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夜明け前

 人間が涙を流すところを初めて見た。
 肉を飲み込むのに難儀していたから、モロが幼い頃にしてくれたように噛み砕いて与えてやっただけのことだったのに、その人間は静かに泣いた。


**********


 シシ神の首を撃ち落とした女が青ざめて目の前に横たわっている。モロに喰い千切られた右腕にはアシタカの衣がきつく巻かれ、それでもまだじわりと広がる血が赤黒い染みを作って堪えきれずに滴る。
 首を失くしたシシ神はその体内から小さな星の泳ぐ黒い粘液を四方に撒き散らし、細い三日月の浮かぶ空は今しもその半ば透き通った体に覆われようとしていた。
 力を貸して欲しいとアシタカは言った。こともあろうに、モロ一族が命を捨てても首を取ろうとしていた女を助けてくれと。
 タタリ神の蛇に焼かれてまだひりつく肌の痛みも忘れてサンは身も世もなく喚いた。体中の血が沸騰しそうだ。どうしてあの時喉を切り裂いてしまわなかったのか、どうして蛇の中でその腕を掴んだりしたのか。
 サンは全ての元凶がアシタカであるかのように怒り狂う。彼に向かって喚いていれば、自分がモロとシシ神を殺めてしまったような気分から逃れられる気がして。
 

 けれどアシタカは逃がしてはくれなかった。ひどく哀しそうな顔をしてサンに歩み寄る。歩み寄った分だけ退くサンを、いとけないほどに澄んだ瞳が追い詰める。
 ――そなたも人間だ。
 サンの名を初めて呼んだ人間が言う。一番言われたくなかった言葉を。ずっと吐き続けていた嘘で固めた、厚く凍てついた水面みなもを割って言葉が水底に落ちていき、沈んでいた澱を掻き回す。
 ――黙れ。
 それでもサンは喚くのをやめない。掻き乱されて沸き立ち濁った水が渦をなして胸の中で暴れ回る。幾重にも蓋をしていたはずの氷塊は粉々になって、ずっと言いたくて言えなかった言葉を放り出してしまう。
 ――私は山犬だ。
 周囲の轟音にかき消されないように声を張り上げる。
 けれどがむしゃらにアシタカの胸に突き立てた小刀は笑ってしまいそうなくらい力がなかった。ひどく歪んでいるに違いない顔を隠してくれる仮面はもうない。
 小刀の礼を言いたかったことが脳裡を掠めたが、濁った渦に飲み込まれて散り散りになってしまう。当の小刀は今しがたアシタカの胸を刺したばかりだ。
 アシタカがそっと手を伸ばして小刀もろともサンを抱きすくめた。呪いの痣が頬に触れる。蛇が獲物を締め殺すように体中に広がった痣は、もうすぐ彼の心の蔵に届いて止めを刺すはずだった。まだ動いている彼の鼓動が熱を持った痣越しに聞こえて、サンの口からつい水底に沈めたはずの絶望がこぼれ出る。本当ならサンを貫くはずだった鉄のつぶてを受け止めた胸が、何も言わずにその絶望を迎え入れる。
 アシタカの腕に力がこもる。狭くなった両腕の輪のぶん、サンは自分の震えを感じ取る。今だけ、と目を瞑って、サンは氷の下から久方ぶりに顔を覗かせた怯えた小さなサンに、束の間両腕に身を預けることを許した。
 涙は出なかったけれど、きっとこういう時に人間は泣くのだ、そう思った。
 

 轟音とともにまた巨樹が池に倒れ込んだ。シシ神だったものは膨らみながら立ち上がり、鈍く燐光を放つ巨人となって腕を森に広げ始める。空を覆った腕が触れた樹々は命を吸い取られたかのように瞬く間に枯れて、戦場の猪神のように折り重なって倒れていく。黒い粘液がこの小島にも押し寄せてきていた。コダマの死骸が雪のようだ。

 アシタカは首を取り戻してシシ神に返したいという。できるわけがないと思ったけれど、馬鹿げた虚勢を暴かれてしまったサンにはそれを馬鹿げた望みだと一蹴することはもうできない。
 迷っている時間はなかった。
 アシタカの腕を解いて悄然と首を垂れるきょうだいに向き直る。女を運んで欲しいと口にするのは虫唾が走るほどおぞましかった。

