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昼の月

 ――あれは何、とサンは空を指差して訊いた。
 月だよ、とモロは言葉少なに答えた。
 昼なのに?昼に空に浮かぶのは太陽ではないの。サンは重ねて尋ねる。
 昼でも月は空にいるのだよ。強い光にかき消されようと、ずっとね。

 サンがずっと幼い頃のことだ。




 おまえ達は先に帰ってておくれ、と言ってサンは弟の背から飛び降りた。
 三人が行くかつての荒れ野は土の地面の見えぬほど一面の冴え冴えとした若緑、眼下には朝陽を浴びて煌く湖面が広がる。湖の中程には小山のようにこんもりと苔に覆われた大屋根の名残が見えていた。行く手に見える谷筋もまた緑に覆われていたが、光を反射しながら蛇行する川面の輪郭がくっきりと見えるのは空を覆うばかりに茂っていた大樹がみな倒れたせい、鋭く屹立する稜線はひとまわり小さくなったようだった。
 このまま丘を登って巨岩の連なる岩場を越えればモロの巣穴だ。
 サンは湖から流れ出る谷川が二股に分かれて趨り下る岐路の、急流に磨かれて丸くなった岩に飛び乗ってきょうだいを振り返る。

 ――どこへ行く。

 サンを乗せていたきょうだいが咎めるように訊いた。
 その声音に、ヤックルとアシタカのもとへ去るのではという危惧を嗅ぎ取ってサンは微笑んでみせる。

 ――ちょっと川向こうの様子を見てくるだけだよ。夕暮れまでには戻る。
 
 不安げに見送るきょうだいに背を向けるとサンは流れから顔を出した飛び石を渡り、夜明けに来た道を小走りに辿り始めた。
 夜明け前、シシ神の首を追っていた時に大気に満ちていた死臭と焼け爛れた岩の痕跡は若草に覆われてもうすっかり消えていた。
 獰猛なほどに繁茂していた羊歯しだは勢いを失い、今は色浅い苔の地面に向かっておとなしく首を垂れている。立ち枯れた樹々には蔓が細く絡みつき、葉の落ちた枝の隙間からはずいぶん遠くの尾根まで見通せた。森の中は時折足音に驚いて逃げてゆく虫の羽音の他には静まり返っている。サンは沈黙を打ち消そうとするように大仰に下生えを掻き分けて急ぎ足で登っていった。

 太陽がのろのろと空の中程に足を掛け、長く伸びていた影が背丈の半分ほどになる頃、サンはシシ神の池に着いた。
 水に顔を突っ込むようにして、折り重なって倒れた巨木が剥き出しになった根を宙に晒している。その幹からもひょろりと頼りないひこばえが天に向かって細い腕を伸ばしていた。対岸の岩壁は見比べる巨木を失ったせいか、奇妙に奥行きを欠いてしらじらと陽に照り映えている。
 シシ神の首が弾け飛んだ一拍後、ごとん、と首を受け止めた苔むした地面の音が、たった今起きたことのように脳裡に響いてサンはしばし目を閉じた。
 あの瞬間は鮮明に蘇るのに、再び目を開けてみれば長らく風雨に晒された生き物の骨のように白茶けた樹々の骸が広がるばかり、いつも太陽のもとでは喧しかった小鳥の声ひとつしない。
 サンは眩暈を覚えながら池の淵に近づいた。来る道々で耳にこびりついた沈黙はここにも満ちていた。陽光が燦々と水面に降り注ぎ、どこか間延びした長閑な空気はいっそう耳を刺すように痛い。
 ここだけはもしかして、と僅かに懸けた望みは崩れ去ってしまった。池のほとりはまるで秋の嵐で稀に起こる土砂崩れの後の有り様だ。違うのは崩れた上からささやかな苔とひこばえが覆っていることだけ、シシ神が風とともに季節を大急ぎで一巡りさせてしまったように、あたりは初夏というより雪解けに目を覚ました浅い春の様相を呈していた。足元には早春のひとときだけ顔を出す、小さな薄紫の花を咲かせているものさえある。
 
 それならもう、モロのむくろは土に還ってしまったろうか。
 知らず浅くなる呼吸を宥めながら、それでも探さずにおれずにサンは徒らに岩影を覗き込み、重なる倒木の上を乗り越え、下を潜っては池のほとりを歩き回った。
 シシ神の体から溢れたあの粘液とともに一掃されてしまったように、モロのにおいも乙事主のにおいも綺麗に洗い流されてしまったようだった。いくらも経たない内に諦めざるをえないことを悟って、サンは倒木の隙間にできた岸辺の小さな空白に座り込む。


