還り来る風
遠くの峰から山犬の吠え声が響いて、アシタカは夜半の闇の中で身を起こした。
声は緊迫した響きを帯びてアシタカに洞窟へ来るよう促している。
昨日までの嵐はタタラ場のいくつかの家の屋根を剥がし、斜面に築いた畑を崩していった。まだ若木の多い森のこと、土砂崩れもあったと今朝がた薬草を届けに来たサンは言っていた。薬草を採りに行った岩場で鷹の羽を拾ったと、自慢げに手渡してくれた顔が浮かぶ。矢羽にしようと眠る前に加工しかけた尾羽は枕元にあった。
あの時には変わりなかったが、帰途でサンの身に何かあったのだろうか。
長年のうちに二言三言、山犬の言葉を聞き分けられるようにはなったが、サンのように細やかに意を汲むには至らぬ我が身が歯痒い。アシタカは夜が明け切るのを待たずヤックルに鞍を乗せた。傷薬と晒し布、トキが急ごしらえで持たせてくれた握り飯を携えて森へ向かう。
すっかり鼻面の白くなった老いたヤックルは、心得たように通い慣れたサンの洞窟への道を辿り始めた。嵐の通り過ぎるあいだ厩に閉じ込められていたからか、足取りが嬉しげだ。
サンのきょうだいが急を知らせてきたのはあの年――シシ神の首が落ち、一夜にして森が蘇ったあの年の冬以来のことだった。
薄明の中、無事でいてくれと願いながら森へ向かううち、アシタカの心はとりわけ厳しかったあの冬へ彷徨い出て行った。
――帰れ、とサンは洞窟の入り口に立ちはだかって言った。冬の近い空が日に日に雲を厚くして雪の予感を色濃くしていた。
サンはアシタカがタタラ場から運んだ穀物を受け取ることを頑として拒んでいた。
「あの女の情けで生き存える命などいらぬ」
前に訪れた時よりも更に肉が削げて目ばかりがぎらぎらと光るサンの顔を力なく見返しながら、アシタカは米を抱えたまま、秋が深くなる頃からもう何度繰り返したかわからない問答をまた繰り返した。
「これはそなた達に命を救われたことへの返礼だ、エボシはそなたに情けをかけようとは思っておらぬ」
それが彼女の心に届かないことはもう分かっていたが、他に言葉を思いつけずにアシタカは仕方なく同じ言葉を繰り返した。言うほどにサンは巌のように身を固くし、しまいには踵を返して洞窟の奥へ入ってしまった。これまでと同じように。
タタラ場では皆が懸命に冬越しの準備をしていた。牛は皆流されてしまい、ヤックルの脚がなければ人里へ食糧の交換を乞いに行くのもままならない。アシタカが一日抜ければその分だけ備えは遅れる。
背筋を這い上ってくる焦りを宥めながらアシタカは洞窟に背を向けた。
曇天からこぼれ落ちるように降り始めた霙 に背を濡らしながら発つ時と同じ重さの荷を抱えて戻ったアシタカに、また受け取らなかったか、と自嘲気味に言ったエボシは、その数日後、矢筒に入ったひと抱えの矢を彼に手渡した。
――私の息のかかったものでは山犬の姫は承服すまい。そなたの腕で山犬の牙の届かぬ鳥なりと打てばよかろう。
エボシの凪いだ湖面のような面からは何の感情も読み取れなかった。ただ右肩からまっすぐに落ちる空虚な袖が何かを物語るように微かに揺れているだけだった。悔恨が滲んでいるように見えるのはアシタカの当て推量というものかもしれなかったが。
アシタカは深く頭を下げて、しばらく手にすることのなかった矢を受け取った。馴染んだ黒曜石の矢よりも幾分重く、切り裂くように飛ぶ鉄の矢で湖に渡ってきた水鳥を打った。
獲物を携えて次に洞窟を訪ねた時にはサンはいなかった。秋が深くなるにつれ、サンときょうだいは洞窟を留守にすることが多くなっていた。幾夜もかけて遠い森まで狩りに出ているのだった。入口の平らな岩の上には、両手に乗るばかりの栗の実が干してあった。
湖で獲った三羽の水鳥をそばに置いてアシタカは洞窟を去った。鉄のにおいが彼女らの怒りに触れぬように祈りながら。
雪が降り始めるとサンときょうだいの不在はさらに増えていった。
そうして積もった雪が昼を過ぎても解け切らなくなる頃、山犬の遠吠えがタタラ場のすぐ近くで響いた。
ヤックルと駆けつけると、湖のほとりまで来ていた山犬はサンが倒れた、とだけ言って身を翻した。
サンは洞窟の奥で獣のように丸くなっていた。被った毛皮の端からのぞく剥き出しの脚が寒々しい。アシタカが入っていっても、ちらと一瞥をくれたきり身を起こそうともしない。その顔の蒼さにアシタカは腹の底が冷えた。
冷たくなっていた竈に火を起こし、持参した鍋で雑穀と菜の粥を炊く。湯気が立ち始めてもあたりが温まった気のしないのは岩壁が熱を吸い取ってしまうせいか。
食べてくれ、と抱き起こそうとするのを拒むように、サンは自力で起き上がると躙 ってアシタカから離れた。億劫そうに岩壁にもたれかかる動作はいかにも緩慢で、かつて身の内から放たれていた燃えるような輝きは姿を消していた。
「サン、頼む。食べて、生きてくれ」
尚も椀を差し出すアシタカに、俯いたまま掠れた声で放った言葉はひどく投げやりだった。
「アシタカの頼みを聞くのはもうご免だ。お前はいつも勝手なことばかり言う」
それは事実に違いなかったのでアシタカは押し黙った。
