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生前パロ本編



「おはよう、土暮君。今日は早速君がどれだけ動けるかを見させてもらうよ」

「お、おはようございます!今日から一週間、よろしくお願いします!!」


 気持ちのいい朝の空気を吸い込んでから、勢いよく頭を下げる。なんの取り柄もないただの小娘である土暮紡希は、伊東道場に上がり込んで一週間の試練を与えられていた。今日は、その初日だ。


「昨日伝えた通り、今日は剣道、明日は座学を繰り返しやっていくよ。そして明日からは毎朝早起きして道場の雑巾がけと掃き掃除もやってもらうから、そのつもりでね」

「は、はい!」

「道着もちゃんと…うん、着こなせてるね。偉いよ」


 ぐるりと背後にまで回り込んで、ちゃんと運動するための道着を着こなせているかを確認すると、伊東は軽い口調でそう褒めてくる。なんだか、子供扱いされているみたいで不服だが、彼のほうが明らかに歳上だし、自分は年齢の割に人生経験が浅すぎるため、子供のように思われても仕方がないと割り切ることにする。


 草履を吐いて場所を変え、道場の中ではなく庭に降りてきた紡希は、伊東から一本の竹刀を渡される。それを素直に受け取るが、想像していたよりもしっかりと重量があって、落とさないようにと慌てて力を入れて持ち直すと彼は小さく笑みを零した。…今、彼はどこで笑ったんだ?慌てているところがよっぽど滑稽に見えたのだろうか?だとしたら彼の性格は少し悪いのかもしれない。人の苦労を笑わないでもらいたい。

 なんて考えていると、竹刀を構えるように指示を出される。足を開いてから竹刀を持ち直そうとするが、それよりも前に彼のひと回り大きな手が、紡希の手に被さった。突然の接触に驚いて肩が跳ねてしまい、彼の動きが一瞬止まったが、それでも平然と教育を始める。申し訳なく思うが、コッチは異性と触れ合った経験は全くないから許されたい。そんなことを思いながら、早まる鼓動を必死に抑えつけようとする。


「竹刀を握るときは…この向きで、右手が前に、左手がへそのところに来るようにやるんだ。小指、薬指、中指の三本で握るように…そう、上手だね。左手は、ここからはみ出さないように……」

(ち、近い近い近い近い近い近いっっっっっ!!なにこの近さ!?ヤダー!!ちっかい!!近すぎませんか!?)

「この竹刀の柄のところのさ、縫い目があるでしょ?ここにね、親指と人差し指の間に来るように握るんだよ。そうすると、正しく力が入る」


 バクバクと心臓が鼓動する。激しい運動をしたあとのように全身が熱くなり、呼吸が乱れる。だが、この程度で動揺するなんて情けない。いくら他人と触れ合う機会がなくて耐性がないとはいえ、それだけで揺れるのは恥だ。彼に悟られたくない。そこまで考えて、紡希は必死に思考を切り替える。目の前のことに集中するのは得意だ。むしろ、それしか取り柄がない。

 一人でやってごらんと言われ、彼に教わったことを実践する。竹刀を握るだけでも集中力が必要で、少しでも違えば誤った力の入り方になってしまう。頭と身体、両方で理解するように、何度も何度も脳内で反芻し、握り直す。


(右手は前に…左手は、へそのところに…。力を入れすぎず、三本の指で握るように…)


 深呼吸を繰り返して、柄を握る。そしてそのまま近くの伊東を見上げると、彼はニコリと笑みを見せて頷いた。握り方は、どうやら大丈夫らしい。


「ちゃんとできてるね。じゃあ、次は素振りの練習だ」

「こう、上から振り下ろすやつですよね」

「そうだよ。とりあえず、理屈とかそういうのは後回しでいいから、思うままにやってごらん」


 そんな急に言われても……という顔をしてしまうが、気を取り直して竹刀に意識を集中させる。時々、茶屋近くの道場に出前として団子をおすそ分けしに行く時があったが、その時に素振りをしている人を見たことがある。それを、軽くでいいから真似してみよう。

 ゆっくりと息を吸い込み、そして吐く。竹刀を握る手に力を入れすぎないように、頭上に振り上げる。


「すぅ……ふぅ…………たぁっ!!」


 掛け声と共に振り下ろし、姿勢が崩れないように努める。素振りは、恐らく重心移動や姿勢が大事になってくるものだ。ただ振り下ろせばいいというものではないだろう。知識がないため、上手くできているか自己判断ができない。恐る恐る隣の伊東に視線を向けると……彼はまたニコリと張り付けたような笑みでこちらの様子を観察していたようだった。その顔で見られていると非常に、緊張する。というか正直に言って苦手だと思ってしまう。


