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還り来る風

 ヤラが来てからサンはよく笑うようになった、とアシタカはヤックルの毛を梳いてやりながら思った。ヤラは洞窟のそばの草地で、木の幹を的にサンから弓の手ほどきを受けていた。ヤラの背丈に合うようにアシタカが作ってやった弓とやじりを付けず枝の先を尖らせただけの簡素な矢だったが、ヤラはサンほどに筋がいいとはとても言えなかった。ヤラはどちらかといえば、あらぬ方へ飛んでいった矢を取りに木登りをすることの方を楽しんでいるようだった。サンがふざけて的の木の奥にある茂みへ矢を射ると、また歓声をあげて飛び出していく。
 こうして見ていれば、髪の色を除けばどこにでもいる子どもだった。森の中にいればむしろその髪は周囲に溶け込んで見えた。
 とはいえ、ヤラが頻繁に熱を出して寝込むことがじわじわとサンの体力を奪っているのが気がかりだった。サンは山犬たちと狩りに出る回数を大きく減らしているようだった。
 気がかりといえばもうひとつあった。故郷では夜ごと彷徨い出ては森の奥深くまで迷い込み、次第に人里から遠ざかっていく者が時折出た。山の神に呼ばれたのだ、と村では言い習わしていた。アシタカの幼い頃にもそうして消えてしまった子どもがいた。ヒイさまがいずれかんなぎにと目をかけていた子だったが、ある夜親の目を縫って出て行ったきり戻らなかった。
 木の枝に腰掛けたヤラが、寄ってきたコダマ達の群れに混じって話し込んでいるかのような光景は既に見慣れたものになっていた。ヤラのどこか遠くを見晴かすような目にはアシタカの見るうつつとは違うものが映っているようだった。
 あるいはこの子も巫覡ふげきの類だろうか。だとしたら――。
 そのことはサンには言わなかったが、アシタカの懸念を嗅ぎ取ったように、いつしかヤラを見つめるサンの顔にはっきりとしたかげりが見え始めた。秋の野が黄金に色づいて爽籟そうらいを奏で、陽の落ちるのが早くなってきていた。
 アシタカの持ち込んだ、タタラ場の子らの作った他愛のない玩具にヤラと一緒になって四苦八苦して笑い転げたあと、あるいは集めてきた椎の実の殻を剥く真剣なヤラの横顔を愛おしげに見つめたあとに、サンはふと表情を固くするのだった。
「何か憂いがあるなら話してみないか」
 秋が深くなり、朝夕に峰から身を切るような寒風が吹き下ろすようになる頃、手慣れた様子でヤラのための薬湯を煮出しているサンにアシタカは声をかけた。
 サンは一瞬動きを止めた後、決意を固めるようにゆっくりと息をひとつ吐いてアシタカの方へ振り返った。「アシタカに頼みたいことがある」

 ヤラが山犬達の毛並みに包まれて眠ってしまったあと、ちろちろと燃える竃の火のそばでサンは言った。
「あの子を冬の間タタラ場に置いてやってくれないか」
 山犬たちが驚いたように顔を上げた。ヤラが腹にもたれて眠っているので起き上がりはしなかったが、不満げな鼻息で異議を唱えた。
「構わないが、なぜ。サンは平気か」
「この子は体が弱い。ここの冬は厳しい。それにこの子がもしこの先、人里で暮らしたくなったら」
 サンの顔に切実な色が浮かんだ。
 ――私には選びようがなかった。でもこの子にはアシタカがいる。私の時とは違う。ヤラは選べる。
 アシタカの肩を掴まんばかりの必死さでサンが言うのを押し留めながら、彼の懸念と同じものをサンも抱いていたのだ、と腑に落ちていた。
 タタラ場がそうであるのと同じように、ここにいるのは自ら選びようのないさだめに翻弄されて流れ着いた者たちだった。サンとの間に絆と呼べるものがあるとすればそれに違いなかった。
「そう、ヤラは選べる。サンがいるし私もいる。だから急ぐことはない」サンの焦燥をなんとか宥めてやりたくてアシタカは努めてゆっくりと言う。
「まずは何日か試してみよう。それであの子もどんな暮らしになるかわかるだろう」
 