夏からこちら、アシタカはたびたび洞窟へ通った。タタラ場の者が薪を取りに森に入っても良いか、あの斜面に炭焼小屋をかけて良いか、川のこちら側までを畑にしたいがどうか。サンに意を諮ることはいくらもあった。米を贖 う術を失ったタタラ場は冬が来る前に暮らしを立て直さねばならなかった。ほとんど吹き飛んでしまった家を再建するにはモロ一族の縄張りの木を伐らざるをえなかった。伐るのと同じだけ植えると約束したところで、既に破壊されたサンの故郷に追い打ちをかけることに変わりはなかった。サンが好きにしろ、と低く言うのを本心だと読み違えたつもりはなかったが、それに縋るしかなかった。
冷めてゆく椀を間において沈黙が洞窟を包んだ。
「サンはもう十分すぎるほど力を貸してくれた。私の頼みは聞かずともよい。だが」
何としても死なせたくない、たとえサン自身の望みに反しても。椀を持つ指が力んで震えた。お前に救えるか、と睨み据えたサンの母の声が過る。
――説得できぬなら、力尽くでタタラ場へ連れ帰ってでも。
「サンは私を生かしてくれた。私がサンに生きて欲しいと思うのは身勝手か」
サンは苦いものを口にしたように顔を[[rb:顰 > しか]]めた。膝の上に置かれた両の拳が握り締められて手の甲の骨が浮き彫りになる。
――私だって、
食いしばった歯の隙間から搾り出した掠れ声と一緒に頬を涙が伝った。
――死にたくなんかない。
濡れる頬を拭おうともせずに宙に浮いたままの椀をサンの骨ばった手が掴んだ。
しゃくり上げながらサンは食べた。ほとんど噛みもせずに冷たくなった粥を飲み込み、一口ごとに洟を啜っては飲み込み、しゃくり上げてはまた一口飲み込んだ。
ああ、彼女はこうして幾たびも飲み込み難いものを飲み込み、無理やりに咀嚼して生きてきたのだ。自分もそのひとつに過ぎないことに痛痒を感じる余裕はなかった。命を生かす代わりに彼女の魂を損なうことになるのだとしても、今は。
――生きろ、サン。
シシ神の池のほとりで痣の消えぬ腕を確かめて死にゆく定めを悟った朝、呪われ故郷を放擲 されてなお生きたかったのだという彼の望みを呼び覚ましたのはサンのぎこちない労りに違いなかった。
アシタカはただ非力な腕でサンの薄い肩を抱いて祈った。サンの頬を伝うのが、彼があの朝流した涙と同じ温度であるようにと。
故郷に比べると湿ってぬかるみやすい雪の中を、山育ちのヤックルの脚を頼りにアシタカは何度も洞窟へ行き来して食べ物を運んだ。瓦礫の中から掘り出した僅かな財と交換に、近隣の里から分けてもらった麦と稗は急拵えの畑でどうにか収穫にこぎつけていた。余分などありはしなかったが、エボシは必ず山犬の姫の取り分だと言ってアシタカにいくばくかを渡した。
何処 の神によってか、彼の希 いは聞き届けられ、タタラ場の者が作った穀物と菜でサンは冬を越した。石組みの簡素な竈と木椀が転がるばかりだった洞窟にアシタカの持ち込む人の道具が増えていくのを、サンは火が消えたような虚ろな目で見ていた。
頻々と通い詰める割にはほとんど会話を交わすこともなく時が過ぎ、やがて雪が止み、雲が割れて暖かい陽が射すようになった。
雪が解けて森が新芽に彩られ始めると、サンはヤックルと二人だけでふらりと出かけていくことが多くなった。アシタカが蔓で籠など編みながら洞窟で待っていると、またふらりと戻ってきて傍に屈み込み、無言で手元を眺めた。山犬たちは心得たように黙って見送り、黙って岩の上で陽に当たりながら出迎えた。
ぽつりぽつりとサンはアシタカの故郷やタタラ場の暮らしのことを尋ねるようになった。道すがら摘んだ山菜を洗っていると、「これが食べられるなんて知らなかった」とまだ仮面のような表情のままで呟いた。
「私の村ではよく食べた。これは薇 。こっちは蕨 。茹でて干しておけば保存も利く」
サンはどこか子どもじみた仕草で一本を摘み上げるとしげしげと眺めてにおいを嗅いだ。
――モロは猩々が食べるものは人間も食べられると思ったんだろう、木の実の在り処は教えてくれた。でも草や茸が食べられることは知らなかった。山犬の目に草木は食べ物とは映らないから。
指先で蕨を弄びながらサンは呟くように言った。
「秋に拾った木の実は冬の間に食べてしまうし、栗鼠や兎は痩せていてあまり腹の足しにならない。鹿の群れが見つからないと何日も食べるものがなかった。春が来る前がいちばんひもじかった……」
目を伏せたままサンがぼそぼそと話すのをアシタカは黙って聞いた。
「蕨は木を伐った後の開けた草地で殖 える。私の里でもそうだった。かつての森は戻らないが、こうして場所を譲られたものが私たちを養ってくれる」
それがサンにとって慰めにはならないことは承知していたので、彼は返事を待たなかった。黙って竈の灰を入れた湯で蕨を茹で、陽の当たる岩棚に並べて干した。サンはアシタカと目を合わせるのを避けるように一部始終を食い入るように見ていた。雨が降ったら取り込むように伝えて洞窟を辞す時、サンはまだ目を伏せたまま今度あれの採り方を教えてくれ、と言った。
