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殉愛譚

【記録】
 ■■県■■市立高等学校廃校舎にて。東京都立呪術高等専門学校三年・出雲彗の消息が途絶える。
 補助監督・神野淳一の死亡を確認。
 現場に残された残穢から、第三者の介入が認められる。
 第三者特定。——呪詛師・夏油傑。



 新幹線を待つ駅の自販機で買った緑茶のペットボトルは、わずかな時間でもう汗をかき始めている。
 九月も半ばとなったが気温は未だ夏を思わせる。
 日差しは相変わらず刺すようですらある。新幹線の中は冷房が効いているため、窓際に座っていてもそれなりに涼しくはあったが。
 彗はペットボトルのキャップを開き、緑茶を飲んだ。飲み慣れた苦味が、爽涼さを持って喉の奥を通り過ぎていく。別にこの味が好きという訳ではない。ただ習慣化してしまっただけだ。そして、その習慣は彗の未練でもある。
 もう一口を飲み、車窓からの風景を眺めながら思考の海へとゆっくり溺れていく。彗はもうずっとこの状態だった。高専生二年の夏、何よりも大切な存在であった夏油傑が何も言わず消えてしまってから。
 彗が思うことは、いつだって傑のことだけだった。だが思考はいつだって堂々巡りだ。もう一度会えたなら、人を殺め呪詛師となった傑を自分は殺すのか。生かすのか。それとも……ともう一つの道を考えては、そんなことはあってはならないと彗は自身に言い聞かせる。「それとも彼と同じ道を共にいくか」などという背徳は、絶対にあってはならない。
 だが、もしも——。
「出雲くん、出雲くん。起きてください」
「……ん……」
 気が付けば彗は眠っていたようで、新幹線はいつの間にか目的地へ着こうとしていた。付き添いである補助監督の神野淳一は、ぼんやりとしている彗を見て苦笑を零した。
「もうすぐ着きますよ。着いたら先に宿へ行きますか?」
「いや、大丈夫です。現場の方、そのまま行けます」
 神野は「分かりました」と頷く。間をおいて、車内に次の駅に到着するアナウンスが鳴り響いた。
「それじゃ行きますか、神野さん」



