ロンドンの霧(仮)

ロージーホールでの検証が終わり、被害者の遺体は既に運び出されていた。

その知らせをマイクロフトから受け取ったホームズは、アイリーンを伴って死体仮安置所へ向かった。

陰鬱な雰囲気の長い廊下を歩きながら、アイリーンがぽつりと言った。

「死の臭いがする……私、ここは嫌いだわ」

ホームズは黙っていた。

貴女達にやられた人がたくさんここへ来たわよ、と。

私も一歩間違えばここに横たわっていたわ、と。

言いたいのをぐっと堪え、廊下の突き当たりにある部屋のドアを開ける。

「あら、ホームズ」

室内にいたレストレードが手袋を外しながら振り向いた。

「今日はワトソンは一緒じゃないのね。で、こちらはどなた……?」

歩み寄ってきたレストレードは、ホームズの後ろに立つ女性の顔を覗き込み、驚いて目を見張った。

「あ、アイリーン・アドラー⁉︎ 貴女が何故ここに……?」

レストレードは二、三歩後ずさると、反射的にホルターに手を伸ばした。

それをホームズが手で制する。

「私が呼んだんです。捜査に協力してもらう為に」

「協力って、だってあなた……」

(命を狙っていた相手に……?)という思いが、レストレードの瞳に浮かぶ。

ホームズは黙って遺体のそばへアイリーンを案内した。

アイリーンはじっと、横たわる少女の顔を見つめている。

「名前はポーリー、16才。小さな劇場のレビューでは、けっこう人気のあった子で、今回のロージーホールが初めての大舞台だったそうです」

ホームズが説明した。

アイリーンはポーリーの頬にそっと触れ、呟いた。

「顔色が悪いわ。真っ白」

「えぇ。身体の血を全て抜かれて死んでいました」

アイリーンは遺体の周囲を歩き回ってあちこちを見ていたが、やがてホームズのそばに戻ってきた。

「首筋の跡、抜かれた血液。成程、確かに私の一族の仕業に見えるわ。でも、何かがおかしい」

ホームズはアイリーンの顔を見上げた。

「何かって?」

「そうね、例えば顔よ」

アイリーンは陶器の様に白い手で被害者の顔を指し示す。

「ヴァンパイアの唾液にはね、血を固まりにくくさせるだけでなく、催淫作用があるの。血を吸われた人間は皆、性的快感に恍惚となるのよ……フフッ、試してみる?」

アイリーンがホームズの顎に手をかけた。

ホームズは厳しい表情でパッと彼女の手を払いのける。

「……冗談よ」

口許に笑みを浮かべたまま、アイリーンは言った。

ホームズは被害者に視線を戻した。

真っ白な顔には快楽どころか、恐怖と苦痛が張り付いている。半開きになった口から甲高い悲鳴が聞こえてきそうだ。

「誰かが……誰かがヴァンパイアに罪をきせて殺した……」

「血を抜き取るなんて魔属には簡単な事。でも、犯人を“何か”と言わなかったのは褒めてあげるわ、アン・シャーリー・ホームズ」

アイリーンは帽子をかぶり直した。そろそろ引き上げるつもりらしい。

ホームズは言った。

「魔属の何者がやったのか、貴女は心当たりがある?」

アイリーンは首を振った。

「いいえ。でも、ヴァンパイアが犯人だと都合が良い……って事なんでしょうね」

アイリーンはそう言うと、靴音を響かせながらその場を立ち去った。

レストレードがじっとその背中を見送っていた。
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