Dom/Subユニバース パロ
「おはよう、土暮君。今日の会議の資料はちゃんと作れた?」
「……うあぁっ!?お、おはようございます伊東課長!!」
すぐ近くから尊敬している人物の声が聞こえ、反応に遅れてしまった。作業に集中していたというのもあるが、彼が自分のような平凡以下な平社員に声をかけてくるなんてことは滅多にない。そのせいで、一瞬幻聴だと思ってしまったのだ。なんという失態!!これでは幻滅されてしまう!!
朝一番からマイナス思考が働いてしまうのは、自分の良くないところが出ている証拠だ。とにかく振り返り、彼の顔を見て朝の挨拶をする。ああ、朝から胡散臭い笑顔が眩しく見える。実に胡散臭いが、これでいて仕事熱心で面倒みもよく、部下や後輩にとても優しい人なのだ。
「相変わらず、君の集中力は凄まじいね。もしかして作業中だった?」
「あ、その……すみません…。えっと、今日の会議とは別件のものを処理してまして……」
「へぇ…そうなんだ。面倒くさいヤツ?」
「えっと……インフルになっちゃった篠原係長から引き継ぎされて……自分の管轄外なんですけど、頼まれたからには何とか頑張るぞー!って意気込んでやっておりまして…」
「え、篠原君が?……土暮君に仕事押し付けるとか何考えてんの彼……全く…。僕には何も言ってなかったじゃん……」
わかりやすく眉間に皺を寄せると、彼は一気に距離を詰めてくる。ふわりと香ってくる甘い匂いは、香水だろうか?身だしなみにいつも気を使っている彼の匂いはいつもいつも爽やかで、甘みのある香りで匂いフェチな自分にとても優しいと思ってしまう。こんなにもいい匂いのする人とは出会ったことがないため、彼の香水選びのセンスが良すぎるんだなと思いつつ、距離の近さにドギマギする。
「ちょっと、ごめんねー。……ああ、この件か。全く……僕に連絡くれれば対応してたのに…。後進育成に励みたがってたけど、こんなやり方じゃダメでしょ……」
「あ、えっと……?」
「とりあえず、篠原君の仕事は僕が引き受けるよ。それで、資料の方だけど……」
「は、はい!こちらです!!」
緊張して声も手も震えてしまう。と、そんな時指先同士が軽く触れ合った。パチッと静電気のような軽い痛みが指先に走り、反射的に「痛っ…」と声に出してしまう。
「あっ、ごめんね。痛かったよね…?」
「い、いえ!!反射的に出てしまっただけで別に痛くは……ない、です…!」
「そう?……それならいいけど…。んで、これが資料だね?」
触れ合った指先がピリピリする。不思議な感覚が中々引かず、首を捻りながら自らの手を見つめるが、特に変わったところはない。指先から徐々に手全体が痺れていってる気がするが、気のせいだろうか?
「うん……いつも頑張ってるし、その成果もちゃんと出てるね。あとは本番で緊張しすぎなければ成功すると思うよ」
「ほ、ほんとですか…?私、うまくやれますかね…?」
「大丈夫だよ。この日のために藤堂君と練習してたんでしょ?この内容なら間違いないよ」
「〜〜〜っ!!あ、ありがとうございます!!課長にそう言っていただけたら、大丈夫な気がします!」
「大袈裟だなぁ〜。でも、その意気だよ。頑張ってね」
デスクに資料を戻すと、伊東はヒラヒラと手を振ってその場から立ち去った。その背中を見送ってから、紡希はほぅ…と息を吐いた。
いつもいい香りのする彼の匂いが、頭から離れない。いつもより心拍数は高くなっており、顔も自然と熱くなる。ああ、早くこの熱をさまさなければ。
(……あれ…?なんだろ……からだが、へん…?)
この職に就いてからというもの、生活習慣を一気に変えたことで自律神経がおかしくなったとでもいうのだろうか。いや、だがもう入社してから一年近くは経っている。身体はもう日中に働くことに慣れているし、もう以前のように夜遅くまで起きてはいられないと思うほどには、紡希の身体は夜型から朝型に切り替わったのだ。
だから、この身体の異変はおかしい。軽い咳やくしゃみが出ることはあれども、それ以上の体調不良は基本的におこさないようにしている。手洗いや消毒は徹底しているし、食事には必ず野菜を食べるようにしているほどだ。だから、これは単純な体調不良ではない。……と、思う。
(からだが、おもい……。なんか、胸が…詰まって、くるしい……)
胸を押さえて、瞼を閉じる。視界から入ってくる情報をシャットアウトするだけでも脳にかかる負担が減るから、体調悪い時はとにかく目を瞑りなさいとバイト先のオーナーに教わったことを実践しているが、ぐるぐると身体が揺れているような、回転しているような感覚が襲いかかって吐き気がした。突然の倦怠感と目眩。あと二時間後には大事な会議があるというのに、どうしていつも自分はタイミングが最悪なんだ!
