社会人現パロ
新社会人として新たな人生の第一歩を踏みしめた一人の人間がいた。彼女の名前は土暮紡希という。特に何の意欲もなく、流れるがままに生きてきた彼女は流れるように書類選考も面接も合格し、晴れて社会人としての責務を負うようになった。だが、そんな彼女は入社してから数ヶ月しか経っていないというのにその人生に詰みかけていた。
その理由は、とてもシンプルなものだ。
「土暮くん、まだ全然飲んでないじゃないか〜!ほれほれ、今日は無礼講だぞ〜?じゃんじゃん飲みたまえ!」
理由は、目の前の上司。仕事はまあまあできるが、酒癖が少し悪いことで周囲からの評価があまり良くない中年のおじさんだ。毛量が少なく、それを隠すために通販で買ったというウィッグを装着しているらしいが…今はそれがズレている。不自然に流れている髪の毛に思わず笑ってしまいそうになるが、こんなところで笑ったら自分のクビが飛びかねない。得意な愛想笑いで誤魔化しながら、甘いカクテルで喉を潤す。
「土暮くん、なにか最近困ったことはないかね?」
「え?…いえ、皆さんに良くしてもらっているので、特には……っ!?」
「ほほう……そうかそうか。それは何よりだよ。君は頑張り屋さんだからねぇ。早く成績を出して、もっと頑張ってもらわないとねぇ」
尻に違和感を感じて言葉を詰まらせると、上司は途端に口角を緩めた。上機嫌になって、逆らえない新入社員にちょっかいをかけたくなっているのだろうか。自分よりも太く丸い手が、スリスリとクリーニングしたてのスーツをくすぐる。
他人に触られるのは嫌だが、こんな行為を他の人が受けなくて良かったと心の底から思ってしまう。尻を触られるくらいなら「少し嫌だ」と思うくらいで済ませられるし、別に問題は無い。
「もぉ〜……お遊びする手はコレですか〜?」
「ホッホッホッ!バレちゃったかぁ〜!」
むしろ、このような中年の相手は慣れっこだ。二年ほど水商売をしていた経験を活かして、上司の手の甲を撫でた。すると男は更に機嫌を良くしたようで、笑顔のままジョッキを仰いで一気にビールを飲み干した。
(適当な頃合で抜ければいいや。お酒も飲みすぎて気持ち悪いのは本当のことだし、トイレに行くついでに……)
と、そんなことを考えている時だった。ふと誰も寄り付かなかった自分たちの傍に誰かが近づいてくる気配がして、紡希は目を見開いた。今自分が相手をしている上司はかなり気難しい男なのだ。素面ならまだマシだが、酒が入っている時の彼はかなりヒステリックになりやすい。そんな彼に近づける人間なんて、余程の命知らずか、彼を丸め込めるほどの話術を持った者くらいだろう。
「加藤さん、その辺にしないと奥様にまた叱られるんじゃないんですか?」
「んん〜…?君は……おお、伊東くんじゃないか!」
(この人はたしか……伊東甲子太郎さん……だったよね?綺麗な顔してるなぁ…。眼福眼福。ご利益はなさそうだけど一応拝んどくかー)
伊東甲子太郎。紡希とは別部署の上役についている男であり、かなり女性人気が高いと噂で聞いたことがある。幸いにも、紡希は他人の恋愛には興味津々だが自分の恋愛は眼中にない。周りの女子のようにキャーキャー黄色い声をあげるほどの元気もないため、ニコリと愛想笑いを浮かべて置物になろうと精神を落ち着かせる。
すると、伊東の手が上司の手を掴んだ。そしてニコリと笑みを浮かべたまま、その手を机の上に誘導する。
「加藤さん、あんまり女の子にちょっかい出すと奥様に言いつけますよ?この前も怒られてましたよね?」
「うう……そうだが〜……妻のお尻はこんなに弾力があって滑らかで肌触りも良くないからなぁ……」
「女の子のお尻を堪能したいなら、そういうお店に行くのがオススメですよ。それなら僕も奥様には告げ口しませんし」
「ん〜……そうだなぁ…」
「第一、セクハラで訴えられたら加藤さんも困るでしょう?ここは僕の顔に免じて我慢してください」
ニコニコと笑みを浮かべているが、それが貼り付けたものだということはよくわかる。そして、馬鹿な脳みそはやっと状況を理解しようと働き始める。
