生前パロ本編
桜が散り始めている季節。紡希は伊東道場の門をくぐることを決意した。といっても、すぐに決断できたわけではない。彼女は優柔不断な面もある。それに、突然押しかけては迷惑なんじゃないかという心配もあって、中々一歩を踏み出せなかった。
だが、彼に言われたことが何度も何度も頭の中で繰り返されるのだ。「女だろうと剣を取っていいし、勉学に励んでいい」という言葉を。当たり前のように植え付けられていた価値観を壊すような、そんなことを当たり前のように言ってのけたのだ。
女は家庭を守るもの、という認識は流石の紡希も捨てきれないのだ。女は刀を持ってはいけない。刀は男の、武士の魂だ。だからこそ、彼のあの言葉は意外だった。
(私でも、戦っていい。誰かを守るために…立ち上がっていい。あの人は私にそう言ってくれた)
その言葉はお世辞でもなんでもなかった。…と、思いたい。紡希は何かとすぐに人のことを信用して騙されてしまうのだ。それを毎回反省しても、人の善意というものを信じてしまう。そういう性質なのだ。
「…勇気をだして、一歩を踏み出す…!!頑張れ私…!頑張れ紡希っ…!!ここで変わるって…決めたんだ!!」
ペチペチと己の頬を叩いて気合を入れる。三木に許可をもらって、背中を押してもらったときから覚悟は既に決めているのだ。こんなところで、足踏みしている場合ではない。
「すぅ…はぁ……よし、いくぞ…!」
「行くって、どこに?」
「そりゃあもちろん伊東道場へ……って、ウギャアッ!?い、いいいい伊東さん!?い、いつから!?そこに!?」
「君がここでウロウロしてたときからだよ」
「最初からじゃん!!うわぁ!!恥ずかしい!!帰っていいですか!?仕切り直したい!!」
「駄目に決まってるでしょ。わがまま言わないでねー」
「やだー!!流石に恥ずかしいですって!!」
そんなやり取りをしながらも、恩人……伊東甲子太郎は微笑みを浮かべながら紡希を静かに見つめていた。その眼差しが少し翳りを帯びているように見えて、指摘するかどうか僅かに迷う。
だが、そんなことをしている暇もなく伊東は先に進んでしまう。紡希は慌てて後を追いかけ、導かれるがままに道場に足を踏み入れたのだった。
□
「それにしても、決断するのに結構時間がかかったんだね」
「そりゃあ、まあ……人生の転換期みたいなものですし、慎重になりますって」
「それはそうか。……この場においても警戒してるのはいいことだ。それは褒めてあげるよ」
道場に通されたかと思えば、場所を変えて二人きりの面談が始まってしまった。ここは客間だろうか。ふかふかの座布団は茶屋にあった物よりも上質で、布の肌触りも格別だった。
影のように黒い大男が静かに現れては、机に湯呑みを置いていく。恭しく静かに頭を下げたかと思えば、すぐに部屋から出ていってしまった。彼はどこかで見たことがあるような気がしたが…あまり印象に残っていない。そもそも紡希は人の顔を覚えるのが苦手だ。もし接点があったとしても、伊東のように鮮烈な出会いや接触がなければ覚えていられないのだ。
「それじゃあ、面接を始めるよ」
「面接…ですか?」
「そう。君の覚悟がどれくらいのモノなのか確かめたくてね。ほら、言葉だけだったらいくらでも自分の心は偽れるでしょ?ウチの道場に半端者はいらない。足を引っ張られても困るからね」
道場に来る?と提案してきたのは向こうなのに、なんて酷い言い草なんだろう。…いや、彼はそんな提案をしてきたか?自分の都合のいい幻覚だったのか?……と、まあ…そんな感想を抱いてしまったが、彼の言い分は正しい。冷静でいて、的確にコチラの本質を突いてくる。何しろ自分は普通の入門希望生ではなく、ただの女だ。男よりも体躯は小さいし、力もない。学問に触れたことすらないような、ただの小娘。そんな人間を“無条件で”快く受け入れてくれるはずはないのだ。
(そりゃそうだ。……誰だってそうする。私も伊東さんと同じ立場だったら…試すはずだ…!!)