 ヤラは拒否もしなければ興味も示さなかった。数日をタタラ場で過ごすという提案に、いつもの他に気を取られているような茫洋とした顔で曖昧に頷くだけだった。想像がつかなくても無理はない、とアシタカと顔を見合わせながら、サンは自分もそれを知らないことにじわりと不安が広がるのを心の片隅で感じていた。
 初めて地面に霜の降りた朝、迎えに来たアシタカに自分の椀と箸が手渡されるのを見てヤラは初めて不安げな表情を見せた。
「村には同じ年頃の子どももいるっていうから。友達ができるかもしれないよ」
 そう言って送り出しながら、苦いものが口の中に残った。
 何度も無言で振り返りながら遠ざかるヤラに手を振って、サンは洞窟に戻るとヤラの冬のくつにするつもりの野兎の皮をなめしにかかった。これが要らなくなる方がいいのだと思おうとしたが、口に残った苦味はなかなか消えていかなかった。
 モロに会いたい、と思った。柔らかい兎の毛皮を撫でながら、指先が痺れるように淋しかった。
 

 ヤラはタタラ場で一晩を過ごし、翌朝ヤックルとアシタカに送られて巣穴に戻ってきた。
 霧の出ているのをおして戻ってきたヤックルから下りたヤラとアシタカのひどく硬い顔を見て、サンは自分の過ちを悟った。
 蒼い顔をしたヤラは出迎えたサンのそばを無言ですり抜け、巣穴の奥で寝ていたきょうだい達の間に倒れこむようにもたれかかると、そのままことりと寝入ってしまった。
 トキとその娘のヒワが世話役を買って出て、何くれとなく面倒をみてくれようとしたが、アシタカの裾にしがみついて離れようとせず、村人とは結局一言も口をきかなかったという。エボシが前の年に死産をした夫婦に会わせようと連れて来た頃には、隅の暗がりにうずくまってすっかり固まってしまい、瞬きさえしないほどだった。
 ヤラに毛皮をかけてやったアシタカが努めて明るく話すのを聞きながらサンはいたたまれなかった。
 日が落ちそうになってもヤラは眠ったままだった。アシタカは近いうちにまた来る、と言い置いて後ろ髪を引かれる様子で帰っていった。

 子どもが目を覚ましたのは月が昇る頃だった。
 ヤラ、とそっと呼ぶと首だけを起こして戸惑うようにあたりを見回す。何度か呼んでやっと子どもは起き上がった。何度か視線を彷徨わせ、ここがどこかを理解するとようやくのろのろとサンの傍に歩み寄った。何か食べさせようとしたが子どもは突っ立ったまま動こうとしなかった。
「すまなかった。無理をさせたね」
 肩を抱いて言うと子どもはへたり込むようにその場に座り込んだ。それ以上何を言えばいいかわからなかったので、サンは黙って子どもの背をさすった。
「火がたくさんだったの。それから、人も」
 長い時間が経ってから子どもはようやく言った。
 子どもがおぼつかない言葉で懸命に伝えようとするのをサンは辛抱強く待った。少し背が伸びた子どもを抱き寄せて幼子にするように膝に乗せて揺する。ヤラの目が宿しているのが恐怖でしかないことに、サンは頭から冷水をかけられた心地がした。
「サン、」やがて落ち着きを取り戻したヤラは腕の中でまだ目を伏せたまま言った。「わたしはここを出て行った方がいい?」
 胸を衝かれてサンは息を呑んだ。
「そんなことはない。お前を追い出そうとして行かせたんじゃないよ」
 慌てて否定した言葉が思いのほか強く響いて、サンは子どもを怯えさせたかと顔を覗き込んだ。子どもは衣の裾を握り締めてじっとしていた。
「そうじゃないんだ。ヤラはいつまでだってここにいていい。ただ他にも暮らす場所があるって知って欲しかっただけだ。怖い思いをさせて悪かった」
 言葉を重ねても子どもを追い詰めるだけのような気がしてサンは黙った。大きく呼吸をして自分を落ち着かせると、慎重に、大事なところだけをゆっくりと話した。
「ここはヤラの巣穴だよ。ヤラは好きなだけここにいていいんだ。そしていつかお前が自分で決められる時が来たら、お前のしたいようにしな。風みたいにどこかへ飛んでいったっていいし、樫の木みたいに一つところに根を張って暮らしてもいい。ここでも、アシタカのところでも、どこか他の場所でも」
 子どもが納得したのかは表情からはわからなかった。ただ宙を見つめたまま、ほう、と微かに息を吐いて頷くとサンの腕にそっと触れた。「ヒワが草笛の作り方を教えてくれるって言ったんだけど」ぽつりと言いかけて声を詰まらせ、思い出したように嗚咽を漏らした。子どもはサンの胸に顔を埋めて小さく泣いた。
「しかたないよ。初めてだったんだから」叱られた仔犬みたいだと思いながらサンは子どもの髪を撫でた。子どもの気が済むまでそうしていた。
「またヒワに会える?」
 泣き止んだ子どもは首だけを傾けてサンを見上げる。
「会えるさ。村が辛かったらはずれの雑木林で落ち合うことにしよう。まだ木通あけびが残ってるかもしれないよ。ヒワにも生えてる場所を教えてあげるといい」
 ヤラは少し首を傾げて考えを巡らせた。木通の在り処をヒワに教えてやるという考えはヤラの心をほんの少し動かしたようだった。
「サンとにいさん達も一緒に?」
「ああ、一緒に。ヒワはヤックルが乗せてきてくれるよ」
 できる限りの笑顔を作ってサンは答えた。どうにか子どもの気持ちを立て直してやりたかった。サンの答えを聞いてヤラはやっと顔を緩ませた。張り詰めていた肩の線がほんの少しなだらかになる。小さな熱い両手でサンの右手をくるみこむようにして胸に抱えると、目を閉じて寝息を立て始めた。
 
