ロンドンの霧(仮)

グレグスンは馬車が完全に止まる前に飛び降りて、捜査員たちの方へ駆けて行った。

「おーお、ご熱心だこと」

グレグスンを横目で見ながらそう呟くと、ワトソンは馬車を降りるホームズに手を貸し──というより彼女の手を引っ張り、馬車から引きずりおろす。

「あら、ホームズ」

現場に着くと、レストレードが近寄ってきた。ホームズは小さな声で挨拶をする。

「ふふ、こんにちは」レストレードは少し身を屈めてホームズに笑いかけた。

「今日はさすがにアイリーンは一緒じゃないわよね?」

「ちょっと待て。アイリーンって何の事だ?」

ワトソンが割って入った。

「ホームズが昨日、モルグに連れてきたのよ。びっくりしたわ。アイリーンと二人きりなんて……」

言ってから、レストレードは少しバツの悪そうな顔をした。

「知らなかったの? ……もしかして言っちゃマズかったかしら」

レストレードとワトソンが話している隙に、ホームズはそっと足音を忍ばせてその場を離れようとした。

「おっと。待て待て待て」

背後から伸びたワトソンの手が、ホームズの後ろ襟をガシッと掴んだ。

「どこへ行くんだ?」

顔はにこやかだが、笑みを浮かべたその口元とは裏腹に、目は笑っていない。

ホームズも愛想笑いを浮かべ、無駄だと分かっていながら言い逃れようとした。

「……ちょっと、気になる事があって」

「それは後だ。ちょいと話がある」

ワトソンはホームズを邪魔にならない場所に引っ張っていき、自分の目の前に立たせた。

「アイリーンをモルグに連れて行ったってのは、本当か?」

「……はい。捜査に協力してもらう為です」

「馬鹿野郎!」

ワトソンの大声が響き渡った。

捜査員たちが何事かと一斉に振り向く。

「お前はあいつに血を狙われてるんだろうが!」

ホームズは小さな体を縮こませ、耳を押さえた。

瞳をウルウルさせている。

「ったく……マイクロフトに会いに行くって言うから、大丈夫だと思って同行しなかったんだ、俺は!」

「兄さまには会いました、嘘じゃありません。あのひとに捜査に協力するよう頼んでもらおうと思ったんです。でも兄さまは私の用件を見越していて、あのひとを連れてきていたの。自分でお願いしなさいと言われました」

「何を考えてるんだ、あいつは!」ワトソンは怒りの矛先をマイクロフトに向ける。

「妹も被害者にするつもりか⁉︎」

「いいえ」ホームズは静かに首を振った。

「あのひとは兄さまを愛してるんです。……兄さまがあのひとを愛してるのと同じくらい。だから、私に手を出して兄さまを傷つけるようなことはしません」

「…………」

ワトソンはじっとホームズを見下ろしていた。

視線をどこか遠くへ向け、淡々と喋る彼女の顔はどこか淋しげだ。

幼い頃から慕ってきた最愛の兄が自分の命を狙うヴァンパイアを愛し、自分から離れていった──その事が、彼女の表情を曇らせ、アイリーンをあのひと呼ばせるのだろう。

ワトソンはため息とともに彼女を責める言葉を飲み込んだ。

二人の会話が途切れたのを見計らってレストレードが声をかけた。

「……現場を案内するわ。来て」

現場は、すでに警官たちで騒然としていた。簡易的に張られたロープの向こう、レンガ塀の根元に若い男が倒れている。

被害者の周囲には幾人もの警官が現場保全に奔走していた。

「……人があんなに……」

ホームズは小さな声で呟き、帽子で顔を覆った。

ワトソンは彼女の頭に手を置いて言った。

「人だと思うから緊張するんだ。みんなカボチャだと思え。いいな? カボチャだ、カボチャ」

「……カボチャ」

ホームズは深呼吸をしてから、覚悟を決めたように両手で帽子をグッと被り直した。

唇を真一文字に結び、眉を吊り上げるその顔は、強がって見せる子どものようだ。

ワトソンは思わず頬を緩めた。

「……よし、行け。全員カボチャだ」

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