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殉愛譚

 出雲彗は、卵から孵ったばかりの雛のような存在だった。
 世界に対しても知らない事が多すぎて、夏油に心を少し開いてからというもの、夏油が出雲に教える事は多かった。
 例えば水族館を出雲は知らない。
 名前を知ってはいるがそれが何であるかの情報までは頭になかったし、実際に行ったこともなかったようだ。
 寮内で最早二人のスペースとなった自販機近くのベンチを今日も陣取り、夏油は水族館の画像を携帯で出雲に見せながら「それなら」と提案する。
「次の休みに行ってみようか」
「え、……いや、それは」
 出雲は表情を曇らせ、渋るような態度を取った。
 あまり外に出たがらないと灰原からは聞いていたが、まさか本当だったとはと夏油は内心驚いた。恐らくは出雲の目と、その目が母親を過去に呪い、後遺症を遺した事が原因だ。力を抑制するために普段は呪具である眼鏡をかけたり、コンタクトレンズを着けるなどはしている。そうして未然に防いでいても、人が関わる事を極度に出雲は恐れている。興味や好奇心を打ち消すほどに。
 しかし夏油は言うのだ。
「大丈夫」
 出雲は根拠のない言葉を押し付けないでくれと言いかけたが、俯きがちにしていた顔を上げて見えた夏油の表情にどうしてか言葉は出てこず、結局全て飲み込んだ。



 ——コンタクトレンズ、外れませんように。
 被ってきたキャップを目深に被りながら、出雲は普段以上に俯いて歩いていた。
「出雲、そんなに俯いたら何も見えないよ」
 隣を歩く夏油は小さく笑いながら、いつもより縮こまっている出雲を見る。まるで初めて散歩に出た仔犬のようだと思ったが、言えば拗ねるだろうから腹の中にその感想は仕舞い込んだ。
 出雲の体を眼前の人混みから避けさせるように水槽側へと移してやりながら、夏油は「ほら」と水槽に向かって指を差す。
「出雲、あれが鮫だよ。そしてあれが——」
「え、え? ちょ、待って」
 恐怖心はあるが初めての水族館に好奇心は勝てたようで、出雲は視線をようやく水槽に定めた。
 眼前に広がる群青の世界と図鑑で見た生物たちの踊る様に、出雲は息を呑んだ。
「……綺麗、だ」
 出雲の呟きが聞こえた夏油は、胸の奥がじわりと温かくなった。
 このまま世界の様々をもっと知っていけたら良い。悪い事ばかりではないと、理解してくれたなら。
 キャップの下で無垢な表情を曝け出している出雲を夏油は隣でしばらく眺めていたが、出雲の隣にカップルが来るとすぐにその手を引いて歩き始めた。
「流石にジンベエザメはいないか。沖縄や大阪にならいるんだろうけどね」
「ジンベエザメって、図鑑に載ってたあの大きいっていう」
「そう。いつか任務で出張があったなら、行ってみると良い」
「……いや、良いです」
 当然の拒絶の言葉に、夏油は胸の奥を占めた温もりが冷えていくのを感じた。
「そうか」と苦笑混じりに頷けば、引いていた出雲の手が手首に絡まった。
「俺、夏油さんと行きたい。夏油さんと一緒の方が、多分安心ですから」
「——」
「あ、いや、変な意味じゃないっすからね。ただ、さっきから……夏油さん俺の事、人から守ってくれてますよね」
 守る、などと大それた言葉にするのは烏滸がましい。ただ出来るだけ可愛い後輩をストレスから遠ざけようとしていただけだった。
 立ち止まり夏油は出雲の方を見る。出雲は夏油によって安心を得たのだろう、いつもより視線を上げ、はにかみながらも穏やかに笑っている。
「夏油さん、ありがとうございます」
 コンタクトレンズ越しに、銀灰色の瞳が煌めいた。



 その次の休みの事だった。
「出雲、それ……」
「あー、……変……ですかね」
 緑色のカラーコンタクトと、黒髪に金色のメッシュが入った出雲がいつものスペースに現れ、夏油はそれこそ驚きを隠せない表情を浮かべた。
「こういうの、前から興味、あって……。美容室怖かったんですけど、ちょっと……チャレンジしました。あっ、コンタクトは呪具なんで安心してください。絶対に夏油さんのこと呪わないんで……!」
 出雲の心臓は今、緊張で縮こまっていた。
自分なりに勇気を出した、生まれて初めての行動だった。だが、夏油という出雲自身をいつも受け入れてくれる存在が、果たして今回も受け入れてくれるのか?
 普段とは違う恐怖で視線を逸らしながら、出雲は夏油の反応を待った。
 驚いていた夏油だったが、次第にその表情は笑みに変わっていった。
「良いんじゃないか? 似合ってるよ」
「ほんとっすか?」
「ああ、本当だよ」
 安堵して出雲は「良かった」と声にする。
 その微笑みが夏油へとしっかり向けられ、瞳が夏油を捉えていることに、出雲自身まだ気づいていない。夏油だけは気づいていたが、野暮な言葉は結局口にしなかった。
 今はただ少しずつ変わっていく出雲の心と、この関係を大切にしていたかった。
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