憧れは僕の気持ちをまだ知らない
数時間前、まだいつもどおりの日常がそこに流れていたとき。
F社内、月刊ランデブー編集部。併設された原稿スペースに千尋はいた。
月刊まんが雑誌ランデブーをつくりあげることこそ、編集者・千尋崇彦の仕事だ。小柄な体つきに、丸い銀縁メガネ。あまり目立たない男だが、いまこのブースはいまや彼の独壇場だった。締め切りをぶっちぎった男・松葉ゆう――本名・松宮侑汰 をしかりつけるために、そのブースには松葉と千尋以外のひとは誰もいなかったし、そのおかげで、思う存分、説教をすることができた。のだが、怒られている当の本人は、のらりくらりと、千尋の言及を避け、次第に、眠くなったと、居眠りをはじめてしまった。さすが、ランデブーの怪物作家・松葉ゆうである。
松葉とは前に勤務していた少女漫画雑誌からの付き合いなのだが、こちらが恐れるくらいのマイペースさ、社会性のなさ、自己中心的な言動などなど、あまたの問題行動を引きおこしてきた化け物っぷりは、依然としてなおらない。
こんなストレスばかりあたえてくる胃袋の敵と戦いながら、毎月雑誌を刊行するべく、彼から原稿をとりあげるのが千尋の仕事なのだが、今回は見事に締め切り後二日も待たされた。彼にはあらかじめ、嘘の締切日をおしえているのだが、それを見透かされているせいもあって、「間に合ったからいいじゃないの」というのが松葉のスタンスだ。だが、たとえ、嘘の締切であったとしても、ぶっちぎるのが慣例になってしまっている現状をどうにかしてもらわないと、他の編集者に担当替えになった時に大変な目にあうし、まずなにより、締切くらいちゃんと社会人なのだから、守ってもらいたいのだ。
「あ、ごめん、着信きたから」
松葉のスマホが鳴り出し、彼は悪びれることもなく、その場で誰かと話しはじめた。まだこちらの言いたいことは全部いえてないのだが。千尋はむっとしたが、こらえた。
「え、どうしたの、モリヤン」
電話の相手はどうやら守谷勝世からだった。彼と千尋は高校時代の同級生で、松葉とは大学時代の学友という関係。大学卒業後、自ら小さな劇団をつくり演劇を続けているガッツのある男で、上演する劇の脚本を千尋によくねだりにくる。千尋は普段は編集者として平日は企業戦士をしながら、休みの日は守谷のリクエストに応えて脚本を仕上げている間に、だんだんとその名前が業界にしれわたり、いまでは彼以外の団体や企業から依頼がくるようになって、立派な脚本家のひとりになっていた。
「え? 家、死んだ?」
松葉の口から不穏なワードが紡がれて、千尋はぎょっとした。
「ちょ、ちょっと、守谷が、何があったんだ?」
「あ、ちーちゃん? ああ、うん、いま一緒、面白いことになってるから、かわるね。……よいしょっと」
松葉がスピーカーモードにすると、そこから聞きなれた守谷の声が聞こえてきた。
「守谷、どうしたんだ?」
「それがさぁ、家が、ぶっ壊れちゃって、雨漏り。今夜寝る場所がないから、松宮ン家 、デカイだろう? 泊めてもらえないかなって思ってさ」
守谷の発言に、千尋は一瞬、血の気がひいた。
「……それはやめたほうがいいような気がする」
たしかに、マンションの最上階一室ぶちぬきという、まるで漫画のなかの世界のようなくらい松葉ゆうの自宅はかなり広い。けれど、自ら松葉の部屋に泊めてもらおうというチャレンジャーはそうそういないのではないか――と思わせる理由がある。
「この化け物の家に泊るのは、危険だからやめたほうがいい。やめなよ」
「ちーちゃん、言い方、言い方。俺のことなんだと思ってるの?」
千尋は松葉を無視して続けた。
「ホテル探すなり、俺の家に変えるなりしたほうがいい」
「え? 千尋、泊めてくれるの?」
「あ、いや、それは」
自宅に、ひとが入ってこられるのは――。それを察したのか守谷が「そりゃそうだよな」と笑った。
「無理なら無理でいいことだ。千尋がなにか思うような話じゃないんだし。ただ、俺一人じゃなくて、もうひとり下宿してるやつもいて……あと、その、ちょっと俺、いろいろと散財してしまって手持ちとか的な? あはは、まあ、そういう理由で、誰かん家 にとめてもらえないかなーって思ってさ」
そういうえば、公演の前と少しあとは、守谷の懐事情はいつもカツカツだった。千尋はため息をついた。
「わかった。ぼくのいうとおりにするなら、一泊くらい、許す」
「本当か、助かる!」
「ああ、でも、いうこと聞いてくれるなら、だからね。勝手に家のなか、ガサゴソ漁ったりしないとか」
「ああ、もちろん!」
「それじゃ、ぼくの家きていいから。事情は詳しくその時、聞くし」