社会人として、自分の体調管理もできないなんてあまりにも情けなさすぎる。体調が落ち着いたら部署移動か、クビにしてもらおう……。こんな役立たずの自分、会社にとってもお荷物だろう。なんて、そんなことを考えていると大きな手に背中を撫でられたような気がした。恐る恐る顔を上げると、そこには先程退室したはずの伊東がおり、紡希は文字通り目を丸くさせた。
「あ…え……?なん、で……?」
「君の様子がおかしかったから、戻ってきたんだよ。……顔が赤いし、焦点も合わない……ねぇ、他に体調悪いところはある?」
「ぇ……と……目眩、と……かんかく…?が……鈍くて……」
「…………とりあえず、お医者様の診断を受けよう。プレゼンは加納君に任せて。病院は僕が連れてくから」
「そ、んな……わたし、がんばった…のに……」
「……大丈夫、君の頑張りは僕も皆も知ってるから。今日はたまたま、体調が悪かっただけ。……そうでしょ?」
優しい声でそう言われると、なんだか全身がふわふわする。心地よくて、背中を撫でてくれる手があたたかくて、彼の言葉だけが自分の中に入ってくる。その感覚が、とても気持ちがいい。
「加納君と服部君に連絡するから“いい子で待ってて”ね」
「っ……!?」
起き上がろうとする直前にそう言われ、身体が自然と脱力する。自分の意志とは裏腹に身体が全く言うことを聞いてくれない。そのことに困惑していると、伊東はスマホを取り出してどこかに…二人に連絡を取り始めたようだ。動かない身体と、自分から目を離して業務連絡をする彼に、どうしようもなく焦燥感と寂しさを感じてしまって、じわりと溢れる液体で目の前が霞む。こんなところで泣いてしまうなんて情けなさすぎる。恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいのに、やはり身体は動いてくれない。
「……よし、二人にメッセージも送ったし後はどうにかやってくれるでしょ。念の為に富山君にも送って……ああ、三郎も頭数に入れてあげないとね」
「ぁ……う…………いと…さん……」
「ああ、もう少し待ってて。…………よし、これでOK。いい子で待てて“偉い”ね、土暮君」
「っ……あ、ぅ……??」
彼から少し褒められただけで、幸福感がぶわりと溢れて胸の奥がいっぱいになる。さきほど感じていた多幸感のような、ふわふわたした感覚で今まで感じたこともないほどの快楽が訪れて、目を白黒させる。おずおずと顔を上げると、憧れの男が見たことも無いような顔でこちらを見下ろしてきており、心臓がドクンとひときわ強く跳ねた。
「……君、もしかして…」
「は、ぁっ……かちょう……いとう、さん…」
「…………憶測で決めつけるのはよくない、けど…。君のその症状は、かなり厄介かもしれない。ごめん、僕の背中に乗れる?無理そうなら抱っこするけど」
「あ、……え……?」
「……ごめんね、触るよ」
一刻の猶予もないと言いたげに、伊東は険しい顔で紡希の身体を起こして、軽々と持ち上げた。ダイエットもしてないから重いはずなのに、そんな素振りを一切見せずに涼しい顔で横抱きされて、あまりのスマートさと羞恥心で顔に熱が集まっていく。
「顔が赤い……熱も出てるかもしれないし、早く病院に行こう。服部君が病院に連絡してくれてるはずだから、このまま最速で向かうよ」
「は、は…ぃ…」
廊下を走らず、けれど急いで外に向かう伊東の腕に抱かれて、紡希は目を瞑る。彼の腕に抱かれているのが、なぜだか無性に安心する。さっきまであんなに恥ずかしいと思っていたのに。
それに、昨日緊張しすぎて眠れなかったせいか、眠気が今になって襲いかかってくる。迷惑をかけてしまうが、私が眠りたがりなのはウチの部署にいる人全員が知っていることだ。それに甘えて、少しだけ。少しだけ眠らせていただこう。
「……まさか、今になって…変異したってこと…?」
彼の呟きを聞きながら、抗えない眠気に敗北した。
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