「……うん。納得がいかないって顔をしているね。今の振り、自分ではどう感じた?」

「…………素人ですし、知識がないので…これが正解の素振りとは思えないんです。きっと本当の素振りは…下半身の重心のかけ方や力の入れ方など、多くの工程が必要になってくると思うんです」

「へぇ……?続けて」

「は、はい…。素振りは、ただ竹刀を振るだけの動きじゃない。それは……理解してるつもりなんですけど…………そこまでしか、わからないんです。そんな簡単な話じゃない。素振りが簡単にできたら、きっとみんな刀を扱うのが上手くなるに決まってますから」


 そこまで言い切って、流石に言いすぎてしまったかもしれないと思い、片手で口を覆う。どうにも、伊東を前にするとベラベラと余計なことまで口走ってしまうらしい。言わなくてもいいことを吐いてしまったことで気まずさが増すが、彼はクスッと小さく笑うだけで、言及してこない。

 寧ろ軽く頷いて「そうだね」と相槌を打ってくるほどだった。そんな返答が来るとは思っておらず、目を丸くさせると、彼は紡希の手から竹刀を自然な動きで取り上げた。


「理屈で説明するのは後。とりあえず、今は僕の動きを見てて」

「あっ、はい!!」

「じゃあ……行くよ」


 彼はそう呟くと、慣れた手つきで竹刀を構えて静かに足を開く。呼吸を整えて、真っ直ぐに前を見据えている。その姿勢があまりにも美しくて、呼吸も忘れて魅入ってしまいそうだった。


「……ふっ…!!はぁっ!!」


 無駄のない動きと、見事で美しい竹刀さばきに紡希は声も出せなくなる。彼がどんな動きで、どんな力で竹刀を振っているのかを観察して、見て、学習しようと必死に頭を働かせた。


(力の使い方がうまい…!竹刀が全然ブレてないし、鮮やかだ…!これが、本物の素振り…!簡単そうに見えるけど、こんなの絶対に難しいでしょ…!!)

「って、まあ…こんな感じだけど……大丈夫そう?」

「ヘァッ!?あ、はい!!ちゃんと見てました!!難しいですね!?」

「はは、ちゃんと見てくれてたならいいや。コレを見ても「簡単すぎる」なんて馬鹿なことを言う脳が足りない馬鹿もいるけど、君はちゃんと本質を“視て”るんだね」

「そ、そんな大したものじゃないですけど…。私なんかが、貴方みたいな美しい動きで振れるようになるには相当な努力が必要だってことは最初からわかっていたことですし……」

「……病的なまでの自己否定…か。それもゆくゆくは改善していきたいところだけど…今はとにかく、素振りだ。次は僕の動きを解説付きで見せるから、ちゃんと覚えてね?」

「は、はい!!どんとこいです!!」


 そう返事を返すと伊東は苦笑して、そうしてまた真剣な顔つきで竹刀を握った。


「竹刀もそうだけど、刀は腕だけで振るものじゃない。それを、無知な初心者なのに理解できてるのは偉いよ。…じゃあ、刀はどう振ればいいのか。その答えは簡単だ」


 彼はまた竹刀を振り上げ、そして軽やかに振り下ろす。簡単にやっているように見えるが、きっと複雑な工程が混ざっているに違いない。紡希は眉を顰めながら、伊東の動きをじっくりと見つめる。


「腕だけじゃない…。ってことは…やっぱり、足腰の力の使い方が大事ということですか…?」

「うん、そういうこと。足腰の使い方が一番大事なんだ。あとは手首もだね。手首は柔らかいほうがいい」

「て、手首…ですか?」

「そう。上半身は力を入れすぎないように…竹刀を握ってる三本の指も、力を入れ過ぎたら駄目。そうして…振り下ろす瞬間。前に出している方の足に重心を移動させるんだ。足腰の力の入れ方、そして肩や腕の力の抜き方。それらをゆっくり覚えていこう」


 何度か素振りを見せてから、彼はこちらに竹刀を手渡してくる。それを受け取って、教わったとおりに竹刀を握り、緊張でバクバクと心臓が脈を打っている状態のまま紡希は姿勢を整える。


「じゃあ、練習再開だ」


 パン、と彼の手の音を合図に、紡希は教わったことを脳内で反芻する。力の入れ方と、抜き方。そして彼の手首の使い方など、見て覚えたことも頭の中で再生しながら、見様見真似で竹刀を振り下ろした。


