憧れは僕の気持ちをまだ知らない

 ――と思ったのだが。
「で、ですよ、一泊居候の身であるゆえ、何も、大きなことはいえませんが、千尋先生、それは、それだけはだめです」
 前言撤回する。千尋はそう思った。
 手にしているマグカップを奪おうとしながら、しかし強引な真似はできないと、手を引っ込め、しかし、どうしてもマグを千尋の手から奪い取りたい衝動にかられている、なぞの生命体、新崎迅人。
「夜、寝る前ですよ。そんなの、飲んだら、お身体に差し障ります」
「いや、毎日こうしているけれど、何もないよ」
「そうかもしれませんが! 不調というのは、いつか突然やってくるものなんです!」
 新崎迅人が言いたいのは、千尋が夜にカフェインのはいったコーヒーを飲もうとしているのが、気になるというのだ。しかし、千尋にとってコーヒーは創作の血液のようなもの。執筆の前にはかかさず飲むのが創作への儀式のようなものになっている。手はなせるわけがない。
「どうしても、というなら、俺、走ってコンビニでもスーパーでも行って、ノンカフェインのものを買ってきます。それまで、口付けないでください」
「いや、そういわれても」
「では、行ってきます」
 新崎は先ほど入って来た場所へと向かう。
「なに、アレ」
 千尋は彼の背中を指さして守谷に問うた。
「さあ、どうしても千尋に長生きしてほしいんだろう」
「ぼく、そんなに不健康そうにみえる?」
「いや、千尋に身体を大切にしてほしいんだろうな」
「でも、飲んじゃう」
 千尋は手にしていたマグに口をつけた。新崎には悪いが、時間がないのだ。
「で、俺は疲れているので、先におやすみさせてもらうよ」
「ああ、守谷、おやすみ。って早いな。もう寝るのか」
「ああ、悪いか」
「いや、別に。ただ、ぼくはこのあと、まだ仕事が残っているから、もしかしたらキーボードをたたく音がうるさいかもしれない」
「かまわないさ」
 寝袋を床に敷くと、その中にくるまってしまった守谷の入眠は数秒だった。修学旅行でこの男の寝相の悪さをしっている千尋としては、朝にはどの位置まで転がるのか想像してしまい、いやいや、そんなことを考えている場合ではないと、理性で現実に戻る。
 昼間の仕事だけではなくて、夜は執筆の仕事。それがたまっている。主に原因は昼間の編集の仕事が原因だ。誰かさんが期日を守らないせいで、千尋の仕事も期日に追い込まれそうになっていた。それを挽回するためにも、今夜は少し手を入れていきたい。――それに、と千尋は思う。なんだか、ひとが近くでいる空間で、自分は本当に寝れるのだろうか、と。
 PCの電源をつけて、エディタを開く。カタカタとキーボードを打てば、ゆっくりと何もなかった画面にことばがつむがれていく。
「ただいま戻りましたー」
 声がして、新崎が姿を現した。千尋はため息をついてエディタから離れると、リビングに戻ってきた新崎を見てまたため息をついた。傘も持たず勢いだけで飛び出していったのだろう。彼は頭から濡れていた。
「千尋先生、ありましたよ、ノンカフェイン!」
 新崎が見せてきたのは、確かにノンカフェインのインスタントコーヒーだった。
「これなら、夜飲んでも、朝までぐっすり快眠ですね! ……あれ、守谷さんもう寝てる?」
「熟睡中。昔から寝るとなったら早いんだ、彼」
「そうなんですね。あ、えっと、千尋さんとは」
「高校時代の学友。ちなみに、寝相も悪い。新崎くんは?」
「え、あ、俺、も、あまり、自信はないです」
「きっと、守谷には敵わないから自信もって大丈夫だと思う。……って待てよ。きみ、守谷と暮らしてるんだよね」
「はい、居候させていただいています」
「なら、もう、知っているか。守谷の寝相の悪さ」
「まあ……。それより、千尋先生、コーヒー飲みますか?」
「え、ああ、本当に買ってきてくれたんだよね。でも、その前に、濡れているから拭いて。タオル出す」
「あ、す、すみません」
 カッと真っ赤になった新崎に、千尋は少しだけ可愛いと思った。棚の奥から新品のタオルを出してきて彼に手渡しながら言った。
「前にも言ったような気がするけれど、その、先生というのは……」
「あ、えっと、千尋さん、ですよね。俺の中で、先生は先生なので、つい。すみません」
「さっきからすみません製造機になってる」
 ふふっと千尋が笑うと新崎はへへっとはにかんだ。
「じゃあ、俺、コーヒー淹れます。インスタントなので、お湯沸かして飲むだけなんですけれど」
「お湯なら沸いてる」
「お借りします」
 千尋は、なんとなく、既に書斎に持ち込んだマグカップのことは忘れることにした。 新崎はキッチンにお邪魔しますと小さく一礼してから、ケトルをお借りしてお湯をもらった。マグカップはいつも使っているものではなく、何かのためにと多めに買っておいた白い無地のものをと思い、千尋は戸棚からふたつ出した。
「新崎くんのぶんもどうぞ」
「か、かたじけないです」
 お湯を注いだ瞬間、ふわりと香りが広がる。
「いい匂い、しますね」
「うん」
「せっかくの機会なので乾杯してもいいですか?」
 新崎が幼い子どものような提案をしてきて千尋は笑ってしまう。新崎はその様子を不思議そうにみていたが、千尋の返事を聞いて嬉しそうに微笑んだ。
「いいけど」
「ありがとうございます」
 ふたり、お互いに差し出した手のひらのなかのものを静かにぶつけて、からんと、音が鳴る。なかのノンカフェインコーヒーがマグカップのなかで波をたてた。
 不思議な夜だ。本当はもっとこうしてだべっていたい気になったのだが、はたと自分を思い出して、千尋はマグを抱きかかえた。
「悪いけれど、ぼく、書き物があるから、隣の部屋にひっこむね。そこで寝るから気にしなくていいよ。新崎くんは好きにくつろいで」
 そう言って、書斎に引っ込んだ。
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