彼の感覚からすればずいぶん早く訪れた春、田畑を起こす仕事をヤックルに任せてアシタカは多くの時間を森で過ごした。山菜採りに罠猟に弓矢、乞われるままにアシタカは村で受け継いだ知恵をサンに手渡した。もとよりサンの縄張りのこと、骨を掴めば飲み込みは早かった。野兎の足跡を追って岩山を行くうちに貴重な薬草の群生を見つけもした。
「これは血の道の病に効く。女たちがずいぶん助かるよ」
掘り起こした根の土を払いながら言うとサンの顔には何とも言えぬ苦い表情が一瞬過ぎったが、病の者は多いのか、と尋ねる声に気遣いが滲むのを隠し切れてはいなかった。あの女に借りを作りたくないから、と今後タタラ場が必要なだけを採って届けることを申し出さえした。
初めてサンの仕掛けたくくり罠に山鳥がかかった朝、これがあれば鹿のいない時もあの子達に食べさせてやれるな、と言って久方ぶりに見せた笑顔は頭上の春の陽のように穏やかだった。頬の朱の模様が両側に撓 んで柔らかな弧を描いた。
この曲線をもう二度と失いたくはなかった。
**********
日陰に残った朝露が消える頃、アシタカは洞窟に着いた。ヤックルは息を切らしながらも最後の岩山を一息に登り切った。
足音を聞きつけて洞窟から走り出てきたサンはひどく顔色が悪かった。ヤックルに声をかけるのもそこそこにアシタカの手を引いて洞窟の奥へ向かう。
子どもは毛皮にくるまって横になっていた。年の頃は五つか六つほどだろうか。肩の傷を庇うようにかがめた体を覆う長い髪は森の樹々の葉を映し込んだような緑。覗き込んだアシタカの気配に気づいたように薄く開けた目は焦点を結ばず空を彷徨った。
握り飯を崩して炊いた重湯の上澄みを数口飲み、傷口に新しい布を巻いてもらうと、子どもはまたすぐ横になって目を閉じた。
「昨夜は眠っていないだろう。この子は私が看ているから、サンも横になりな」
サンが汲んできた水桶を受け取りながらアシタカは言った。
タタラ場の子どもではないことにサンは驚かなかった。助かると思うか、と小さく呟く声に答える術をアシタカは持たなかったが、サンの手当が良かったのだろう、もう血は止まっているし、あとはこの子の力に任せるしかない、そう言うと諦めがついたように息を吐いて、奥の暗がりに潜り込むと体を丸めて横になった。サンが寝息を立て始めるのを背中で聞きながら、アシタカは手当てに必要なものをタタラ場へ取りに行く算段を始めた。
子どもは三日三晩呻き通したが、黄泉へ渡ることなく四日目の朝に目を覚ました。アシタカは子どもの熱が下がるまで泊まり込んで看病をしていった。
子どもは目を開けてからさらに数日はほとんどの時間を寝床で過ごし、それでも一日に一度か二度は起き上がって自力で食事を摂った。両脇をサンとアシタカに支えられて崖に張り出した岩棚まで歩き、陽光を浴びたのは七日目だった。
光の下で見る子どもの目は、故郷にあった古くに交易で手に入れたという翡翠 の色を思わせた。それよりいくぶん濃い木の葉の色をした髪が別の生き物のように体を覆っていた。
サンが気遣いながらゆっくりと尋ねる問いに子どもはひとつも答えなかった。どこから来たのかも、何があって川に倒れていたのかも、自分の名前さえも。言葉はわかるらしいことが、困ったように緩慢に首を振るそぶりから窺えるだけだった。
サンはあっさりと探索をやめた。「ともかく怪我がよくなるまでここにおいで。食べるものは心配しなくていいから」子どもはサンの顔をじっと見上げ、少しの間を置いてこくりと頷いた。ほんの一瞬、口の端を上げて笑ったように見えた。
しばらくはタタラ場と森を往復する日々が続いた。
エボシやこの辺りに詳しい者に尋ねてもみたが、子どもの郷は杳として知れなかった。
「暴れ川を鎮めるためといって贄 を流す村もないではないが」エボシは切長の目を細めて軽蔑を隠さず言った。「山犬の姫も似たような出だろう。信心深いことだ」
モロの遠い祖のひとりから取ってヤラと名付けられた子どもは、洞窟での暮らしにすぐ馴染んだように見えた。ひどく口数の少ない子だったが、意を通じるにはさほど苦労しなかったし、物覚えも早かった。傷が塞がって動けるようになると、するすると猿のように木に登ってアシタカがやってくるのを一番に見つけてはサンに知らせに行くのを自分の役目と決め込んだようだった。サンは子どもがまだ寝付いている間に自分の古い衣を解いて子どもの着るものを縫い上げ、手近な木片で荒削りの椀も作ってしまった。子どもが動けるようになる頃には不自由なく暮らせるだけのものが揃っていた。
山犬たちは目覚めた子どものにおいをくまなく嗅いだあとは特に頓着しなかった。サンに倣ってヤラが背中に跨ることもすぐに許した。彼らにとってはヤラは少し大きなコダマに過ぎなかった。
その秋はヤラが川に流れ着いた嵐の他には大風が吹くこともなく穏やかだった。雷は多かったが、作物を駄目にするほどの長雨はなく、稲穂は重く垂れて収穫を待った。
森での暮らしに慣れてきた頃から子どもの奇妙な癖が現れ始めた。皆が寝静まった深夜にふと目覚めてふらふらと森へ彷徨い出て行ってしまうのだった。出て行こうとするのに気づいて呼び止めても耳に入らない風で、不思議なことに追いかけても必ず行方をくらましてしまう。明け方近くに戻ってくると、その後に決まって熱を出した。ひと月のうちに何度も寝込むものだから、洞窟には常に熱冷ましの薬草が蓄えられることになった。