「…ふっ…!!…やぁっ!!」


 伊東の動きを真似しているだけだが、一番最初にやった時よりも、間違いなく確かな手応えを感じた。伊東の様子をうかがうと、彼は先程よりも穏やかな顔でこちらを見ており、静かに頷いていた。


「うん。さっきより良くなってる。腕の力を抜く、ってところはいい感じ。あとは足腰だね。膝がちょっと曲がりすぎてるし、腰が引けてる。姿勢を崩しすぎないことを意識してみようか」

「は、はい!!」

「大丈夫。君は初めて竹刀を振るんだし、最初は上手くできなくて当然だ。僕はすぐに勘をつかめたけど、弟はちょっと苦戦してたし……だから、根気強くやっていこう」


 その言葉に頷いてから、紡希はもう一度竹刀と向き合う。彼に言われた通り、次は足腰の力の入れ方や姿勢に気をつけながら、息を吐きながら竹刀を振り下ろした。……だが?やはりどうにも下半身の力の入れ方がわからなくなってしまう。

 力を抜く、力を入れる。そして力のかけ方を変える。これらを同時に並列でやらねばならないことの大変さに、紡希は情けなく「こんなの無理です〜!」と叫びたくなってしまう。だが、こんなところで弱音なんて吐いていられない。強くなりたいと願ったのは、ほかでもない自分自身だ!


(今ここに立っているのは…私の判断だ!!強くなれ、土暮紡希!!そして、自分の価値を…自分で作れ!!)


 眉根を寄せて歯を食いしばる。そうしてまた姿勢を整えてから、意識を集中させる。落ち着いて、冷静に。今はただ、竹刀を振ることだけを考えていよう。

 深呼吸を繰り返していくうちに、バクバクと鼓動していた心臓がようやく落ち着きを取り戻してくれた。今なら、もう少しマシな動きができるかもしれない。そんな期待を抱きながら、紡希は足に力を入れた。


「……てりゃあっ!!」


 ブンッ…!!と今まで以上の動きで竹刀が風を切った。まだまだ未熟だが、それでも、最初に振ったものよりも格段に良くなっているはずだ。伊東の方を見ると、彼は小さく頷いてから控え目に手を叩いた。どうやら、自惚れではないらしい。


「うん、最初の頃よりもよくなってる。君は理屈で考えるより、身体で覚えた方が早いのかもしれないね」

「そ、そう…ですかね…?私……うまく、やれていますか…?」

「…不安になる気持ちはわからなくもないけど、少なくとも君よりもセンスがない…素質がない人はいくらでもいる。そして、諦めやすいクズもいる。それに比べたら、君は充分立派だよ」

「っ…!?」


 彼から、そんな評価をもらえるとは思っていなかった。まだ出会って間もないのに、まだ弱音を吐いて逃げ出す可能性だってあるのに。それでも彼は、こんな自分のことを「立派だ」と言ってくれる。それが不思議でたまらないし、なによりも嬉しいと、そう思ってしまう。


「……あ、ありがとう…ございます…。貴方のような人に褒めてもらえると…とても、嬉しいです」

「そう?まあ、そう思えるのなら良かったよ。でもまだ改善点はあるから、今日はマトモに振れるようになるまで振り続けるようにね」

「えぇっ!?」

「大丈夫。マスターできるようになるまで……完璧な素振りができるようになるまで、僕が指導してあげるから」


 ニコリと、また伊東は笑みを見せた。ああ、この作り笑いはやっぱり見ていて居心地が悪くなる。だが、それでも彼の言葉は信用できる。


(認めてもらえるように、頑張らなきゃ!!)


 素振りの一つもできないようでは、ここに居られなくなってしまうかもしれない。そう思うと、自然と身が引き締まる。もう一度竹刀を構えてから、紡希は呼吸を整えた。







「たぁっ!!……はぁっ!!」


 すぐに逃げ出すと思っていたのに、意外にも食らいついてくる。すぐに泣き出すと思っていたのに、歯を食いしばりながら前に進もうとしている。そんな彼女を見つめながら、伊東は目を細めた。


(……剣の才能があるわけじゃない。それでも飲み込みはかなり早い方だ。……それに、この子の美点は他にもある。鍛えたら…それなりに使えるかもしれない)


 そんなことを考えつつ、懸命に竹刀を振る彼女を観察する。一番の課題だと思っていた下半身の力の入れ方はもう既にコツを掴んだようだった。力の抜き方もよく理解しているようで、この短い時間でよくここまで上達できたものだと素直に感心する。


