ロンドンの霧(仮)

「ホームズ!」

ホームズが警視庁に戻るとレストレードはホッとしたような顔をした。

それから眉を吊り上げる。

「迷惑かけないから連れてけって言ったの、貴女よね?」

「ごめんなさい」

ホームズは素直に謝った。

「その服はどうしたの?」

「あ……これは……」

ホームズは言葉を濁した。

迷惑をかけるなと釘を刺されたばかりで、馬車に轢かれかけたなんてとても言えなかった。

「お秀さんに借りたね?」

右京が横から口を挟んだ。

「吾来警部なりのおもてなしか。よく似合っているよ。レストレード君もどうだい?」

「私は結構です」とレストレードは首を振った。

「それよりホームズ、聞きたいことがあるんでしょう?」

「はい」

ホームズは右京を見上げた。

彼は意味ありげにウインクする。

ホームズが警視庁を飛び出した理由も、着替えて戻ってきた事情も──すべてお見通しのような顔つきだった。

「日本で起きた吸血鬼事件について、お話を聞きたいんです」

「あの事件か」

右京は細い目を更に細めてクツクツと笑う。

「あの時は吾来君、面白かったねぇ」

「面白くはない。肝が冷えた」

吾来は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「結局、吸血鬼なんていなかったのさ」

右京は壁にもたれ、懐から取り出した煙草をくるくると指で転がした。

「さる旧華族のご令嬢が肺の病でね。肺病には脳味噌が効くとか生血が良いとかいう俗説があるが、それを信じた使用人の老人が、ワインに血を混ぜて飲ませてたんだ。血は二口ポンプで抜いてた。
令嬢が夜な夜な彷徨っていたのはワインに酔ったせい。ご両親が亡くなったのも、ただの事故さ」

右京の話に、ホームズは神妙な顔で頷いた。

「でね、吾来君の武勇伝はここからなんだが……」

「やめろ」

吾来が小さく唸った。

「夜のパトロール中、女の悲鳴を聞いて駆けつけてみたら、黒いインバネスの人物が女の首を締めていた。正義感に燃えた吾来君は飛びかかって取り押さえようとした。が、返り討ちに遭って、倒れて……首に何かを刺された感覚があった」

右京は笑いを堪えるように目を細める。

「それで『吸血鬼に咬まれた、俺も吸血鬼になった』と勘違いした」

「ヴァンパイアに咬まれてもヴァンパイアにはなりませんよ?」

ホームズが言った。

「あぁ、その通り。だが日本では何故か、咬まれると吸血鬼になるという説が広まってね」

「今でも、思い出すと気分が悪くなる」

吾来がぼそりと呟いた。

「でも、実際には血を抜かれる前に俺が犯人を取り押さえた。悲鳴を上げていた女性も、俺が用意したおとりだったんだよ」

右京は最後にそう締めくくって、ホームズの方を見た。

「さて、ここまでで何か気になることは?」

「いえ……あの、令嬢はどうなりましたか?」

「亡くなったよ。病気が、もうそこまで来ていた」

右京の声が少しだけ低くなる。

「それを知った老人も、あとを追うように自刃した。旧藩士らしく、古風な切腹だったそうだ」

「そうですか……亡くなったんですね」

「あぁ。死んだ。……死んだ者に罪はないよ」

「人間の仕業とは……」

レストレードがため息をつく。

「事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだね」

右京は帽子を被り直し、部屋を出て行こうとした。

ふと、考え込んでいるホームズの姿が目に入り、足を止める。

彼はそっと彼女の耳元に顔を寄せ、囁いた。

「君の活躍を楽しみにしているよ、ミス・ホームズ」

ホームズはハッとして右京を見上げた。

右京はニヤリと笑い、帽子のつばを軽くつまんで挨拶すると、足取り軽やかに姿を消した。
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