ロンドンの霧(仮)

ホームズはレストレードの後ろで小さく息を吐いた。

怖い。背筋がヒヤッとする。

応接室の空気は、右京の登場によって微かに変わっていた。

丁寧ではあるが底の読めない口ぶり。微笑みをたたえながらも、どこか芯の冷たい視線。

魔族とは違う。違うけれど……。

右京の表情は、敵対していた筈のアイリーンがマイクロフトに連れられてやって来た、あの瞬間をホームズに思い出させた。

ホームズはじんわりと汗ばんでいくのを感じていた。

(……もう、無理)

「わたし……失礼します!」

唐突な宣言に、三人の動きが止まる。

ホームズは肩にかけたポシェットの紐を握りしめ、ぱたぱたと足音を立てて部屋を出ていった。

「ちょっと、ホームズ⁉︎」

レストレードが慌てて声をかけた時には、ホームズの姿はもう見えなくなっていた。

「もう……説明の足りないところはジョンそっくり」

レストレードはため息をついた。





警視庁を出たホームズの頬を、湿気を含んだ風がなでた。

見知らぬ街を足早に歩いていく。時々意味もなく右に曲がったり左に折れたりしながら、ひたすら歩いた。

(何やってるんだろう、私)

ふいに目の前に大きな池が広がり、ホームズはぼんやりと水面を見つめた。

(こんなんじゃ、ワトソンさんに笑われる)

右京に何をされたわけでもない。

ただ、あの“何かを見抜かれているような視線”が怖かった。

同じ探偵同士だというのに、手を取られただけで逃げ出して。

魔法も、英語も、日本語も、なんの役にも立たなかった。

(やっぱり私は、何も変わってない……)

胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

知らない町の、知らない夕暮れ。少しだけ泣きそうな顔をして、ため息をつく。

その時だった。

背後から風とは異なる気配がした。

「危ないッ!」

甲高い叫び声が耳に刺さる。

ハッとして体を捻った瞬間、黒塗りの馬車がすぐ脇を轟音と共にすり抜けていった。

ほんの少しでも位置が違っていたら、轢かれていた。

馬車の勢いによろめいたホームズは、声もなく池へと転がり落ちた。

幾人かの悲鳴が上がった。

幸い池は見た目よりも浅く、膝までの深さしかなかった。

ホームズは呆然として立ち上がることができずにいた。

ただでさえ目立つ外国人が池に落ちてずぶ濡れになっているのだ。通りすがりの人々は物珍しそうに池を覗き込んでくる。

大勢の視線を浴びて、ホームズは真っ赤になって俯いた。
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