 半ば本気で、まだ守れると思い込んでいた。あの女を追い払い、これ以上の侵略を食い止めれば、シシ神とこの池さえ無事でいれば、モロのいう「滅びゆく種族」などという諦念は笑い飛ばしてしまえると。
 全ては聞き分けの悪い子どもの駄々に過ぎなかったことが今ではわかる。
 シシ神は戦わない。猪神がどれだけ集まろうと、サンがどれだけ耳を塞ごうと、いずれ時間の問題でしかなかった。人間の火はモロの覚えている限り、力を増しこそすれ、退くことも弱ることもなかったのだから。

 ――母さん。
 
 口の中で小さく呟くと、熱を帯びた塊が胸のあたりに生まれて喉を迫り上がってきた。それを押し留めようとしてサンは何度も唾を飲む。出てこようとする塊と押し戻そうとする力んだ喉が拮抗して顔を歪める。口から出ることを諦めた塊は、鼻の奥を突き進んで結局瞼の裏に辿り着き、矯めた嗚咽が洩れるより先に眼から涙が溢れ出た。

 一度流れ始めてしまうともう止められなかった。
 アシタカにあの小島で激情をぶつけてしまってから、雪解けの小川のようにサンの心は緩んでしまっていた。何年もき止められていた水脈がやっと見つけた通路から地上に流れ出て、サンは地面に突っ伏して泣いた。涙はこれまで出番のなかった時間を取り返そうとするようにいくらでも溢れてきた。泣いて母の死を悼むなどという、とうに捨てたはずの人間のやり方を覚えていることが忌々しくて、それを弟達に見られたくなくて一人でやってきた浅ましさが許せなくて、サンの爪は幾度も土を掻いた。
 あとからあとから喉に迫り上がってくる塊を解き放ってみれば、嗚咽はまるで怒れるきょうだいの唸り声みたいで、なんだこうすれば良かったんだ、と思うと無性に可笑しかった。思わず咽せるように笑うと、そこから嗚咽は叫び声に変わった。土を握りこんだままの拳で縋った倒木を打てば脆くなった木肌がもろもろと崩れて、それすら悔しくて欠片が皮膚に食い込むのも構わずに打ち続けた。

 ――ああ、今、わたしは獣だ。

 皮肉なことに、こうなって初めてサンは森とひとつになったように感じていた。何もかもなくして、人間に一矢報いることもなく丸裸になって生き延びてみせただけの、巣から転がり落ちた雛のような森と今の自分はよく似ている気がした。サンはサンを拒む力さえ失った森を悼んで泣いた。


 森はどうやってできたの、シシ神様のお池はどうやってできたの、この巣穴は誰がつくったの。空はいつからあるの、あの月はいつからあるの。
 幼い頃、枯葉を敷き詰めた冬ごもりの巣穴で皆と輪になり、モロのごわごわと硬い毛並みとその下でゆっくりと呼吸する温い体に背を預けて、飽かず同じ問いを繰り返した。冬は物語の季節だった。きょうだいと競い合うようにモロに昔語りをねだり、次には自らきょうだいに語って聞かせた。
 私の親のそのまた親の、さらにそのまたずっと先の親が赤ん坊だった頃の森の話をしようか。
 モロはシシ神の池の水と同じ色の穏やかな眼をして何度でも答えた。雪に閉ざされた暗く暖かい巣穴で、春を待ちながら山犬達がずっとそうしてきたように。

 かつて世界中が森に覆われていた頃、神なる獣はシシ神だけではなかった。神々は時には山犬の、時には鷲の、時には熊の、時には鹿の姿で現し世に降り立ち、黄泉の国とのあわいを行き来しては森に息を吹き込んだ。樹々は空を覆って深い影を大地に落とし、木下闇を巡る水と風が土と草を育てた。鹿は枝角を動く森のようにそびやかして崖を行き、猩々は知恵深く、猪達はおおきく勇壮だった。人間の里は遥か遠く、たまさか行き交う旅人は森の縁をかすめる過客に過ぎなかった。雪柳の群生のように樹々に溢れていたコダマ達が、人の子の真似をして二本足で歩いて見せるようになるほどに、彼らも森の摂理の内にあった。
 モロの一族は森が生まれた時から獣達の調和を保つ守り手だった。宵には月に向かって唄い、古の記憶を伝えた。