湯呑みに口をつけず、ただ眼前でこちらを見つめてくる男に意識を向ける。自分は今この瞬間から試されている。それは理解した。……だが、具体的な内容まではわからない。
「それじゃあ、始めるよ。……まず、このお茶の味はわかるかな?」
「へ?…えっと……あん、まり…わからないです。美味しいんだと、思うんですけど…ちょっと緊張しちゃってて」
「……なるほどね。君は素直だ。……だけど、少し素直すぎる」
「っ…!!」
ニコリと、彼の笑みが深まる。だが纏う雰囲気は一気に冷たくなった。ゆっくりと開かれる瞼と、鋭い視線。それに射抜かれて、まるで蛇に睨まれた蛙のように指先一つも動かせなくなってしまった。あの何気ない問いかけが、ここまで面接に直接関わってくるとは思わなかった!焦りで、手のひらの汗がぶわりと滲んだ。
「素直なことは美点だよ。でも、君が今から素直なことは美点だよ。でも、君が今から飛び込もうとしてるのは綺麗事だけではまかり通らない場所だ。ここは道場。けれども、いつここも戦場になるかわからない。君も知ってるでしょ?
「っ、わ…わたし……」
「君はこの前“虐げられている人を助けたい。そして守りたい”と言っていたね?それは具体的にどうやって?君一人の力でできることなんて限られてるよ」
「わた、わたし…は……」
ぐさりと、突き刺さる。見通しが甘すぎることも、自分が掲げる理想はただの夢でしかない。現実はそう甘くないんだと、彼はここで事実として突きつけて“くれている”んだ。
だからと言って、そう簡単に彼の望む答えを言えるはずがない。そもそも彼は少しのやり取りしかしたことがないが、かなり頭がいい。そんな人を満足させられるような弁舌は、できるはずがない。今はとにかく、なんでもいいから口にしたほうがいい。沈黙よりも、何かを喋っていたほうがいいに決まってる。紡希はまとまらない思考でそんなことを考えながら、震える手を握り、膝の上に置いて伊東の方に視線を向けた。
「わたし…私は……まもりたい、し…助けたいです。でも、その方法を私は…まだ知らないです」
「そうだね」
「だ、だから……ここで、教えてほしいんです。私でも守れるような……戦えるような、方法を…。たぶん、無理かもしれないですけど…何もしないよりかは、マシ…かなって」
「……なるほどね。じゃあ、次はもっと踏み込んでみようか」
伊東は机に肘をついて、またあのニコリと張り付けたような笑みを浮かべた。この笑っていない笑顔はどこか冷たく感じて、少し苦手だ。
「人を守るという思想は素晴らしいものだよ。誰もがそう思うべきだと僕も考えている。でもね、世の中はそう甘くない。残酷なんだ」
「……はい」
「今君の目の前に、二人の子供がいるとしよう。どっちも足を怪我していて立てないし歩けない。でも君を含めた三人は早くこの場から逃げないと死んでしまう。一人は君の身内でもある三木さんの親戚の子供で、もう一人は見知らぬ男の子だと仮定しよう。親戚の子供の方は六歳くらいかな。本来だったら一人で歩いて逃げられるかもしれないけど、足を怪我しちゃったら逃げられないよね?這って逃げるくらいしかできない」
「は、はい…?」
「見知らぬ男の子は…そうだね。四歳くらいだと仮定しよう。この子は体が弱くて足を怪我していなくても一人では逃げられないだろうね。かわいそうだね。まだ元服も済ませてない子供が犠牲になるなんて、許せないよね」
「……そう、ですね」
「そんな状況になったとしたら、君はどちらを助ける?」
「……へ?」
「君は一人しか助けられない。二人を同時に抱えて逃げたら、確実に君たち三人は死ぬ。君が動かないと、二人は死ぬし、助けを呼ぶのも無駄だ。その前に子供たちは死ぬだろうね」
「えっ…?……え?」
「さて、君はどう選択する?どちらも足を怪我している。一人は顔見知りの男の子で、もう一人は初対面の男の子。君は、どちらを選ぶ?」
────ありえない選択だと、思ってしまった。だって、ズルすぎる。そんなの両方救いたいに決まっている。だが、伊東の望む答えはそんな綺麗事ではない。
(それは、わかってる!!でも、そんな答えわかるわけないじゃん…!!)
