還り来る風
カタカタ、と軽やかな音がしてサンは頭上を振り仰いだ。
すらりと細い樫の若木の、それでもようやくサンの背丈を追い越して木陰を広げるようになった枝の中ほどに、半ば裏葉色に染まるようにして腰掛けたコダマが笑っている。
二晩にわたって居座っていた嵐がようやく過ぎ去り、枝を透かす木洩れ陽が葉に留まる雨粒を反射して煌めきながら地に降っていた。重い湿気を含んだ空気が暑気の残る陽射しに暖められて上空へ昇り、嵐の後を追って北へ去っていく。
水を吸った落ち葉でぬかるむ獣道で足を止めると、サンは大きく息をついた。タタラ場から滑りやすい上り坂をずっと登ってきたから、知らず息が上がっている。
サンは洞窟へ帰るところだった。晴れ渡った空に誘われるように狩りに出るきょうだい達に湖のほとりまで送ってもらい、アシタカへの届け物――タタラ場で子を生んだ女の産後の肥立ちが良くないというので、森の奥の岩山で採れる薬草の根を頼まれていた――を済ませてきたのだった。
枝にもうひとりのコダマが現れて、サンの顔に微笑が浮かんだ。このところ随分数を増してきたコダマ達だったが、この辺りに現れるのは珍しい。
サンが足を止めて眺める間にも、隣にさらにふたり現れてカタカタと首を揺らす。
と、見る間に辺りはコダマ達でいっぱいになった。足元に現れたコダマ達は光に透けて見え隠れしながら、サンの方を振り返り誘うように若木の音を奏でながら走り出す。いつもの悪戯にしては奇妙な振る舞いにサンは眉を顰 めた。
追いかけてみようと思ったのはほんの気紛れ、洞窟にこもっている間に繕いものは済ませてしまったし、木の実を拾うにはまだ早く、勇んで狩りに出た弟達が戻るまで時間はサンひとりのものだった。
コダマ達はサンの行く手、モロの洞窟へと続く巨岩の連なる斜面に差し掛かると急に向きを変えた。列をなして急流が轟々と響きを立てる谷へ下っていく。
ところどころに岩が顔を出す斜面は、表面の薄い土にしがみついていた若木ごと削り取られて崩れ、倒れて逆さになった木は泥水に枝を洗われて飛沫を上げていた。
コダマ達の列の最後について谷底に降り立った刹那、びょう、とにわかに突風が吹いた。風に背を押されるようにして流れに近づくと、濁流に押し寄せられた石塊と枝や葉の澱んだ岸辺に、水に半分浸かり、泥に埋まるようにして小さな裸の生き物が横たわっているのが目に入った。
人間――。それも幼い子ども。
コダマ達は倒れた子どもを取り囲むようにして岸辺に円を描き、頷き合うようにして頻りに木の音を響かせる。
サンは岸に駆け寄ると、脛まで泥水に浸かって子どもを抱え上げた。背丈はサンの腰に届かないほどだろうか、驚く程軽い。水と同じ冷たさの体は岸辺に横たえてもぴくりとも動かない。
戸惑いながらサンは子どもの口に手を当てた。息はある。
そっと抱き起こすと子どもは大きく咳き込んで水を吐いた。慌てて俯せにしてやり背中をさする。ひとしきり水を吐き出した子どもは再びぐったりと脱力してしまった。
「お前たち、この子のことを知らせにきたのか?」
答えのあるはずもなかったが、サンは辺りを見回して尋ねた。コダマたちはカタカタと笑いながらひとりふたりと宙に掻き消えていく。
最後に残った岩の上のひとりに小さくため息を落として見せてから、サンは上衣を脱いで子どもを包み、背中に抱え上げると、先刻の半分ほどになった足取りで獣道を上り始めた。
抱き上げた時には枯れ枝のように軽いと思った子どもの体は、岩山をのぼるうちにずしりと重みを増した。子どもの髪から垂れた泥水がじっとりと肩を濡らす。蒸れた背中ごしの子どもの体は冷たいままだ。
汗びっしょりになりながらモロの洞窟に入ると途端に冷気が身を包んだ。身震いしながら急いで自分の寝床に子どもを横たえる。
サンは火を熾して土鍋に湯を沸かすと、子どもを寝かせた鹿皮の端を両手で引いて、寝床を火のそばへ移動させた。桶に汲んだ水に沸いた湯をあけてぬるま湯を作り、布切れを浸して泥だらけの子どもの顔を拭う。
長い髪を払い、体を拭って仔細に検分すると、泥の下からは手足や背中の無数の細かい擦り傷の他、尖った岩にでもぶつけたのか、肩口から首筋にかけてざっくりと大きな切り傷が現れた。固まった血と泥のこびりついた傷口を拭うと子どもの体がびくんと跳ねた。