今、あの噂の伊東さんが私を助けようとしてくれてる?脳がそう認識した途端に、顔がボンッと急に熱くなった。こんなセクハラごときに、誰かに心配してもらって、助けてもらうなんて今の今まで経験したことがなかった。それが新鮮に思えて、なんだか無性に伊東のことがかっこよく見えて、胸の奥が締め付けられた。
(単純すぎるでしょ、自分……バカみたい)
でも、恋する理由なんてそのくらい単純でバカなものでいいんだと思う。生まれて初めてする恋というものが、こんな何気ないワンシーンから始まるなんて、物語としてはあまりにもつまらないだろうが。
(……でも、カッコイイなぁ…)
対話だけで上司を落ち着かせて、穏便にセクハラを止めさせるなんて中々出来ることではないだろう。上司に意見するなんて、自分だったら絶対にできない。被害者ぶりたい訳では無いが、自分が我慢して終わるならそれでいいと思ってしまうからだ。……なんて考えていると、伊東と目が合った。黄緑色のそれと数秒間見つめ合い、なぜだか無性に恥ずかしくなって更に顔が熱くなる。
「……加藤さん、その子…土暮さんでしたっけ?なんだか体調が悪そうですし、僕が面倒見ますよ?」
「えっ…?」
「おや、そうかい?って、ホントだ!真っ赤じゃないか!!私のことはいいからお冷飲んで休んでなさい」
「あ、はい…!お言葉に、甘えさせていただきます…!」
「それじゃあ土暮さん、僕の手に掴まって?静かなところで休もうね」
細長い彼の手に掴まると、そのまま力強く引き寄せられる。意外と力があるんだとギャップに胸がキュンとときめいてしまい、更に顔に熱が集中していくのを感じる。
「とりあえず、一旦お手洗いに行く?連れて行ってあげるから」
「あ、う……す、すみません…お願いします……」
自覚していなかっただけで、本当に酔っ払って体調が悪いのかもしれない。全身の熱が上がったことでアルコールもいつも以上に回っているのだろうか。立ち上がって真っ直ぐに歩けないところを伊東はさりげなく抱き寄せて、千鳥足になりかけていたところを優しくエスコートしてくれる。全ての仕草が自然で、下心も一切ない雰囲気に、紡希の中での彼の好感度は急上昇していた。
「はい、このまま真っ直ぐ進んで突き当たりのところを右に行けば女子トイレがあるから。……本当に、大丈夫?」
「は、はい…!これ以上お世話になったら申し訳ないですし……もう、大丈夫ですから…!先程は、助けてくださってありがとうございました!」
「…………本当に、大丈夫?」
「も、もちろんです!壁伝いに歩けば辿り着けると……」
「そうじゃない。さっき、セクハラされてたでしょ。しかもガッツリ」
お礼を言ってそのまま終わり。だと思っていたのだが、この男はかなりマメなようだ。あの程度のセクハラなんて日常茶飯事だし、別に気にするほどでもないのに。なんて考えていると、彼の手が紡希の手をそっと握ってきた。その真意が読み取れなくて首を傾げると、彼は眉を顰めながら真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「無遠慮に他人に触られたら嫌な気持ちになるのは人間として正しい防衛反応だよ。だから、君が抱いた嫌悪は正しい。……もっと、嫌がっていいし、怖がっていい。無理に自分の嫌悪感を押さえなくていいんだよ」
「え……?」
「時々見てたよ。……君って、警戒心がなくておっちょこちょいで…よく上役の人からセクハラされてるでしょ?それって、君がそういう人たちから舐められてるっていうのもあると思うけど……君自身が「仕方ない」って割り切ってるんじゃない?」
「っ…!?」
なんで、この人は……なんの接点もない自分のことを、ここまで理解しようとしてくれるのだろうか。こんなどこにでもいるような女を助けたって、なんの利益にもならないだろうに。
確かに、自分はあんまり仕事はできないしセクハラされるのも仕方がないと思っているところはあるかもしれない。だが、それをほぼ初対面とも言える彼に指摘されるとは思っていなくて、困惑してしまう。
「あのね、嫌なことは嫌だって言っていいんだよ。特に理不尽な要求とか…自分の身を滅ぼしかねないことは断っていい。……それがもしできないって言うなら、僕の部署に来てみない?今よりも働きやすくなるだろうし、君が望むなら社長と人事部の人に掛け合ってみるからさ」
