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殉愛譚

「夏油傑の離反」。その話はついに俺の耳まで届いた。届かないはずがない。こんな話が、こんな狭い世界で。
 それでも有り難かったことは、それを俺に教えたのが五条さんだったことだろう。
 最後に傑さんに会ったのは五条さんだった。
 俺はその時まで、何も知らないまま遠方の地へと長期任務に赴いていた。
 高専に戻ってから、俺は五条さんに半狂乱になって何があったのか、何が起きたのか問うていた。淡々と俺に語る五条さんの言葉は嘘ではないのだと、冷静な部分で一瞬に理解することができて。俺はその場に崩れ落ちながら、絶望に浸されながら、それでも五条さんの言葉を一言一句漏らさず聞くことができた。
 俺が「どうして」と問うことは全て答えてくれたし、分からないことは分からないとも。それがどれだけ有り難かったことか。
 嘘偽りなく俺に見たままの真実を聞かせられるのは、どう見積もっても五条さんだけだったのだから。
 俺はそれから、傑さんをどうしたら良いのか、そればかりを考えていた。
 呪詛師となったあの人を見つけ出して殺せば良いのか。
 それとも、……それとも? 
 そう、もう一つの選択肢が足下をうろついて、俺を引きずり込もうとしていた。
 呪術師として呪いを払う日々を一日一日過ごしながら、鮮やかさを失った世界を虚ろに過ごしながら、分からなくなっていく。
 もし俺が、傑さんと同じ道に堕ちたなら。
 駄目だと理性は叫んでいた。けれども心は。



「酷い顔ですね」
 俺の隣に立った七海は、俺を睨むように見た。
 深夜、自販機と非常灯のものくらいしか明かりのない寮内の廊下で、七海こそ疲れた顔をして立っている。俺は苦笑して、緑茶のボタンを押して自販機の前を退いた。
「お前よりは疲れてないよ、七海。寝不足続いてるだろ?」
「お互い様です」
 七海は缶コーヒーのボタンを押した。寝不足の人間が更にそんなものキメてどうする、といつもならからかっただろう。けれども今は、そんな言葉も出てこなかった。
「そればかり夏油さんに買ってもらっていましたね」
「は?」
「緑茶。好きでもないくせに飲んでいて不思議だった」
「……そう、だな」
 本当はコーラとか、ジュースとか、そう言った類が好きだった。けれどもいつの間にか、あの人が選んでくれていたそれが俺の癖になっている。今だって。
 手に握ったペットボトルは冷たい。その冷たさの中に、あの人の手の温もりを感じたようで、気が触れかけそうになる。
 腹の中の絶叫が、漏れそうになる。
「なぁ、七海。……俺は」
 縋る先を求めるように見上げれば感情の読めない瞳が、やはり俺を睨んでいた。
 その視線が何を言おうとしているのかは想像するしか出来ない。だがこれだけは理解できる。俺が縋ることを許しているわけではない。
「——明日も……頑張ろうな、七海」
 それだけなんとか絞り出して、七海の前から逃げるように廊下を引き返した。
 自分の愚かしさが嫌だった。今、俺は七海に何を言おうとした?

 ……俺は。
 俺は、……あの人のもとへ行きたい。

 泣き出しそうな、叫び出しそうなくらいの激情が、本心を波立たせていた。
 ああ、縋ってはいけない。誰にも、誰にも縋ってはいけない。
 俺はひとりで全てを終わらせよう。
 この情けない心を、どうにか終わらせなければ。
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