巣穴の奥に干してある薬草の類から傷に効くものを取ってくると、揉んで染み出した汁を子どもの傷口に塗った。肩の大きな傷に触れると子どもの体がまた跳ねた。どのくらい血を失ったのか、青ざめた顔にはわずかに歪んだ眉の他、生気を示すものが見当たらない。
肩の傷に布を巻き、体を拭っているうちに子どもは苦しげに喘ぎ始めた。額に玉のような汗が浮いて全身が小さく震える。熱が出てきたようだった。
水を飲ませようと器を口にあてがったがほとんどこぼれてしまった。アシタカの持ち込んだ雑多なものを入れた籠の中に木匙があったのを思い出し、それを使って子どもの口に流し込んだ。今度は半分以上飲み込ませることができた。
器半分ほどを四苦八苦して飲ませると、サンはようやく腰を落として子どもの傍らに座り込んだ。
なぜあんなところにいたのだろう。
タタラ場の子どもが迷い込むにしては、子どもの倒れていた場所は森の深部に近かった。薪や茸を採るならタタラ場の周辺に広がり始めた雑木林で事足りる。
それに、とサンは子どもの額に浮いた汗を拭ってしげしげと眺める。子どもは普段アシタカと落ち合う湖のほとりから遠く目にするタタラ場の者たちとはどこか異質だった。アシタカがいつもかすかに纏っている、穀物を煮炊きする湯気や煙、牛や馬と彼らの寝床の藁、そんなもののにおいがしないせいかもしれない。それは彼が森の草いきれに足を踏み入れた時にだけ際立つ、山犬たちの間で交わされる秘密の目印のようなものだったけれど。
長い夜になった。子どもは一度も目を覚ますことなく荒い呼吸だけをし続けた。
竈の小さな火を頼りに、サンは時間をおいて少しずつ水を与え、顔の汗を拭った。傷口から血が染み出してくれば布を取り替えて再び薬を塗った。
巣穴へ戻らずまっすぐタタラ場へ連れて行けばよかったか。
それが頭に浮かぶと、なぜそうしなかったか奇妙でさえあった。アシタカに事情を話して託せば、どこの子だろうと彼が良いようにしただろう。
何がそれを躊躇わせたのかわからなかった。
助からないかもしれないな、肋の浮いた薄い胸が苦しげに上下するのを見ながら思う。こんなに小さくて細ければ体力もそう保たないだろう。
サンがこの巣穴へ来たのもちょうどこの子と同じ年頃だった――。それに思い至ると胸のどこかがちくりと痛んだ。
じりじりと夜は更けていった。
束の間うつらうつらしたと思ったら、次に目を開けた時には真の闇の中だった。
熾にしておいた火が消えてしまったのかと訝りながら半身を起こすと、身の丈ほど離れたところにぼうっと青白く浮かび上がる塊がある。何度か目を瞬かせて見やるとそれは子どもの形をしていた。青白い光は子どもの体から発しているように見えた。そしてその周りを取り囲むように、子どもとは少し異なる白い光を放つ小さな人影。無数のコダマが微かな燐光を放ちながら子どもの寝顔を覗き込んでいるのだった。
見慣れたはずのコダマ達さえ不気味に見える光景に、何か叫んだつもりだったが声は出なかった。子どもの方に手を伸ばそうとした刹那、がくんと地面の抜けるような衝撃を感じ、咄嗟に手をつこうとしてつんのめった。
目を開けると――目を閉じていたつもりはなかったが――熾にした焚き火の薄明かりに横たわる子どもの輪郭が浮かび上がる。サンは子どものすぐ傍らに手足を丸めるようにして横になっていた。
汗ばんだ額をひやりとした夜気が撫でる。同時に薪の爆ぜる音が耳に戻った。今度こそ本当に身を起こして子どもを覗き込むと、先刻より呼吸は幾分穏やかだった。
――夢だったのか。
サンは子どもに手を伸ばして額の汗を拭った。熱はまだ高そうだ。
コダマが死の気配を感じ取って寄ってきたのだろうか。彼らは無垢なようでいて物見高い。罠にかかった獣が息絶えるまでじっと見ていることも珍しくない。この子を見つけた岸辺に集まっていたのもそういうことだったのかもしれなかった。
――それならいっそ、今息の根を止めてやった方が。
不意にひたりと心に忍び込んできた殺意にサンは目を瞬かせた。
子どもは乾いてひび割れた口唇から小刻みに息を吐き続けている。