歯を食いしばって、眉を顰める。すると彼の表情はようやく少しだけ柔らかいものになった。
「そうだよね。この選択は悩むものだ。…どちらか一方の手を取れば、もう片方を見殺しにすることになる。君は、男の子の泣き声を聞きながら、罪悪感を抱きながら一人を助けて、一人を見殺しにする」
「っ…そん、な……」
「いいかい?人を守るということは、そういうことなんだよ。…手の届く範囲でしか人は救えない。たとえ、手が届いたとしても力がなければ無意味でしかない。人はね、万能ではないんだ。必ずどこかしら欠落しているし、完璧になんてなれない。だから、誰かを救うことは誰かを見捨てることになる。…これは、理解できたかな?」
声色は、それだけは優しいものだ。それでも眼差しはまだ鋭い。君には選べるわけがないだろう。そう言わんばかりの眼差しだ。
ああ、そうだ。自分はお人好しだ。あんな問いかけに答えられるわけがない。この人は自分がここで躓くことを理解した上で、覚悟を問うためにこんな問いかけをしているのだろう。優しい…のかもしれない。けれども、厳しい。そんな熱を感じた。
「君は素直でお人好しで優しすぎる。他者に貢献しようと考えるのは素晴らしいことだけど、君は実力も学力も伴っていない。だから君に誰かを救うことは難しい。…それも、理解できてる?」
「…はい。……誰かを救うことは、誰かを見捨てること…傷つけることに…繋がる。それは、痛いほどに理解しました。そして私が未熟であることも、わかっています。それは、あなたに言われなくても」
「はは、そうだったね。…それで、君の答えは?」
「私の答え…答え、は……」
そこまで言って、自分の素直な感情をここで吐き出していいのか不安になってしまう。だって、自分の考えなんて、彼が知ったところでなんの利益にもなりやしない。やっぱり、自分が力を望むのは…過ぎた願いだったのかもしれない。そうして、視線を落とす。
視線の先には湯呑みがある。味を感じられなかったお茶が淹れられている湯呑み。考えがまとまらなくて少しぼんやりとした気持ちで見つめていて、そこでようやく気がついた。この湯呑みは、ウチの店でも使っていた備前焼なんだと。
視線を上げると、そこには相変わらず微笑みを絶やさない伊東がこちらを静かに見つめている。その緊張感に飲まれそうになるが、それでも拳を強く握りしめて正気を保つ。
「この湯呑み…備前焼なんですね。ウチのやつと同じ…」
「…よく気がついたね。そうだよ、僕も三木さんと同じでこの湯呑みが好きなんだ」
「そう、ですか。……ふふ、偶然ってあるんだ」
「そうだよね。…で?君の答えは?」
些細な会話だが、それでも少しだけ緊張がほぐれた。自分が伝えるべき答えを冷静に考えて、そして伝えてみよう。これでたとえ不合格になったとしても、構わない。強くなる方法はいくらでもある。彼に縋らなくても、自分なりに強くなればいいのだ。
(だから、今は…私の素直な気持ちを…この人に伝えてみよう)
深呼吸をしてから、もう一度彼を見つめる。コチラを試すような眼差しは相変わらず少し怖いが、それでもいい。今は彼に認められたいわけじゃない。ただ、自分の答えを提示したいだけなんだ。そうして、紡希はゆっくりと口を開いた。
「私は…どちらも選びたいです。子供を見捨てるなんて、そんなことはできません」
「…まあ、お人好しな君はそう答えるよね」
「でも、ただ選んだだけでは私達三人は簡単に死んでしまいます。…それは、理解している。あなたはそういう問いかけをしていた」
「うん、そうだね。…で、続きは?」
彼の瞳が薄っすらと細められる。それと同時に重圧感も増して、一刻も早くここから逃げ出してしまいたくなる。だが、耐えるんだ。逃げてばかりの人生は、もう送らないと決めたんだ。手のひらに爪が食い込むくらい握りしめて、そうして、もう一度唇を開く。
「私は…一度……目の前にいた子供を、助けられなかったことがあるんです」
「……」
「火事があって…逃げ遅れてしまった男友達がいたんです。棚が崩れて逃げられなくなってたみたいで…泣きながら、私に助けを求めていました。私もその時は小さかったので、大人の人を呼ぶから待っててと…そう言って……手が空いていそうな人に声をかけて戻ったんです」
「……それで?」
「…火の勢いが増していて、火消しが行われるまで近づけなくなっていました。大人に腕を引かれて、危ないから下がっていろと言われ……その子は…黒く、焼け焦げた状態で発見されました」
「……そっか。それは…気の毒だね」
伊東の目が、少し揺らいだ。だが、その反応は当たり前だろう。突然こんな話をされても、相手はどんな反応を返していいのかわからなくなってしまう。自分の良くない癖が出てしまったようだ。いや、今はそんなことを考えている場合ではないのだ。
自分には力がない。学もない。助けられる命なんて、限られているだろう。それこそ、自分のような罪深い人間では、誰も助けられないかもしれない。
(でも、だからこそ私は…!!)