 ■■県■■市。
 元は市立の高等学校であった廃校舎の校門前に彗と神野はいた。時刻は午後三時を少し過ぎたところだ。
 彗に今回与えられた任務は、この廃校舎に巣食う二級に相当する呪霊複数体の掃討だった。
 彗は自身の最大の武器である目から緑のコンタクトレンズを外すと、レンズケースにしまう。そして担いでいた袋から全長五〇センチメートルほどの刀を取り出すと、一度鞘から抜いて刀身の状態を確認し、後方に控えている神野へと振り返らずに声をかけた。
「じゃあ神野さん、行ってきますね。あとお願いします」
「はい。……どうか気をつけてください」
「ありがとうございます」
 彗は校舎へと踏み込んでいく。その背中から視線を離し、神野は帳をおろす。陽の光が遮られた空を一度見上げた彗は、一度深呼吸すると再び歩み始めた。
 校舎内に足を踏み入れた彗は、神経を尖らせながら廊下を進み、各部屋を見て回った。もう使われていない教室の埃臭い空気は淀み、その中には呪霊の気配がところどころに残穢となって残っている。しかし、まだ姿を見ることはない。
 一階から二階へと移動し、音楽室などの特別教室だった場所や、職員室も確認した。だが未だ気配だけしか感じられないそれ。足跡を辿るように彗は慎重に上階へと進んでいく。
(……誘い込まれてるな)
 だんだんと濃くなる気配は屋上にまで彗を誘った。刀の柄を握り直し、息を一つ吐く。集中し直すと、彗は静かに扉を開いた。
 視界に映ったのは、屋上とは最早呼び難い異空間。給水塔は太い血管が浮き出て脈打ち、柵は空をも覆っている。コンクリートの床は熱く熱を持って、明らかに二級の呪霊のレベルを超えている。
 一級。もしくは、………最悪の場合特級だ。
 姿を現さない呪霊に最大級の警戒をし、刀を構えようとした瞬間、彗の瞳めがけて刃物のように鋭いものが飛んだ。彗は左へと飛び退いて躱し、そちらを睨んだ。
 そこには簡単に形容するならばトカゲと人が混ざり合ったような姿をした呪霊が、大きな口を笑みの形にして立っていた。その後ろには中型犬ほどのサイズの、芋虫の形をした呪霊が複数体八つ裂きになって倒れている。
(……あのトカゲにやられたのか?)
 呪霊同士が争い合うなどあまり聞かない。彗は考えながら刀を構え、呪霊を睨んだ。
 トカゲの呪霊は両手を胸の前で交差し、振り払う。すると再び鋭利なものが彗へと飛んだ。
 彗は斬り落としながらそれを確認する。相手は爪を吹き矢のように飛ばして様子見をしているのだろう。
「トカゲのくせに飛び道具とか、馬鹿かよ」
 面白くなさげに彗は呟くと、呪霊へと走り出す。と、呪霊は彗の行動を読んでいたかのように瞬間的に移動し、目の前に現れた。
 全長二メートルほどのそいつは、しかし攻撃を仕掛けて来なかった。彗と視線を合わせながら口元の笑みを絶やさないだけだ。
 その余裕を、彗は愚かと判断した。彗の眼には呪殺の力がある。相手の実力が彗よりも高ければ確かに祓われることは免れるだろう。だが、硬直や麻痺といった攻撃は受ける。効果が遅くとも、じわりじわりと毒を盛ったようにして祓うことも今の彗の実力ならば可能だった。
 そんな彗の瞳を、ギラギラとしたトカゲの瞳は覗き続ける。
 呪霊は次第に瞳から力を失い、笑みを薄めていった。だが、彗は自身の判断を悔やんでいた。
 彗の術式自体は効いていた。呪殺眼は間違いなく呪霊を祓おうとしたのだが、相手が悪かったようだ。
 祓われる直前、この呪霊は脱皮という行為で急速な再生を行ったのだ。故に今、彗の目の前でその皮は裂け始め、再び人型のトカゲが姿を現し始めている。
 ならば呪力を乗せた刀での攻撃ならどうだ。脱皮を半ばまで終えている呪霊の身に刀傷を負わせていく。しかし、やはり下から次々と新しい身体が生まれていく。
 再生したトカゲの呪霊はまたもにたりと笑うと彗に手を伸ばし、その首を掴むと給水塔の方へと投げ飛ばした。受け身こそ取ったが、背中から鉄へと突っ込んだのだ。頭部の皮膚は軽く裂けた。金のメッシュが入った黒髪の隙間からは血が溢れ、脳はくらくらとしていた。
「く、そ……ッ」
 休む間はなかった。直ぐに追い討ちをかけるように呪霊は迫り、次はその爪を使い彗の肌を引き裂き、そして太く硬い尾で横薙ぎに殴る。
 刀を使って防戦するが、このままでは埒があかない。彗は高い集中力を持って相手の狙いを定めると、呪殺眼による高負荷をかけた。
 先ほどよりも強い力は、呪霊は三秒動きを止めた。その三秒で彗には充分だった。
「面倒くせぇッ!」
 相手を蹴り飛ばし、更に彗も逆方向へと走ることで一旦距離を取り、仕切り直す。
 恐らくは、何度となく再起不能にしないと確実には祓えない。そんな相手を確実に一度で祓うには。
「お前なんかには勿体ないんだけどな……!」
 瞳を閉じ、彗は左手の指先で瞼を撫でる。隙だらけの彗の周囲の風が揺らぐ。呪霊は彗の真後ろを取ると蹴り上げ、浮き上がった彗に向かって手をかざし呪力を込める。禍々しい光が掌から放たれようとするその瞬間、場の空気が変わった。
「領域展開」
 ゆっくりと彗が瞼を開く。銀灰色の瞳は一瞬星のように煌めくと、世界は重苦しいほどの闇に包まれていく。
 彗は両の手で一度印を結び、言葉を紡いだ。
「——千眼久遠」
 闇に包まれた世界の至る所に眼が現れていく。十などとぬるいものではない。百、千、いやそれこそ無限に。
 眼たちは一斉に呪霊に視線を向ける。呪霊はようやく自身の置かれた状況を理解したのか、口元から笑みを消した。
 彗はその場に着地すると相手の様子に口角を釣り上げ、頭から流れる血を拭いながら煽るように言葉を投げる。
「今更遅いんだよトカゲ野郎。……俺の眼に睨まれた奴は死ぬしかない。どれだけ再生できても、これなら限界までイけるだろ?」
 これは我慢比べだった。どちらの呪力が尽きるか。どちらが先に死ぬか。
 この領域においての実力者は彗だろう。その呪力が続く限り無限に呪い、殺していく。しかし、相手もまた呪力が続く限りの生命を持っている。
 最後に勝つのは、どちらか。