ここに横たわるのは弱って死にかけた者ばかりだ、竈の火を掻き起こしながら思う。石火矢に胸を貫かれたアシタカが、この岩屋で満月が痩せ細っていく間ずっとサンの殺意と逡巡を浴びながら呻いていたあの時と同じように、子どもは今サンの殺意と逡巡に心の臓を握られていた。
あの時もサンはアシタカの乾いた口唇に水を注ぎ、汗に濡れた髪を拭いてやりながら、喉を切り裂いてしまうかどうか迷い続けていた。刃はすぐ手の届く所にあった。幼いサンがモロの逡巡を掻い潜って生を受けたのと同じようにして彼は生き残った。屠ってしまえなかったのはモロが迷っているように見えたからだ。最後に会った時に受け取ったモロのもうひとつの逡巡は、答えの出せないまままだサンの中にあった。
子どもの額に浮いた汗を拭ってやった指をそのまま頬に滑らせ顎に伝わせる。薄い皮膚ごしに脈打つ熱い喉にかかった指にほんの少し力を込めれば、この子はたやすく黄泉へ渡るはずだ。
サンは一度大きく息を吐いて手を放した。今子どもの傍らにあるのは抜き身の刃ではなく、あたたかい薬湯と傷薬だった。あの時サンの中で研がれていた刃はもう長らく熱を取り戻すことなく眠りについていた。珍しくきょうだい達のいない夜だから、闇に惑わされただけだろう。
山犬たちがサンのために鹿の脚を一本くわえて戻ってきたのは夜も更け切った頃だった。
「アシタカに急いで来るように伝えてくれるかい。ひどい怪我なんだ」
人間の血のにおいに鼻を歪めたきょうだいは、それでもサンと子どもの様子を見てとると遠吠えでアシタカを呼ぶために高台へ向かっていった。
昨夜が新月だったから、今宵もまだ月光は頼りにできない。アシタカが来られるのは朝になってからだろうが、タタラ場から流された者がいるかどうか、聞いてみなければならない。おそらくタタラ場の子ではないだろう、という気がした。
ともかくアシタカが来たら全てを話そう、それだけを決めてサンは再び横になった。
少しでも眠っておかなければならない。今度の看病も長くなりそうだから。
すらりと細い樫の若木の、それでもようやくサンの背丈を追い越して木陰を広げるようになった枝の中ほどに、半ば裏葉色に染まるようにして腰掛けたコダマが笑っている。
二晩にわたって居座っていた嵐がようやく過ぎ去り、枝を透かす木洩れ陽が葉に留まる雨粒を反射して煌めきながら地に降っていた。重い湿気を含んだ空気が暑気の残る陽射しに暖められて上空へ昇り、嵐の後を追って北へ去っていく。
水を吸った落ち葉でぬかるむ獣道で足を止めると、サンは大きく息をついた。タタラ場から滑りやすい上り坂をずっと登ってきたから、知らず息が上がっている。
サンは洞窟へ帰るところだった。晴れ渡った空に誘われるように狩りに出るきょうだい達に湖のほとりまで送ってもらい、アシタカへの届け物――タタラ場で子を生んだ女の産後の肥立ちが良くないというので、森の奥の岩山で採れる薬草の根を頼まれていた――を済ませてきたのだった。
枝にもうひとりのコダマが現れて、サンの顔に微笑が浮かんだ。このところ随分数を増してきたコダマ達だったが、この辺りに現れるのは珍しい。
サンが足を止めて眺める間にも、隣にさらにふたり現れてカタカタと首を揺らす。
と、見る間に辺りはコダマ達でいっぱいになった。足元に現れたコダマ達は光に透けて見え隠れしながら、サンの方を振り返り誘うように若木の音を奏でながら走り出す。いつもの悪戯にしては奇妙な振る舞いにサンは眉を
追いかけてみようと思ったのはほんの気紛れ、洞窟にこもっている間に繕いものは済ませてしまったし、木の実を拾うにはまだ早く、勇んで狩りに出た弟達が戻るまで時間はサンひとりのものだった。
コダマ達はサンの行く手、モロの洞窟へと続く巨岩の連なる斜面に差し掛かると急に向きを変えた。列をなして急流が轟々と響きを立てる谷へ下っていく。
ところどころに岩が顔を出す斜面は、表面の薄い土にしがみついていた若木ごと削り取られて崩れ、倒れて逆さになった木は泥水に枝を洗われて飛沫を上げていた。