(理屈で理解してから、実践して身体に覚えさせる。そういうのが得意なんだろうな。こればっかりは人によるし……この子は、僕の指導との相性がいいのかもしれない)

「土暮君、あと素振りを三十回やってみようか」

「さ、さんじゅう…!?……や、やってやります!!いきますよー!!」


 非力で無学なただの女だと思っていたが、根性はあるらしい。そして、回数に制限を設けた途端にまた動きが良くなった。彼女の行動や表情などは、嘘がないため非常にわかりやすい。次にどうやって動くか。どんな発言をすれば、どんな行動をすれば言うことを聞くか。まだ出会って間もないが、彼女の利用しやすさは日ノ本一だろう。

 彼女は回数に制限がある場合…終着点や明確な目標があると、動きが格段に良くなった。つまり、終わりのない努力が苦手なんだろう。あと三十回やれば素振りも終われる!という希望で精神状態が回復して、動きのキレが増している。

 剣道とは武力を高めるものでもあるが、同時に精神を鍛えるためのモノでもある。彼女にとって己の指導が実りあるものであってほしいと思いながら、彼女の素振りを見守る。


「はぁっ……!はぁ…っ!!十二…!!十一…!!」

(……終わりに近づくにつれて、本当に動きが良くなってる。なるほどね。この子に必要な学習環境は…コレか)

「じゅう…!!きゅう…っ!!」

「焦らなくていい。力の加減だけ忘れないようにね」

「は、はいぃっ…!!…八っ!!七…!!」

「姿勢が崩れてきてるよ。はい、集中集中」

「わ、わかって、ます…っ!!ろくっ……!五…っ!!」


 表情は強張っていて、見るからに苦しそうだった。でも、それでもやはり目が離せない。汗で前髪も張り付いていて、お世辞にも可愛くないその姿に、伊東は目が離せなくなっていた。


(……そりゃあ、こんな危なっかしい存在がいたら目が離せなくなるよね。当たり前だよ、こんなこと)

「よ、四っ…!!三っ!!」


 素直すぎるあまり、考えていることや行動のすべてが読み取れてしまうような、純粋無垢な女。ただの女であるはずなのに、攘夷活動に否定的な幕府の役人共に比べたら、よっぽど根性と度胸がある。そして、諦めることを知らない。少なくとも伊東の目にはそう映って見えた。


「二…っ!!一…!!」

「最後、気を引き締めて」

「は、ぃ…っ!!ぜろ…っ!!」


 声は枯れていたが、それでも動きは鮮烈だった。今日一番の、完璧とも言える動き。風を切る音も、腕の振り方も、足腰の力の入れ方も、その全てが完璧に仕上がった。数刻の間で、初心者がここまで上達するとは思っていなかった。こちらが思っている以上に、彼女は努力する才能があるのかもしれない。そう評価を改めながら、滝のように汗を流しては、地面を見つめて動けなくなっている彼女に駆け寄った。


「は、ぁっ…!!はぁっ…!!い、とぉ…さ…」

「よっと……お疲れ様、土暮君」


 フラついて倒れそうになったところをすかさず引き寄せて、腕の中で支えてやる。身体が震えているが、それでも竹刀だけは手放さず、必死に呼吸を整えているようだった。


「はぁっ……ひぃ…っ……ふぅ……ど、どう…でした…?わた、し…ちゃんと…でき、ました……?」


 震えながら、それでも尚評価を気にする彼女に一瞬言葉に詰まった。どう返してやるのが彼女のためになるのか、少しだけ考えてから口を開ける。


「できてたよ。それこそ、僕の期待以上にね。特に最後のヤツは今日一番の出来だった」

「ほ、ほんと…ですか…っ!?」

「こんなことで嘘をついても意味ないよ。それよりも、汗…ひっどいよ。汗が引く前に拭かないと、風邪引くからね」


 あらかじめ用意していた手拭いで、顔のところだけでも拭いてやる。片目を閉じてされるがままになっている彼女は、まるで子犬のように思えてしまう。……いやいや、何を考えているんだ。相手はただの一人の人間だ。動物と同列に見るのは失礼だろう。

 白くもちもちとした肌を手拭い越しに触れる。自分のものとは違う触り心地に思考がまた停止するが、とにかく彼女の汗を拭ってやる。


「むっ、ぬぬ……あ、ありがとうございます…」

「どういたしまして。…どう?立てそう?少し休む?」

「あ、足がまだ…震えてるんですけど…このくらいなら、大丈夫です!!…たぶん……というか、今座ったらしばらく動けなくなると思うので、休まないほうがいいと思います…!!」

