ロンドンの霧(仮)

「なぁ、ホームズ。ヴァンパイア族を魔法で元の人間に戻す事はできないのか?」

ホームズは首を振った。

「魔を分かつ事は、魔に交わる事よりはるかに難しいんです。ドラクル伯が生きているなら、彼は元が人間ですから、どうにかすれば戻してあげられるかも知れませんけど」

「伯はとっくの昔に殺されてる。心臓に十字架型の杭を打ち込まれてな」

「彼の契約以降に生まれたヴァンパイアは、はじめから魔属として生まれてますから……人間にはなれないんです」

「ふむ」

ワトソンは唸っている。

「ワトソンさん、デビルズフードケーキですよ」

「何?」

「デビルズフードケーキは、黒いココア味のスポンジを白い生クリームで覆うでしょう?後から白いクリームを取り除いてチョコレートクリームにしたりイチゴクリームにはできるけど、黒いスポンジは白くはできない。そういう事なんです」

ワトソンは納得して紅茶を入れ、椅子にもたれた。

が、すぐに身を起こす。

「なぁ、むかし俺がアイリーンに十字架を突き付けたのを覚えてるか?」

「はい。あのひとは『そんな物怖くも何ともない』って言って、ワトソンさんから十字架を取り上げました」

ワトソンはその通りだと頷いた。

「ヴァンパイア族に十字架は効かなかった。だがドラクル伯爵は十字架を恐れ、十字架によって死んだ。これは一体どういう事なんだ? 進化によって十字架に免疫みたいなもんができたとか?」

「いいえ」ホームズは言った。

「ヴァンパイア族はキリスト教を信仰していないというだけです。ドラクル伯は元は人間、おそらくはキリスト教の信者でしょう。幼い頃、いえ、物心がついた時からずっと、神が悪魔に神罰を下すと信じてきたんです」

「それはつまり……」

「奇跡は信仰の愛児。神が悪魔を滅ぼすという信仰心が彼の死を招いたんです」

「レーシャルメモリーっつーか、手っ取り早く言やあ、思い込みか」

「身も蓋もない言い方ですが、まぁ、そうです」

ワトソンはため息をついた。

「ヴァンパイアが犯人となると、逮捕も厄介だな……」

「……ワトソンさんは、ヴァンパイア族が犯人だと思ってるんですか?」

「だって、考えてもみろよ。奴ら以外に体中の血液を抜き取るなんて芸当ができるか? この点についちゃ、グレグスンは正しいと思うぜ」

「じゃあ、あのひとの言葉はどうなります?」

ホームズは手にしたティーカップを見つめた。

「八年前の魔族との争いの時、見たでしょう。沢山の人が亡くなった……その中に奇妙な死体があったのを、見ませんでしたか?」

ティーカップが震えて、ソーサーに当たって小さな音を立てる。

「ホームズ」

「笑った死体」ホームズはカップをテーブルに戻した。

「ずっと、変だと思っていたんです。あのひとが襲って来た時、私はすごく怖かった……なのに、殺された人が笑ってるなんて」

「…………」

ワトソンは黙ってホームズの横顔を見ていた。彼女の顔は真っ白で、何の表情も浮かんでいない。

何かを抑え込むように深呼吸をすると、ホームズは再びカップを手に取った。

「あのひとの肩を持つつもりはありませんけど、でも、彼女の言葉は正しいと思います」

「ヴァンパイア以外の魔族がやったと?」

「……魔族とは限りません」

「ん?」

「何かが“魔に属する”ことと“魔族である”ことは、必ずしもイコールではないんです。──理屈の上では」

「……契約、ってやつか?」

「…………」

ホームズは答えず、冷めてしまった紅茶を飲み干して立ち上がった。

ナイトシャツを広げて、裾の部分をワトソンに見せた。

「裾上げも終わったので、もう転びませんよ」

「あぁ、そうだな。踏まれた猫みたいなお前の声が聞けないのは残念だが」

「……ハドソンさんに声をかけて来ます。夕食を用意してもらいますね」

「あぁ」

ホームズはパタパタと部屋を出ていった。

「しくじった……」

ワトソンは大きく息を吐いた。

「あんな顔をさせるつもりは、なかったんだがな……」
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