ぼんやりしたまま戻ってきたヤラに行き先を尋ねても一向に要領を得なかった。「誰かが呼んでる気がしたんだけど」お決まりの遠くを見るような目で呟くだけなのだった。ある朝にはにいさん達より大きな白い獣と会った、と呟いてサンの肝を潰したが、それ以上のことは何もわからなかった。ヤラへの質問は総じて空振りに近かった。
無口がそう思わせるのか、ヤラの振る舞いはどこか獣に近かった。ヤラの歩く先には必ずコダマが現れた。何かをしかけてふと動きを止め、じっとコダマに見入っている様は彼らの会話を聞いているようにも見えた。
この子をどうする、と喉まで出かかった言葉をアシタカは何度か飲み込んでいた。
――ここは人の子を育てるには向かない。
他ならぬサンがそう言ったのを覚えていたからだ。
「アシタカがタタラ場に残っているのは私と番 いになろうと思っているからか」
何の拍子にだったか、サンが尋ねたことがあった。タタラ場の誰かに子が生まれた、という話でもしていたのだったか。幾度かの冬と幾度かの戦を越えて、タタラ場の周囲には緑の田畑と林が広がり始めていた。ふたりの座る洞窟の奥と強い日差しの照りつける岩棚の目がくらみそうな陰影を覚えているから、あれは夏だったろうか。
「……サンはそうしたいか」
虚を突かれて口を衝いて出た言葉は我ながら卑怯だった。
「私の話をしているんじゃない」
案の定サンは眉間の皺を深くした。
「そのつもりがあるなら諦めたほうがいい。私は里にはおりないしここは人の子を育てるには向かない。子が欲しければあの村で番いを探すことだ」
言葉に詰まっているのをどう取ったものかそう畳みかけられて、考えたことがないのに気がついた。畑を耕し、子を生して土地に根付いて暮らしていくことが想像できなかった。その役目は故郷を去った時に失ったもののひとつだと思っていた。
そう正直に言うと、サンは故郷が恋しいか、と今度は気遣わしげに顔を曇らせた。
「いや。帰りたいとは思わないよ。故郷では私はもう死者だから」
言うとサンは意外そうな顔をした。
「お前の村はナゴの守さまに滅ぼされたのだと思っていた。だから帰れないのではないのか」
サンに村の掟を説明するのはひどく難しかった。当然のことと省みもしなかったことが、言葉にしようとすればするほど砂のようにこぼれ落ちていった。なんとかサンを説き伏せようとするうち、知らず両の拳が白くなるほどに握り締められていることに気がついてアシタカは狼狽した。恨んでも仕方のないことだ、もう済んだことだと、旅の途中に何度となく言い聞かせ、時にはヤックルの胸に縋って宥めてきたそれを、彼はもう過去のものと高をくくってしまいこんでいた。
サンの問いはこうして時に臓腑に食い込んでくる。そのたびアシタカは自分の中に答えがないことに気づいて目を虚空に彷徨わせることになるのだった。
サンはなかなか納得しなかった。
「自分が生きようと思えば殺される前に殺すしかない。喰われる獲物だって時には喰う方を殺すことがある。お前は生きるために当然のことをしたまでだろう」
「一度は大和に滅ぼされかけた小さな村だ。より多くの者が生き残るために、害なすおそれのある者は去らねばならないのだよ」
サンは編みかけた蔓を睨みつけるように厳しく口を引き結んだ。痛みを堪えているようにも見えた。
「私は村の者が生き延びるために贄になった。贄に選ばれたのは一番弱くて小さかったからだ。私たちも狩りをする時には群れで一番弱くて小さいのを狙う」
でもアシタカは弱い者を助けたのだろう。なぜその報いが群れから追われることだったんだ。今にも叫び出しそうな震える声で叩きつけるように言うサンを――こんな風でありたかった美しい生き物の姿をアシタカは眩しく見つめた。
「そうだね。わたしは早々に諦めすぎたのかもしれない。そうするのが当然だと思っていたから」
その果てに辿り着いた今を、サンと出会ったことを決して悔やんではいないのだと、そう伝えようとして当のサンに遮られた。
「お前、他に行く場所がないならモロ一族に加わるか」
サンは真剣そのものにまた答えに詰まるアシタカを見つめる。
「私はタタラ場でしなければならないことが、」言いかけてサンの厳しい目に見返され、「いや。あちらにいてしたいことがあるんだ」と言い直した。
彼をこの地に繋ぎ止める唯一のものは目の前で険しい顔をしている。
「したいこと、か」確かめるようにサンが問う。
そうだ、と今度はまっすぐに答えた。
「それなら、いい」
そう言って籠を編む作業に戻った。あとはふたりとも口をきかなかった。
帰り際、暮れなずむ夕陽の中で洞窟の入口まで見送りに来たサンは不意にアシタカを呼び止めて言った。
「森に捨てられた時に人間の子どもだった私は死んだ。死んでモロの子として生まれ変わった。アシタカもきっとナゴの守さまに殺されてここで生まれ変わったんだ。そして新しい群れを見つけた」
洞窟の岩壁もそこに佇むサンも、すべてが緋に染まって輝いていた。
