憧れは僕の気持ちをまだ知らない

 新崎と守谷と、千尋と。
 三人で食べたホットケーキは、中が少し生っぽくて慌てて二度焼きしたが、バナナが入っていて甘くておいしかった。熱をはらんで、ぐじゅりとやわらかくなったバナナ。ぐじゅりと溶けそうになっていたのは、バナナだけではなかった。

 まずい。これはまずい、と千尋は思う。
 このままだと、かなり、まずいと思うから。


「千尋さん、大丈夫ですか」
 新崎と守谷が去ってから一週間がたった。出勤すると花荻が話しかけてきた。
「絶好調レベルで幸せそうな顔していたのに、最近、ずっと……。松葉先生、また原稿ギリギリ進行なんですか」
 それが、先週とはうってかわって、調子がでてきたのか、松葉の原稿の進捗自体はとてもいい。いつもより早く入稿できそうかもしれないと思っている。
「そ、そんなにぼく、元気なさそうに見える?」
 千尋は花荻に尋ねた。
「ええ、まあ、なんとなくですけれど」
「そんなにわかりやすい人間かな、ぼく」
「はは、どうでしょう。千尋さんは一見わかりにくいですけれど、仲良くなってしまえばとても喜怒哀楽がはっきりしているほうかと」
「そうかな」
「そうです」
「そうなのか」
「もし、なにかお困りでしたら、なんなりと相談してください。できることならなんでもお助けしますので」
「ありがとう、花荻くん」
「こちらこそ、いつも千尋さんにお世話になっていますので」
 こうやって、声をかけてくれるだけで、ちょっと嬉しいのだ。花荻には感謝しかない。前の職場で体調を崩していたころは、こうやってまた仕事に復帰できるようになるなんて夢にも思っていなかった。きっと、同僚のつくるあたたかな雰囲気が――締切間近だと多少はギスギスするが――のおかげかもしれない。千尋は、花荻にそっと軽く頭をさげた。
 だが、ちょっとこの悩みは花荻にはできない。
 新崎のことだからだ。
 まさかこの年で、こんなことに陥るなんて、思いもよらなかった。もしかしたら、新崎が好きなのかもしれない。守谷のせいだ。守谷が変なことを言うから、本気で好きになってしまったのかもしれない。
 だが――、新崎はまだうら若く、自分は三十路の男で、あきらかに釣り合わない。未来のある若者に惹かれてしまうのも、きっと、自分がここで終わるようなもう、何も残っていない男なのだからかもしれない。そうだ。だから、きっと、新崎がまぶしく思えるのだろう。
 だから、これは気の迷いだ。しばらくしたら、きっと忘れる。だから、気にしないようにしよう。
 よし、気分転換に緑道を散歩して帰ろう。大丈夫、きっと、大丈夫だから。


「千尋さーん」
 千尋の名前を呼びながら近づいてきたのは新崎だった。
「千尋さんもお散歩タイムですか? 気があいますね!」
 爽やかな笑顔とともに登場した新崎に、千尋はその場で頭をかかえたくなった。
「この間はとてもお世話になりました。おかげで、雨漏れ、なんとかなりました。守谷さんの知り合いのひとに工事に入ってもらって、すぐに。それから、ホットケーキ、美味しかったですね」
「あ、うん」
「次はもっと、うまくつくろうと思うので、また一緒につくってくださると嬉しいです」
 ま、まぶしい。まばゆい光のように新崎が笑う。彼の笑顔を直視できなくて、千尋はすこしうつむいた。
「千尋さん?」
 新崎がそれを覗き込む。どきりと心臓が跳ねる。新崎のまつげ、長い。
「大丈夫ですか」
「え、ああ、うん」
「季節柄、体調崩しやすくなっていると思うので疲れたらすぐ休んでくださいね。俺がいうのもなんですけれど、千尋さんはその、頑張りすぎなところ、あると思うので。でも、そういう千尋さんが大好きなので!」
 ぱっと太陽のように笑う新崎に、千尋は奥歯を噛みしめた。
「もし、お散歩ならご一緒してもいいですよね、また一緒に歩きましょう」
「うん、もちろん」
 そう答えながらも、今日ここに新崎がいなければよかったのに、と千尋は思った。彼がいなければ、こんな気持ちになることはなかったのに。
 ここはもうだめだな、と千尋は心に決めた。緑道を散歩するのは今日が最後にしよう。ここではよく新崎と顔を合わせてしまう。しばらくの間、自分が落ち着くまで、新崎とは距離をとらないと――惚れてしまってはどうしようもできない。
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