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殉愛譚

「おかえり、彗」
「あ……ただいまです、傑さん。来てたんですね」
 時刻はもう深夜だ。
 不要な猿の処分を終えて部屋に戻れば、普段の五条袈裟の僧衣姿ではなく、黒のスウェット姿の傑さんが俺の部屋で待っていた。
「今夜は彗を労おうと思ってね。……と、髪に何かついているよ」
「え? 何だろ……?」
 傑さんは俺の頭に手を伸ばすと、指先でそれをつまみ取り「ああ」と声を漏らした。
「桜か」
「桜っすか。そういえば戻る途中に桜並木あったっけ」
 帰りの道筋をあまりよく覚えていない。
 ただこの部屋に戻ることだけが頭にはあって、どの道をどう通ったかなんて、興味がなかった。
「懐かしいな。彗と初めて出会った時みたいだ」
「え?」
 部屋の中に戻りながら、傑さんは懐かしそうにひとりごちる。
 出会ったのは数年前ではあるが、内容にあまりピンと来ない。何より俺たちの出会いなんて、大したものではなかったはずだ。
「出会い方なんて些細だったでしょう」
 俺が言えば傑さんは小さく笑って、懐かしむような眼差しで俺を見る。
「些細だったよ。桜が咲く頃に、俯いて歩く彗と高専の廊下でぶつかっただけだ」
「桜あんまり関係ないじゃないっすか」
「そうかもしれない。けど、印象に残っているんだ」
 傑さんは言う。桜が咲く窓の外を眺めて歩いていれば、俺が歩いてきてぶつかった。転びかけた俺を助ければ、謝罪の言葉もそこそこに俯きがちに走り去っていった、と。
 その姿はまるで。
「世界の何もかもを視界に入れるのを恐れるようだったよ。そんな姿が、私は嫌に気になって」
 ――桜の花の散り様より、眼鏡の奥で逸される銀灰色の瞳が鮮明に意識に残った。
「そんな些細な出会いで、気になるなんてことあります?」
「実際にそうだったんだから仕方ない。私にとっては重要な出会いだよ。あの日がなければ、彗にあんなに鬱陶しく接することもなかっただろうし」
「……ああ……」
 俺の記憶では、ある日突然寮で一学年上の先輩であった傑さんに声をかけられたという事になっている。自販機前でどの飲み物を買うか悩んでいた時……だったと思う。声をかけてきた傑さんは、先に小銭を自販機に入れてしまうと緑茶を二本買って、俺に一本渡してきたのだった。
「少し話をしないか?」なんて微笑みながら。
「最初の頃は本当……なんていうか、嫌でした」
「だろうね。私も彗の立場なら嫌だ」
「それから毎回毎回至る所で捕まるし……。逃げようとしたら「先輩の言うことは聞けないか?」とか脅してくる時もあったし」
「はは。うん、すまなかったね。……でも話したかったんだ。彗の生い立ちを人伝に聞いたから、安い同情だったのかもしれないけれど」
 俺の生い立ちを知るのは教員くらいだろう。生い立ちといってもそんなに面白いものでもない。先天的な「呪殺眼」という呪眼を持ち、物心ついてそれなりに人らしく振る舞えるようになるまでは、視界を塞がれた生活だった。そしてようやく世界をこの目で見ることができるようになって数ヶ月後に、母親を呪ってしまうという事故を起こした。
 俺の生い立ちに対しての同情なんて、不要だった。寧ろ同情なんてものは嫌悪の対象だった。きっとそんなことは聡いこの人のことだから分かっていただろう。だから今日まで口にすることはなかったのかもしれない。
「……俺は、可哀想だったんですか?」
「すまない。あの頃の私はそうも思っていたよ。そんな感情も含んで彗の良い先輩になりたかった。けれども」
 傑さんは指先の桜の花びらに視線を向け、言葉を続ける。
「……けれども、途中からその心も変わってしまったんだ。私たちの間に、悟が入ってきた。それがだんだんと煩わしくなって。「私だけの物なのに」なんて、独占欲が湧いたりもしたよ。
 それで気づいたんだ、私は君の良い先輩になんてなれやしないことを。そして、同情よりももっと酷い感情を抱いていることも」
 再びこちらに向けられた眼差しに、俺は簡単に捕らえられてしまう。全てを見られているような、熱を持った支配の視線。俺は脳髄を軽く痺れさせながら、言葉の続きを待った。
 傑さんはしかしその先を言葉にすることはなく、微笑を深くしながら俺に両腕を広げて別の言葉を口にする。
「そろそろベッドに入ろうか。今日も疲れただろう」
「……ずるいですよ、それ。何が同情より酷い感情だったのか、分かんないじゃないですか」
 不満を言いながらも、腕の中へと収まってしまう。耳元に寄せられた傑さんの唇は、吐息混じりに囁く。
「知っているくせに?」
「知らない……」
 わざと知らんふりをする俺は、きっとどうしようもなく愚かなのだろう。傑さんから与えられるものは、どれだけ酷い痛みでも、快楽でも、すべてが欲しいのだから。
 傑さんは俺をきつく抱きしめながら「仕方のない子だ」と笑う。
「愛だよ、彗。
 それが私から君への最も酷い感情だ」
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