「だから、私は…もう二度と……助けられる命を見殺しにはしたくない…!手の届く範囲でしか人を救えないのなら、できる限り…全員が助かる可能性を信じて最後まで足掻きます!!」
「…それがたとえ、夢物語だとしても?」
「はい!!…私は、弱い存在です。でも、だとしても弱者救済を願っても…バチは当たらないと思いたい。だって、そうじゃないですか…!弱い人は、いつだって権力に、暴力に怯えながら過ごさなきゃいけない…!!私は、そんな人たちを守りたい!!助けたいんです!!」
「どうしてそこまで、救済にこだわるの?弱者を助けても、君に利益はない」
「利益なんて要らない。名誉も金も、何もかもが要らないです。……私はただ、私という存在が生きていてもいいような環境が…欲しいんです。正しいことをしていれば、いつかきっと……生きていていいって思えるようになると…信じているので」
弱い存在を助けたい。その理由の根底は、あくまでも自己保身。自分が生きていてもいいと思える環境がほしい。自分が堂々と胸を張れるような存在になりたい。自分はいつだって、我儘で傲慢なのだ。
自分のこんな一面を曝け出すのは、今回が初めてだ。生まれて初めて、自分の醜い一面を出してしまった。円滑な人生を送りたいから他人に嫌われたくないし、こんなことを共有された相手は確実に迷惑に思うだろう。
だが、目の前のこの男には。彼だけにでも、この醜い感情を曝け出す必要があった。……紡希はそう確信した。彼はきっと、あの問いかけの答えがほしいわけじゃない。自分の覚悟と、自分の心のうちを明かしてほしかっただけだろう。…あくまでも学もないただの女の考察だが、今はそう思い込むことが大事だろう。
「なるほどね。……君は、自分のことを心底嫌っているんだ」
「…はい。大嫌いです」
「だから、この世に存在しちゃいけないって常に考えるの?…それって、疲れない?」
「物心ついたときからコレですし、友達を亡くしてから更に悪化しました!……なので、私はもう…救いようがないんです。あなたの言っていることは全て正しい。私一人の力じゃ…どれだけ鍛えたとしても、救えない命はどうしても出てきます」
だから、やっぱり自分には無理なんだって諦めてしまおう。これ以上ここにいても、彼に迷惑をかけてしまう。それだけは、絶対に避けたいのだ。湯呑みに入っていたお茶一気に飲み干してから、立ち上がろうとする。だが、偶然にも足が痺れてしまって動けなくなってしまう。
机に手をついて、独特の痺れの感覚に悶絶していると、近くから重たいため息が聞こえてきた。
「はぁ…思ってた以上に重症だ、君は」
「いっ…あぁ…っ!!あし、足がぁっ!」
「はいはい、痺れが治るまで大人しくしてて。まあ、刺激したほうが早く良くなるらしいんだけどね?」
「やだぁ!我慢します!!」
「なら、大人しくしててね〜」
困ったように笑う彼の今の表情に嘘はなかった。さっきまでの冷たい雰囲気はどこにいったのか、あたたかな眼差しで見てくれている。その視線の意図がわからなくて首を傾げていると、軽く息を吐いてから彼は立ち上がった。
「君の覚悟、答えは受け取ったよ。…でも、それでもまだ認めるわけにはいかない」
「そ、そりゃあそうですよ…こんな小娘を受け入れる利点、貴方には何一つとしてないですから……」
「……そうだね。なんの利点もない。……でも、君にも足掻いてみる“権利”くらいはある。そうでしょ?」
彼の言わんとしていることが、うまく理解できない。というより足の痺れのほうが今はまだ強くて、話が入ってこない。彼の言葉が難しいわけではない。ただ自分の許容範囲を超えているだけだ。…簡単に言うならば、自分は一つのことにしか集中できない。そういう性質なのだ。