「な、なんで……そんな、良くしてくれるんですか……?そんな、接点も…なにもないのに……」
「困ってる女の子がいたら助けるのが男でしょ?それに、君の成績が伸びないのも周りの環境のせいだし。僕のところに来たら、伸び伸び働かせてあげるよ?」
この男はカッコイイだけでなく、どこまでも優しいのだ。そんなの、好きにならないわけが無い。ときめきパラメーターがあるとしたら、今この瞬間に数値が限界突破し、短針がブレすぎて壊れていることだろう。言葉が出てこなくて狼狽えていると、先程とは打って変わって穏やかに微笑まれ、そして彼の手が頭に伸びてポンと優しく触れてきた。自分よりも大きな手に撫でられて、他人に触れられているというのに嫌悪感は一切感じられなくて、それだけでも困惑してしまう。
「返事は今すぐじゃなくて大丈夫だよ。……僕の言いたいことは伝えられたかな。じゃあ、また何かあったら僕を頼ってね」
「あ、ぅ……はい…っ!ありがとう、ございました…!」
深々と頭を下げてから、女子トイレに向かう。少しふらつくが、壁に持たれながらゆっくりと歩き、そしてドアを開けて便座に座る。
「はぁ〜…………か、かっこいい……素敵すぎるでしょ〜……」
しばらくは、あの人のことばかり考えてしまうかも。なんて、頭を抱えながらそう嘆く。自分のような女が好きになっていい相手ではないが、それでも夢を見るくらいなら許されたい。そう思いながら、彼の優しさに触れてニヤケてしまう頬をペチペチと軽く叩いた。
□
(……やっちゃった。……完全に変な人に思われたでしょ、さっきの…!!お節介すぎたよね、絶対に……)
「伊東先生、どうされました?先程から手が止まっていますが……」
「あ、ああ……ごめん藤堂君。なんでもないよ」
へらりと笑いながら、気遣ってくれる後輩にそう返す。心中はあまり穏やかではないが、ここで取り乱したところを見せる訳にはいかない。自分を慕ってくれる後輩の前で情けない姿は見せられないのだ。
(とはいえ…さっきは流石に出しゃばりすぎたかな)
前々から気になっていた一人の後輩。努力家で誠実でとても素直な女の子。名前は土暮紡希と言って、要領はあまり良くないが仕事への熱意は誰よりもある将来有望な新人だ。そんな社員が上司からのセクハラを受けているところを見たのは、彼女が入社してから一ヶ月がたった頃だろうか。引き攣った笑みと共に男を喜ばせるような言葉を紡いで何とかやり過ごしている彼女を見て、どうにも目が離せなくなった。
嫌がっている素振りを全く見せずに、相手の神経を逆撫でさせないようにやり過ごすスキルは、きっとどこかで身につけてきたのだろう。セクハラされ慣れているのか、どこか諦めたような顔で笑う彼女に胸の奥が痛んで、さっきもお節介を焼いてしまった。
(セクハラなんて、慣れるもんじゃない。あんなのに慣れたら心が壊れちゃうし……やっぱり、早いとこあの子を僕の管轄内に置いてあげた方がいいよね…)
「伊東先生、唐揚げが来ましたよ。食べますか?」
「え?……ああ、そうだね。二個貰おうかな?ちょっとお腹も膨れてきたし、レモンかけて貰えたら嬉しいな」
「承知しました!任せてください!」
自分を慕ってくれる可愛い後輩である藤堂平助はそう言うと、大皿に乗っている唐揚げの美味しそうなところを狙って取り皿に分けてくれる。細かいところまで気を配ってくれるのは彼の良いところだが、少しは自分のことも労わってほしい。とはいえ彼は誰かに尽くしたくて、頼られたいと思っているところがある。それならある程度は好きにさせようと思い、野放しにしているところもあるが…。
いや、今はそれよりも彼女のことだ。とにかく、明日人事部に掛け合って異動させるように言っておこう。カリカリとした衣を噛み締めながら頭の中でシュミレートし、じゅわっと広がる肉汁とレモンの爽やかな風味をまとめて飲み込んで箸を置いた。
(これから忙しくなりそうだなぁ〜……まあ、後進育成って大事だもんね)
そんなことを考えて、身体を少し伸ばす。これから先起きる出来事を想定しないまま、賑やかな空間に対して深いため息を零した。
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