「そう?…それなら、台所で水を飲みなさい。あれだけ汗をかいたんだから水分が不足してるはずだ。梅干しもあるはずだから、水を飲みながら梅干しも食べるといい。この組み合わせは疲労回復によく効くよ」

「そ、そうなんですか…?わたし、梅干しってちょっと苦手で……」

「三郎……僕の弟が作ってる梅干しは、他のやつと違ってかなり食べやすいよ。なんなら一緒に食べてあげようか?」

「伊東さんって…弟さんがいるんですね……」

「あれ、言ってなかったっけ?まあいいや。今日の片付けは僕がやってあげるから、君はとにかく休憩すること。そして、ちゃんと夕飯も食べてしっかり休んで明日の座学に挑むこと。いいね?」

「うっ…座学……わ、わかりました!頑張って…休みます…!!」


 明らかに座学が苦手です、心配です。と言わんばかりの顔でそう言う彼女に苦笑しつつ、一人で立たせる。まだ身体は震えているが、それでも先程よりもマシだった。それを確認してから頷いて、手拭いを手渡した。


「よし。とりあえず、台所の場所は昨日説明したからわかってるよね?さっき言ったように、水は絶対に飲むように。あと汗も拭くように。梅干しは…どうしても食べたくなかったらいいけど、弟のためにも食べてやってね」

「う、うぅ……がん、がんばります…!!」

「じゃあ、行ってらっしゃい。転ばないようにね?」

「わ、わかってます!!」


 彼女はヤケクソのようにそう叫びながら、よたよたとフラつきながら歩いていく。その後ろ姿が見えなくなるまで見つめ続け、そこでようやく力を抜いた。

 彼女に指導している間、何故か酷く緊張していた。年下の女を相手に教育をしたことがなかったから、大丈夫かどうか心配していたから?彼女がどれだけ利用価値があるか心配していたから?……いや、理由はなんでもいい。とにかく、一時的にだが肩の荷が下りたことで、伊東は深く安堵の息を吐いた。


「はぁ〜……とりあえず、大丈夫そうでよかった…かな」


 そう独りごちて、彼女から取り上げた竹刀を見つめる。彼女の温もりが離れないそれを握りながら、片付けるためにも踵を返す。こんなに動揺するなんて、自分らしくない。そう考えながら、伊東は歩みを進めた。







「お、おじゃまします……」

「ん?…うぉっ!?あ、アンタは…確か……兄貴が…じゃない。兄が連れてきた土暮…さん……ですよね?」

「あ、はい…そうです……。……その口ぶり、もしかして……伊東さんの…弟さん…ですか?梅干し作りの…」

「は!?う、梅干し作りの……って、あの人俺のことなんて紹介してんだよ…!もっとマシな紹介方法あんだろ…」


 台所に顔を出すと、一人の男が壺を手に取っていた。切れ長の目に、凛々しい眉。光に照らされると少し緑がかっているようにも見える深い黒の髪を後ろで一つに結っている上品そうな男。そんな彼は、あの狐顔の伊東の弟らしい。紡希はぼんやりとした頭で彼の話を右から左に聞き流しながら、壺を見つめる。ちょうどいい大きさのソレは、きっと梅干しが入っているのだろう。匂いも、そんな気がしてくる。

「とりあえず、自己紹介をしましょう。俺の名前は鈴木三樹三郎です。貴女は…土暮紡希さん…で、間違いなかったですよね?」

「…あっ……そ、そうです…。えっと…鈴木…さん…?と呼べば…いいですか…?」

「俺のことは三樹三郎でも三郎でも、なんでも好きに呼んでください。鈴木呼びはやめてほしい…かな」

「あ……わかり、ました…。じゃあ…三樹三郎さん、で」

「はい、ありがとうございます。……というか、汗すっご…!?素振りだけやるって言ってたのに、なんでこんなことになってんだよ…!!あのバカ兄貴…!!素人の女の子相手に何やってんだよ……」


 こめかみを押さえるようにしてそう唸る彼に、紡希は首を傾げる。口調や雰囲気にかなり差がある人物らしい。品があるように見えて、粗雑な面もある。軽い二面性がある人なんだろうと思いながら、紡希は口を開けたまま呆然と立つ。一歩を踏み出したいのに、足が前に動かない。声を出したいのに、その力も振り絞れない。


(…ああ……これが限界、なんだなぁ…)