「だからきっと、アシタカも大丈夫だ」
その言葉は夕陽よりも強く深く彼の来た道を照らした。
「そうかもしれない。サンとシシ神さまのおかげだね」
その名を口にしながら故郷を出て初めて心から笑えた気がした。サンはくしゃりと顔を綻ばせ、「それは覚えているぞ。ここで目を覚まして初めて歩いた時だった」
「そう、私もよく覚えている。サンとシシ神さまに命をもらって生き返った。あの時の私は歩き始めたばかりの幼子のようなものだったろう」
「ずいぶん大きな子どもがいたものだな。あの時は本当に世話が焼けた」
そう言ってふたりで笑ったのはもうどれほど前だったろう。
あの時、サンが本当はもうひとりの二本足をモロ一族に加えたかったのではないか、とアシタカが思い至ったのはずいぶん後になってからだ。どちらからともない決め事のようにそれは口に上らなくなり、日々に紛れて流れていってしまった。
声は緊迫した響きを帯びてアシタカに洞窟へ来るよう促している。
昨日までの嵐はタタラ場のいくつかの家の屋根を剥がし、斜面に築いた畑を崩していった。まだ若木の多い森のこと、土砂崩れもあったと今朝がた薬草を届けに来たサンは言っていた。薬草を採りに行った岩場で鷹の羽を拾ったと、自慢げに手渡してくれた顔が浮かぶ。矢羽にしようと眠る前に加工しかけた尾羽は枕元にあった。
あの時には変わりなかったが、帰途でサンの身に何かあったのだろうか。
長年のうちに二言三言、山犬の言葉を聞き分けられるようにはなったが、サンのように細やかに意を汲むには至らぬ我が身が歯痒い。アシタカは夜が明け切るのを待たずヤックルに鞍を乗せた。傷薬と晒し布、トキが急ごしらえで持たせてくれた握り飯を携えて森へ向かう。
すっかり鼻面の白くなった老いたヤックルは、心得たように通い慣れたサンの洞窟への道を辿り始めた。嵐の通り過ぎるあいだ厩に閉じ込められていたからか、足取りが嬉しげだ。
サンのきょうだいが急を知らせてきたのはあの年――シシ神の首が落ち、一夜にして森が蘇ったあの年の冬以来のことだった。
薄明の中、無事でいてくれと願いながら森へ向かううち、アシタカの心はとりわけ厳しかったあの冬へ彷徨い出て行った。
――帰れ、とサンは洞窟の入り口に立ちはだかって言った。冬の近い空が日に日に雲を厚くして雪の予感を色濃くしていた。
サンはアシタカがタタラ場から運んだ穀物を受け取ることを頑として拒んでいた。
「あの女の情けで生き存える命などいらぬ」
前に訪れた時よりも更に肉が削げて目ばかりがぎらぎらと光るサンの顔を力なく見返しながら、アシタカは米を抱えたまま、秋が深くなる頃からもう何度繰り返したかわからない問答をまた繰り返した。
「これはそなた達に命を救われたことへの返礼だ、エボシはそなたに情けをかけようとは思っておらぬ」
それが彼女の心に届かないことはもう分かっていたが、他に言葉を思いつけずにアシタカは仕方なく同じ言葉を繰り返した。言うほどにサンは巌のように身を固くし、しまいには踵を返して洞窟の奥へ入ってしまった。これまでと同じように。
タタラ場では皆が懸命に冬越しの準備をしていた。牛は皆流されてしまい、ヤックルの脚がなければ人里へ食糧の交換を乞いに行くのもままならない。アシタカが一日抜ければその分だけ備えは遅れる。
背筋を這い上ってくる焦りを宥めながらアシタカは洞窟に背を向けた。
曇天からこぼれ落ちるように降り始めた
――私の息のかかったものでは山犬の姫は承服すまい。そなたの腕で山犬の牙の届かぬ鳥なりと打てばよかろう。
エボシの凪いだ湖面のような面からは何の感情も読み取れなかった。ただ右肩からまっすぐに落ちる空虚な袖が何かを物語るように微かに揺れているだけだった。悔恨が滲んでいるように見えるのはアシタカの当て推量というものかもしれなかったが。
アシタカは深く頭を下げて、しばらく手にすることのなかった矢を受け取った。馴染んだ黒曜石の矢よりも幾分重く、切り裂くように飛ぶ鉄の矢で湖に渡ってきた水鳥を打った。
獲物を携えて次に洞窟を訪ねた時にはサンはいなかった。秋が深くなるにつれ、サンときょうだいは洞窟を留守にすることが多くなっていた。幾夜もかけて遠い森まで狩りに出ているのだった。入口の平らな岩の上には、両手に乗るばかりの栗の実が干してあった。
湖で獲った三羽の水鳥をそばに置いてアシタカは洞窟を去った。鉄のにおいが彼女らの怒りに触れぬように祈りながら。
雪が降り始めるとサンときょうだいの不在はさらに増えていった。
そうして積もった雪が昼を過ぎても解け切らなくなる頃、山犬の遠吠えがタタラ場のすぐ近くで響いた。
ヤックルと駆けつけると、湖のほとりまで来ていた山犬はサンが倒れた、とだけ言って身を翻した。
サンは洞窟の奥で獣のように丸くなっていた。被った毛皮の端からのぞく剥き出しの脚が寒々しい。アシタカが入っていっても、ちらと一瞥をくれたきり身を起こそうともしない。その顔の蒼さにアシタカは腹の底が冷えた。
冷たくなっていた竈に火を起こし、持参した鍋で雑穀と菜の粥を炊く。湯気が立ち始めてもあたりが温まった気のしないのは岩壁が熱を吸い取ってしまうせいか。