 ――あとで私が必ず始末するから。約束する。

 サンはまた嘘を吐く。水面を波立てないように慎重に笑って見せたつもりだったけれど、きっと失敗していただろう。


 対岸に渡り、嫌悪に毛を逆立てて唸る弟を何とか宥めて女を背に乗せた。両脇からアシタカといつも女の傍にいる大男が支える。サンはもうひとりの弟の背に跨って先導する。女に触れることはどうしてもできなかった。
 あの粘液から溢れてくるのか、腐ったような死臭が漂ってくる。アシタカの胸で嗅いだ痣のにおいと同じだった。
 灰色に枯れてカサカサと音を立てて砕ける藪をかき分けて獣道を行く。シシ神の粘液の届いていない道を選び、人間の脚に合わせて進むのはひどく骨が折れた。モロが生まれた頃から変わらずあった、いつまでも変わらずあると思っていた森の光景は一変している。
 後ろを走る弟の息が荒い。背中に乗せた女の血の臭いに気が立っているのだ。サンは振り返ることも駆け去ることもできずにただ前を見つめて進んだ。


 なぜこんなことをしているのだろう。モロの果たせなかった望みを叶える絶好の機会を不意にして、傷ついたきょうだいに無理を強いてまで。
 なぜもうすぐ呪いに喰い殺される身で、この人はまだ何かを為そうとするのだろう。なぜ憎むのではなく、悲しむのだろう。
 なぜ自分はこの人を憎むことができないのだろう。


 なぜ、なぜ、なぜ。

 言葉が胸の中で谺する。満ちた谺に揺さぶられて記憶が転がり出る。


 ずっと昔、同じ言葉をモロにぶつけたことがあった。

 モロの巣穴で過ごす何度目かの冬が近づく頃だ。サンはまだ小さくて、牙の代わりになる剣も、きょうだいに跨って尾根を駆ける力も持っていなかった。きょうだいが鹿の群れを見つけて追いかけていくのを見送ると、ひとり残って木の実を集めた。
 モロはあまりものを食べない。年を取ると多くは必要がないのだという。時折思い出したように狩りに出ても、獲物のほとんどをサンに与えた。モロの時は樹々のようにゆっくりと流れている。この日も崖の縁の岩場で森に耳を澄ましながら待っていた。
 サンだけが食べる木の実を蔓と朴の葉で不器用に編んだ籠に詰め、木の根から木の根へ歩いていた時、猩々の群れと行き合った。彼らも冬に備えて森の恵みをその身に蓄えようとしていた。サンがひとりなのを見て取ると、頭らしい大きな一頭があからさまな侮蔑の目を向けた。
 ――モロ一族が木の実を喰うのか。
 猩々は皆でひとつの生き物であるかのように共鳴しやすい。一頭が口火を切るとすぐに他の者も迎合する。
 ――我々の糧を奪うな。
 ――人間の娘。
 ――人間は去れ。
 サンは牙を持たない。猩々達から投げつけられたそれを無礼だと跳ね除ける怒りもまだ持たなかった。
 後から思えば猩々たちも気が立っていたのだ。ナゴの守が追い払っても追い払っても湖のほとりに住み着き、のべつまくなし煙と熱を吐き出す人間の里に。それに思い至ったとしても、凍りついたように俯く他、サンになす術はなかったけれど。
 共鳴するのも早ければ冷めるのも早い猩々達は、ひとしきりサンに罵声を浴びせると気が済んだように去っていった。サンは短い晩秋の日が暮れて、春に産まれた仔鹿を首尾よく捕らえたきょうだいが満足気に戻ってくるまでじっと立ち尽くしていた。

 嘘を吐くことを覚えたのはその時からだ。様子がおかしいことに気づいたきょうだいがサンの肩に鼻面を乗せて気遣うのを、無理に笑って振り払った。

 きょうだいが仔鹿に夢中になっている間に、サンはモロのいる岩場によじ登った。嘘が全身を塗り固めてしまう前に訊いておかなければならなかった。

 ――なぜ、私は森にいるの。
 ――なぜ、私は山犬じゃないの。

 それは問いの形をした悲鳴だった。

 サンは自分を森に差し出した手を覚えている。
 山から山へ幾度か移ろった住処が、あの湖のほとりと同じようにいつも森を焼く火と煙と熱に覆われていたことも。
 モロの前に差し出され初めてあの眼を覗いた時、サン自身の水底に沈む、頼る者のない人里で密かに育んだ憎悪が引き摺り出されてしまったことも。

 土を割って芽吹いた双葉が見上げる巨木になるほどの時を生きた山犬神は、シシ神の池の水と同じ底知れない色をした眼でサンをじっと見つめた。
 モロの眼の底に映るものが何なのかサンにはわからなかった。喰われることを覚悟して見つめ返した時に燃え盛っていた怒りはもうなかった。哀しみが沈んでいるようにも見えたけれど、サンの気のせいかもしれなかった。