「とりあえず水、飲んでください。飲めますか?持てますか?」

「……ぁ……」

「……限界そうですね。とりあえず、そのまま口を開けてください。飲ませるので」


 湯呑みに水を注ぐと、三樹三郎はこちらに近づき、そして口元で湯呑みを傾けてくれる。慌てて更に口を開けると、冷たい水がサラサラと口の中に流れ込んでくる。口の端から零しながらも喉を鳴らしてソレを飲むと、三樹三郎は安心したような顔をしてみせる。

 水を飲んだことで少し動けるようになり、彼から湯呑みを受け取った。息をゆっくりと吐いて、呼吸を落ち着かせてからもう一度飲むと、乾ききった身体に冷たい水が染み渡るような感覚があり、ふにゃりと表情を緩ませてしまう。


「はあぁぁぁ〜……い、生き返る〜…!!」

「よかった…。今にも死にそうだったんで焦ったけど、杞憂でしたね」

「さ、流石に…あれくらいで死ぬわけにはいきませんよ…。皆さんのほうが、私以上に苦労されてるでしょうし……」

「あのですね…。男と女では力量差もありますし、俺らは毎日稽古してるんです。初心者の女性が、俺達と同じ土俵に立つなんて無理なんですよ」

「あぅ……そ、そうですよね…!比べてしまって申し訳ないです……失礼、でしたよね…」

「は?なんでそんな話になるんです?俺は今、貴女の苦労は貴女だけのものって話をしてんですけど」

「……え?」


 勝手に気まずくなって、それとなく俯いて視線を逸らしていたが、彼の言葉に驚いて思わず顔を上げてしまう。そして、伊東とはまた少し違う系統の顔つきで、信用しきれないような顔で微笑む彼に、頭を撫でられた。


「……これだけ汗をかいて、倒れそうになるまで頑張るなんて…普通は中々できないことです。だから、今はただゆっくり休んでください」

「っ……な、なんで…?そんな、やさしく…してくれるんですか…?」

「疲れて倒れそうになってる人を助けることに理由なんて要ります?……とりあえず、そこの座れるところに座ってください。そんで、黙ってコイツを食べてたら元気になるんで」


 サラリとそう言い、三樹三郎に案内されるがままに座らされ、そうして梅干しの入った小鉢と箸を手渡される。小さい頃に食べたことがあるが、非常に酸っぱくて、酸っぱすぎて食べられなかった記憶はいつまで経っても消えてくれない。


(でも、せっかくここまでしてくれてるんだから…食べないなんて選択肢は、ありえない…!!絶対に、食べなきゃ…!!)


 手を合わせて「いただきます」と言ってから、震える手で箸を持ち、そして梅干しを掴む。きちんと漬け込まれているようで、柔らかく食べやすそうだった。もし食べられなかったらどうしよう。という不安はあったが、それでも突っぱねるのは違うだろう。

 ここで、伊東道場で自分を変えると、成長すると決めたのだから苦手な食べ物(梅干し)の一つくらい、好き嫌いせず食べられるようになれ!!心の中でそう叫んで気合を入れてから、勢いよく口の中に放り込んだ。

 そして、衝撃が走った。


(おい…しい…!?)


 そう、信じられないくらい美味しかったのだ。確かに酸っぱいのだが、過去に食べたものと比べると控えめで、寧ろ梅本来の味をより深く出しているような、そんな味わいだった。柔らかくて舌触りもよく、紡希は目を輝かせながら三樹三郎を見つめた。彼は、梅干し作りの天才かもしれない。


「ぷっ……ははっ!そんな顔して見つめられるなんて、なんか照れるなぁ…。そんなに美味しかったです?」

「んぐ…!はい!!すっごく美味しいです!!今まで梅干しって、酸っぱすぎて苦手だったんですけど…!三樹三郎さんの梅干しだったらいくらでも食べられるくらい美味しくて、好きになりました!!」

「お、おぅ……思ってたより、元気なんですね。意外だな…。お褒めの言葉、ありがたくいただきますね。ウチの連中、梅干しは美味い美味いって言うくせに俺に感謝の言葉も言わねぇんで。最初の頃はあんなに……」

「ふむふむ……アレですね、三樹三郎さんの優しさに皆さんが慣れてしまったんですね」

「そうそう。最初は感謝されっけど、だんだんそれが当たり前のことになってる感じなんですわ。まあ、別に俺も感謝されたくてやってるわけじゃないんでいいんですけど」


 伊東の弟とは思えないほどに、三樹三郎は表情がよく動く男だった。感情が読みやすくて、彼の気持ちが手に取るように理解できてしまう。兄弟でこんなに正反対なことがあるんだなぁ…と思いながら梅干しのおかわりを貰い、黙々と咀嚼する。