 母の語る昔話に耳を傾けていると、束の間生まれを忘れて誇らしい気がしたものだ。
 
 樹冠のつくる濃い影を失い、陽光に晒されて水気を失った砂礫混じりの土がサンの短い爪に食い込んで小さな皹をつくった。握り締めた手の甲に涙が落ちて、土と混じり細い細い泥流を作って滑っていった。

 神ならぬ身の短い一生を何度繰り返せばあの森は戻るのだろうか。石の下で息を潜める、砂粒ほどの生き物達の小さな気配でできたあのしんとしたざわめきは、太古の土と水が吐き出す濃い大気の匂いは。


 俯いた鼻の奥が痛くて顔をつと上げると、眼下の惨状などまるで気に留めない顔をして、ぽっかりと晴れた空にごく淡く月が浮かんでいた。
 あの女の砦の煙が空を横切るようになってから、ついぞ見ることのなかった月だった。
 サンは石のように重くなった体を仰向けて倒木に背を預けた。そのまま空を仰げば水の中から見たような滲んだ蒼、天辺に昇り詰めた陽の光が痛くて目を閉じると、瞼の縁にかろうじてしがみついていた涙の最後の一滴がこぼれて頬を伝い、耳の窩に落ちてその小さなくぼみに収まった。
 大きく虚の開いた胸に昼にしては少し冷たい風が吹き抜けていく。

 ああ、お腹が減った、薄い膜に包まれたようなぼんやりした頭で思う。
 思い返せば一昼夜前に僅かな干し肉と木の実を食べたきりだ。最後だと思っていたから残りの肉はきょうだいに食べさせてしまった。まだ生きようと欲する胃の腑が恨めしくてまた鼻の奥がつんと痛んだ。

 これから来る夏にどれだけ生き物が増えるだろうか。生まれたばかりの木々は秋の実りをもたらすだろうか。羽虫を追って鳥が戻り、鳥の運ぶ実から草が芽吹き、草を食む獣が戻り、その獣を追う山犬達が生きられるほどに、この幼い森は育つだろうか。シシ神が還るとすればここしかない場所でさえ、再生の兆しはこれだけだったというのに。
 この冬にはかつてないくらいの飢えが待っているだろう。きょうだいは獲物を求めてこの森を去らねばならないのかもしれなかった。

 眩しくて顔を覆った木っ端で擦り切れた前腕を、じりじりと昼の陽が焼いていく。

 ヤックルとアシタカはもうあの女の砦に着いただろうか。
 あの女はまた森を焼くだろうか。森を焼く女をアシタカは止めてくれるだろうか。

 再び砦を襲ったところで、サンの牙の前にはアシタカが立ちはだかるのに違いない。モロの食い残した獲物はいつだってサンときょうだいのものだったのに。

 そう思うと、濁流に押し流されてすっかり更地になったと思っていた胸には再び風を吹き込まれた熾のように息づく炎がある。
 乙事主の呪いに呼ばれ、サンの皮膚を食い破って体の芯から出で来た蛇ののたうつ感触は今でもありありと残っていた。憎悪を糧にして身を焼く炎の激痛と、怒りに身を任せる愉悦の綯交ないまぜになったあの呪いの中から戻ってこられたのは、アシタカに呼ばれてほんのいっとき自分の名を思い出したからに過ぎない。あれはまだ皮膚の下で噴き出す機会を窺って蠢いているはずだった。

 詰まるところ、滅びから目を逸らすために幼い怒りに薪をべ続け、焼け野原を拡げながら生きながらえてきただけなのかもしれなかった。あの女が仲間を養うために森にしたのと同じようにして。

 かまわない、とサンは思った。閉じた瞼の裏を緋い粒子が点滅しながら流れる。
 胸の内の濁流と炎が混じり合わぬまま、いずれ我が身を引き裂くことになるのだとしても、この痛みを手放したくはなかった。