 また眠り込んだヤラを寝床に運んで、サンは傍らに腰を落として深い溜め息をついた。
 天井岩の隙間から差し込む月明かりが長い睫毛の影をその横顔に落としている。ヤラのにおいはかつての闇深い森を思い出させた。どこから来たのかわからない、人の形をした愛おしい小さな生き物。
 子守唄のひとつも歌ってやれればよかったが、サンにはその持ち合わせがなかった。アシタカがヤラを寝かしつけながら口ずさむそれを子守唄と呼ぶことをサンはなぜか知っていた。知っていたことに気づいて聞こえないふりをした。
 ヤラの頬についた米粒を拭ってやる自分の指が、寝床で身を寄せてくるヤラを抱きとめる胸のぬくみが、ふと心の奥を揺さぶってサンの視界を反転させる。ヤラがサンを見るように、サンの頬を包む大きな手のひらが見える気がすることがあった。甘やかに香る髪のにおい、泣きながら縋った腕を受け止めたざらついた粗い布ごしの体温、薄闇で聴いたもう思い出せない旋律、反転した視界に映る、人間の里の風景。
 モロの毛並みの他には縋るものなどなかったと思っていた、モロの与えてくれたものだけで生きてきたと思ってきた歳月の輪郭が揺らぐのをサンはこの数ヵ月で感じていた。それがヤラの面倒をみるうちに揺り起こされた、サン自身の願いが見せた幻なのか、それともしまい込まれた遠い昔の記憶なのか、サンにはわからなかった。それはすでにサンの奥深くに織り込まれて分かつことのできないもので、痛みでありながらふくよかに甘かった。
 たぶん、とふっくりとまるい小さなヤラの頬の線を辿りながらサンは思う。たぶん、慌てて懐のうちに取り込むようにしてこの寒い洞窟に引き取ってしまったことのつぐないをしたかったのだ。殺意を浴びせながら生きて欲しいと願い、仲間になって欲しいと願いながらかつての敵のもとへよこす、サンを産み落とした誰かと同じに身勝手な望みを抱いたことを許されたかった。それらはすべて子どもの預かり知らぬことだったのに。
 湖のほとりで遠目に見るタタラ場の人間たちのひとりひとりにそれぞれの暮らしがあり、それぞれの悲しみがあることも今ではサンは知っていた。彼らがサンに向ける目から何年かをかけて敵意と恐怖が薄れていくのも見てきていた。それでも時折思い出したように火花を散らす埋み火のような怒りと憎悪とともに生きていくしかないのを、ひとりなら受け入れられたのかもしれなかった。
 サンはヤラの体にかけている毛皮を首まで引き上げて、胸の痛みと一緒にしっかりとくるんだ。すまなかった、と寝顔に向かってもう一度詫びた。
 ――私は自分で決めてここにいるよ、モロ。
 声には出さず呟いて、サンはヤラの隣に横たわった。
 次にアシタカが来た時には、あの唄の教えを乞うことにしよう。彼のいない夜にもこの子が安らかに眠れるように。
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