生前パロ


「伊東さーん!!伊東さん伊東さん伊東さーん!」

 慌ただしく廊下を走り、閉ざされた襖をスパンッと開ける。整理整頓がされており、本がいくつか積み重なっている部屋の奥で、一人の男は深いため息を吐いた。

「はあ……土暮君、うるさいよ。もう夜も遅いんだし、他の皆に迷惑が……」
「それどころじゃないですよ!!京に行くって、本当ですか!?あの新選組に入るって…正気ですか!?」
「開口一番がそれなの?」

 呆れたような顔で見上げられ、青年は……否、一人の女は声を荒らげた。彼女の名は土暮紡希。長い髪を後ろで一つに束ねており、男と同じように袴姿で彷徨いている変わり者だ。
 そんな彼女と対峙する男は伊東大蔵。この伊東道場の先代に気に入られ、婿入りする形で姓を変えている。元の名は鈴木大蔵と言い、五人きょうだいの長男だ。
 伊東道場は江戸に拠点を構えており、先代に代わって経営の舵を切った伊東は見事に軌道に乗り、小旗本と同規模の道場主として広く慕われている。紡希もその中の一人であり、伊東のことを深く敬愛しており、心酔している。
 だが、ひと月ほど前。京から人斬り集団として恐れられている新選組の八番隊隊長、藤堂平助が伊東を勧誘していたのだ。それに追い打ちをかけるように局長である近藤勇まで現れ、流石の伊東も了承せざるを得ない状況になってしまったのだ。
 伊東は神道無念流、そして北辰一刀流の使い手だ。そこら辺の不逞浪士が相手なら刀を抜くことなく戦意喪失させることくらい造作もないだろうが、今京の町はかなり治安が悪いらしい。そんなところに、自分の命よりも大事な伊東が赴くというのが恐ろしくて、許せなくて、心の底から心配だった。

「貴方が、誰かに遅れを取るとは思えない…。貴方は誰よりも強くて、賢く、そして……優しいから…」
「はいはい、ありがとね。わかったから声だけは抑えてね?君の声って急に大きくなるから……」
「でも、なんで…!?なんで、私に……何も言ってくれなかったんですか!?私は、貴方のために……貴方の力になりたくて、ここに居るのに!!」

 伊東を想う気持ちは誰にも負けない。負けたくないとすら考えているのだ。だからこそ、一言くらい言って欲しかった。彼の弟である鈴木三樹三郎から聞かされ、動揺しながらもこうしてわざわざ直接会いに行っているくらいなのだ。本気で心配していることは彼にも伝わっているだろう。
 だが、それでも伊東の表情は変わらなかった。どこか冷たい瞳で見つめられ、紡希は息を詰まらせた。

「……今、京に行けば国のために命をかけられるかもしれないんだ。僕の同志たちは皆…この国の為に生きて、そして殺されていったんだ。井伊直弼の手によってね」
「あっ……そ、それは……」

 薄暗い瞳で、畳を見つめる。同胞を失い、友を失い、何もできないまま安全な場所でただ待つことしかできなかった。その無念を考えると何も言えなくなってしまう。唇を噛んで彼から視線を逸らしていると、伊東がおもむろに立ち上がったのを察して顔を上げた。

「僕は、彼らと同じ志を持っていた。でも、僕は彼らと違って何の行動もできなかった。……先生に道場を託されて、娘さんを…彼女を託されて、家族もできて…門弟も増えた。……動きたくても、動けなかったんだ。でも、今は……君が居るから」

 先程の冷たい視線とは真逆の、穏やかな瞳。目の前の、尊敬してやまない人から向けられる信頼というあたたかい感情に胸が高鳴る。

「君は、物覚えがいい。物忘れが激しいところは…玉に瑕だけど、それでも人一倍優しいところも、仕事に誇りを持っているところも評価してるんだ。だから、君に頼みたい」

 彼の細長い指が、紡希の手を撫でる。そして優しい力で握ると、伊東は小さく微笑んだ。

「僕の家族と…この伊東道場を守ってほしい。無理にとは言わないけど、僕は……君にだからこそ頼みたいと思ってる」
「い、伊東さん……」
「……服部君や篠原君たちも連れて行くつもりだからね。うちの人たちを任せられるのは君しか居ないんだ。……こう見えても、僕は結構君のことを高く評価してるんだよ?」

 剣術はてんでダメだったが、経営や世渡りだけは人並みにできるところを評価してくれているのだろうか。一人前だと認められているようで嬉しく思うが、こんな甲斐性なしの自分が、果たして彼の大事な家族…彼の妻と娘を守れるのだろうか。彼の大事な道場を上手く経営させていくことができるだろうか。

「お願い。……もう、君にしか頼めないんだ」
「っ……ず、るい……ずるすぎます……!そうやって言えば、私が折れることも…分かって言ってますよね……?その通り、ですけど…」
「……さすがに、僕のこと嫌いになった?」
「まさか!!……貴方が変わらない限り、私は貴方のことを敬愛し続けます!!……奥さんも、娘さんのことも…私が必ず守ります。……貴方は、貴方の役目を…全うしてください」
「……うん、ありがとう。……物分りが良くて…本当に助かるよ」

 ニコリと笑みを浮かべる彼の表情が悲しそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。そう思うことにした。