 それでもいい、と言った声とまっすぐな瞳が胸を刺す。

 アシタカは、とふと思った。
 彼の憎悪はどこへ行ったのだろう。ナゴの守が祟り神と成る道行きで取り込んだ夥しい憎悪を、彼は止めを刺す時にその身に引き受けたはずだった。
 ヤックルは山深い故郷から長い長い旅をしてきたと言っていた。この森に至るまでに何があったのかサンは知らない。それでも、あの右腕が招いただろう数々の憎悪は彼を蝕みこそすれ、彼自身の皮膚があの蛇を解き放つことはなかったのだ。
 あの澄んだみどりの眼にははじめから悲しみが宿っていた。彼の悲しみの底に潜ってみれば、そこに広がるのは虚ろな空洞でしかないような気がした。
 怒りを剥き出しにしたサンを抱擁したようにあらゆる憎悪を抱き込んで、それでも溢れ出ることがないほどに彼の虚は深かったのだろうか。最後に残った我が身一つを簡単に差し出してしまえるくらい、サンがそうするよりもずっと先に、彼は何もかも失っていたのかもしれなかった。

 アシタカの空洞を覗いてみたい、とサンは思った。
 サンはこの炎を捨てられない。どうしようもなく燃え盛る炎を投げ込んで、昏く広がる空洞が照らされるのを見てみたかった。荒れ果てた焼け野原が広がるばかりのサンの空洞を、彼となら分け合える気がした。


 腫れ上がった喉を冷やそうと這いずるようにして緩慢に池に屈み込み、すかすかと味気ない水を飲み込んでおざなりに口を拭った時だった。
 揺らす葉のない空虚な風に乗って、からころと耳慣れた硬質な音が微かに響いた。
 サンははっとして顔を上げた。音は夜毎シシ神が生まれ直すと言われたあの小島の方から聞こえてきた。
 サンは跳ね起きると倒木を飛び越え、水から突き出た幹を伝い、最後は池に飛び込んで小島へ渡った。
 荒れ果てた池のほとりに着いた時よりずっと胸が苦しい。
 出ておいで、と声に出さずに念じる。ほとんど祈るように。
 呼吸さえ忘れて苔むして崩れかけた倒木の後ろを覗き込んで、サンはそれを見つけた。

 ――コダマ。

 いつも枝々に群れなしてサンの真似をしてみせていた彼らに比べればうんと小さな、今にも消え入りそうな儚さで佇むたったひとりの。
 震える手を伸ばすと、それはもう一度からころと音を立てて首を傾げると光に透けるように消えてしまった。

 それでじゅうぶんだった。乾いた土を雨が濡らすように、ひたひたと温かい水が胸に満ちてくるようだった。

 あの子達に知らせなければ、と対岸へ向き直ると、時を見計らっていたかのように岩陰から顔を出すふたつの白い影がある。
 きょうだい達は悪戯を見咎められた仔犬のように耳を伏せて、体を低くしながらそろそろと池のほとりに歩み寄ってきた。

 ――まだ、死んでいない。

 早くそれを伝えたくてサンはまろびながら倒木を渡る。

 ――姿が見えずともシシ神はそこにいる。葉蔭を揺らす風の一渡りが、苔の先に仮宿りする雨の一雫が、夜半にささやく虫の一声がシシ神なのだよ。

 モロの声が耳に蘇って、堪えきれずきょうだいの胸に飛び込んで顔を埋めた。懐かしい愛しい獣のにおいに、もう枯れたと思った水がまた湧き出して頬を濡らした。涙を拭うきょうだいの舌の温度に、まだ死んでいない、ともう一度繰り返した。
 姿を隠したシシ神がこの風に宿っているなら、モロもそこにいるだろうか。今は弱って力を失くした乾いた土の一握りに、日向で萎れた若葉に、月の落とす冷たい銀の影に、宿っているだろうか。

 (サンは森で…)
 私はこの森で生きよう、白い毛並みに頬を押し当てながらサンは思う。
 人の姿と獣の魂を一つ身に抱えて、無数の屍に育まれた幼い森とともに生きよう。
 昼の光がその輝きを増して月の儚い光をかき消し、月の下で生きる者達を滅ぼすのを見届けることになるのだとしても。


 きょうだいが空に向かって吠える。
 これまで昼の光のもとでは響くことのなかった葬送の歌が、空に浮かぶ月の他には聴く者のいない森に細く遠く谺した。サンももう潰れかけた喉を開いて、今度は山犬のやり方でモロを送るために吠えた。
 

 アシタカもまた荒ぶる水と火とを宿した虚を抱えて、二つの世界の狭間を危うく渡ってヤックルとともにサンに会いに来るだろう。
その時にはきっと彼にも聞かせてやろう、モロの一族が語り伝えてきた、太古からの神々の森の物語を。


 三頭の獣の唄う歌は、ふたたび長く伸びた影が池を闇で覆ってしまうまで続き、やがて空に染み入るように消えていった。




<おわり>
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