 ――おまえは私の娘だ。
 長い沈黙のあとにモロは小さく言った。そして湿った冷たい鼻面でサンの頬をそっと突いた。頬に残る湿り気で、サンはモロに答えを出してもらうのは諦めなければならないことを理解する。それはサンが自分で決めなければならないことなのだった。
 少なくともこの巣穴には居てもいいのだ、サンにわかったのはそれだけだった。
 モロはそれ以上何も言わなかったし、サンは自分の手に余るその問いを水底に沈めてしっかり蓋をしてしまった。そうして伸び放題だった髪を切り、代わりに山犬の牙と毛皮で身を飾った。鹿の骨を研ぎ、木を削ってきょうだいの狩りについていった。全身がみしみし音を立てそうなくらい疲れ切って帰った夜も、モロの眼に浮かぶ哀れみを避けるように腹の和毛に顔を埋めて眠った。

 サンは何度も夢を見た。
 小さな山犬になって森を駆けた夜明け前、目覚めて最初に目に入る人間の形をした手をどれほど呪ったか知れない。サンはきょうだいと同じ地を掴む四つの脚と月明かりに煌く銀色の毛皮が欲しかった。モロの娘に相応しい牙と爪が欲しかった。

 湖のほとりの人間が森を切り拓くにつれて、猩々達のサンに向ける眼はどんどん険しくなっていった。毎度弟達が猛って猩々を追うのを見るのが嫌で、サンはそれに慣れたと思い込むことにした。ナゴの守とモロが厳しい顔で交わす会話に幾度も登場する「人間」という言葉に自分は含まれていないと信じ込んだ。冬が深くなるにつれて厚く凍てついていく湖のように、嘘が水面に重なっていった。
 そしてあの女が火を吹く矢を携えて湖にやって来た時には、生まれた里を憎むようにあの女の砦を憎んだ。それが人間の姿をした自分が森で生きることの罪滅ぼしにでもなるかのように。


 アシタカを憎むことができればいいのに。シシ神の粘液が通り過ぎた跡なのか、焦げたように赤茶けた岩の斜面を下りながら思う。後ろでアシタカが女を励ます声がする。気遣わしげな声音に胸がざらつく。
 アシタカは森の生き物と人間の境を軽々と越えてしまう。女の礫に撃たれ人間の世界を追われた彼をシシ神は生かした。そうやって招き入れられたアシタカにサンは食べ物を与えて介抱した。自分と同じ姿をしながら森に許された生き物に何かを期待した。
 サンが命を捨てようとする度にこちらに引き戻したのはアシタカだ。
 なのに彼は彼を追い出した女を生かしたいという。彼にとって獣も人間も――獣でも人間でもないサンも――変わりはないかのように。迷いも憎悪も感じさせない瞳がサンの不確かな足場を更にぐらつかせる。
 女は呻き声ひとつ上げない。


 気づけば東の空が白んできていた。山の稜線が微かな藍に染まり始めた空に黒く浮かび上がる。夜明けが近い。
 枯れた谷沿いに岩場を下る。ここを下りきったらあの女の砦の浮かぶ湖だ。
 かろうじて倒れず残った巨樹の梢の隙間から儚くなりかけた月がのぞく。地面には冬を目前にしたように枯れ葉が積もっている。あたりに漂う死臭は強さを増して肺にまで流れ込んできた。体に馴染んだ太古の土と濃い草いきれのにおいはもうどこにもなかった。森は死んでしまっていた。

 巨大な岩の積み重なったガレ場を過ぎると、夜明けの風に乗って人間の硝煙のにおいが混じり始めた。一塊りになって走る弟と人間達の息遣いの他、聞こえるのはわずかに枝にしがみついている枯れ葉が風に擦れる微かな音だけだ。
 

 弟達に約束した「あとで」はきっと来ないだろう。もう女をほふっても意味がないことはわかっていた。モロ一族の血を繋ぐことはサンにはできない。女を送り届け、弟達を逃がしたら、シシ神の首を抱いてあの黒い粘液に飛び込むのだ。それで命を落とすなら、きっとサンはモロの一族として森に迎え入れてもらえるだろう。その時アシタカが隣にいるだろうことは無性にサンを安堵させた。
 恐怖はなかった。先刻まで渦を巻いて荒れ狂っていた水面は奇妙に凪いでいる。濁流が水底の澱を浚って洗い流してしまったように、恐る恐る覗き込んだ水は思ったよりも澄んでいた。

 氷の下から浮かび上がった、かつてモロに投げた問いはまだぬるんだ水の中を揺蕩ったままだ。

 ――それでももし、とサンは思う。
 凪いだ胸には緒を結わえ直してほんの少し短くなった玉の小刀が光る。

 ――おまえには、あの若者と生きる道もあるのだが。

 もしもこの夜明けを通り抜けて再び曙光を浴びることがあったら、その時はモロが最後に残した言葉を試してみてもいい。そうすればいつか、あの問いに答えを出せる日が来るかもしれないから。




<おわり>
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