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殉愛譚

 淡い桃色の花弁が風に乗って行く様を眺めていた。
 春。先日二年に進級したばかりの夏油だった。しかし教室の面々に変化などが特段あるわけでもない。この東京都立呪術高等専門学校で、彼は今日も変わらない一人の呪術師であり学生としての時間を過ごす。
 あともう十分もすれば座学の時間だった。
 だが春の陽気のせいか、その場から動くのが何となく今日は億劫に感じた。少し遅れても良いだろうなどと考え、夏油は廊下に留まり外の桜を眺め続けた。
 桜の薄桃も、新たに芽吹く命も、何もかも鮮やかに見えるはずなのにどことなく色褪せて見えるのは今に始まった事ではない。それは彼が呪いというものを知るからだろうか。この世の穢れとも言えるそれを直視し、祓うからか。そうであるならばこうして自身が守る日常は何よりも尊く鮮やかなはずなのに。
 日常というものは、夏油に弱者を守るという使命を忘れさせずにいるものだ。
 だからだろうか、その中に自身が含まれているという実感はなく、まるで色あせて見えるのだった。
 呪いを祓い、弱者である者たちを守る。夏油はその間には鮮やかさを世界に微かに得られていたが。 
 予鈴が鳴る。
 もとより人が少なく静かな校舎は、音が響く事で余計静寂を感じる。
「……戻るか」
 呟くものの、歩みはのんびりとしていた。きっと数分は遅れる事だろう。遅れて教室に入れば、担任の夜蛾から大目玉をくらうに決まっている。それでも良い。
 視線は未だ外に向けられている。
 いつまでも鮮やかに映らない景色を、自分の守っていくものを、夏油は見つめ続けた。
 だが、そんな時間もついに終わりを迎える。
 外に意識が向いていた夏油は、誰かが廊下の向こうから足早にこちらへ向かってくると気づいていなかった。
 体に何かがぶつかる衝撃に前を向けば、見慣れない生徒が目の前で倒れていくのが見えた。思わず手を伸ばし、腕を掴んで倒れ込むのを阻止していた。
「っ、大丈夫か?」
「……、……っ」
 恐らくこの生徒は一年だろう。長さのある黒髪を後頭部でポニーテールにし、俯きがちで見づらいが眼鏡をかけている彼は、夏油をその銀灰色の瞳で見た。
 瞬間、夏油の世界は光を得た。今までの色褪せたものが、突如として色を持つ感覚が走ったのだ。思わず彼をじっと見つめ返し、夏油は立ち尽くした。
 彼は夏油を、焦ったような……いやどこか酷く怯えたように見つめている。その姿からますます視線を逸らせずにいれば、彼は居心地悪そうに視線を逸らした。
 そういえば謝っていなかったと思い出した夏油は、腕を離してやりながら目の前の後輩であろう生徒に詫びる。
「ぶつかってすまなかった」
「だ、大丈夫です。……すみませんでした……!」
 小さく頭を下げ謝罪を一つして、彼は逃げるように一年の教室の方へと走り去っていく。まるで何もかもから、世界からも逃げるようだ。
 その背中は同じ学舎にいる一人の呪術師のものでしかないというのに、夏油にはどうしてか何よりも鮮やかなものに映った。



「出雲彗だな、それは」
 放課後。職員室の席で夜蛾は静かな口調で語る。
 夏油は遅刻分の拳骨をくらってまだ痛む頭を押さえながら夜蛾を見る。
「出雲……彗」
「ああ、呪殺眼という眼を持つ一年の二級術師だ。一応は呪術師の家系となっているが、家的にもまだ若い。……それで、出雲がどうかしたか?」
「いや、どうかした訳でもないんですけどね。ただ……」
 眼鏡の奥で世界に怯えるように揺らめいていた銀灰色の瞳が、走り去っていく背中が、未だ鮮やかに意識に残っている。
 色褪せて見えていた世界がそこだけ突然色を得たようだった。だからこそ気になってしまった。だが言ったとしても夜蛾にも、そして他の誰にも伝わらないだろう。
 言葉の止まった夏油に、夜蛾は語る。
「出雲は、中学に上がるまでその瞳を閉ざされていた。だからかまだ視界が開けた時は無邪気な性格だったらしい。
 だが、暫くして母親を誤って呪った。呪いは後遺症が残る程のものだったそうだ。それ以来塞ぎ込みやすい性格になったようでな」
「……どうしてそんな話を私に」
「お前なら、出雲の助けになれるかもしれないからな」
「助け、ですか」
 夜蛾は大きく頷く。
 夏油は一度瞼を閉じ、出雲の姿を思い出す。
 鮮やかで哀れな、出雲彗という人物が浮かぶ。

 ──私が彼の助けになれるならば。

 ——私だけが。

 どうしてか胸の内は踊り、高揚を覚えた。今まで色彩が失せていた世界に、今度こそ色が広がるようだった。
 何か醜悪なものを抱えたような、それでいて輝かしいものを得たような。夏油は少なからず興奮した。
 瞼を開き、溜息のように息を一つ吐く。自身の感情を悟られぬように夏油は夜蛾に微笑んだ。
「考えてみます」
「ああ、頼んだぞ」
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