食べてくれ、と抱き起こそうとするのを拒むように、サンは自力で起き上がると
「サン、頼む。食べて、生きてくれ」
尚も椀を差し出すアシタカに、俯いたまま掠れた声で放った言葉はひどく投げやりだった。
「アシタカの頼みを聞くのはもうご免だ。お前はいつも勝手なことばかり言う」
それは事実に違いなかったのでアシタカは押し黙った。
夏からこちら、アシタカはたびたび洞窟へ通った。タタラ場の者が薪を取りに森に入っても良いか、あの斜面に炭焼小屋をかけて良いか、川のこちら側までを畑にしたいがどうか。サンに意を諮ることはいくらもあった。米を
冷めてゆく椀を間において沈黙が洞窟を包んだ。
「サンはもう十分すぎるほど力を貸してくれた。私の頼みは聞かずともよい。だが」
何としても死なせたくない、たとえサン自身の望みに反しても。椀を持つ指が力んで震えた。お前に救えるか、と睨み据えたサンの母の声が過る。
――説得できぬなら、力尽くでタタラ場へ連れ帰ってでも。
「サンは私を生かしてくれた。私がサンに生きて欲しいと思うのは身勝手か」
サンは苦いものを口にしたように顔を[[rb:顰 > しか]]めた。膝の上に置かれた両の拳が握り締められて手の甲の骨が浮き彫りになる。
――私だって、
食いしばった歯の隙間から搾り出した掠れ声と一緒に頬を涙が伝った。
――死にたくなんかない。
濡れる頬を拭おうともせずに宙に浮いたままの椀をサンの骨ばった手が掴んだ。
しゃくり上げながらサンは食べた。ほとんど噛みもせずに冷たくなった粥を飲み込み、一口ごとに洟を啜っては飲み込み、しゃくり上げてはまた一口飲み込んだ。
ああ、彼女はこうして幾たびも飲み込み難いものを飲み込み、無理やりに咀嚼して生きてきたのだ。自分もそのひとつに過ぎないことに痛痒を感じる余裕はなかった。命を生かす代わりに彼女の魂を損なうことになるのだとしても、今は。
――生きろ、サン。
シシ神の池のほとりで痣の消えぬ腕を確かめて死にゆく定めを悟った朝、呪われ故郷を
アシタカはただ非力な腕でサンの薄い肩を抱いて祈った。サンの頬を伝うのが、彼があの朝流した涙と同じ温度であるようにと。
故郷に比べると湿ってぬかるみやすい雪の中を、山育ちのヤックルの脚を頼りにアシタカは何度も洞窟へ行き来して食べ物を運んだ。瓦礫の中から掘り出した僅かな財と交換に、近隣の里から分けてもらった麦と稗は急拵えの畑でどうにか収穫にこぎつけていた。余分などありはしなかったが、エボシは必ず山犬の姫の取り分だと言ってアシタカにいくばくかを渡した。
頻々と通い詰める割にはほとんど会話を交わすこともなく時が過ぎ、やがて雪が止み、雲が割れて暖かい陽が射すようになった。
雪が解けて森が新芽に彩られ始めると、サンはヤックルと二人だけでふらりと出かけていくことが多くなった。アシタカが蔓で籠など編みながら洞窟で待っていると、またふらりと戻ってきて傍に屈み込み、無言で手元を眺めた。山犬たちは心得たように黙って見送り、黙って岩の上で陽に当たりながら出迎えた。
ぽつりぽつりとサンはアシタカの故郷やタタラ場の暮らしのことを尋ねるようになった。道すがら摘んだ山菜を洗っていると、「これが食べられるなんて知らなかった」とまだ仮面のような表情のままで呟いた。
「私の村ではよく食べた。これは
サンはどこか子どもじみた仕草で一本を摘み上げるとしげしげと眺めてにおいを嗅いだ。
――モロは猩々が食べるものは人間も食べられると思ったんだろう、木の実の在り処は教えてくれた。でも草や茸が食べられることは知らなかった。山犬の目に草木は食べ物とは映らないから。
指先で蕨を弄びながらサンは呟くように言った。
「秋に拾った木の実は冬の間に食べてしまうし、栗鼠や兎は痩せていてあまり腹の足しにならない。鹿の群れが見つからないと何日も食べるものがなかった。春が来る前がいちばんひもじかった……」
目を伏せたままサンがぼそぼそと話すのをアシタカは黙って聞いた。
「蕨は木を伐った後の開けた草地で
それがサンにとって慰めにはならないことは承知していたので、彼は返事を待たなかった。黙って竈の灰を入れた湯で蕨を茹で、陽の当たる岩棚に並べて干した。サンはアシタカと目を合わせるのを避けるように一部始終を食い入るように見ていた。雨が降ったら取り込むように伝えて洞窟を辞す時、サンはまだ目を伏せたまま今度あれの採り方を教えてくれ、と言った。
彼の感覚からすればずいぶん早く訪れた春、田畑を起こす仕事をヤックルに任せてアシタカは多くの時間を森で過ごした。山菜採りに罠猟に弓矢、乞われるままにアシタカは村で受け継いだ知恵をサンに手渡した。もとよりサンの縄張りのこと、骨を掴めば飲み込みは早かった。野兎の足跡を追って岩山を行くうちに貴重な薬草の群生を見つけもした。
「これは血の道の病に効く。女たちがずいぶん助かるよ」
掘り起こした根の土を払いながら言うとサンの顔には何とも言えぬ苦い表情が一瞬過ぎったが、病の者は多いのか、と尋ねる声に気遣いが滲むのを隠し切れてはいなかった。あの女に借りを作りたくないから、と今後タタラ場が必要なだけを採って届けることを申し出さえした。