瞼を閉じて独特の痺れる感覚に顔を歪ませる。痛いようで、力が入らなくて、動かそうとすると腰から下の感覚が全ておかしくなってしまうような、そんな感覚。これはいつになっても慣れないなぁ。なんて考えていると、物音が…布が擦れる音が聞こえた。そして、聞こえてくるはずのない吐息まで。
驚いて瞼を開けると、そこには呆れたような顔をした伊東が、正座の姿勢から足を崩して、そのまま畳に手をついて悶絶している己に対して手を伸ばしていた。彼の細長く、けれども男らしい骨ばった手が紡希の足を布越しに触れてくる。思いもよらない刺激に可愛げのない変な声が出そうになって、慌てて口を閉じる。そして、何をするんだと伊東を見つめると、彼はゆるりと口角を上げてこう言い放った。
「足の痺れは血の巡りが悪いと起こるんだって。安静にしてるのが安全だけど…こうやって、直接触れて血の循環を促してあげたら、もっと治るのが早くなるかもだよ?」
「ひ、ぃっ…!?や、やです…!!だって、さっきも変な感じ、でぇぇぇっ!?あ、ひぃっ!!ぎぃぃぃっ!!やばいぃっっ!!ヤバいですって!!アギャァァッ!?」
伊東の指が紡希の足をぐっ…と押し込む度に、強烈な感覚が襲いかかって声を抑えている余裕すらなくなってしまった。クツクツと笑う伊東に怒りを覚えながら、足の痺れが良くなるまでこの攻防は続いた。
叫びすぎて疲れ果てた紡希は息を切らせながら、涼しげな顔で笑みを見せてくる伊東を軽く睨みつける。他人事みたいな顔をしやがって…と思いながら、想定していたよりも早く治った足先を軽く動かしてみる。確かに、痺れはなくなっている。だがあんな荒療治はできれば二度と受けたくない。懐疑的な目を伊東に向けていると、彼はわざとらしく大きな咳払いをしてみせた。そして、話題を強引に戻してくる。
「とりあえず、君の覚悟は見させてもらったよ。生半可な覚悟じゃない。自分の存在証明のためにここに来てくれたんだね」
「ぇ、あ……は、はい!」
「だったら…君にも挑戦する権利がある。ここまで頑張った努力賞として、一週間…ここで君を鍛える」
「…へ?…い、一週間…?」
紡希が反射的に聞き返すと、伊東は余裕ありげに微笑んで、そして頷いた。
「お試し期間ってやつだよ。君が少しでも弱音を吐いたら、その時点で君は三木さんのところに帰す。でも、いいかい?これは君を虐めたいとか、嫌いだから言ってるんじゃない。僕らが歩もうとしてる道は、酷く荒れている。この国を、変えたいと思って剣を取って、学問に触れているんだからね」
「私が…みなさんについていけないってなったら…その時に捨てるってことですか?」
「その言い方は正しくない。送り返す、というのが正しい。耐えられなくなったら、元の日常に戻るんだ。それが君のためになる」
やはり、この人はこちらのことをよく考えているようだ。まだ、見ず知らずの他人…のような関係なのに。ここまで深く想ってくれる。世話を焼きたがっているのか、それとももっと別の思惑があるのか…。それはまだわからないが、それでも紡希は彼の提案に乗っかった。否、それしか選択がなかったと言ったほうが正しい。
「さあ、ようこそ土暮君。一週間、住み込みでみっちり君を鍛えるから覚悟してね」
「お、お手柔らかにお願いします…!」
紡希はそう言いながら、畳に額を擦り付けるように頭を下げた。これから先、どんな試練が待っていようと諦めたくない!!そんな思いを胸に秘めて。
□
「なあ、兄貴。さっきの子が例の女の子?」
「…なんだ、三郎か。うん、そうだよ。あの子が、例のそそっかしくて危なっかしい女の子の土暮紡希ちゃんだよ」
「伊東さんよぉ……女を連れ込むのはヤベェんじゃねぇの?他の道場の奴から舐められたら……」
「それは大丈夫だよ篠原君。あの子は特別だからね」
