ロンドンの霧(仮)

帰宅後、ホームズは一言も喋らなかった。

夕食時もうわの空で、皿の中から人参だけを選って食べている。

「……ウサギかお前は」ワトソンはため息をつく。

人参が無くなると、ホームズはティーカップを手にテーブルを離れようとした。

ワトソンは彼女の顎を掴んで口を開けさせると、すかさずそこに特大の肉を突っ込んだ。

「肉も食え。デカくなれないぞ」

さりげなく彼女のコンプレックスを刺激してみたが、反応はなかった。

聞こえているのかいないのか、ホームズは窓際で通りを見下ろしながら、モッシャモッシャと咀嚼している。

事件のことで頭がいっぱいなのだろう。

シャワーの後も、濡れた髪をそのままにして室内を歩き回っていた。どこか一点を見つめ、ナイトシャツを踏まない様に裾を持ち上げながら。

ワトソンはタオルを手に、彼女の後ろをついて歩きながら頭を拭いてやった。

「……ワトソンさん」

突然ホームズは立ち止まり、ぽつりと言った。

「例の踊り子の件ですけど」

「お、やっと思い出したか?」ワトソンはタオルを肩にかけ、ニヤリと笑った。

「このまま黙ってたら、お前を介護施設に放り込もうと思っていたところだ」

「ひどい」

「で、何か分かったのか?」

「はい」ホームズはこくりと頷いた。

「あの子。ポーリーを殺したのはヴァンパイアじゃありません」

ワトソンは眉をひそめた。

「どうして分かる」

「顔が、違うんです」

「顔?」

ホームズは自分の椅子に腰かけ、ワトソンに向き直った。

その表情は真剣そのものだったが、口を開く前に何故か目線を逸らし、両手の指をもじもじと絡めている。

「ヴァンパイアに咬まれると、その……えぇと、ヴァンパイアの唾液には血液を固まりにくくする作用の他に、あの……」

「何だよ、はっきり言えよ」

「び、媚薬みたいな効果があるらしくて……血を吸われた人は、その……へ、変な気持ちになるとか……」

ホームズは顔を真っ赤にし、今にも消え入りそうな声で言った。

ワトソンは一拍おいてから、声を上げて笑った。

「おいおい、何だよ、変な気持ちって。もっと具体的に説明してくれよ」

「や、やです! ワトソンさんのいじわる……」

ホームズはぷいと顔を背け、頬を膨らませた。髪の間からチラリと覗く耳も赤くなっている。

ワトソンはクックッと喉を鳴らして笑いながら、彼女の頭をくしゃっと撫でた。

「いいぞ、ちゃんと調べたんだな。偉い偉い」

「子供扱いしないでください……」

「子供扱いなんかしてねぇよ。ただの感想だ」

ワトソンはにやにやしながら椅子に深く腰掛け、ようやく真面目な表情に戻った。

「でも、それって重要な証拠になるな。被害者の顔が快感じゃなく苦痛を浮かべてたってことは……」

「……はい。ヴァンパイアじゃないと思います」

「魔族の中に、そんなことができそうな奴はいるか?」

「噛み跡という点から考えると、ワーウルフなどが挙げられます。でも、歯形が一致しないと思います。一致しそうなのは蛇系の魔族ですが……彼らはそこまで狡猾ではありませんから」

ホームズは視線を窓へ向けた。

「……七通りの仮説を立ててみました。でも、どれが正しいかは、まだ……」

彼女は首を振り、俯いた。

そして、口元に手を添えて、小さくあくびをする。

ワトソンは優しく笑い、ホームズの髪をくしゃっと掻き回した。

「疲れたろ。お子ちゃまはもうおネムの時間だぞ」

「お子ちゃまじゃありません」

「分かってるよ。おやすみ、ホームズ」

「……おやすみなさい、ワトソンさん」

ホームズは目を擦りながら、静かに自分の部屋へと引き上げていった。
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