初めてサンの仕掛けたくくり罠に山鳥がかかった朝、これがあれば鹿のいない時もあの子達に食べさせてやれるな、と言って久方ぶりに見せた笑顔は頭上の春の陽のように穏やかだった。頬の朱の模様が両側に
この曲線をもう二度と失いたくはなかった。
**********
日陰に残った朝露が消える頃、アシタカは洞窟に着いた。ヤックルは息を切らしながらも最後の岩山を一息に登り切った。
足音を聞きつけて洞窟から走り出てきたサンはひどく顔色が悪かった。ヤックルに声をかけるのもそこそこにアシタカの手を引いて洞窟の奥へ向かう。
子どもは毛皮にくるまって横になっていた。年の頃は五つか六つほどだろうか。肩の傷を庇うようにかがめた体を覆う長い髪は森の樹々の葉を映し込んだような緑。覗き込んだアシタカの気配に気づいたように薄く開けた目は焦点を結ばず空を彷徨った。
握り飯を崩して炊いた重湯の上澄みを数口飲み、傷口に新しい布を巻いてもらうと、子どもはまたすぐ横になって目を閉じた。
「昨夜は眠っていないだろう。この子は私が看ているから、サンも横になりな」
サンが汲んできた水桶を受け取りながらアシタカは言った。
タタラ場の子どもではないことにサンは驚かなかった。助かると思うか、と小さく呟く声に答える術をアシタカは持たなかったが、サンの手当が良かったのだろう、もう血は止まっているし、あとはこの子の力に任せるしかない、そう言うと諦めがついたように息を吐いて、奥の暗がりに潜り込むと体を丸めて横になった。サンが寝息を立て始めるのを背中で聞きながら、アシタカは手当てに必要なものをタタラ場へ取りに行く算段を始めた。
子どもは三日三晩呻き通したが、黄泉へ渡ることなく四日目の朝に目を覚ました。アシタカは子どもの熱が下がるまで泊まり込んで看病をしていった。
子どもは目を開けてからさらに数日はほとんどの時間を寝床で過ごし、それでも一日に一度か二度は起き上がって自力で食事を摂った。両脇をサンとアシタカに支えられて崖に張り出した岩棚まで歩き、陽光を浴びたのは七日目だった。
光の下で見る子どもの目は、故郷にあった古くに交易で手に入れたという
サンが気遣いながらゆっくりと尋ねる問いに子どもはひとつも答えなかった。どこから来たのかも、何があって川に倒れていたのかも、自分の名前さえも。言葉はわかるらしいことが、困ったように緩慢に首を振るそぶりから窺えるだけだった。
サンはあっさりと探索をやめた。「ともかく怪我がよくなるまでここにおいで。食べるものは心配しなくていいから」子どもはサンの顔をじっと見上げ、少しの間を置いてこくりと頷いた。ほんの一瞬、口の端を上げて笑ったように見えた。
しばらくはタタラ場と森を往復する日々が続いた。
エボシやこの辺りに詳しい者に尋ねてもみたが、子どもの郷は杳として知れなかった。
「暴れ川を鎮めるためといって
モロの遠い祖のひとりから取ってヤラと名付けられた子どもは、洞窟での暮らしにすぐ馴染んだように見えた。ひどく口数の少ない子だったが、意を通じるにはさほど苦労しなかったし、物覚えも早かった。傷が塞がって動けるようになると、するすると猿のように木に登ってアシタカがやってくるのを一番に見つけてはサンに知らせに行くのを自分の役目と決め込んだようだった。サンは子どもがまだ寝付いている間に自分の古い衣を解いて子どもの着るものを縫い上げ、手近な木片で荒削りの椀も作ってしまった。子どもが動けるようになる頃には不自由なく暮らせるだけのものが揃っていた。
山犬たちは目覚めた子どものにおいをくまなく嗅いだあとは特に頓着しなかった。サンに倣ってヤラが背中に跨ることもすぐに許した。彼らにとってはヤラは少し大きなコダマに過ぎなかった。
その秋はヤラが川に流れ着いた嵐の他には大風が吹くこともなく穏やかだった。雷は多かったが、作物を駄目にするほどの長雨はなく、稲穂は重く垂れて収穫を待った。
森での暮らしに慣れてきた頃から子どもの奇妙な癖が現れ始めた。皆が寝静まった深夜にふと目覚めてふらふらと森へ彷徨い出て行ってしまうのだった。出て行こうとするのに気づいて呼び止めても耳に入らない風で、不思議なことに追いかけても必ず行方をくらましてしまう。明け方近くに戻ってくると、その後に決まって熱を出した。ひと月のうちに何度も寝込むものだから、洞窟には常に熱冷ましの薬草が蓄えられることになった。
ぼんやりしたまま戻ってきたヤラに行き先を尋ねても一向に要領を得なかった。「誰かが呼んでる気がしたんだけど」お決まりの遠くを見るような目で呟くだけなのだった。ある朝にはにいさん達より大きな白い獣と会った、と呟いてサンの肝を潰したが、それ以上のことは何もわからなかった。ヤラへの質問は総じて空振りに近かった。
無口がそう思わせるのか、ヤラの振る舞いはどこか獣に近かった。ヤラの歩く先には必ずコダマが現れた。何かをしかけてふと動きを止め、じっとコダマに見入っている様は彼らの会話を聞いているようにも見えた。
この子をどうする、と喉まで出かかった言葉をアシタカは何度か飲み込んでいた。