特別。そう言い出す兄に、三樹三郎は思わず顔を顰めてしまった。それもそうだろう。兄が気に入る人物は、何かと癖が強い。桜田門外の変を経て、尊皇攘夷活動を本格的にしなければならないと焦って、脱藩してまで兄の道場に上がり込んだというのに。兄の周りにいるのは変わり者ばかりだ。恵まれた体躯を駆使して戦う影のような大男、服部武雄。そして今隣で兄に物申している男、篠原泰之進。今この場にはいないが最近やってきた巨漢、鳴守信治郎。どいつもこいつも、普通の男ではない。
それはやはり、この兄が異常なまでに人を惹きつける“魅力”があるからなのだろうか。胡散臭さはあるが、それでも端正な顔立ちと涼し気な目元は、女からしてみたら心を奪われても仕方がないだろう。そして、類稀なる才能の持ち主であり、北辰一刀流の免許皆伝となり、気づけば道場を構えるほどの手腕を身につけていた。門弟もかなり多いらしく、卓越した弁舌とその武力で多くの人を魅了していったのだろう。全く、救いようがないほどの人たらしだ。
なんて、呆れて兄を見つめる。すると、自分とよく似たあの狐目がコチラに向けられた。その眼光はどこかじんわりと熱を帯びているようで、生まれて初めて見る兄の変貌に、三樹三郎は目を丸くさせた。
「あ、兄貴…?」
「……あの子は、僕に覚悟を示してくれた。なら、僕もそれなりの対応を取らないと…フェアじゃないよね?」
「ふぇあ…?…ああ、対等って意味か。くっくっ、伊東さんは本当に
「ちゃんと言葉の意味を理解できてる君も流石だね、篠原君。…ところで、鳴守君の指導は上手く行ったかな?」
「ああ、鳴守の野郎は服部がシメたからな。もう流石に懲りただろ。それにアンタのお得意な演説にすっかり絆されちまってよ。こりゃあ、死ぬまでついてくるだろうぜ?」
「それはよかった。彼はあのまま放置しておくには惜しいからね。利用できるものは有効活用していかないと」
笑顔でそんなことを言ってのける兄に、三樹三郎はゾッと背筋を震わせた。この男は、他者を利用することを厭わない。それはきっと、いずれ身内にも及ぶかもしれない。三樹三郎は、人生で一度も伊東甲子太郎という男の思考を理解できたことがない。今も、何を考えているのか全く読めなくて、恐ろしいと感じているくらいだ。
(あの土暮って女も……利用するために近寄ったのか…?だとしたら、ホントにこの人は……どこまでが計算で生きてんだよ…)
相変わらず、気持ち悪い。でも嫌いにはなれない。自分には理解できないところに到達して、何でもかんでも一人で背負おうとする兄のことは、何があっても嫌いになることはなかった。それは、今も昔も変わらない。そして、これからも。
「服部君にも頼んであるけど、土暮君が困ってたら助けてあげてね。あの子に与えてる試練の肩代わりをするんじゃなくて、生活面での手助けってことで」
「ふぅ〜ん?なるほどな。例えば、疲れすぎて動けなくなってるところを部屋に運んでやる〜とか、そういうのでいいのか?」
「そういうこと。あの子は今まで平和な世界で生きていた子だからね。いきなり僕らについてくるなんてことは絶対に不可能だ。だから、君たちが支えてやってほしい。僕は、あの子には“まだ”触れられないから」
「へいへい。伊東さんの仰せのままに。まあ、確かに悪い奴じゃなさそうだし…俺が面倒見てやるかぁ〜」
「篠原さん、俺もいるんですけど…。まあ、俺はあんまり関わりたくないし、やることないなら別にいいんですけどね」
「なに言ってんの。三郎もあの子の面倒を見るんだよ。服部君と篠原君だけだと負担が分散できないでしょ。お前も、やるんだよ」
「え〜…?…ったく、しょうがねぇな…」
兄貴の頼みなら断れねぇし。なんて言いながら、三郎は兄のことを観察する。偶然出会っただけの女にここまで肩入れするなんて、普通じゃない。女の方か、または伊東のどちらかが異常なんだろう。そう結論をつけて、三樹三郎は大きくあくびをしてみせた。