「うおー、千尋ん家 ! なんか、お泊り会みたいで楽しみだな!」
松葉がそれを聞いてニヤニヤした。
「変なことしちゃだめだぞ、モリヤン」
「お前じゃないからしないって、松宮。っと、それで、実は、その、俺ひとりじゃないんだわ」
「え?」
千尋は目を丸くした。
「もうひとりいてさ」
F社内、月刊ランデブー編集部。併設された原稿スペースに千尋はいた。
月刊まんが雑誌ランデブーをつくりあげることこそ、編集者・千尋崇彦の仕事だ。小柄な体つきに、丸い銀縁メガネ。あまり目立たない男だが、いまこのブースはいまや彼の独壇場だった。締め切りをぶっちぎった男・松葉ゆう――本名・松宮
松葉とは前に勤務していた少女漫画雑誌からの付き合いなのだが、こちらが恐れるくらいのマイペースさ、社会性のなさ、自己中心的な言動などなど、あまたの問題行動を引きおこしてきた化け物っぷりは、依然としてなおらない。
こんなストレスばかりあたえてくる胃袋の敵と戦いながら、毎月雑誌を刊行するべく、彼から原稿をとりあげるのが千尋の仕事なのだが、今回は見事に締め切り後二日も待たされた。彼にはあらかじめ、嘘の締切日をおしえているのだが、それを見透かされているせいもあって、「間に合ったからいいじゃないの」というのが松葉のスタンスだ。だが、たとえ、嘘の締切であったとしても、ぶっちぎるのが慣例になってしまっている現状をどうにかしてもらわないと、他の編集者に担当替えになった時に大変な目にあうし、まずなにより、締切くらいちゃんと社会人なのだから、守ってもらいたいのだ。
「あ、ごめん、着信きたから」
松葉のスマホが鳴り出し、彼は悪びれることもなく、その場で誰かと話しはじめた。まだこちらの言いたいことは全部いえてないのだが。千尋はむっとしたが、こらえた。
「え、どうしたの、モリヤン」
電話の相手はどうやら守谷勝世からだった。彼と千尋は高校時代の同級生で、松葉とは大学時代の学友という関係。大学卒業後、自ら小さな劇団をつくり演劇を続けているガッツのある男で、上演する劇の脚本を千尋によくねだりにくる。千尋は普段は編集者として平日は企業戦士をしながら、休みの日は守谷のリクエストに応えて脚本を仕上げている間に、だんだんとその名前が業界にしれわたり、いまでは彼以外の団体や企業から依頼がくるようになって、立派な脚本家のひとりになっていた。
「え? 家、死んだ?」
松葉の口から不穏なワードが紡がれて、千尋はぎょっとした。
「ちょ、ちょっと、守谷が、何があったんだ?」
「あ、ちーちゃん? ああ、うん、いま一緒、面白いことになってるから、かわるね。……よいしょっと」
松葉がスピーカーモードにすると、そこから聞きなれた守谷の声が聞こえてきた。
「守谷、どうしたんだ?」
「それがさぁ、家が、ぶっ壊れちゃって、雨漏り。今夜寝る場所がないから、松宮ン
守谷の発言に、千尋は一瞬、血の気がひいた。
「……それはやめたほうがいいような気がする」
たしかに、マンションの最上階一室ぶちぬきという、まるで漫画のなかの世界のようなくらい松葉ゆうの自宅はかなり広い。けれど、自ら松葉の部屋に泊めてもらおうというチャレンジャーはそうそういないのではないか――と思わせる理由がある。
「この化け物の家に泊るのは、危険だからやめたほうがいい。やめなよ」
「ちーちゃん、言い方、言い方。俺のことなんだと思ってるの?」
千尋は松葉を無視して続けた。
「ホテル探すなり、俺の家に変えるなりしたほうがいい」
「え? 千尋、泊めてくれるの?」
「あ、いや、それは」
自宅に、ひとが入ってこられるのは――。それを察したのか守谷が「そりゃそうだよな」と笑った。
「無理なら無理でいいことだ。千尋がなにか思うような話じゃないんだし。ただ、俺一人じゃなくて、もうひとり下宿してるやつもいて……あと、その、ちょっと俺、いろいろと散財してしまって手持ちとか的な? あはは、まあ、そういう理由で、誰かん
そういうえば、公演の前と少しあとは、守谷の懐事情はいつもカツカツだった。千尋はため息をついた。
「わかった。ぼくのいうとおりにするなら、一泊くらい、許す」
「本当か、助かる!」
「ああ、でも、いうこと聞いてくれるなら、だからね。勝手に家のなか、ガサゴソ漁ったりしないとか」
「ああ、もちろん!」
「それじゃ、ぼくの家きていいから。事情は詳しくその時、聞くし」
「うおー、千尋ん
松葉がそれを聞いてニヤニヤした。
「変なことしちゃだめだぞ、モリヤン」
「お前じゃないからしないって、松宮。っと、それで、実は、その、俺ひとりじゃないんだわ」
「え?」
千尋は目を丸くした。
「もうひとりいてさ」
