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殉愛譚

「疲れた……」
 教室に入り廊下側の席に着いた出雲は、机に突っ伏すと疲弊した声で呟いた。
「何かありましたか」と問うのは隣の席の七海。その奥の窓側の席に座っている灰原は、立ち上がると出雲の傍まで来て、心配そうに顔を覗き込もうとしたが直ぐにやめた。こうしてパーソナルスペースを詰められることもあまり好まない出雲は、何より自分の顔——特に目を見られることを嫌っている。
 顔を覗き込まない代わりに、灰原は机に未だ突っ伏したままの出雲の頭を後ろからわしゃと撫でる。
「出雲、大丈夫?」
「……あー、うん……大丈夫。ただの例のアレ」
「ああ、夏油さん」
「夏油さん」というのはこの呪術高専での一学年上の先輩で、この頃出雲によく構ってくる人間だった。
 休み時間に見つかれば捕まえられる。
 寮に帰っても、偶然以上の確率で廊下で捕まる。
 夏油はどういう訳か出雲と仲良くなりたいようであるが、その手段が人をあまり寄せ付けたくない出雲にとって過度のストレスだった。
「俺、あの人に何かしたか……?」
「それは夏油さんしか知らないだろうけど。でも、出雲はいじめられてる訳じゃないんだよね?」
「……まぁ、そうなんだけど」
 ふむと考えながら、灰原は手慰みに出雲のポニーテールにしてある黒髪を三つ編みにし始める。出雲はされるがままになりながら、また一つため息をついた。
 人懐っこく好かれやすい灰原であっても、出雲とこの距離感になるには少し時間がかかった。入学してまだそれ程の時間は経っていないが、距離はわりと近くに見える。だがそれは灰原が出雲の嫌うことを察知するのが上手かったからだ。
 あまり深く立ち入り過ぎることのない七海に対しても、出会った当初の出雲の緊張は強かった。だが出雲も二人の人となりを少し理解して、張り詰めた心を緩めようとしていた。
 それでもきっと、今もまだ出雲は警戒を続けているのだろう。
「嫌なら言ってみては? 話が通じない訳ではないでしょう」
「……それは……、そうだけど」
 言い淀んだ出雲に、七海は微かな変化を見た気がした。少し前までは「ぶん殴って明日こそは逃げる。絶対逃げる」とも言えていた出雲が、何か抵抗したがっている。
 灰原も気づいたらしい。口元を綻ばせながら三つ編みを解いていく。
「絆されましたか」
「絆されたね」
「違うッ」
 突っ伏していた顔をようやく上げて、それでも視線は誰とも合わさずに出雲は否定する。
「絆されてない、ストレスだあんなの」
「ならストレスを断てるよう努力すれば良い」
 七海の言葉に出雲は小さく「そうだな」と返したが、その横顔は全く納得していないことが七海には見えている。
 どうやら「疲れた、ストレスだ」と言いながらも、出雲の中で夏油は良くも悪くも存在感を増しているようだ。
「出雲、夏油さんは悪い人じゃないよ。だからさ、自分がされて嫌な事をしっかり伝えれば、良い関係が築けるんじゃないかな」
「別に、良い関係とか」
「素直じゃないよね出雲は」
「うるせぇ」
 出雲は拗ねた様子で再び机に突っ伏してしまう。
 七海と灰原は視線を合わせると小さく笑った。



「俺……苦手なんです、人と距離感近いの」
 珍しく自分から話し始めた出雲だった。
 あの後、再び出雲が夏油に捕まったのは寮の自販機前。初めて捕まえられた場所もここだった。
 夏油は自販機で買った二本の緑茶のペットボトルを一本出雲に渡して、出雲の座るベンチに自分も腰掛けた。
「人に目を見られるのも嫌いだし、目を合わせるのも苦手。だから、あんまり……その」
 出雲は「関わらないでください」と言いかけて口を閉ざし、俯きがちな顔を更に俯かせた。
 良い言葉が喉から出てこないのだ。どうやら自分は関わってほしくない訳ではないらしい、けれども苦手な事をされるのは嫌だ。どうにか伝えたいのに、人間関係を形成してきた経験があまりにも浅いためか、どう伝えれば良いのかが分からない。
「なら、それを気をつけたらまだ関わっても良いかな?」
「え……」
「出雲の嫌な事は気をつけるよ。まだあるなら言ってほしい。だから、もう少しだけ私との時間をくれないか?」
「でも、やり辛くないですか? 面倒じゃないですか? 嫌になりませんか? 俺、同級生にも地元の友人にも同じことさせてて……。他人に迷惑ばっかり」
「迷惑じゃないさ。灰原と七海も、君の友人も、きっと」
「それに」と夏油は続ける。
「私は嬉しいよ。やっと出雲が自分の話をしてくれた」
 出雲は少しだけ顔を上げて夏油をちらりと見た。
 夏油は心底嬉しそうに微笑んでいて、出雲は照れ臭くなった。それを悟られないようにすぐに視線を逸らし、再び床を見つめた。
「……夏油さんは、どうして俺に構ってくれるんですか?」
「——……気に入ったから、かな」
「何を?」
「存在をね、何となくだけれど」
 実際のところ夏油は初めて出雲と出会った後、彼の生い立ちを教員の夜蛾から聞いて同情もしていた。
 その呪われた眼のせいで世界と向き合うことができたのは最近のことで、そしてその最中で母親を呪ってしまった。
 哀れだ、と夏油は思ってしまった。
 そんな同情も理由の一つにあってこうして関わっているが、言えば出雲をきっと傷つけるだろう。ようやく心を開いてきた出雲を悲しませる事はしたくなかったし、自分の元から彼が離れてしまう事も夏油は嫌だと感じていた。
 気づけば心の底から気に入り始めている。出雲は夏油にとって可愛い後輩となっていた。
 出雲の横顔を夏油は見つめる。まだあどけなさの抜けない少年は、今もまだ世界への不安と恐怖の中なのだろう。

 ——私がこの子の傍にいてやれたなら。

 そんな同情と願いの本質に、夏油自身まだ気づいていなかった。
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