きが変わる。
獣が顔を上げた。慣れない匂いをかぎ取る。
アシタカは肩にかけた縄を右手に握って立ち上がった。
獣と視線が交わる。
獣の目に怯えのほかに強い感情が一瞬よぎる。
考える前に体が動いた。
アシタカの腕は獣に向けて重石のついた縄を放った。それは正確に獣の後脚を絡め取る。
跳ねる獣の力に引かれて一歩、二歩と前に出る。
脚を痛めぬように力加減をしながら足を踏ん張った。
獣は散りぢりに逃げていく群れに向かってひと声呼ばわった。かなしげな声だった。
捕われていることを悟って獣はアシタカに向き直る。頭を低く下げてアシタカを睨みつける。
先ほどまでの怯えた風と打って変わって、獣の目には恐怖よりも大きな怒りが宿っていた。
脚を縄に縛られながらもその目に燃えているのは運命への怒りだった。姿勢を低くしたまま、まだわずかな額の膨らみに過ぎない角を狩人に向けて闘うことも辞さない構えだ。こんなに小さく痩せた身体で。
じりじりと縄を引きながら睨み合ううちに短い陽は落ちて、あたりは急速に暮れていった。
迷ったら負けだ、とアシタカは己に言い聞かせる。憧憬を抱いていたはずの山に生きる獣のありようを
守る者がなく飢えて死ぬならそれがこの獣のさだめではないのか、そこから逃れようと悪あがきしても、所詮は絡め取られて終いではないか。
一方でこの獣を助けたい思いがひどく沸き立ってもいた。母を亡くした子どもに己を重ねたのだといえば簡単なことだったが、それ以上に彼は獣が見せた怒りに感応していた。先の見えない運命に、微力でも迷いなく抗うその姿は紛うことなく美しかった。
しかし彼はその煌めきをこれからへし折る者なのだ。誇りを折り、服従させ、人里に押し込めてその道具とならしめる。獣が命と引き換えに得るのはそんな運命に過ぎない……。
迷いは縄を握った腕の力を鈍らせ、獣はその隙をついて逃げようともがいた。
――もうしかたがないのだ、そなたも、わたしも。こうするしかないのだ。
半ば投げやりになってアシタカは声に出して言う。諦めがある種の力を呼び込むことがあるのを彼は知っていた。ほんの少し緩んだ縄を今度は強めに引く。獣との距離はあと四歩ほどである。
山の稜線から最後の光が消えるのとほとんど同時に、獣の仔の目の中の光が消えた。抵抗が弱まった縄をさらに引いて、アシタカは四歩の距離をひと息に引き寄せると獣の仔を腕の中におさめた。縄を首にかけ直し、暴れる獣に何度も頭突きを喰らってよろけながら岩山を下る。両腕におさまるほどの獣の力は存外強く、アシタカは何度も尻餅をつく。最後には尻をついたまま滑り落ちるように崖を降りた。
じいじや叔父から聞かされてきた武勇伝と違ってずいぶん無様なものだな、と擦り剝けた手のひらをこすりながら思った。
川沿いの大樹の陰で火を焚いて夜明かしの準備をした。
猿梨の実と道中で集めた笹の葉を乾いた地面に置き、少し離れて待つと、アカシシの仔は警戒しながらも近寄ってきた。村で世話をしていた春生まれの仔より赤みの強い毛並みは柔らかそうで、触れてみたいと思ったがこらえた。
アカシシは食べ物の少し手前で立ち止まって動かない。アシタカはさらに数歩下がって待った。
ひとりでアカシシを捕らえて連れ帰ればさぞ誇らしかろうと今朝は思ったのに、いざ獣を目の前にしてそれを誇る気持ちはついぞ湧いてこなかった。
獣の本性を曲げさせたのだ、という苦い悔いと、それでも自分が捕らえなければこの仔は飢えて死んでいたに違いないのだから、と肯じようとする思いが拮抗していた。
いずれにせよ、里へ帰ればこの獣は長となる者の威信の象徴となるのだ。叔父が再三言っていた「群れで一番よく肥えた雄をな」という言葉にこの子は反しているだろう。
それでもここで生きるしか道はないのだ、ふと空を見上げて思う。叔父の前から消え失せたら彼は喜ぶのではないかと捨て鉢な思いも過ったが、捨て去るには彼はあまりにこの山を、里を慈しんでいた。
――長となることが揺るがぬなら。
アカシシ一頭だけではない、村ひとつの命運を左右しかねない力を持たずにはいられぬものなら、それを正しく使えればこの
ならばやはり、この小さな獣を連れて帰らねばならない。
――もうしかたがないのだ。
再び口にした言葉は思いのほかずしりと胸の奥に落ちて、喉に熱い塊がせり上がったが、アシタカは慎重にそれを飲み込んだ。彼はもうこらえることに慣れてしまっていた。
獣はただ見ている。
蓑をかぶって眠った翌朝、背中にかすかなあたたかさを感じて後ろを振り返ると、アカシシの仔が遠慮がちに身を寄せていた。アシタカが起きたのに気づいて慌てて逃げようとするのが不憫だった。
地面に置いた猿梨と笹の葉はきれいになくなっていた。
繋いだ木の向こうから覗く眼差しが昨日よりは優しいように見えて、アシタカは一掴みの塩をてのひらに乗せてゆっくりと差し出してみる。
獣は恐る恐るという足取りで近寄ると、薄紅色の鼻をひくつかせてにおいを嗅いだ。
さらにいっときの逡巡ののち、はじめに湿ってひんやりとした鼻先が、それからあつくやわらかな舌がてのひらに触れた。
不意に強風が吹き荒れるような愛おしさが襲った。この先あらゆる飢えと寒さから遠ざけ、あらゆる危険と恐怖からその身を守ってやるのだ、我が身を擲っても、この小さな獣だけは。
アシタカは身のうちの嵐に戸惑いながらアカシシを驚かせないようゆっくりと立ち上がって縄を木から解いた。
獣の名は明け方の夢うつつに彼のもとを訪れていた。
「わたしと一緒においで、――ヤックル」
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月影を頼りに夜通しヤックルを進めて村の西に聳え立つ峠を越えた。かの猪神の足跡は崖の道にくっきりと焦げ跡を残して続いていた。
東の空が明るむと、アシタカはひりつく右腕も体の芯に居座る疲れにも構わずヤックルを駆けさせた。
速く、速く。あの里から、カヤの瞼からついに溢れることのなかった涙から、一刻も早く遠ざかるように。
水辺で短い休憩を取った。荒い息をしながらふたりで水を飲む。
簡単には引き返せないだけ遠くへとにかく早く行きたい、という思いは立ち止まるとさらに強まった。
「もう少しだけ、私の我が儘につきあってくれるか」
鞍を直しながら言うと物言わぬ獣は静かに頬に鼻づらを寄せる。胸の和毛に顔をうずめると身体の奥でごうごうと呼吸の音がした。生きている。ヤックルも、己も、まだ。
ヒイ様がかすかな希望とともに語った道はひどく不確かなものに思えた。
夜明けの薄明は空をわずかに照らすばかりだ。光はまだ遠く、これだけを見れば日の出とも日の入りともつかない青白い空には紫雲がたなびいていた。彼の先に待つのは落日か、それとも光明だろうか。
あたたかい胸から顔を離すと、アシタカはヤックルの背に跨った。
ヤックルは黙って手綱の命ずるところを待つ。この獣がいる限り、足掻いてみよう、もう何も背負うものはないのだから。
アシタカは獣の首のあたりを叩いて言う。
「ヤックル、行こう」
地の果てまでも、ともに。
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