「そういや、兄の指導はどうでした?かなり厳しかったと思うんですけど」

「う〜ん……厳しい…ですけど、バカな私でも理解できるように教えてくれましたし、分かりづらいけど優しい人なんだなぁ〜って思いました!たくさん助言もしてくれたり、何度でも根気強く教えてくれましたし……」

「……すげぇ。女なのに折れねぇんだ…兄貴の指導で…」

「えっ?」

「ああ、いや。なんでもないです。独り言なんで、気にしないでください」

「えぇ〜?そんな風に言われたら気になりますよ〜!本当に言いたくないことなら詮索しないですけど、そうじゃないなら言ってくださいよ」


 箸をおいて、視線を泳がせて狼狽える三樹三郎を見上げる。しばらくそうしていると、彼は困ったように頭をかきながらため息を零し、そして紡希の隣に座った。


「兄の指導は厳しいです。図体のデカい男ですら、弱音を吐いて逃げ出すくらいには……厳しくて、ついていくのもやっとなんですよね」

「やっぱり!!へへ…逃げたくなくて必死にやってたんですけど、それってちょっとは凄いことだった…ってことですかね?」

「ちょっとどころか、かなり凄いことですよ。男ですら逃げ出す指導を耐えて、今こうして笑ってられるなんて……土暮さんは、女性なのに強いんですね」


 女なのに強い。そんなことを言われると思っておらず、言葉を詰まらせてしまう。すると彼は慌てたように身を乗り出して「そうじゃなくて!」と更に続けた。


「差別的な意味はねぇ!あっ、ちが…!そういう意味じゃなくてですね…!ただ、素直に感心してただけで…!!アンタ…貴女の性別とかは関係なくて…!」

「だ、大丈夫です!それはちゃんと伝わってますよ!!」

「そ、そうすか…?」

「大丈夫です!!……素直な意見はとても助かります。何より心に響きますし…そう思ってくれる人がいるって知れるだけで、元気と勇気が出ますし!」


 グッと拳を握って笑顔でそう返すと、三樹三郎は呆気にとられたような顔をしてから、ふにゃりと表情を崩した。やはり、感情がすぐに顔に出てしまうようだ。兄である伊東と違って素直で「可愛らしい」と思ってしまう。年上の男性相手に抱く感情ではないが、それでも紡希は彼の素直なところを、もうかなり信用してしまっていた。


「ふふっ……三樹三郎さん、なんか可愛いですね」

「え?……はぁっ!?か、かわ…!?俺が!?ど、どこが!?」

「そういう、素直なところです。見てて安心するっていうか…感情がすぐに顔に出るところとか、なんか親近感が湧くといいますか…!なんだか、好きだなぁっておもえるんですよね」

「はあ!?す、すすす…!?好き…!?」

「まだ私達は知り合ったばかりですけど、これからもっと仲良くなれると思うんです。……えへへ…なんか、三樹三郎さんと私って、似てるところがあると思ったので!私にも姉がいるので…弟と妹同士ってことで、仲良くしてもらえたら嬉しいです!」


 彼とは、波長が合う気がする。心の深いところで繋がり合えるような、そんな期待を胸に抱きながら手を差し出す。彼は顔を真っ赤に染めて狼狽えて、紡希と顔と手を何回も見つめてから、ゆっくりと手を差し出した。それを掴んで握手をすると、三樹三郎の顔の赤みが耳まで伝わって、首から上全部が真っ赤に染まった。


「お、俺は…兄貴……兄みたいに強くもないし、頭も切れるわけじゃなくて……こうやって、取り繕うこともできなくて…」

「大丈夫です、私もそんな感じですし…三樹三郎さんだって充分すごい人ですよ」

「…………はあぁ…調子狂う…。なんで、こんな…素直でいい子なんだよ〜……おかしいだろ〜…」

「い、いい子…ですか?私が??」

「だって、そうだろ…?俺みたいなヤツのことを、まだ会って間もねぇのに…心の底から、本気でそう評価するなんて…普通じゃねぇ……いや、普通じゃないですよ」

「うーん……まあ、そりゃあそうかもしれないですけど…。三樹三郎さんにはもう既に三つも恩がありますし…そう思うのも当然なんじゃないですかね?」

「三つの恩…?」


 首を傾げる彼に向けて、空いてる方の手で指を一本立てて見せる。


「まず一つ目は、水を飲ませてくれたことです」

「水?…いや、そりゃあ水分不足なヤツには飲ませるのは当然のことだし…」

「二つ目は、こんなにも美味しい梅干しを食べさせてくれたことです」

「梅干し?…いやいや、これも別に…そんな感謝されるようなものじゃ…」

「そして最後の三つ目は……」


 三本目の指を立ててから、未だに頬の赤みが残っている彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。伊東の瞳は黄緑色のような、緑の発色がいい色で、彼の瞳は同じような黄緑色だが黄色の方が強めの色をしていた。そんな瞳に対してキレイだなぁという感想を抱いてから、手を握る力をほんの少しだけ強めた。