コダマ達の列の最後について谷底に降り立った刹那、びょう、とにわかに突風が吹いた。風に背を押されるようにして流れに近づくと、濁流に押し寄せられた石塊と枝や葉の澱んだ岸辺に、水に半分浸かり、泥に埋まるようにして小さな裸の生き物が横たわっているのが目に入った。
人間――。それも幼い子ども。
コダマ達は倒れた子どもを取り囲むようにして岸辺に円を描き、頷き合うようにして頻りに木の音を響かせる。
サンは岸に駆け寄ると、脛まで泥水に浸かって子どもを抱え上げた。背丈はサンの腰に届かないほどだろうか、驚く程軽い。水と同じ冷たさの体は岸辺に横たえてもぴくりとも動かない。
戸惑いながらサンは子どもの口に手を当てた。息はある。
そっと抱き起こすと子どもは大きく咳き込んで水を吐いた。慌てて俯せにしてやり背中をさする。ひとしきり水を吐き出した子どもは再びぐったりと脱力してしまった。
「お前たち、この子のことを知らせにきたのか?」
答えのあるはずもなかったが、サンは辺りを見回して尋ねた。コダマたちはカタカタと笑いながらひとりふたりと宙に掻き消えていく。
最後に残った岩の上のひとりに小さくため息を落として見せてから、サンは上衣を脱いで子どもを包み、背中に抱え上げると、先刻の半分ほどになった足取りで獣道を上り始めた。
抱き上げた時には枯れ枝のように軽いと思った子どもの体は、岩山をのぼるうちにずしりと重みを増した。子どもの髪から垂れた泥水がじっとりと肩を濡らす。蒸れた背中ごしの子どもの体は冷たいままだ。
汗びっしょりになりながらモロの洞窟に入ると途端に冷気が身を包んだ。身震いしながら急いで自分の寝床に子どもを横たえる。
サンは火を熾して土鍋に湯を沸かすと、子どもを寝かせた鹿皮の端を両手で引いて、寝床を火のそばへ移動させた。桶に汲んだ水に沸いた湯をあけてぬるま湯を作り、布切れを浸して泥だらけの子どもの顔を拭う。
長い髪を払い、体を拭って仔細に検分すると、泥の下からは手足や背中の無数の細かい擦り傷の他、尖った岩にでもぶつけたのか、肩口から首筋にかけてざっくりと大きな切り傷が現れた。固まった血と泥のこびりついた傷口を拭うと子どもの体がびくんと跳ねた。
巣穴の奥に干してある薬草の類から傷に効くものを取ってくると、揉んで染み出した汁を子どもの傷口に塗った。肩の大きな傷に触れると子どもの体がまた跳ねた。どのくらい血を失ったのか、青ざめた顔にはわずかに歪んだ眉の他、生気を示すものが見当たらない。
肩の傷に布を巻き、体を拭っているうちに子どもは苦しげに喘ぎ始めた。額に玉のような汗が浮いて全身が小さく震える。熱が出てきたようだった。
水を飲ませようと器を口にあてがったがほとんどこぼれてしまった。アシタカの持ち込んだ雑多なものを入れた籠の中に木匙があったのを思い出し、それを使って子どもの口に流し込んだ。今度は半分以上飲み込ませることができた。
器半分ほどを四苦八苦して飲ませると、サンはようやく腰を落として子どもの傍らに座り込んだ。
なぜあんなところにいたのだろう。
タタラ場の子どもが迷い込むにしては、子どもの倒れていた場所は森の深部に近かった。薪や茸を採るならタタラ場の周辺に広がり始めた雑木林で事足りる。
それに、とサンは子どもの額に浮いた汗を拭ってしげしげと眺める。子どもは普段アシタカと落ち合う湖のほとりから遠く目にするタタラ場の者たちとはどこか異質だった。アシタカがいつもかすかに纏っている、穀物を煮炊きする湯気や煙、牛や馬と彼らの寝床の藁、そんなもののにおいがしないせいかもしれない。それは彼が森の草いきれに足を踏み入れた時にだけ際立つ、山犬たちの間で交わされる秘密の目印のようなものだったけれど。
長い夜になった。子どもは一度も目を覚ますことなく荒い呼吸だけをし続けた。
竈の小さな火を頼りに、サンは時間をおいて少しずつ水を与え、顔の汗を拭った。傷口から血が染み出してくれば布を取り替えて再び薬を塗った。
巣穴へ戻らずまっすぐタタラ場へ連れて行けばよかったか。
それが頭に浮かぶと、なぜそうしなかったか奇妙でさえあった。アシタカに事情を話して託せば、どこの子だろうと彼が良いようにしただろう。
何がそれを躊躇わせたのかわからなかった。