――ここは人の子を育てるには向かない。
他ならぬサンがそう言ったのを覚えていたからだ。
「アシタカがタタラ場に残っているのは私と
何の拍子にだったか、サンが尋ねたことがあった。タタラ場の誰かに子が生まれた、という話でもしていたのだったか。幾度かの冬と幾度かの戦を越えて、タタラ場の周囲には緑の田畑と林が広がり始めていた。ふたりの座る洞窟の奥と強い日差しの照りつける岩棚の目がくらみそうな陰影を覚えているから、あれは夏だったろうか。
「……サンはそうしたいか」
虚を突かれて口を衝いて出た言葉は我ながら卑怯だった。
「私の話をしているんじゃない」
案の定サンは眉間の皺を深くした。
「そのつもりがあるなら諦めたほうがいい。私は里にはおりないしここは人の子を育てるには向かない。子が欲しければあの村で番いを探すことだ」
言葉に詰まっているのをどう取ったものかそう畳みかけられて、考えたことがないのに気がついた。畑を耕し、子を生して土地に根付いて暮らしていくことが想像できなかった。その役目は故郷を去った時に失ったもののひとつだと思っていた。
そう正直に言うと、サンは故郷が恋しいか、と今度は気遣わしげに顔を曇らせた。
「いや。帰りたいとは思わないよ。故郷では私はもう死者だから」
言うとサンは意外そうな顔をした。
「お前の村はナゴの守さまに滅ぼされたのだと思っていた。だから帰れないのではないのか」
サンに村の掟を説明するのはひどく難しかった。当然のことと省みもしなかったことが、言葉にしようとすればするほど砂のようにこぼれ落ちていった。なんとかサンを説き伏せようとするうち、知らず両の拳が白くなるほどに握り締められていることに気がついてアシタカは狼狽した。恨んでも仕方のないことだ、もう済んだことだと、旅の途中に何度となく言い聞かせ、時にはヤックルの胸に縋って宥めてきたそれを、彼はもう過去のものと高をくくってしまいこんでいた。
サンの問いはこうして時に臓腑に食い込んでくる。そのたびアシタカは自分の中に答えがないことに気づいて目を虚空に彷徨わせることになるのだった。
サンはなかなか納得しなかった。
「自分が生きようと思えば殺される前に殺すしかない。喰われる獲物だって時には喰う方を殺すことがある。お前は生きるために当然のことをしたまでだろう」
「一度は大和に滅ぼされかけた小さな村だ。より多くの者が生き残るために、害なすおそれのある者は去らねばならないのだよ」
サンは編みかけた蔓を睨みつけるように厳しく口を引き結んだ。痛みを堪えているようにも見えた。
「私は村の者が生き延びるために贄になった。贄に選ばれたのは一番弱くて小さかったからだ。私たちも狩りをする時には群れで一番弱くて小さいのを狙う」
でもアシタカは弱い者を助けたのだろう。なぜその報いが群れから追われることだったんだ。今にも叫び出しそうな震える声で叩きつけるように言うサンを――こんな風でありたかった美しい生き物の姿をアシタカは眩しく見つめた。
「そうだね。わたしは早々に諦めすぎたのかもしれない。そうするのが当然だと思っていたから」
その果てに辿り着いた今を、サンと出会ったことを決して悔やんではいないのだと、そう伝えようとして当のサンに遮られた。
「お前、他に行く場所がないならモロ一族に加わるか」
サンは真剣そのものにまた答えに詰まるアシタカを見つめる。
「私はタタラ場でしなければならないことが、」言いかけてサンの厳しい目に見返され、「いや。あちらにいてしたいことがあるんだ」と言い直した。
彼をこの地に繋ぎ止める唯一のものは目の前で険しい顔をしている。
「したいこと、か」確かめるようにサンが問う。
そうだ、と今度はまっすぐに答えた。
「それなら、いい」
そう言って籠を編む作業に戻った。あとはふたりとも口をきかなかった。
帰り際、暮れなずむ夕陽の中で洞窟の入口まで見送りに来たサンは不意にアシタカを呼び止めて言った。
「森に捨てられた時に人間の子どもだった私は死んだ。死んでモロの子として生まれ変わった。アシタカもきっとナゴの守さまに殺されてここで生まれ変わったんだ。そして新しい群れを見つけた」
洞窟の岩壁もそこに佇むサンも、すべてが緋に染まって輝いていた。
「だからきっと、アシタカも大丈夫だ」
その言葉は夕陽よりも強く深く彼の来た道を照らした。
「そうかもしれない。サンとシシ神さまのおかげだね」
その名を口にしながら故郷を出て初めて心から笑えた気がした。サンはくしゃりと顔を綻ばせ、「それは覚えているぞ。ここで目を覚まして初めて歩いた時だった」
「そう、私もよく覚えている。サンとシシ神さまに命をもらって生き返った。あの時の私は歩き始めたばかりの幼子のようなものだったろう」
「ずいぶん大きな子どもがいたものだな。あの時は本当に世話が焼けた」
そう言ってふたりで笑ったのはもうどれほど前だったろう。
あの時、サンが本当はもうひとりの二本足をモロ一族に加えたかったのではないか、とアシタカが思い至ったのはずいぶん後になってからだ。どちらからともない決め事のようにそれは口に上らなくなり、日々に紛れて流れていってしまった。