ロンドンの霧(仮)

霧の都ロンドンとは、よく言われることだ。

だが、そこに禍々しいものが巣食っていることはあまり知られていない。

霧の向こうは、魔界だ。

ヴァンパイアや人狼や、その他魔に属するものが、常にこちらとあちらを行き来している。

必然、犯罪も多様化する。

つい先日も、どうやら奇妙な事件が起こったらしい。

ワトソンは封を開けたばかりの手紙を手に、リビングへ向かった。

***

天候に気分を左右されやすい彼女は、今日も例外なくティーカップを片手に鬱々とした顔で窓の外を眺めている。

カップの中身は全く減っていない。心ここに在らずといった様子だ。

「おい、ホームズ」

ワトソンが声をかけると、陽の光の様に柔らかな色の金髪がさらりと揺れ、少女の可愛らしい瞳がワトソンを捉えた。

「ワトソンさん」

相手を認識したホームズは、慌てた様子でテーブルの席についた。テーブルの上の朝食は手付かずのままだ。

ワトソンの視線がホームズからテーブルへ、そしてまたホームズへと移る。

「ホームズ……またオマエは……」

ワトソンの低い声は嵐の予兆だ。ホームズはキュッと首を縮める。

「いつまでボケッとしているつもりだ! さっさと食え!」

ワトソンの大声が開いた窓から外へと流れた。

ベーカー街221Bのいつもの朝の風景だ。通りを行く人々は気にも留めない。

ホームズは渋々フォークを手に食事を始めた。

ワトソンはコーヒーをカップに注いで自分の席に座ると、先程の手紙をヒラヒラさせて言った。

「今朝、依頼があった。ロージーホールの踊り子が変死した事件だ」

ホームズはフォークを持ったまま、ちらりとワトソンの顔を見た。彼は手紙を眺めている。話の調子も変わらない。

ホームズはゆっくり、静かに、卵の皿をワトソンの方へ押しやった。

ワトソンは気づかぬ様子でコーヒーを啜って話を続ける。

「警察も手を焼いているらしい。ヤードを助けてやってくれとさ」

コトリと小さな音を立てて、卵の皿がホームズの前に戻ってきた。ワトソンによってパンがひと切れ、目の前で追加される。

ホームズはわずかに眉をひそめたが、何も言わず、フォークを持ち直した。

「ホールまでは馬車で2、30分ってところか」ワトソンはコーヒーを飲み終え、立ち上がった。

「馬車を拾ってくる。支度しておけよ。食べ終わってなかったら、その口に漏斗を突っ込んで流し込むからな」

「…………」

返事はなかった。

ホームズは食後の紅茶を手に、再び窓の外を見ている。灰色がかった雲が、彼女の心を映すように空を覆っている。

ワトソンはため息をついた。

「まさか、行きたくないなんて言わないよな……?」

ほんの少し匂わせた怒気を敏感に感じ取ったホームズは、慌てて言い訳を始めた。

「あの、行きたくない訳じゃないですよ? えぇっと……ほら、今日はこれから雨が降りそうだし。明日にしません……?」

ホームズは上目遣いでワトソンを見た。

「…………」ワトソンは黙っていた。

しかし、よく見ると握られた両拳が細かく震えている。

「バカ者ーっ!」

ワトソンが怒鳴るのと、ホームズが部屋から飛び出して行くのはほぼ同時だった。

「五分で支度しろ! 一秒でも遅れたらテムズ河に放り込むぞ!」

彼女の部屋からガタガタと物音がしたかと思うと、肩からポシェットを下げて帽子をかぶったホームズが三分程で戻ってきた。

ワトソンは彼女を見て黙って頷くと、そろって表に出た。
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