 それが今生の別れになるとは知らずに。





「……やっぱり、か」

 当たり前の結果に、分かりきっていた問答に、伊東は酷く落胆していた。自分には守るべき門弟や家族がいる。同じ流派で話も気も合う藤堂や、わざわざ京から江戸にやってきた近藤の顔を立てるためにも新選組に加入する。そう決めたのは自分だし、彼女なら……あのやたらと自分に懐いている土暮紡希なら、反対するだろうということも予測していた。
 結果は全て、伊東の予想していた通りになった。彼女は伊東のことを敬愛しており、まるで小姓のように伊東の傍をついてまわり、そして時には雑務も手伝ってくる。手際が良いとは言えないが、経験を重ねるにつれてかなりマシなものになっていると言ってもいい。これから先も彼女を隣で指導して、もっと立派な人間に育ててやろうと思っていた。そんな矢先に、新選組に入って欲しいという話が舞い込んできたのだ。

(あの子は、絶対に反対する。……けど、あの子にとって大事なのは自分の気持ちじゃなくて……僕の判断だ)

 ……自分が京に行きたいと言えば…あの子は納得してなくても頷いてしまう。家族を守ってほしいと言えば、あの子は快く受諾してくれる。その危うさが心配で、そして……時に愛らしく思ってしまったのだ。こんな気持ち、生まれて初めて抱いたかもしれない。
 女性というものはすべからく神聖なものである。それは、自らの母親が美しく立派な人だったからこその思想だ。現に、伊東の妻である「みつ」は良い女であるし、彼女との間に生まれた「えい」もまた、愛らしい子どもである。彼女たちは庇護するものであり、自分たちのような凡庸な男たちが安易に穢していいものでは無いのだ。

(でも……あの子だけは、何かが違う)

 土暮紡希……彼女だけは、伊東の思想に唯一引っかからない女性だった。彼女は全くと言っていいほど神聖ではなく、寧ろ浪人以下かもしれないと思ったことは何度も何度もある。物忘れが激しいところや、人との交流が苦手なところも、全てが癇に障る。
 歪に笑うところも、すぐに怪我をするところも、それを隠そうとするところも、全て……全てが気に入らない。自分のことを尊敬していると言っているが、深い関わりも特になかったはずだ。黒船が来てからというもの、幕府の役人たちが慌ただしくしているというのに、彼女はそんなのお構い無しに道場にやってきては、地面に額を擦り付けてまで伊東の弟子になりたいとせがんできた。……その熱意に負けて、下女として住み込みで働かせることにしたのは、もうかなり遠い日の話になる。

「……はぁ…。ほんと、嫌になる…」

 前髪をくしゃりと握り、そう独りごつ。部屋に残った彼女の香りが鬱陶しくて。それを肺に取り込む度に柄にもなく胸の奥が締め付けられるような気がして。苛立ちを隠すように、ぶつけるように畳に拳を振り下ろした。
 ドンッ、と鈍い痛みが走るがそんなの気にしている余裕はない。少し荒れた呼吸を落ち着かせるために深呼吸を繰り返しても、心は落ち着いてくれない。唇を噛み締めて、閉じられた襖を睨みつけた。

(人の心を掻き乱すだけ掻き乱して……それでも、僕の手を離すんだ)

 お慕い申しております。あなたの事を深く深く好いております。なんて、小っ恥ずかしいことを平気で言えるような女であるはずなのに。自分のことが死ぬほど好きなはずなのに、どうして。どうして、最後の最後で手を振り解けるのだろうか。ぐちゃぐちゃに乱された心が、彼女への想いを叫んで暴れている。胸を押さえて、呼吸を整えようとするが一向に収まらない。

 自分は彼女に何を求めた?

 家族も道場も守ってほしい、というのは紛れもない本心だ。彼女以外に適任はいないから。

 それ以外。それ以外で、自分は彼女に何をしてほしいと願った?業務的なこと?それとも、もっと深くてトクベツな……。

「……違う。僕とあの子は、そんなんじゃない」

 単純な関係なんかじゃない。信頼、友愛、師弟愛。いろんな形の愛が折り重なって繊細な形として成り立っているようなものだ。それは、外部からでも内部からでも衝撃が入ればすぐに壊れる…南蛮製の陶器のようなものだ。
 だからこそ、大事にしたい。大事にしなければならないのだ。

(捨てろ、捨てろ…っ!こんな、醜い感情は…彼女に相応しくない……僕は、こんなんじゃない…!!)

 今までに抱いたこともない激しい感情。何とも思っていなかったはずなのに、彼女の手を離すとなるとどうしようもなく心が荒れて、胸の奥が締め付けられて苦しくなる。人は、この感情を恋だと言うのかもしれないが、こんなに醜く苦しいものが恋なら、したくなかった。
 もちろん今の妻に不満はないし、良い信頼関係を築けていると思っている。娘も実に愛らしいし、家族仲は良好だ。……それに、彼女と妻は非常に仲がいい。彼女がいれば、伊東の大事な家族は守ってくれるだろう。
 妻と娘は江戸に残しておきたい。そんな気持ちはあるのに、なぜか紡希だけは違う。手元に置いておきたいと…そう思ってしまう。足でまといになる可能性の方が高いのに。それでもここで手を離したら、もう二度と会えなくなるような気がしてならないのだ。

(……でも、もう…遅い。何もかもが、遅いんだ)

 もっと早く、出会えていたら何かが変わったのかもしれない。もっともっと、自分が水戸にいた頃に……出会えていたら良かったのに。……そんなたらればを考えながら、伊東は深く息を吐いた。

 二度と会えなくなる。そんな予感は見事に的中するのだが、この時の彼には知る由もなかった。
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