還り来る風
ヤラとヒワの再会が叶ったのはそれからしばらく経った、初夏を思わせる日差しの照りつける日だった。ヒワはアシタカと一緒にヤックルに乗って湖のほとりの林へやってきて、ヤラの望み通り草笛の作り方を教えてくれた。ヤラが思ったよりも早く打ち解けた風なのを見てサンは胸を撫で下ろした。
ヤックルに水を飲ませ終えたアシタカが近づいてきて、サンの腰掛ける日向の平らな岩の隣に座った。草笛の出来に満足したヤラとヒワは次には浅瀬に石を積んで魚捕りの罠を作る算段をしていた。石だけでは心許なかったのか、葉のついた小枝を集めることにしたようだ。ヤラの枝角が茂みの中に分け行って揺れていた。
シシ神の森から風がやってきた。かつて闇深い森になすすべなく蹲っていた幼い生贄の頬を撫で、月光に煌く白銀の毛並みを揺らがせ、月の出に生まれ変わる獣を目覚めさせたのと同じ風が、みどりごの産声のように湖の水面をさざめかせ、ヤラとヒワの色の違う髪を揺らして草原を渡っていった。
アシタカ、とサンは傍らに座る人間の名を呼んだ。
「ずっと前にタタラ場でやりたいことがあると言っていたろう。あれは叶ったか」
アシタカは少し考えるように湖を見やった。
「分からぬ。一生分からぬままかもしれないな。死者と交わした約束だから」
その横顔は歓声をあげる子ども達を通り過ぎ、湖の向こう、遠く若緑に冴え渡るシシ神の森を見ていた。その死者の眠っているだろう池の縁は、少し前にヤラを連れて行った時には朽ちた倒木の上に芽吹いた若木が威勢良く枝を伸ばして、苔と羊歯の喜ぶ日陰を作っていた。
「もしそれが叶う時が来たら、私たちの巣穴に来て一緒に暮らさないか」
サンはかまわず言った。
驚いたようにアシタカの視線が戻ってきて、見開いた目が少しの間サンを見つめた。
「サンがそう言ってくれるなら、近いうちに、必ず」
そう言って光のように笑った。
その実直な眉に憂いを纏わせていたのはきっと自分だったのだと思うと詫びたいような気もしたが、彼がそれを受け取らないだろうこともわかっていた。代わりにサンは手を伸ばして彼の頬に一筋白く残る薄い傷跡を指でそっとなぞった。不思議そうに見返すアシタカに笑んで立ち上がる。
「あの子だち、あの調子じゃ魚が入ってきてくれる頃には日が暮れてる。向こうの原の栃 の木を見にいかないか」
アシタカより先に役目に気づいて歩み寄ってきたヤックルの鼻面を撫でながらサンはアシタカに手を差し伸べる。
「ずっと元気がなかったけど、この春は立派な蕾をつけていた。もう咲いてる頃だ。きっと今年はたくさん実りがあるよ」
手を取るアシタカの毛皮のない手のひらは背に降る陽光より少しだけあたたかかった。風に誘われるように振り仰ぐと、枝に群れなすコダマ達の笑い声が木漏れ陽と一緒に降ってきた。
<おわり>
ヤックルに水を飲ませ終えたアシタカが近づいてきて、サンの腰掛ける日向の平らな岩の隣に座った。草笛の出来に満足したヤラとヒワは次には浅瀬に石を積んで魚捕りの罠を作る算段をしていた。石だけでは心許なかったのか、葉のついた小枝を集めることにしたようだ。ヤラの枝角が茂みの中に分け行って揺れていた。
シシ神の森から風がやってきた。かつて闇深い森になすすべなく蹲っていた幼い生贄の頬を撫で、月光に煌く白銀の毛並みを揺らがせ、月の出に生まれ変わる獣を目覚めさせたのと同じ風が、みどりごの産声のように湖の水面をさざめかせ、ヤラとヒワの色の違う髪を揺らして草原を渡っていった。
アシタカ、とサンは傍らに座る人間の名を呼んだ。
「ずっと前にタタラ場でやりたいことがあると言っていたろう。あれは叶ったか」
アシタカは少し考えるように湖を見やった。
「分からぬ。一生分からぬままかもしれないな。死者と交わした約束だから」
その横顔は歓声をあげる子ども達を通り過ぎ、湖の向こう、遠く若緑に冴え渡るシシ神の森を見ていた。その死者の眠っているだろう池の縁は、少し前にヤラを連れて行った時には朽ちた倒木の上に芽吹いた若木が威勢良く枝を伸ばして、苔と羊歯の喜ぶ日陰を作っていた。
「もしそれが叶う時が来たら、私たちの巣穴に来て一緒に暮らさないか」
サンはかまわず言った。
驚いたようにアシタカの視線が戻ってきて、見開いた目が少しの間サンを見つめた。
「サンがそう言ってくれるなら、近いうちに、必ず」
そう言って光のように笑った。
その実直な眉に憂いを纏わせていたのはきっと自分だったのだと思うと詫びたいような気もしたが、彼がそれを受け取らないだろうこともわかっていた。代わりにサンは手を伸ばして彼の頬に一筋白く残る薄い傷跡を指でそっとなぞった。不思議そうに見返すアシタカに笑んで立ち上がる。
「あの子だち、あの調子じゃ魚が入ってきてくれる頃には日が暮れてる。向こうの原の
アシタカより先に役目に気づいて歩み寄ってきたヤックルの鼻面を撫でながらサンはアシタカに手を差し伸べる。
「ずっと元気がなかったけど、この春は立派な蕾をつけていた。もう咲いてる頃だ。きっと今年はたくさん実りがあるよ」
手を取るアシタカの毛皮のない手のひらは背に降る陽光より少しだけあたたかかった。風に誘われるように振り仰ぐと、枝に群れなすコダマ達の笑い声が木漏れ陽と一緒に降ってきた。
<おわり>
5/5ページ