助からないかもしれないな、肋の浮いた薄い胸が苦しげに上下するのを見ながら思う。こんなに小さくて細ければ体力もそう保たないだろう。
サンがこの巣穴へ来たのもちょうどこの子と同じ年頃だった――。それに思い至ると胸のどこかがちくりと痛んだ。
じりじりと夜は更けていった。
束の間うつらうつらしたと思ったら、次に目を開けた時には真の闇の中だった。
熾にしておいた火が消えてしまったのかと訝りながら半身を起こすと、身の丈ほど離れたところにぼうっと青白く浮かび上がる塊がある。何度か目を瞬かせて見やるとそれは子どもの形をしていた。青白い光は子どもの体から発しているように見えた。そしてその周りを取り囲むように、子どもとは少し異なる白い光を放つ小さな人影。無数のコダマが微かな燐光を放ちながら子どもの寝顔を覗き込んでいるのだった。
見慣れたはずのコダマ達さえ不気味に見える光景に、何か叫んだつもりだったが声は出なかった。子どもの方に手を伸ばそうとした刹那、がくんと地面の抜けるような衝撃を感じ、咄嗟に手をつこうとしてつんのめった。
目を開けると――目を閉じていたつもりはなかったが――熾にした焚き火の薄明かりに横たわる子どもの輪郭が浮かび上がる。サンは子どものすぐ傍らに手足を丸めるようにして横になっていた。
汗ばんだ額をひやりとした夜気が撫でる。同時に薪の爆ぜる音が耳に戻った。今度こそ本当に身を起こして子どもを覗き込むと、先刻より呼吸は幾分穏やかだった。
――夢だったのか。
サンは子どもに手を伸ばして額の汗を拭った。熱はまだ高そうだ。
コダマが死の気配を感じ取って寄ってきたのだろうか。彼らは無垢なようでいて物見高い。罠にかかった獣が息絶えるまでじっと見ていることも珍しくない。この子を見つけた岸辺に集まっていたのもそういうことだったのかもしれなかった。
――それならいっそ、今息の根を止めてやった方が。
不意にひたりと心に忍び込んできた殺意にサンは目を瞬かせた。
子どもは乾いてひび割れた口唇から小刻みに息を吐き続けている。
ここに横たわるのは弱って死にかけた者ばかりだ、竈の火を掻き起こしながら思う。石火矢に胸を貫かれたアシタカが、この岩屋で満月が痩せ細っていく間ずっとサンの殺意と逡巡を浴びながら呻いていたあの時と同じように、子どもは今サンの殺意と逡巡に心の臓を握られていた。
あの時もサンはアシタカの乾いた口唇に水を注ぎ、汗に濡れた髪を拭いてやりながら、喉を切り裂いてしまうかどうか迷い続けていた。刃はすぐ手の届く所にあった。幼いサンがモロの逡巡を掻い潜って生を受けたのと同じようにして彼は生き残った。屠ってしまえなかったのはモロが迷っているように見えたからだ。最後に会った時に受け取ったモロのもうひとつの逡巡は、答えの出せないまままだサンの中にあった。
子どもの額に浮いた汗を拭ってやった指をそのまま頬に滑らせ顎に伝わせる。薄い皮膚ごしに脈打つ熱い喉にかかった指にほんの少し力を込めれば、この子はたやすく黄泉へ渡るはずだ。
サンは一度大きく息を吐いて手を放した。今子どもの傍らにあるのは抜き身の刃ではなく、あたたかい薬湯と傷薬だった。あの時サンの中で研がれていた刃はもう長らく熱を取り戻すことなく眠りについていた。珍しくきょうだい達のいない夜だから、闇に惑わされただけだろう。
山犬たちがサンのために鹿の脚を一本くわえて戻ってきたのは夜も更け切った頃だった。
「アシタカに急いで来るように伝えてくれるかい。ひどい怪我なんだ」
人間の血のにおいに鼻を歪めたきょうだいは、それでもサンと子どもの様子を見てとると遠吠えでアシタカを呼ぶために高台へ向かっていった。
昨夜が新月だったから、今宵もまだ月光は頼りにできない。アシタカが来られるのは朝になってからだろうが、タタラ場から流された者がいるかどうか、聞いてみなければならない。おそらくタタラ場の子ではないだろう、という気がした。
ともかくアシタカが来たら全てを話そう、それだけを決めてサンは再び横になった。
少しでも眠っておかなければならない。今度の看病も長くなりそうだから。
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