 同時刻。校門前で神野は廃校舎を不安げに見つめていた。
 今頃、神野の子供と同じほどの年齢の彼が、命をかけて戦っている。
 胸の前で、まるで神に祈るかのように両手を組む。長く補助監督をしている神野の無自覚の癖になっていた。帳をおろした神野には、もう祈る以外出来ない。そうやっても駄目な時は駄目だった。だが祈らずにはいられない。生命とは、どれ一つとして軽く扱って良いものではない。
「無事に、帰ってきてくれよ」
 不意に出た呟き。神野は自身の耳に入ったそれに苦笑した。だが次の瞬間、その口元から笑みは消え、ツ……と赤い血液が溢れていった。
「な……?」
 胸の中心に大きな穴が空き、胸の前で組んだ手はいつの間にか消えている。
 神野は何が起こったか理解できないまま、意識が闇へとずれ込んでいった。
「残念だが、彗なら帰らないよ」
 僧衣に五条袈裟を纏った長髪の男が、地に伏した神野だったものを微笑んで眺めている。
 神野の死体は男の足元から溢れていく呪霊達が貪っていき、やがては骨になった。



 根を上げたのはトカゲの呪霊だった。
 彗の領域の中で幾度も再生し彗に攻撃を仕掛けたが、そう何度も致死のダメージを再生する事は出来ず。やがては無数の呪殺眼の中で溶解し、存在を祓われた。
 廃校舎はようやく正常な姿を取り戻した。呪霊の気配は全て消え去ったと言って良い。
 緊張の糸が切れた彗は一息つこうとその場に座り込むと、レンズケースからコンタクトレンズを取り出した。コンタクトレンズを入れ直すと、視界を確認するように一度空を見上げる。だが空を見て異常に気付いた。
帳が既に上がっている。
 神野に何かあったのか。嫌な予感に急かされるように立ち上がり、屋上から出ようとすれば、目の前に人影が現れた。
 瞬間、彗の思考は停止した。
「やあ。強くなったね、彗」
 穏やかに語りかけるその声を、柔らかに微笑むその顔を間違える訳がない。いや、そもそも彗がこの存在を間違える訳がないのだ。
 夏油傑。何よりも愛した存在を。
「傑、さん……?」
 傑は頷くと、心から申し訳なさそうにして彗に「すまなかった」と謝る。
 まさか己の罪を認めるのだろうか。彗は期待よりも恐怖を感じていた。傑が罪を認めるのならば、処刑対象となっているのだから殺さなければいけないだろう。そうなったなら、彗は——。
だが、傑は予期せぬ言葉を口にした。
「一年もの間ひとりにして悪かった。……随分と待たせてしまったね。
 でももう大丈夫。迎えに来た、君を」
「え……」
 傑が何を言っているのか、彗には理解が追いつかなかった。
 罪を認めるのでは、ないのか?
 迎えに来た、とは?
「傑さん、何……言ってるんですか?」
 混乱する思考に彗は溺れそうになっていく。そんな思考の濁流を更に荒らすように、声こそ柔らかなまま傑は言葉を投げかけていく。
「言葉の通りだよ。迎えに来たんだ。これからはもうひとりにはさせない。共にいよう、ずっと」
 心地の良い甘やかさを持って言葉は彗の中に浸透する。彗は心のどこかでこうなることを待っていた、願っていた。だからこそ今、場の異常性を理解していても心は安らぎを覚えていた。
 しかし、なけなしの理性がアラートを鳴らし、彗に正気を取り戻させる。
「……だめ、です。傑さん……、そんなのは」
「それならどうする? 君が私を殺すか?」
「殺、す?」
「今だって下で一人補助監督を殺してきたんだ。罪は増しているよ。そんな私を殺すのなら、この場にいる君が適任だと思わないか?」
 ——どくり。
 心臓が跳ね上がった。
 彗の中で何度もその未来は考えられてきた筈だった。傑を自らの手で殺す、などということは。だというのに再会を果たしてしまえば、彗は自身にそんな行為が出来るわけないと思い知らされた。こうして神野の死を聞かされても、だ。
 殺すことはできない。傑に今すぐにでも手を伸ばして、抱きしめてしまいたい。そんな愚かしい自身に彗はもう気づいていた。
 青ざめる彗を宥めるように、傑は手を伸ばしその頬に触れた。触れられることさえ抗えないで、彗はいつからか離れてしまっていたその熱を受け入れていた。
「……嫌なことを考えさせてしまったね、悪かった」
 彗には最早何が正しいのか分からなくなっていた。
 傑を殺せない愚かな自分。しかし生かしていてはいけないと叫ぶ自分。これまで散々と堂々巡りしてきた思考が、またしても彗を飲み込んでいく。
「……俺は」
 決められない未来に、彗は苦しんだ。
 傑を殺す未来。生かす未来。……それとも。
「彗、君が決めることならば私は受け入れるよ。たとえ殺し合う未来でもだ。一度ひとりにしてしまった私に、それを止める権利はない。
 けれども忘れないで。私は君を、永遠に愛している」
 傑はやはり穏やかに微笑むのだった。対し、彗は今にも泣きそうに表情を歪める。
 頬に触れていた熱は離れていく。その熱を引き止めたいのに、手を伸ばすことが出来ない。手を伸ばせば、何度も否定した道へと彗は身を堕とすことになる。
 ——夏油傑と同じ道を生きる。
 その言葉は想像すればいつだって恐ろしい。その実、背徳の行為への執着は彗の心を幾度となく甘く震わせていた。
「……傑さん」
「何だい?」
「——……ッ」
 共に生きたい。もう、離れたくない。
 喉から出かけた本心を、しかし彗は飲み込んだ。
黙り込んだ彗に蜘蛛の糸を垂らすように傑はその手を差し伸べ、囁く。
「共にいこう、彗。私から、離れないで」
 その言葉は、いつか彗が想いを告げた時に傑が与えた答えだった。
 記憶が溢れ、渦を巻く。感情の波は本心を全て暴いていく。
 だめ、と掠れた声で必死に彗は抗うが、もう何に抗いたいのかも分からない。
 差し伸べられた手は、正義か、それとも悪か。そんな建前はもう、彗の中では崩壊してしまった。
「俺、……きっとだめになる」
「ならないよ、私がいる」
「覚悟なんて、できてない」
「全て私のせいにすればいい」
「……俺、は……」
「私の傍にいてくれ、彗」
 目の前に垂らされた蜘蛛の糸。繋がる先はきっと楽園に見せかけた地獄だ。
 彗は全て理解し、自身にこれからの覚悟も何もないことを飲み込みながら、傑の手に自らの手を重ねていた。傑は頷くと、彗の身体を引き寄せ、きつく抱きすくめた。
「もう離さない」
 傑の声は喜びに震えていた。鼓膜を震わすその甘い掠れに彗は酔いながら、傑の背に腕を恐る恐るまわし、しがみつくように抱きしめ返す。
「もう、二度と……、離さないでください」
 これからどうなっていくのかは分からない。いや、破滅も絶望も待っているだろう。だがそれでも愛した存在の傍で生きることが出来るなら、彗はもう何も恐ろしくはなかった。
 彗にとっての本当の地獄とは、傑のいない世界に他ならないのだから。