「最後は、私のことを本気で褒めてくれたことです」

「……は?」

「伊東さんの指導についていくのがやっとで、動けなくなるくらいまでボロボロだったのに…それでも、強いと言ってくれたこと。…すごく、嬉しかったです」

「……そう、なのか…?」

「はい。……私からしたら、すっごく嬉しかったことなんです。それこそ、大切な思い出にしたいくらいで……あっ、でも…ほぼ初対面な人間にこんなこと言われたら…流石に……気持ち悪い、ですかね…?」

「い、いや!そんなことねぇ…じゃなくて、そんなことないですよ!!俺も、そう言って貰えて嬉しいです!!」


 嘘でもお世辞でもない。心からそう言っていると分かる三樹三郎の言葉に、紡希はふわりと笑った。


「へへへ、よかったぁ…。……あの、三樹三郎さん…!明日もまた……梅干し、食べていいですか…?」

「えぇ、もちろん。たくさんあるから、ご飯と一緒に食べるのもいいですよ。いつでも、頼ってください」

「やったー!嬉しいです!ふふん、明日からの楽しみが増えたぞ〜」


 三樹三郎の前なら、素直になってもいい。そう判断してありのままの自分をさらけ出して、大きく身体を伸ばす。既に全身の筋肉が悲鳴をあげているが、成長の一歩だと考えると少し誇らしく思える。痛すぎて、それどころじゃないが。痛みを堪えるように震えていると、三樹三郎は苦笑しながら紡希の背中をそっと擦った。労わるように、優しく、ゆっくりと。


「これから一週間…頑張ってくださいね。俺も、できる限り、さぽーと…手助けするんで」

「いっ……たた……。み、三樹三郎さんが居てくれたら百人力ですよ!これから、よろしくお願いしますね!…って、やっぱり痛すぎる〜…!!」

「ははっ、最初の頃は筋肉痛酷いと思うんでね。まあ、身の回りの世話は手伝いますよ。鍛錬とか座学は手伝いませんけど」

「鍛錬とか座学は私が乗り越えるべき試練なので、大丈夫です!……けど、それ以外は……甘えさせてください…!流石に、これは…想定外すぎます…!」

「はいはい、大丈夫ですよ。兄からもそこら辺の許しは貰ってるんでね。それじゃあ、場所を変えて休みましょうか。ずっとここにいると夕飯の準備できなくなるんで」


 彼がそこまで言うと、不意に身体が浮く感覚がして目を見開く。ぼんやりしていた最中に、どうやら抱えられていたらしい。慌てて三樹三郎にしがみつくと、頭上から笑い声が聞こえてきた。


「ってことで、貴女の部屋に運びますね。夕飯の時間まで休んでていいんで」

「ひぃっ…!?ぜ、絶妙な高さで怖い…っ!!み、三樹三郎さん!落とさないでくださいよ!?」

「はははっ、大丈夫ですよ。落としませんから」


 膝の裏と背中を支えるように横抱きされている中、紡希は三樹三郎の着物をキュッと掴んで小刻みに震える。笑われていることに憤りを感じながら、それでも安定感のある腕と胸板に、次第に恐怖心が薄れていく。


(……やばい…眠いかも…)


 蓄積した疲労と三樹三郎の安心感により、紡希の眠気が限界を訴えてくる。完全に身を委ねて瞼を閉じれば、穏やかな睡魔の波が襲いかかってくる。


「土暮さん、眠いなら寝てもいいですよ。ぜ〜んぶ、俺に任せちゃってください」

「う……すみま…せん…………ちょっと…ねます…」

「むしろ、ちゃんと寝てください。大丈夫、ちゃんと起こすんで」


 心地よい揺れのせいで、眠気が更に強くなる。次第に喋れなくなり、そして深い水底に沈むように、意識をふわりと手放してしまう。



「ほんと…兄貴が気に入る理由もわかるかもしれねぇわ」


 そんな声が、聞こえたような気がした。


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