 出雲彗の消息が途絶えた後、一般人および呪術師の死が報告される。
 彼の非術師である友人。そして呪術師である両親。ことごとくが呪い殺された。
 現場に残る残穢は出雲彗、そして夏油傑のものと特定。上層部は出雲彗を呪詛師とし、処刑対象として認める。
 だが彼と夏油の行方は、依然不明のまま。



「やっぱり気持ち悪いよ、お前」
 五条悟は、無人となった彗の部屋を眺め呟いた。
 悟の記憶にあった彗の部屋は、雑多で、生を感じさせるものだった。それがいつからか荷物は一つまた一つと消えていたことも知っている。
 まるで人生を終えるための準備に似ていた。だが、それはこの時のためだったのかもしれない。
 彗が任務先で姿を消したという報せは、悟の耳にも届いていた。
「傑と生きるなら、多くの犠牲は厭わないってことか? 馬鹿だね、本当」
 もう誰にも使われることのないベッドに彗がいるかのように、悟は語り続ける。返事などなく、ただの独白にしかならないそれ。それでも構わず悟は続ける。
「お前は傑が黒と言えば黒、白と言えば白と何でも信じ込む奴だよ。盲目的な程に。俺はそんなお前が——」
 嫌いだった、とは言葉にならなかった。
 そこに含まれたかつての後輩への信頼も、嫌悪に似た友愛も、悟は胸にしまい込む。
 一つだけ残された、勉強机の上の写真立てを見て、悟は唇を噛み締めた。

 遠い楽園となった思い出。手を伸ばせど、届くことはなく。
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